2009年10月15日 (木)

出雲大社

今日の「古事記」からの引用・要約は、「因幡の白ウサギ」の話の続きから始めます。

『八十神(やそがみ)たちは八上媛に、「我々の中から婿を選んでください」と言いました。そこへ、兄たちの荷物を持った大穴牟遅(おおなむぢ)神がやっと到着すると、八上媛は「大穴牟遅神と結婚します」と答えられました。
怒った八十神たちは、大穴牟遅神を殺そうと相談し、嘘をついて殺してしまいました。これを見た母なる神は泣き悲しみ天に昇り、神産巣日神(かむむすひのかみ)にすがると、その神は他の神を遣わし治療に当たらせました。やがて大穴牟遅神は生き返り、元気に歩きだしました。
その姿に驚いた八十神たちは、再びたくらみを仕掛け、またしても大穴牟遅神を殺してしまいました。泣きながら息子を探していた母神が発見し、再び生き返らせました。そして「ここにいては危険だから、須佐之男命のおられる根之堅州(ねのかたす)国へおいでなさい。きっとよいように計らって下さるでしょう」と言って、大穴牟遅神は須佐之男命がいる根之堅州国(地底の国、黄泉の世界)へ行きました。

しかし、そこでも試練が待ち構えていました。須佐之男命の娘・須勢理毘売(すせりびめ)とお互いに一目惚れし、すぐさま結婚を誓いあったのです。須佐之男命は、それが気に食わず、試練を与え勇気を試してみようと考えました。まず、蛇のいる部屋へ大穴牟遅神を呼び入れ、そこで寝かせました。しかし、須勢理毘売が須佐之男命に内緒で知恵を授け、ぐっすりと眠ることができました。
次の夜はムカデと蜂の部屋に寝かされました。しかし昨晩同様に安眠し、無事その部屋から出てきました。
そして今度は、鏑矢(かぶらや)を野に放ち、その矢を「探して採ってこい」と命じました。大穴牟遅神が野原へ入ると須佐之男命は野原に火をつけ、火はみるみる広がり、逃げられなくなってしまいました。そこへ鼠がやって来て「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言いました。その意味を理解した大穴牟遅神は、足元の土を勢いよく踏むと、穴の中へ落ち、そこに隠れているうちに野火は頭上を焼け過ぎて行きました。そして鼠が鏑矢をくわえて来て、大穴牟遅神に渡しました。
須勢理毘売も須佐之男命も、大穴牟遅神が死んだものと思っていましたが、野原に出てみると、大穴牟遅神が鏑矢を持って現れました。須佐之男命は「何としぶとい」と思い、御殿に連れ帰り広間に呼び入れ、自分の頭の虱(しらみ)を取るよう命じました。しかしそれは虱ではなく、たくさんのムカデでした。須勢理毘売はここでも知恵を授け、椋の木の実と赤土を手渡しました。木の実を食いちぎり、口中に赤土を含んで、唾と一緒に吐き出すと、須佐之男命は「ムカデを食いつぶして吐き出しているのだナ。なんと可愛い奴!」と思いました。須佐之男命は安心し、ぐっすりと寝込んでしまいました。

大穴牟遅神はこの隙に、須佐之男命の髪をいくつかに束ね、部屋の垂木に一つずつ結び付けました。そして大岩で部屋の入り口をふさぎ、須勢理毘売を背負い、須佐之男命の象徴である生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)、それに天の沼琴(あめのぬごと)を持って逃げようとしました。
すると琴が木に触れて大きな音がしました。須佐之男命は驚いて起き上がり、その勢いで部屋が引き倒れてしまいました。垂木に結ばれた髪をほどいているうちに、大穴牟遅神と須勢理毘売ははるか遠くに逃げ去りました。
須佐之男命は黄泉比良坂まで追いましたが、二人はすでに手の届かぬ現世国(うつしよのくに)へ逃げ延びていました。須佐之男命は二人に向かって叫びました。
「もうよい大穴牟遅、須勢理毘売はお前にくれてやる。その生大刀と生弓矢で八十神たちを追い払い、大国主神となって宮殿を建て出雲の国を治めろ」と。
須佐之男命に言われたとおり、大穴牟遅神は悪い兄弟たちを追い払い、大国主神となって国造りを始めました。』 *古事記より引用・要約

