2013年7月25日 (木)

帰国(再掲)

5月20日(水)
バンコク3:00(MS864)13:00東京国際空港(成田)14:58(JR快速)東京16:58(ひかり)19:10名古屋 *タイとの時差2時間

 チェックイン後、4人でレストランへ。エジプト航空の機内食では、あまり期待できないので、コーヒーとサンドウィッチで腹ごしらえしておく。それでもまだ28バーツ(≒140円)残ってしまった。そして出国手続きもすべて完了し、午前3時、エジプト航空MS864便はバンコクを飛び立ち、次の降機地マニラ(フィリピン)へと向かう。マニラまでは2時間50分かかる。

4人でチェックインしたため、皆、隣り合ったシートで54A~Dであったが、ほとんど空席ばかりなので勝手に移動し、4人掛けのシートのアームを上げ、横になって眠る。マニラで1時間ほどストップした後は、成田まであと4時間。

機内で何やら大声で喚き散らしている日本人女性がいる。サービスやスチュワーデスの態度に不満のようで「なに?この飛行機。もうサイテー!」と、周りの迷惑顧みず叫んでいる。俺たちは「しょうがないだろ!安いんだから!」「だったら、乗るなよな」と、話していた。俺はサービスよりも安さを優先したから、エジプト航空にしたのだ。サービスを優先し期待するならば、JALなどのメジャーな航空会社を選べばいい。俺たちこそ、こう言いたい。機内で1人大声で不満をぶちまけ、周りを不愉快にさせる「最低の乗客」と。

そして日本時間の午後1時、成田到着。入国審査、税関と何事もなく通過。バンコクから一緒に帰国した人たちに別れを告げる。自宅では今、俺は『バンコクにいる』と思っているはずなので、すぐにでも電話をする。電話に出た父は案の定、怒鳴り声で「今、どこにおる?」と心配している。「成田。もう日本に帰って来たから、安心していいって!たぶん新聞で知ってると思うけど、バンコクがあの状況だから、何とか脱出してきた。」と答えると、「そうか、それならいい」とホッとしたようだ。そして夕食に、ネパールやバンコクでは食べられなかった日本食、「そばといなり寿司が食べたい!」とリクエストしておく。

JR成田空港駅へ向かう。キオスクでふと、『助六寿司』を発見!夕食にいなり寿司を頼んだばかりだが、誘惑には勝てない・・・。助六寿司を買って列車内で食べることにする。成田空港14時58分発の快速列車で東京へ。そして16時58分発のひかりで名古屋へと帰る。途中、地震が発生し定刻よりやや遅れたが、19時10分ごろ、名古屋着。ホームにある立ち食いのきしめん屋さん、懐かしい匂いに、どうしても食べたい衝動に駆られ食べることにする。う~ん、名古屋の味だ、帰って来たんだナァ!

そして8時ごろ、帰宅。自宅では両親がリクエスト通りに、そばといなり寿司を用意していてくれた。3ヵ月に及ぶ長い旅は終わった。

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月24日 (水)

バンコク日記 その4 外出禁止令!(再掲)

12時ごろ宿へ戻ると、ホテルの蛇腹の門は閉められていた。声をかけて中へ入れてもらうと、「今日はもう、外出するな!」と言う。「忠告を無視して外出するものは、もう中へは入れない!」とまで宣言している。すぐ隣の店へ買い出しに行くことさえ、許されないらしい。どうやら、外出禁止令か戒厳令が発令されているようだ。それほど危険な状況らしい。

ホテルで、今夜の深夜便での出発を告げ、この日半日分の支払いをすませる。が、問題は、この状況下、どのようにして空港まで行くか?だ。夕方までに空港へ行かないと、6時以降はバスも列車も動かなくなるらしい。タクシーだって、こんな危険な状況では、よほどでない限り走ってくれそうにない。

