2015年2月 5日 (木)

母73才、初めての海外へ 最終日その3 『ドイツより帰国』(再掲)

来た時は凡ミスしてしまったが、今度は自分たちの指定された座席に座って行った。フランクフルトでの乗り継ぎは、1時間ほどしかない。フランクフルト国際空港駅へ到着し、広い空港内を出国審査を経て搭乗ゲートへ向かう。ゲートにあるカウンターでチェックインすると、隣り合って空いている座席はもう無いそうで、私は「それでは困る。」と抗議した。母はドイツ語はもちろん英語だってできないのだ。客室アテンダントに日本人がいても、常に日本人が応対してくれるとは限らない。隣同士でないと、母が何かと困るだろう。そのことをかなり強く主張した。応対していたドイツ人の女性スタッフは「日本人のスタッフを呼んで来ますから、少しお待ちいただけますか?」と言い、日本人の男性スタッフを呼んできた。

私は彼には日本語でかなり強く主張した。男性スタッフは、同じ便で帰国するツアー会社のコンダクターやお客らを何人も呼んでは、その都度「座席を替わっていただけないか?」と尽力してくれた。ドイツ人の女性スタッフは母のために椅子を用意し「どうぞ、座ってお待ちください」と、気を使ってくれた。時間はかかったが、その甲斐あって何とか隣同士の座席を確保していただいた。しかし時すでに搭乗時刻となり、最後にここフランクフルト国際空港の免税店で、何かお土産をとの思いは、水の泡と消えてしまった。そしてとうとう日本へと帰る飛行機に乗る。

飛行機の中での食事は、来る時よりはやはり良かった。チキンの照り焼きか、ビーフストロガノフ。前に利用した時にも思ったのだが、このルフトハンザ航空は日本発の便よりドイツからの便の方が、食事は絶対に良い。ドリンクは赤ワインをいただく。もちろんその前に Sekt(スパークリングワイン)もいただいた。そして少しでも眠る。何しろ到着時間が日本時間の朝8時過ぎだが、ドイツ時間では真夜中なのだから、眠くなるのは目に見えている。そして日本時間で明け方、朝食が運ばれてきた。オムレツだ。これもなかなかおいしい。

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ルフトハンザ航空の機内食メニュー。左からドイツ語、英語、日本語で表記されています。

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メニューの表紙と日本語で書かれたページを up しました。

やがて、中部国際空港到着。入国審査、荷物を受け取り税関。荷物を広げさせられることもなく、申告するものも「ありません」と答え、そのまま通過。正直言って、助かった。もし、荷物の中をチェックされたら、没収されるかもしれないものが、いくつかあったはずだ。例えば酒類は計7本(ワイン6本とシュナップス)だから無税で持ち込むのは1本多いし、ましてリーバーヴルストやその他のソーセージも、持ち込みできないもの(真空パックのものや缶詰なら、持ち込み可能)があったはずだ。それらを免れて、空港ロビーへ。

オープンしてまだ数カ月の空港内を見学しようと思ったのだが、カートでは行けないようだ。かといってカートなしでは荷物が重すぎて(スーツケースは30kgを超えていた)、それどころではない。結局、見学は諦めて帰ることにするが、どうやって帰ろうか?バスか電車にするしかないのだが、運良く出発時に利用したTタクシーの空港リムジンの運転手のT君に遭遇。すると、たまたま同じ方向へ行くリムジンタクシーがあり、まだ乗れると言うので、それに乗って帰ることにした。そのリムジンは、バンコクからの便が1時間ほど遅れていたので、運良く乗ることができたそうだ。もし、その飛行機が定刻通りに到着していたら、もう出発した後だったらしい。30分ほど待ち、そしてリムジンタクシーで自宅へ直行。10時過ぎに到着。これで我々の、母にとっては初めての海外旅行が終わった。

『母73才、初めての海外へ』 完

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年2月 4日 (水)

母73才、初めての海外へ 最終日その2 『ケルンへ』(再掲)

そして9時ごろ、パパとママに見送られ、エルマー・アンジュラとともに我々はバーギッシュ・グラートバッハの駅へ。やや早く着き過ぎた。

駅前にはバスターミナルがあり、彼らの街へ行くバスは、すぐ目の前から出ている。彼らの自宅の最寄りのバス停の名は、”Großer Busch(グローサー・ブーシュ)”。しかし、1日にほんのわずかしか走っていない。日曜・祝日ともなると、完全運休だ。駅から歩ける範囲だからなのだろう。でも、3度ここへ来て、もう彼らの迎えなしでも彼らの自宅へ行くことができそうだ。