「古事記」からの引用文は、古い順から「黄泉比良坂」→「八岐大蛇」→「因幡の白ウサギ」→「出雲大社」となります。もちろん、これがすべてではなく、高天原の天照大神様の「天岩戸」伝説が間にありますが、この地に残る話ではありませんので、割愛致しました。

「神無月」、出雲地方では「神有月」ということもあり、今の時期、全国津々浦々の神々たちが、ここ出雲に集まって「全国神様集会(会議)」を行なっているのでしょうか?神様たち、どんな話をしているのでしょうネ?「政権交替したから、少しは良くなるんじゃないか」とか、「今の日本は・・・」などと愚痴をこぼしている神様もいるのかな?

「出雲大社」、ほとんどの方は「いずもたいしゃ」と読まれるでしょう。しかし、正式には「いずもおおやしろ」と読むそうです。
私は出雲大社へは、二度行ったことがあります。最初は「因幡の白ウサギ」伝説を追って、鳥取・白兎神社へ行った後(1985年)、二度目は仕事で東出雲町まで行ったついでの旅(1990年)で訪れました。
さすが、出雲大社です。本当に立派で風格漂うところでした。外国人旅行者の姿も目につきます。

この格調高い出雲大社で、私の目を引いたのは、大国主命像でした。本当に威厳のある神様、そう感じました。と同時に、とても優しい神様だということも感じ取ることができました。大国主命(大穴牟遅神)と白ウサギの像もありましたから!「古事記」の伝説の人物像そのままを、象(かたど)って作られたものだと思わずにいられませんでした。

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出雲大社本殿。平日のせいか、参拝者・観光客は少なめでした。

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大きなザックを背負ったバックパッカー。外国からの旅行者でした。

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境内にある大国主命像。

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上の写真を後ろから撮ったものです。少名毘古神を迎えるところでしょうか?

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大国主命(大穴牟遅神)と因幡の白ウサギ

時間の都合、というよりもう1か所、是が非でも行きたいところがあり、出雲大社を後にして、私は近くの海辺へと向かいました。平田市(島根県)にある猪目洞窟遺跡です。かつてここで、縄文時代から弥生時代、古墳時代のころの土器や埋葬品、人骨などが多数見つかったことから、「黄泉の国の入り口では?」という伝説があります。

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猪目洞窟入り口。写っている人は・・・私です。大きさがお分かりかと思いまして!

中へ入ってみました。地面は濡れています。先は暗くて見えません。頭上の岩が徐々に低くなり、いよいよ四つん這いにならなければ進めない・・・、で、そこであきらめました。でももし、レインウェアを持っていたら・・・、さらに先まで行っていたでしょう。とても後悔したことを今でも覚えています。(そのまま、”黄泉の国”まで行ってしまったりして・・・)

4回だけですが、「神話の旅」書いてみました。順序的には逆になりますが・・・。
お読みくださった方々が、日本の古典文学の面白さ・素晴らしさとともに、私の旅も楽しんでくださったなら、光栄に思います。

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2009年10月12日 (月)

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

『高天原を追われた須佐之男命(スサノオノミコト)は、出雲の国肥河(ひのかわ;現在の斐伊川)の上流、鳥髪というところに降り立ちました。そこへ箸が流れて来て、上流に人家があるのだろうとしばらく行くと、老夫婦がいた。真ん中に少女を置いて泣いている。

「お前たちは誰だ」と須佐之男命が問うと、
「私はこの国の神、大山津見の神の子で足名椎(あしなづち)、妻は手名椎(てなづち)、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)と申します。」と答えました。
「なぜ泣いている」
「私の娘は八人おりましたが、八岐大蛇が毎年やって来て食べてしまい、今年もその時期が来て最後に残ったこの子も食べられてしまうのかと、泣いていたのです。」
「どんな姿の大蛇なのだ」
「頭が八つ、尾が八つ、その目は真っ赤で胴体には苔がむして、さらに桧や杉が生えている化け物でございます。長さは八つの谷、八つの峰をまたがるほどで、その腹はいつも血が滲み出ています。」
「よし、俺が退治してやろう。その前にその娘を俺にくれないか。必ずや娘を大蛇から守ってやる」
「いったいあなた様はどなた様ですか」
「俺は天照大神の弟、須佐之男命というものだ。今、高天原から降りてきたところだ」
「それは恐れ多い事でございます。娘を差し上げましょう」