受付のそばにある掲示板に、今夜同じ飛行機で帰国する人がいることを知り、彼の部屋を訪ねたが留守だった。掲示板にこちらからもメッセージを残しておいたところ、彼は俺の部屋を訪ねて来てくれた。そして、空港までどうやって行くか相談した結果、ホテルまでタクシーを呼んでもらうことにした。料金は通常の2倍だが、それでも仕方がない。何しろ、いつバイク集団が現れ、襲撃の危機に遭うか分からないのだから。運転手も半ば、命懸けだろう。

午後はホテル内で、ジッとしているほかない。皆、手持ち無沙汰に過ごしている。レストランで、ほとんどなけなしになったメニューの中から軽く昼食をとり、4時ごろシャワーを浴び、5時半までには出発準備完了。そして6時前にはチェックアウトし、タクシーに乗り空港へ向かう。平穏な状況であれば、夜中まで楽しんでからタクシーで・・・、ということになったのだろうが。

7時前には無事、空港へ到着し、1階にあるセルフサービスのカフェテリアにて時間をつぶす。出発まで、まだ8時間。1人だと長く感じる待ち時間も、誰かがいると助かる。現金ドルを使いきるため、少しお土産を買う。そしてもう1人、日本人が加わる。彼は、危険を冒してまで、バンコクの暴動の様子をカメラに収めてきたらしい。

11時30分過ぎ、チェックイン・カウンター前に並ぶ。そこへ金髪の若くて可愛い女性が、流ちょうな日本語で声をかけてきた。彼女は今、日本に住んでいるイギリス人で、休暇を利用して旅していたそうだが、荷物の合計が60kg位あり(何やら、楽器をいくつか持っていた)、「超過料金をとられそうなの」と話した。そこで、我々男3人は彼女に協力して、4人一緒のグループとしてチェックインすることに。すると、4人分の荷物の総重量では超過荷物にならずにすみ、彼女は超過料金を支払わずに済んだ。旅する者同士、少しでも使わずに済むお金は使いたくない気持ちはよく解かる。帰国まで、あと数時間だ。

バンコク、ドンムアン国際空港にて

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月23日 (火)

バンコク日記 その3 クーデター・・・?(再掲)

5月19日(火)
バンコク

 8時30分起床。それにしても昨夜、真夜中のあのバイク集団はすごかった。最初は暴走族が走り回っているだけかと思ったが、バイクの走る音だけではない。部屋の窓から見ていたら、棍棒のようなもので電話ボックスを壊していくし、シャッターが閉まった商店か工場も襲撃されている。路上に停めてあった車も、やりたい放題にやられている。どうやら、反政府同盟のデモクラシーのようだ。ネパールを出るときに、噂には聞いていたが・・・。とても危険な状態だ。

9時20分過ぎに外出。中央駅前を通るラマ4世通りの交差点は、警官が手旗信号で車の往来を指揮している。見ると、信号が破壊されていた。東京銀行までバスで、と思ったのだが、超満員。仕方なくタクシーを拾い、80バーツと言うのを50バーツに値切って乗る。銀行で事故小切手の再発行の手続きをしようとするが、再発行まで時間がかかるとのことで、帰国後、日本で手続きをとることにし、次にエジプト航空のオフィスへ。

一度バンコクを離れ、チェンマイ辺りを訪れてから、今週末か来週の便での帰国を考えていたのだが、この状況下で何を言っているんだ、とばかりにまくしたてられ、結局、今夜半過ぎ、午前3時発の便に無理やり予約を入れられてしまった。まぁこれも、致し方ないか。この状況が今後、どのように展開されるか分からないし・・・。旅の終わりは突然やって来て、残された時間もあとわずかである。

エジプト航空のオフィスを出て街を歩くと、深夜のバイク集団の襲撃の爪痕が、そこかしこに残っている。信号の破壊は駅前だけでなく、あちこちの交差点で警官が交通整理をしている。火炎瓶でも投げつけられたのか、黒焦げになり跡形もない商店、コンクリートでできたバス停のベンチも破壊され、いたるところで無残な姿をさらけ出している。写真を撮ろうとカメラを取り出したのだが、道行く人に「撮らない方がいい。どこで誰が見ているか分からないから」と制止させられた。