やがてケルンへ向かう列車がやって来た。エルマー・アンジュラともここでお別れ。私、そして母ともども本当にお世話になりました。言葉だけでは言い尽くせない感謝!何度もお礼を言い、握手しながら笑顔で分かれる。そして私と母は、ケルンへと向かった。

ケルン中央駅に到着し、ルフトハンザ航空の事務所でチェックイン手続きをし、荷物を預ける。フランクフルトへ行く列車が出るまでの間、母に Köln Dom(ケルン大聖堂)を案内する。そのために早目に出てきたのだ。ここはユネスコ世界文化遺産にも登録されているほどの名勝地。外観の彫刻、その立ち姿はとても美しい。

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ケルン中央駅を出ると、すぐにこの姿が目に飛び込んできます (^o^)/!

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いかがですか?鎖国を解き時代は明治へと移り変わった時、岩倉具視率いる使節団はこの地を訪れ、この大聖堂を見てとても驚かれたそうです。

中へ入ると、この日は日曜日で、ミサが行われていた。しばらく見ていると、私が頭に巻いているバンダナを取るように注意されてしまった。帽子などは、失礼にあたるのだろうか。中をもっと奥の方まで案内したかったのだが、このミサのため入口付近しか入ることができず、充分な見学はできなかった。それ以上中にいても仕方がないので、外へ出る。

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この日は日曜日とあって、ミサが行われ、これ以上奥へはあいにく行けませんでした。


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ケルン大聖堂前の広場にて、我が母です。

大聖堂前の広場では、大道芸人がそこかしこにいてパントマイムを披露している。彼らは着ているものも含めて、全身を銅色に塗って銅像のように立っている。見事なほど、微動だにしない。小さな女の子が、彼らの前に置いてある容器に、チャリンとお金を入れた。するとその銅像(?)は、この慈悲深い少女に頭を下げ握手をしていた。

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どう見ても銅像にしか見えない・・・(・_・)!

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けどすべて、生身の人間のパフォーマンス!この方は、ちゃんとお礼に頭を下げていましたヨ (^_^)/!
 

大聖堂の中を見学できなかったので、時間が大幅に余り、大聖堂近辺を歩いたり、駅構内をぶらついたりした。すると、何かの商品の宣伝をしている。私たちも呼び止められた。「何だろう?」と思って見てみると、どうやら眼鏡の洗浄液のようだ。キャンペーン中だから無料で洗浄してくれるというので、私も母のサングラスも洗浄してもらった。曇り止めの効果もあるそうだ。

母がふいに「トイレへ行きたい」と言うので、駅構内のトイレへ案内すると、料金は何と2ユーロ!入口で2ユーロ投入しないと、中へ入れないのだ。うーん、さすがに大都市の中央駅だけあって、トイレの利用料金もひときわ高い!
そしてわずかに残っている小銭でジュースとビスケットを買って、すべのユーロを使いきり、いよいよフランクフルトへと向かう列車に乗る。

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年2月 3日 (火)

母73才、初めての海外へ 最終日その1 『帰国日の朝』(再掲)

6月19日(日)晴れ
Bergisch Gladbach バーギッシュ・グラートバッハ9:54(Sバーン11)10:14 Köln Hbf ケルン中央駅11:54(LH6815;ICE517特急)12:51 Frankfurt Flughafen フランクフルト国際空港13:55(LH736ルフトハンザ航空)翌8:15中部国際空港

 いよいよ帰国の日がやって来た。アッという間に過ぎ去ったドイツでの日々。私は起きてすぐにシャワーを浴びた。
この日は8時から朝食。いつもは9時からなのだが、我々が帰国するので皆も1時間早起きして、一緒に食事をとる。いつも通り変わらない、美味しいメニュー。ここで食べる最後の朝食なので、私はパンに大好きなリーバーヴルストをたっぷり塗って、さらにチーズとロースハムを載せたり・・・!