マクドナルドへ入って、ハンバーガーとアイスクリームを食べる。そしてデパートが開いているのを確認して、デパートへ。眼鏡を買おうかと思ったが、レンズだけで1200バーツと高い。日本で買ってもあまり変わらないのでやめ、お金を余らせても仕方がないので、昨日見た24金のネックレスを作ることにする。店員は昨日も俺が訪ねていたので、愛想よく迎えてくれた。1300バーツだからおよそ6~7000円。日本では、この値段ではとても買えないだろう。そして、タイシルクのネクタイ2本、両親にもタイシルクの財布などのセットを買う。

今夜チェックアウトする旨を告げなければならないので、一度ホテルへ戻ることにする。デパートを出ると、商店や銀行は閉店し、オフィス街の人々も皆、帰ろうとしている。どうやら本当に、何かが起きそうな気配だ。

(この日の日記、つづく)

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月18日 (木)

バンコク日記 その2 ブッダ生誕の日らしい(再掲)

5月18日(月)
バンコク

 夜中になっても車の騒音が絶えることがないこの街。その割に昨夜は、よく眠れたほうだ。6時半ごろ、一度は目が覚めるも、もう一度眠り、気がつくと10時30分。やはり疲れているのだろう。シャワーだけ浴び、外出の用意をする。

今日はエジプト航空へ日本への帰国便の予約、そして東京銀行へ行くつもりだ。11時半ごろ、朝・昼兼用の食事をホテル内のレストランで、サンドウィッチとバナナ、ジュース(計16バーツ≒80円)にする。そして歩いてシロム通りへと出向くが、街の様子が少し違う。聞けば、今日はブッダ(仏陀)生誕の祝日らしい。どおりでオフィス街は閑散としているはずである。予定していたことは、この日はできない。

エジプト航空と東京銀行の場所を確認し、あたりをぶらつく。近くには、「パッポン」と呼ばれる東南アジア随一の歓楽街がある。そのせいか、それらの店に誘う客引きも多い。しつこい客引きもいたが、何とか振り切った。日本よりはるかに安く(1800バーツ≒9000円らしい)遊べることには違いないが、バンコクへ着いたばかりで、いきなりこんなに使うこともない。何しろ残金は280ドル(約7000バーツ≒36400円)、手持ちの現金は1300バーツほどしかないのだ。滞在が長引くと、少しヤバイかな?宿が1泊140バーツ、1日3~400バーツが限界だ。東京銀行で明日、ネパールで盗難に遭ったT/Cが再発行できれば、全く問題ないのだが・・・。できれば今週末、23日のフライトで帰国したい。その間にチェンマイへも行ってみたい。

3時前、マクドナルドでおやつタイム。バーガーセットで70バーツ。このあとはデパートで涼んでから帰宿するか!デパートは、日本のデパートとほとんど変わらない。宝飾店で24金のブレスレットが530バーツで売られていた。ネックレスは首周りを測ってサイズに合わせて売ってくれるらしい。これを身につけるほどの人間でもないし、似合うとも思わないが、それでもなぜか、欲しいナァ!最後に、お金に余裕があったら・・・、買おうかな?地下の食料品売り場でフルーツ盛り合わせと海苔巻き(計84.75バーツ)を夕食用に買う。そして喫茶店へ入り、ラムレーズンのアイスクリーム(15バーツ)を食べる。ずいぶん浪費してるナァ!

バスで駅まで戻り、ドンムアン(空港駅)までの時刻表をあらかじめ頂いておく。そしてジュライホテルへと戻る。5時ごろ帰宿し、シャワーを浴び、買い出ししてきた海苔巻きとフルーツの盛り合わせで夕食とする。ボーっとしたり、ミルクを飲んだりして、8時半すぎ、洗濯にシャワーを済ませると、はや10時。もう眠るとしよう。

バンコク、ジュライホテルにて

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月17日 (水)

バンコク日記 その1 バンコク到着(再掲)

5月17日(日)
カトマンドゥ9:00(RA407)13:00バンコク *ネパールとの時差は1時間15分
空港駅14:25(ローカル列車)15:10バンコク中央駅

 カトマンドゥを離陸したロイヤルネパール航空407便は、2時間45分のフライトでバンコクへと向かう。機内で、日本人同士の会話が聞こえてきた。「バンコクは今、危ないらしい。」「反政府運動が起こっているとか聞いた」などなど。本当だろうか?一抹の不安を感じながら、飛行機は定刻の13:00、バンコク・ドンムアン国際空港へと到着した。

タイは15日間までならビザ不要なので、そのように申請し入国手続きなどを済ませ、隣接する駅へ向かう。14:25発のローカル列車でフォアランポーン(バンコク中央駅)へ15:10到着。駅から歩いて10分ほどの、チャイナタウンにある安宿のジュライホテルに宿を決める。ツインしか空いていなくて140バーツ(約700円、1バーツ≒5円)である。エアコンはなく、ファンとシャワー・トイレ付き。日本人客が90%を占めるというのが、今一つ気に入らないところだが、滞在が短くなるのであれば、少々高い宿へ変わってもいい。

さっそく外へ出てみると、すごく蒸し暑い。これで夜、エアコンなしで眠れるのだろうか?今日は朝食のほか、飛行機内、バンコク到着直後にパンを食べ、街へ出てビーフンに似たものをと、立て続けに食べている。夜、宿へ帰ってからもビールにおつまみ。それにしても暑い!気がつくと、もう11時半。再度、水でシャワーを浴び、ファンを回しっぱなしで眠ろう。

バンコク、ジュライホテルにて

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月11日 (木)

さよならネパール!また逢う日まで!!(再掲)

5月17日(日)
カトマンドゥ9:00(RA407)13:00バンコク

 とうとうネパール出発の朝。5時30分に起きる。いつもと変わらぬ食事をすませ、用を足し身支度を整える。早朝から鳥のさえずりや、車・バイク・リクシャ(人力車の自転車版)の走る音が聞こえる。

そろそろ6時30分。空港へ向かう。幾多の思い出、友を残し、俺はカトマンドゥを、ネパールを去る。

Img544
ゲストハウスの入り口で。長い間、お世話になりました。ピッケル型のステッキも記念に持ち帰ります。(*このステッキは今でも大切にしています。)

タクシーを呼び、見送りに来たゴビンダと共に空港へ。7時にチェックインを済ませ、ティータイムをとる。8時30分に出国手続き。ゴビンダとも、ここでお別れだ。重ね重ね、お礼を言い、「いつか、また会おう!」と約束し別れる。

いよいよ搭乗だ。ロイヤルネパール航空407便、バンコク経由シンガポール行きは、定刻通り9時に、カトマンドゥ・トリヴバン国際空港を飛び立った。

Img547
搭乗前の最後の写真。ネパールからバンコクへ、そして日本へと帰ります。

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月10日 (水)

ネパール最後の一日(再掲)

5月16日(土)
カトマンドゥ

 とうとうネパール最後の日、およそ3ヵ月弱の旅であった。帰国まで、あとバンコクへ立ち寄るのみ。秒読み段階だ。今朝は8時30分起床。良い天気である。が、昨夜も良く眠れず、朝食後、再び休む。11時ごろ、シャワーを浴びTシャツと下着の洗濯。