昨夜、エルマーと飲み終えた後、アンジュラの友達(たぶん、同僚のクリスティアネだろう)から電話があったそうだ。この日帰国する私と母に「気をつけて!お大事に!良いフライトを!」と、メッセージを伝えられた。母にもそう通訳する。

最後の朝食を終えると、ママが母にプレゼントを用意していてくれた。ベッドシーツと化粧水を含ませたペーパーとチョコレート。母はそれらを頂いて、とても嬉しそうに歓声を上げていた。皆の心遣い、そして相好を崩して喜ぶ母、連れてきて良かった。そういえば、エルマーとアンジュラからも昨夜、キャスターが付いたソフトスーツケースを頂いていた。デーバッグを背負うよりは楽だ、という配慮だろう。着脱可能なデーバッグもついている。私もそれを見て『国内の1~2泊の旅にちょうどいい!』と、内心とても喜んでいた。

朝食後、荷物をまとめ出発準備完了。そして出発前、エルマーの自宅前で母と皆で最後の写真を撮る。この日パパは、我々のお土産だった甚平を着てご満悦だ。

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アンジュラとママ・アンナに囲まれて!

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今度はパパ・ハンスとエルマーと一緒に!

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月29日 (木)

母73才、初めての海外へ 10日目その6 『バースデーパーティーへ』(再掲)

その後、我々3人はさらに次のところへと向かう。今度は彼らの友達のバースデーパーティーだ。お祝いの品(ティーセットとゼクト)はアンジュラが用意していた。これは今日の午前中、マルクトへ行ったとき、街のお店で買ったものだ。
私にとっては初対面の人で、ドイツ語で挨拶すると、「エッ?!日本からだって?」と驚き、大歓迎してくれた。そこでもビールや数々の美味しいご馳走をいただく。昨日から飲み続けである。しかし、母の具合のこともあったので1時間ぐらいでお暇し、帰ることにする。

*ドイツでは、いくつになっても誕生日は特別な日で、必ずお祝いをします。その際、招待客は何かプレゼントを持ってパーティーに参加しますが、パーティーの料理などは誕生日を迎えた人が用意します。

10時ごろ帰宅し、エルマー宅で最後の晩を楽しむ。またビールだ。エルマーは運転しなければならないから、あまりたくさんは飲めなかったのだ。これで安心して飲むことができる、ということだ。彼が私との最後の晩、手に持ってきたビールは、バイエルン地方で造られている”Prinziegent Luitpold(ルィートポルト王子)”というビール。このビールは、はっきり言って日本の市販のビールでは絶対に味わえないほどの美味しさ!味に深みがあり、コクもある。以前にドイツへ来た時も、その後日本で通販で取り寄せて飲んだ時も「”笑っちゃう!”ほどうまい!」と思ったビール!!

最高に美味しいビールを飲み交わしながら会話していると、やおら彼らは日本のガイドブックを持ってきた。興味深く読んでみる。まず、日本についての歴史などが紹介されていた。続いて各地方の観光案内。名古屋については、名物として”きしめん”と”ういろう”が紹介されていた。これらを説明するのは難しいので、私は「次回来るときに、持ってくるよ」と答えた。

コラムの欄で「Kampai(乾杯)」と載っていたので、早速エルマーとアンジュラに教える。どのような内容が書かれていたかというと、『日本のビジネスマンたちは、仕事帰りに同僚たちとともに”居酒屋”と呼ばれる日本のバーで、よくお酒を飲みます。その時に彼らは”Kampai(乾杯)”と言って、グラスを重ねてからお酒を飲むのです。』という内容だった。2人とも、「なるほど!」という表情だ。

そしてエルマーが思い出したように、「最近の日本は、”Erdbeben”が多くないか?」と訊いてきた。「Erdbeben ?」と私は意味が解からずに問い返し辞書で調べようとすると、エルマーが「ジン!神戸!」と言った。「神戸?」と聞いて、私はあの阪神大震災直後すぐに手紙で安否を訊ねてくれたときのことを思い出した。そして”Erdbeben”の意味を即座に理解した。エルマーにジェスチャーしながらそう示すと、「そう、その通り」とエルマーもしたり顔!たしかに昨年の中越地震、今年の福岡沖地震など、比較的大きな地震が相次いで起こっている。彼はそれをとても心配してくれているようだ。

さらにエルマーは、「これはドイツ語では理解しにくいだろうから、英語で話そう!」と言って、ドイツにおける中国人の問題について話し始めた。昨日レーバークーゼンの街でアジア系の人が歩いていたのを見たとき、私が嫌そうな顔で彼らを見て、「中国人だろう?!」と話していたからかもしれない。