12時15分、ゴビンダ宅へ。ステレオを聞いたりテレビでインド映画を観たり・・・。ゴビンダがライスペーパーのカレンダーにその場で即、ポスターカラーで色を塗ってプレゼントしてくれた。そしてネパール料理の昼食を頂く。チュラ(干し飯)にアルー(はんぺんのようなもの)、ダル(豆)スープ。大好きになったチャン(ネパール風ビール;どぶろくのようなもの)もいただいた。お腹いっぱいだ。

ゴビンダには、何度も自宅へと招かれ、ご家族の方々にも温かく迎えられ、いつも食事を頂き、とても感謝している。ネパールの人々の家庭、生活、食事など、直接触れることができ、貴重な体験になった。7年半前、初めてネパールへ来た時は、このような機会は一度だけだったから、ネパールの人々の日常の生活が、よりよく理解できた気がする。
ご家族の方々にお礼とお別れのあいさつをし、4時過ぎ、ゲストハウスへと帰る。

ゲストハウスへ戻り、ティータイムをとりリラックスする。残金を見ると205ルピーだ。が、最後になって、トイレットペーパーが無くなり、買いに行く。ついでにタバコも買うと残り、180ルピーだけ。

夕食は、富士レストランにて天重(120ルピー)とだし巻き卵(50ルピー)とする。これでもう10ルピーしか残らない。あとは別に残してある部屋代(880ルピー)と空港までのタクシー代(120ルピー)、空港税(450ルピー)のみ。ラストナイトももうすぐ終わる。

ゲストハウスへ戻り、荷物の整理をしていると、ゴビンダが入って来て、木彫りの額をプレゼントしてくれた。いかにもネパールらしいデザインで、とても嬉しい。が、荷物はもういっぱい。カメラはベルトにつけて行くことにして、無理やりにでも荷物を詰め込む。何とか入りそうだ。と、その時、突然の雷雨で10~15分ほど停電した。ろうそくを借り、雨が降り込まないよう窓を閉めると、部屋の中は本当に蒸し暑い。その中でバタバタと動くと、汗ばんでくる。航空荷物を出してから、送付できなかった座布団のほか、サリー、ベッドシーツ、カレンダー、額が増えて、これ以上はもう入りきらない。バンコクでさらに何か買い物しようものなら、予備のバッグが必要なほどだ。

8時45分、明朝早いので、ネパールラストナイトもそろそろ終わり。長い旅であった。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月 9日 (火)

出国間近のブルー気分(再掲)

5月15日(金)
カトマンドゥ

 8時45分起床。今朝もどんよりとした天気、その上、やや湿気を感じる。
いつも通りの朝食をすませ、昼過ぎまでベッドの上に横たわり、バンコクの下調べをする。が、心の中といい体といい、どこか気だるい妙な気分。なんとなくブルーである。長い旅の疲れ、テレビやステレオのない生活、食事などからくる欲求不満か?ここ最近の買い物三昧も、その表れかもしれぬ。何かお土産を買うことによって、少しでも解消しているのだろうか?それとも、もうネパールを出なければならない寂しさと、バンコクの猛暑に対する不安か?いや、それ以上にブルーな気分にさせるのは、日本へ帰れば食事も趣味もすべて満足できるだろうが、新たに職を探さなければならないという不安と苛立ち。それを考えると、本当に憂鬱にさえなってくる。普通に人生を歩んでいれば、今回のような旅は決してできない。しかし俺は、我がままに好き勝手にこのような道を選んだのだから、自業自得であるし、辛く厳しい思いをするのは仕方がないのだ。

昼食は、ラッキー・チベッタン・レストランにてトマトエッグスープとバフ・フライドライスにする。ここ2日ほどライスを食べていなかったから。食後はブラックコーヒーで計たったの34ルピー(≒100円)。本当に安いお店だ。バックパッカーにとっては、この上なく嬉しい店である。しかし体がどことなくだるいナ!部屋で休むことにしよう。