エルマーの話を聞き私も、日本における中国人の犯罪について話し始めた。ピッキングなど鍵を開ける方法で、空き巣や泥棒に入ったり、紙幣や通貨の偽造はもちろん、クレジットカードのスキミングも。これは「Very important problem !」と話すと、エルマーも「ジン、それは日本だけじゃない!ドイツも同じだ。ドイツでも中国人の犯罪が社会問題になっている!」と言っていた。そして、お互いの国の中国人による治安の悪化やマナーの悪さなども含め、意見が一致し、お互いにニコニコと笑いながら握手していた。

しばらくしてアンジュラは眠り、私とエルマー2人でさらに飲み続ける。お互いに1本飲み干し、2本目はさすがに半分ずつにした。そして12時を過ぎたころ、お開きとした。

バーギッシュ・グラートバッハ、エルマーのご両親宅にて

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月28日 (水)

母73才、初めての海外へ 10日目その5 『再会した人たちと』(再掲)

メヒティルトは、来客にビールなどをサービスしていた。同僚の祝い事なので、お手伝いを頼まれていたようだ。すると、テントの下のテーブルにいた女性2人を見てアンジュラが、「メディーナとモニカだわ」と言って近づく。よく見るとその2人、カーニバルのときにもいたような・・・?!アンジュラにそう訊くと、「Ja !(そうよ!)」と答えた。

アンジュラがまず2人に声をかけ、そして私が、
「Hallo ! Kennen Sie mich ?(こんにちは!私を覚えていますか?)」と尋ねると、最初は怪訝そうな顔。しかしアンジュラが、
「昨年、カーニバルに来ていたわよ」と彼女らに話すと、2人とも、
「あー、思い出したわ!あの時来ていた日本人よネ!」と、驚きながらも、覚えていてくれた。
「またドイツへ来ていたの?よかったら、ここ座る?」と言って、場所を空けてくれた。

私は彼女らが空けてくれた椅子に座り、「Prost !(カンパイ!)」と言いながら皆でビールを飲み交わす。彼女たちはタバコを吸っていたので、
「Ist hier Raucherplatz ?(ここは喫煙してもいい席なの?)」と、ドイツ語で訊ねると、まさか私がドイツ語を話すとは思っていなかったのか、「エッ!なに?」と訊き返され、再びドイツ語でそう訊くと、
「えぇ、そうよ!あなたもタバコ吸う?」と答えながら、灰皿を私が届くところへ移動してくれた。そして、
「ドイツ語、話せるの?」
「Ja ! Aber nur ein bißchen...(ええ、でも少しだけですよ)」と答えたのだが、アンジュラが、
「そんなことないわよ。ほとんどドイツ語で会話しているから!英語なんて使ってないわよ」と、彼女らに話すので私もはにかみながら、うなずいていると、2人とも、
「凄いじゃない!」と、ビックリしていた。
そして私も、やっと一服、タバコを吸い始めた。

昨年、カーニバルでお会いした人々とこうして再び出会うことができたのは、とてもラッキーだ。しかも、会話ができる。以前は自己紹介ぐらいしかできなくて、まったく話せなかったから、本当に嬉しい。メディーナもモニカも、私がドイツ語が多少理解できると分かり、どんどん話しかけてくれる。少しでも言葉ができる、それだけで”よそ者”ではなく”仲間”として見てくれるのだ!かつてネパールでも感じたことを、ここドイツでも感じることができた。ほんのわずかな片言でも、話せる話せないの差は大きいんだ!

しばらくして、お手伝いしているメヒティルトが、ずっと傍に付いているお嬢さんのクリスティーナに、「ここに座ってなさい」と、私の正面に座らせた。そして私のグラスが減っているのを見て、
「Dsching ! Noch einmal ?(ジン!もう一杯どう?)」と、グラスビールを置いていく。私も、
「Danke !(ありがとう!)」と言って、さらに飲み続ける。目の前に座ったクリスティーナも、他の方からビールをいただいて飲み始めた(ドイツでは、ビールは16才から飲んでもよい。親が一緒であれば、14才から可)。

しかし、しばらくして再び我々のテーブルへやって来たクリスティーナの母親、メヒティルトは、娘がビールを飲んでいるのを見て、
「ちょっと?!クリスティーナ!あなたは何を飲んでるのよ?!あなたの飲み物はこれでしょ?!」とでも言ったようで、オレンジジュースを置いて行った。クリスティーナは、不満そうな表情で口をとがらせていたが、母親(メヒティルト)がその場を離れると、「チャンスだ!」とばかりに、半分残っていたビールにオレンジジュースを混ぜ出した。これならば、ビールが混ざっているとは気づかれまい。私は笑いながら、
「Oh ! Gute Idee !(おぉ、ナイスアイデア!)」と言うと、彼女も、
「Ja !(でしょ!)」と、可愛い笑顔で答える。
「Aber...ist das lecker ?(でも・・・、おいしい?)」と訊くと、
「Ja ! Lecker !(えぇ、とてもおいしいよ!)」と、ニコニコしながら答えてくれた。

せっかくなので私は、メディーナとモニカの写真を撮ろうとしたらアンジュラが、「ジン!私が撮ってあげる!」と言うのでカメラを渡す。メディーナは、「(私と)2人だけで撮って!」と言っている。するとすぐそばで、メヒティルトとクリスティーナがその様子を見ていたので私は、とりあえず拙いドイツ語で、
「Hey ! Komm! Zusammen Foto nehmen !(ヘィ!おいでよ!一緒に写真撮ろうヨ!)」と誘うと、すぐに一緒に加わって、再会した人たちと仲良く一緒に写真を撮った。

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この前年に出会った人々と!左から、モニカ、メディーナ、私、メヒティルト、クリスティーナです。クリスティーナ、とても可愛いでしょ?!

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月27日 (火)

母73才、初めての海外へ 10日目その4 『もう1つのパーティー』(再掲)

エルマーのご両親宅にいったん戻って、しばらくテレビでサッカーを見ていた。母はまだこの後、2つのパーティーに参加するのは「疲れるだろうから、部屋で休んでいる」と言う。それでは皆に申し訳ないので、私は「初めての海外旅行で、ちょっと疲れがあるみたいだ」と答えておいた。エルマーのパパ・ハンスは、母のためにカモミールティーを作ってくれた。

私とエルマー、アンジュラはもちろん出かける。次は2週間後に結婚を控えた友人のパーティー(Polterabend;婚礼の前夜祭)だそうだ。私はそこで、意外な人たちと再会を果たすことになる。

会場についてまず驚いたのは、それぞれ各家庭から持ち寄った食器などを、投げ割ってしまうことだ(悪魔払いのため、花嫁の家の前で、壷、食器などを砕く儀式)。参加者は皆そのようにしている。エルマーとアンジュラももちろん用意していて、持ってきた食器を私にも渡して、投げ割る。

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こんな感じで”悪魔払い”の儀式が行われます。上の写真の奥の方で、ビールを飲みながら人々がパーティーを楽しんでいました。

花婿と花嫁に会い、「Herzlichen Glückwunsch !(おめでとうございます!)」と挨拶する。そして次に、アンジュラがとても親しげに声をかけた女性を見て「あれっ?」と思った。アンジュラが「ジン、彼女のこと覚えている?」と訊く。もちろん覚えている。彼女はアンジュラの同僚 Christiane(クリスティアネ)で、私を快く迎えてくれた。するとアンジュラが「花婿は彼女の息子さんよ」と言うので、私はあわててクリスティアネにも、「Herzlichen Glückwunsch !」とお祝いの言葉を告げた。彼女も「Danke schön !(ありがとう!)」と答えてくれた。

クリスティアネとは昨年のカーニバルでお会いしていて、その時はピエロに仮装していたのを覚えている。彼女は私が母も一緒に連れて来ていることをアンジュラから聞いて知っていたようで、この場に来ていない母のことを尋ねられた。もちろんドイツ語で、である。私は「初めての海外旅行で、ちょっと疲れているみたいで、休んでいるのです。」と、アンジュラのフォローもあったが何とかドイツ語で答えた。すると、母のことをとても心配してくれた。

そして奥へ行くと、たくさんの人々がビールを飲みながらパーティーを楽しんでいる。するとまた一人、見覚えのある顔が!アンジュラの同僚の Mechtild(メヒティルト)だ。彼女も私に
「Hallo Dsching ! Wie geht's ?(ハロー、ジン!元気?)」と、やはりいきなりドイツ語で声かけてくれた。私もドイツ語で
「Danke, sehr gut ! Und du, wie geht's ?(ありがとう、とても元気です!あなたは?元気でしたか?)」と答えると、彼女も
「Danke, ich auch !(ありがとう、私もよ!)」と言い、アンジュラに、
「ちょっとアンジュラ!ジン、本当にドイツ語話せるじゃないの?!」とでも言っているようだ。アンジュラも、これぐらいの会話は当然!といった表情で「Ja !(でしょう!)」と答えていた。