ゲストハウスへ戻ると、ゴビンダに彼の日本語のテキストに載っている漢字のふりがな付けを頼まれる。が、たくさんあり過ぎて半分ほどでお手上げ。そして夕方まで横になる。6時過ぎ、本を1冊売って、チベット風のベストを最後の土産として200ルピーで購入。

明日は、ゴビンダが彼の自宅へ招いてくれるそうだが、問題は時間だ。出国直前の日、何かとやることがある。シャワーは当然浴びておきたいし、着ているTシャツと下着もできれば洗濯して荷造りしたい。彼の気持ちは嬉しいのだが、帰りが遅くなりそうならば、キャンセルしたい・・・。それに今の体調では、出される食事もなかなか進まないだろうし・・・。かえって失礼にならないかな?

夕食は、ブルベル・レストランでビーフ・ストロガノフとライス(50ルピー)とする。喜多郎の音楽が静かに流れ、落ち着いた雰囲気である。そしてしばらくタメル近辺を歩き、7時半すぎ、ゲストハウスへ戻る。

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表通りから見たマナスル・ゲストハウスの外観です。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月 4日 (木)

エアカーゴとサリー(再掲)

5月14日(木)
カトマンドゥ

 8時30分起床。青空のかけらも見えぬ、いつ降り出してもおかしくない天気である。相変わらず気だるい朝、毎日変わりばえのない朝食をとり、のんびりする。ここ数日に買った装飾品を身につけてみる。アクアマリンのリングやガーネットのネックレス、ブレスレット、男の俺には不似合いかもしれぬ。

とうとう午前中から雨となった。やや小降りになったところでエアカーゴ・サービスへ。ダイレクトで自宅まで発送を依頼する。計27kgもあった。282.43ドルである。100ドルはキャッシュで、180ドルはT/Cで、残りはネパールルピーで114ルピー支払う。およそ2週間で日本へ到着するそうだ。
*帰国した日にはすでに到着していました。実際にはわずか1週間、意外と速い・・・?

昼ごろになり、雨も上がりそうで、1時には完全に止んだ。そして3日続けてクリシュナ・モモ・レストランへ。残りのお金もずい分さみしくなった。ともちゃんに頼まれたサリーがいくらするかで今後の生活、まだ欲しいと思うお土産を買いたいのだが。バンコクでも手に入りそうなものは、そこで買えばいいが・・・。ウ~ン、チベッタンのベストと刺繍デザインのTシャツが欲しいナァ。エアカーゴが予想をはるかに上回る重さだったのが痛いナァ。まさか27kgもあるとは・・・!200ドルは考えていたが、282ドルとは・・・イタイ!が、これも仕方がないか。

部屋でバンコクのガイドブックを読み、下調べをしておく。安いゲストハウスは、駅からワット・プラケオの方へと離れる。銀行や航空会社がある繁華街からは、ずいぶん距離がある。しかし、1泊350バーツ(タイの通貨;1バーツ≒5円)も出せないし、200バーツ(およそ8ドル≒1000円)が限界だな。

5時30分ごろ、先日の約束通り、マッサージャーのアンジュさんと彼女の弟と3人で、ラトナパークのバザールへ、ともちゃんに頼まれたサリーを買いに行く。選んだのは、ベージュの生地に花柄のデザイン、500ルピーだ。ネパリープライスで思ったより安く買えた。が、ウールのベッドシーツ(180ルピー)まで買わされる羽目になり、これは両親へのお土産にしよう。そして3人でモモを食べ、ゲストハウスへ戻ると、はや8時である。これで残り2日、宿泊費や空港までのタクシー代などを除けば470ルピーしか残っていない。食費だけなら充分過ぎる。いくら余るかで何を買うか・・・だナ。最終日に考えよう。

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サリーを着ているアンジュさん。うーん、エレガント (゚ー゚)!