メヒティルトのすぐ横で、私たちの会話をニコニコしながら見ている若くて可愛い女の子がいた。まだ15~6才ぐらいだろうか?声かけて良いものか迷っているとメヒティルトが、
「Meine Tochter !(私の娘よ!)」と、一緒に来ていた娘さんを紹介してくれた。
「Oh ! Deine Tochter !(オォ!あなたのお嬢さん!)」と私も答え、お嬢さんに、
「Ich bin Dsching aus Japan.(私は日本から来た、ジンと言います。)」と自己紹介すると、彼女も、
「Ich bin Christina.(私はクリスティーナです。)」と答えてくれた。
「Oh Christina ! Ich freue mich, dich kennen zu lernen.(おぉクリスティーナ!お会いできて光栄です。;はじめまして、よろしく!)」と言うと彼女も、
「Ich auch !(私もです!)」と握手しながら、笑顔で答えてくれた。

この会話を聞いていたメヒティルトは、さらに驚いてようで、私に「ジン!あなた本当にドイツ語上手になったじゃないの!」と話していた。私も「Ja ! Danke !(でしょ!ありがとう!)」と答えた。

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月22日 (木)

母73才、初めての海外へ 10日目その3 『バーベキューパーティー』(再掲)

母は、ビニールプールで遊んでいる子供たちを見て、「あの子たちと一緒に写真、撮りたいなぁ!」と言うので、私はアンジュラに、「Meine Mutter sagt, sie möchte mit Kinder zusammen Foto nehmen.(母が”子供たちと一緒に写真を撮りたい”と言っているんだ。)」と言うと、アンジュラは理解してくれたようで、子供たちのところへ行って話しかけている。そして「ジン、OK!」と言うので、母と子どもたち、一緒に写真を撮る。

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母と、可愛いドイツの子供たち。

ふと気づいたのだが、ティナもこの小さな子供たちもみんな女の子で、とてもカワイイ!私は暑さのせいもあり、ずいぶんビールをいただいたり、自分から注ぎに行ったりもしていた。母もビールやジュースを頂いていた。

アンジュラのお兄さんは、ステーキやソーセージなどのバーベキューを持ってきて、私に「どうぞ、食べなよ!」と、振る舞ってくれた。たまらなく、ウマイ!思わず笑みがこぼれる。彼の同僚の男性2人が我々のところへ挨拶をしに来てくれた。彼らもやはり最初は英語で「Hallo ! Are you Japanese ?」と尋ねてきた。私が「Ja ! Wir sind Japaner !(ええ、日本人ですヨ!)」とドイツ語で答えると、彼らは嬉しそうに、「Oh ! Können Sie Deutsch sprechen ?(おぉ、ドイツ語が話せるのですか?)」と言い、私も「Ja ! Aber...nur ein bißchen !(えぇ、でも少しだけですヨ!)」と答えた。彼らは自己紹介をし、しばらく会話を楽しんでいた。母は「挨拶しに来るだけ、えらいナァ!」と喜んでいた。

やがてアンジュラが、「着物を着たい。」と言い、母とアンジュラのお母さんの3人で家の中へと行き、母に着付けをしてもらって着物に着替えてきた。彼女のお母さんに見せる初めての姿だ。お母さんも喜んでくれたようで、写真を撮ってあげる。

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着物を着たアンジュラと、母親たち。

そして我々はこの日は他にも予定があるので、帰ることにする。帰り際、アンジュラのお母さんへはもちろん、お兄さんへもきちんと挨拶する。「おいしい食事とビール、本当にありがとうございました。さようなら!またお会いしましょう!」と。

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月21日 (水)

母73才、初めての海外へ 10日目その2 『アンジュラの実家へ』(再掲)

そして夕方近くになって、まずアンジュラの実家へ行く。まだアンジュラのお母さんに着物を見せていなかったからだ。4人でアンジュラの実家へ行くと、家の前には何台もの車が?!庭からはなんともいい匂いが漂ってくる。アンジュラのお兄さんの会社の人たちが大勢来ていて、広い庭でバーベキューパーティーをしている真っ最中!

アンジュラのお母さんもそちらにいたので、我々も庭へ入る。アンジュラのお兄さんはバーベーキューを焼いていて、皆ビールを飲んだり料理を食べたりしていた。私もお兄さんとは面識があるので、「Hallo ! Guten Tag ! Lange nicht gesehen ! Wie geht's ?(ハロー、こんにちは!久しぶり!お元気でしたか?)」と挨拶しながら握手を交わし、母を紹介する。彼はこのパーティーに我々を快く迎え入れてくれた。

この日は気温も高く、汗ばむほどの天気だったこともあり、庭にはビニールプールも用意され、子供たちが水着になって元気よく遊んでいる。アンジュラのお母さん、Gertrud(ガートルート)もパラソルの下でのんびりしていた。彼女は我々に気がつくと、とてもにこやかに迎えてくれた。傍らには Rex(レックス)もいる。年老いたシェパードだが、とても人懐こく賢い。

我々もビール、そしてホワイトソーセージやサラダなどをいただき乾杯する。とても美味しい!そういえば、私はここアンジュラの実家には、もう何度も来ているのだが、なかなか写真を撮る機会がなく、アンジュラのお母さんとはまだ一度も写真を撮ったことがない。さすがにこの日はシャッターチャンス!何枚も皆の写真を撮る。

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アンジュラ、アンジュラのお母さん・ガートルート、母とエルマー。

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エルマーとレックス。レックスは私とも仲良しでした (^_^)/ 。

しばらくしてエルマーはレックスの散歩へと行く。私にもここへ来るたびいつも一緒に散歩していたので「一緒に行くかい?」といつも通り誘うのだが、母一人では会話ができないと分かっていたから「ごめん!今日はここにいることにするよ。」と断った。

ビニールプールでは相変わらず3人の小さな子供たちが、歓声をあげてはしゃいでいる。この子供たちも可愛いが、姪の Tina(ティナ{Bettina;ベッティーナ})たちもビキニに着替えて、昼下がりの午後のひとときを楽しんでいる。まだ14~6才ぐらいかと思うが、それにしてはとても色っぽくて黒やブルーのビキニがとても良く似合っている。日本の女の子たちとの違いを感じる。

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月20日 (火)

母73才、初めての海外へ 10日目その1 『マルクトへ』(再掲)

6月18日(土)晴れ
バーギッシュ・グラートバッハ

 さて、この日はドイツ滞在の最終日。早いものだ。いつもどおり朝9時から朝食にする。こちらでは朝食時、話をしながらゆっくり楽しく過ごす。この朝の話題は、昨夜のバーでのこと。エルマーが、日本へ来たことがある男性の、新幹線の中での失敗談を皆に話している。私も、「Ja,ja. Ganz genau.(そうそう、まったくその通り。)」とうなずく。母にも日本語で説明する。

朝食を終え、午前中は母に絶対に見せておきたかったマルクト(毎週水・土曜日にマルクト広場で開かれる青空市場。午後1時まで。)へ、エルマー・アンジュラとともに4人で行く。先週の土曜日は来なかったので、母にとって最初で最後のチャンス。

マルクトでは野菜、果物、肉、ほんの少しだが魚もあり、ハムやソーセージ、チーズなどの食料品のほか、日用雑貨、衣料品、何でもそろっていて、見ているだけでも楽しい。色々物色していたが結局買ったのは、母のTシャツのみ。母はこれをカラオケに着ていくらしい。

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バーギッシュ・グラートバッハのマルクトにて、母とエルマーの姿、わかりますか?

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お花屋さんも出ています。苗もあれば切り花も売っています。

マルクトの次は肉屋さんへ行った。Leberwurst(リーバーヴルスト;パンに塗るレバーペーストで、とてもおいしい)を買いたかったのだが、たぶん「悪くなる(腐る)から、ここで買うのはやめたほうがいい」と、エルマーは言っていたようだ。そして雑貨屋へ行き、彼らは素敵なティーセットを買った。

そして車に乗り Supermarkt(スーパーマーケット)へ。日本へ帰ってからも味わいたいドイツの味を買うためだ。Leberwurst(リーバーヴルスト)や Würste(ソーセージ)、Schnaps(シュナップス;蒸留酒の1つ。)を買うことにする。シュナップスは食後によく飲まれるもので、消化を助ける作用があり、数種類のハーブやサクランボから造られたものなど、種類は豊富だ。アルコール度数は35~40度前後とやや高い。私はハーブから造られたシュナップスを選んだ。