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1992年のものです。

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2013年7月 3日 (水)

ナマステ!電器屋デース (^_^)/(再掲)

5月13日(水)
カトマンドゥ

 8時45分起床。カトマンドゥでの朝は、のんびり迎える。いつも通りの朝食を済ませ、その後、昼までベッドで横になる。昨夜はよく眠れたほうなのだが、なぜだか気だるい。

昼すぎ、やっと腰を上げる気になり、クリシュナ・モモ・レストランへ。モモとベジタブル・チョウミン(計20ルピー)。アサン広場のバザールでスンタラ(みかん)1kg(30ルピー)とパン(7ルピー)の買い出し。とその時、たくさんのネックレスを持った行商のおっちゃんがやって来た。以前から欲しくて探していたワインレッドのガーネットのネックレス。350ルピーと言っていたのを粘りに粘って150ルピーにまで値切って買う。ふだん、質素で地味なファッションの俺も、これをつければ少しは『おしゃれ』に見えるだろうか?!

ゲストハウスに戻り、シャワー・洗濯。今日は曇っているので、洗濯物は部屋の中に干す。夜までには乾くだろう。再び部屋でボーっと過ごし、夕方。ゴビンダが「今日、小さなお祭りがありました。今からおじさんの家へ行くのですが、あなたも行きませんか?私の母も行っています。」と誘われ、彼のおじ宅へ一緒に出向くことにする。

陽が暮れかかる頃に行き、彼のおじ宅まで来ると、2階から彼の母が顔を出して「ナマステ!(こんにちは)」と歓迎してくれる。玄関で彼の母やその家の人々に暖かく出迎えられ、部屋の中へと通される。
「マ ゴビンダコ サーティ、ジャパン バーター アーエン(私はゴビンダの友達で、日本から来ました)。」と、ネパール語であいさつする。すると皆一様に驚いた表情だ。特に女性は、突然やって来た、妙にネパール語をあやつる異邦人に興味津々のようである。ゴビンダの母は、さも「よく来てくれた」と言わんばかりに、私を自慢げに紹介した。

そして早速、ご馳走である。ネパールではいつ、何時でも客人が訪れたら食事を提供するのが習わしのようだ。ご飯の代わりにチュラ(干し飯)を使ったダルバート、チャン(ネパール風ビール)も勧められるままに頂く。

ダイニングルームでテレビを見ていると、ニュースやCMが多い。画面の色は、ほとんど白黒に近い。ソニーのカラーテレビなのだが・・・?、と思い皆に「いつもこの状態で見ていますか?色が出ていないのですが・・・」と尋ねると、どうやらいつもこの状態で見ているらしい。「ちょっといいですか?」と言って、テレビのカラー調整をすると・・・、やっぱり色が出てきた。後ろでその様子を見ていたご家族の人たちが「ワァーッ!」と歓声をあげる。家主であるゴビンダのおじは大喜びで、両手で俺の手を握り「あなたがネパールへ来たら、いつでも我が家へ来てください。いつだって泊めてあげますよ!」と言ってくれた。

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昔取った杵柄、お手の物です (^_^)!

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ゴビンダのおじさん、満面の笑みで感謝してくださいました。

また、ここで知り合った人で、マナスル・ゲストハウスの新人レセプション係のダイアンのお兄さんは、日本へも来たことがあるそうで、埼玉県の戸田市にいたそうだ。それゆえ日本語も、ゴビンダ以上に流暢に話す。おじ宅から彼のアパートへと場を変え、ここでもダルバートのおもてなしを受ける。が、さすがにしんどい。彼に「残してもいいですよ」と言われても、残すのはやはり失礼にあたると思い、すべて美味しくいただいた。

9時ごろ、お暇(いとま)しゲストハウスへと戻る。と思ったら、10時15分過ぎ、彼はゲストハウスへバイクでやって来た。「もう少し、話がしたいから」と言って、奥さんも連れてきた。彼が持参したビールで乾杯し、明後日再び会う約束をし、11時ごろ、寝ることにする。

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新人レセプションのダイアン(中央)と、彼の兄夫婦。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1992年のものです。   

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