クレジットカードで支払おうとしたのだが、ここでは現金しかダメだそうだ。仕方なくエルマー達に立て替えてもらった。本当ならこの後、銀行で現金を引き出して彼らに代金を返した買ったのだが、この日は銀行も休みだ。

いったん戻って昼食とし、少しお昼寝タイムを取る。買ってきたリーバーブルストなどは一晩、冷蔵庫へ保冷してもらう。ツェルで買ったお土産のワインは割れないように、帰国後に洗濯するTシャツにくるんで、スーツケースに収める。

*2004年に訪れた時のマルクトの写真、紹介いたします。

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いかがですか (^o^)?バーギッシュ・グラートバッハの街のマルクト、この時(2004年)は小雨模様の天気で人出も今一つでしたが、何でも売っていてとても楽しいところでしたヨォ (^o^)/!少しだけでも雰囲気、伝われば・・・

*この旅日記は2005年のものです。

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2015年1月15日 (木)

母73才、初めての海外へ 9日目その5 『ブラオハウスⅡ』(再掲)

しばらくすると、隣で飲んでいた初老の男性が私に英語で「Are you Japanese ?」と、話しかけてきた。私は、「Ja ! Ich bin Japaner.(ええ、日本人です)」とドイツ語で答えるとその男性はとても驚いていた。これで何度目だろうか、英語で声かけられてドイツ語で答えたり、初めからドイツ語を使い、そのたびに驚かれたのは?

この初老の男性は、日本へも来た経験があるそうで「札幌、青森、仙台、東京・・・、こんにちは、ありがとうございます。」など、日本の地名や知っている日本語を披露した。東京や札幌は知っていても不思議はないが、仙台、まして青森は来日経験がなければ、まず知らないだろう。彼は私がドイツ語を少しだけ理解できることが分かって、驚くとともに喜び、その後はお互いにドイツ語で会話した。

「日本であるとき、新幹線の中で ”Zeitung” を読んでいたら・・・、”Zeitung” って解かるかい・・・?」
「Ja ! Zeitung ist auf Englisch "Newspaper" !(ええ、新聞のことでしょ!)」
「そう、その通り!で、新聞を読んでいたら、周りの人たちが私を見て笑っていたんだ。どうして笑っているのか分からなかったのだが、隣の人が教えてくれたよ。”(上下)逆だよ”って。」

つまり彼は、日本の新聞を”読んでいる”ふりをしていたようで、そのために周りの人に笑われてしまったことがある、と話した。私もエルマーも、この話に大笑い!彼は私に、私が今の話を本当に理解しているか、念のために訊ねた。私はドイツ語と英語、ジェスチャーで”こうこう・・・、こうだったんでしょ?”という感じで言うと、「そう、その通り!ちゃんと理解してくれてとても嬉しいヨ!」と喜んでくれた。彼はこの話をドイツ語で話していたのだが、ジェスチャーもあったので私は完璧に理解することができたのだ。

彼の連れ(実は、息子さんだった)が煙草を吸おうとしたのだが、ライターの火が点かず、「ライターを持っていますか?」と彼はドイツ語で訊ね、私がライターを貸したら日本語で「ありがとうございます」とお礼を言ってくれた。

でも、たまたま飲みに来た片田舎のバーで、こうして日本へ来たことがある人と出会えるとは、全く想像さえしていなかった。きっと彼も同じだろう。こんなところで飲んでいる日本人がいるとは、思ってもいなかっただろう。彼はその後、知り合いが来ていたようで、そちらへと場所を移した。

深夜12時を過ぎたころ、帰ることにする。エルマーが「彼に挨拶しておくかい?」と訊くので私も、「そうだな!挨拶してから帰ろう」と答え、彼が飲んでいるテーブルへ行き、
「Ich komme schon zurück. Danke schön. Auf wiedersehen !(僕はもう帰ります。ありがとうございました。さようなら!)」と挨拶をする。彼も、
「帰るのかい?そうか、元気でな!また会おう!」と答えてくれ、堅く握手した。
彼は、もしかしたら教師か大学の教授なのか、若くてとても綺麗な女性たちと一緒に飲んでいた。お別れの挨拶をしに行ったのだが、女性たちは「Hallo !」と笑顔で、握手をしながら挨拶をしてくれた。

私とエルマーは、家路へと向かった。帰宅すると、母もアンジュラも、エルマーのご両親も、すでに床に就いていた。

バーギッシュ・グラートバッハ、エルマーのご両親宅にて

*この旅日記は2005年のものです。

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