須佐之男命の指示で八塩折(やしおおり)の酒がつくられ、垣をめぐらし八つの門を作り、門になみなみ注いだ酒桶を置き、八岐大蛇が来るのを待ちました。須佐之男命は櫛名田比売の姿を爪櫛(つまぐし)に変え角髪(みずら)に挿しました。

そして八岐大蛇が、足名椎が話した通りの姿でやって来ました。大蛇の八つの頭は八つの酒桶の酒を飲み、酔っ払って寝込んでしまいました。
須佐之男命は腰の長剣を抜いて、大蛇をズタズタに切り裂きました。すると、大蛇の体の中から鋭い剣が現れました。その剣を須佐之男命は、天照大神に献上いたしました。これがのちの草薙の剣です。

須佐之男命は、櫛名田比売と新たな宮殿を建てるため、出雲の国の須賀を訪ねました。
「俺はここへ来て、心がすがすがしくなった」と話し、この地に宮殿を作ろうとすると、雲が立ち上りました。そして須佐之男命は、歌いました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

そして、足名椎をその宮殿の長官に任じました。』 *古事記より引用・要約

 この話も「古事記」の中では、よく知られている有名な話です。須佐之男命のヤマタノオロチ退治です。揖屋神社でお世話になったご婦人に教えていただいた「出雲国分寺跡」、「神魂(かもす)神社」を訪ねたのち、この伝説が残る「八重垣神社」へと向かいました。

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松江市に残る「出雲国分寺跡」。

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古代日本の中心地だったのでしょう。

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神魂神社(松江市)歴史を感じさせる造りです。

八重垣神社境内へ入ると、立派な本殿が見えました。由緒正しき神社、という雰囲気・風格です。由来記には、ここが須佐之男命と稲田姫(櫛名田媛)と結ばれたことから、「縁結び」にも御利益があるような内容が書かれていました。

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八重垣神社へ到着しました。お参りしてきます。

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「國家重要文化財本殿壁画」があるようです。どんなものでしょう?

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この由来記にも「八岐大蛇退治」について書かれています。

境内にある「鏡池」では、占いもできます。10cm四方ぐらいの紙の中心に小さな穴が二つ開いています。その間に五円(ご縁)玉を載せ、池に浮かべ縁を占います。15分以内に沈むと、早いうちに良縁に恵まれ、沈んだところが近ければ、近くの人と結ばれる、と云われています。せっかくなので、私も占ってみました。すると・・・、7~8分後、池のほぼ中央で沈みました。ということは・・・?、ということか・・・!

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鏡池。占いの結果とは裏腹に、今だ独身の私です。何故でしょう・・・?

境内の奥の森は、杉林になっています。地面から出ている杉の木の樹根が、まるで大蛇のように見えます。

次はいよいよ、出雲大社へと向かいます。

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2009年10月11日 (日)

黄泉比良坂(よもつひらさか)

『天地の始めのとき、高天原(たかまがはら)に三柱(みはしら)の神々が生まれました。天と地が渾沌としていて、区別のつかない世界を、三柱の神によってずいぶん区別がつくようになりました。そこへ二柱の神が生まれ、世界は明るさを増し天と地が形づくられていったころ、互いに誘いあった二柱の神が新たに生まれました。男神の名は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、女神の名は伊邪那美命(イザナミノミコト)であります。

新たに生まれたこの二柱の神により、島々がつくられ大八島(おおやしま)国がつくられました。さらにほかの島を生み、家、川、山、船、食物の神々など、多くの神々を生み続けました。しかし、最後に火の神を生んだため、御陰(みほと)を焼かれ病気になり、とうとうお亡くなりになり、死者が住むという黄泉(よみ)の国へと旅立っていかれました。

伊邪那岐命は伊邪那美命が忘れられず、黄泉の国へと向かいました。そして「愛しい我が妻よ。君と私とで作った国はまだ全部作り終えていない。もう一度帰って来てくれ」と言いました。しかし、伊邪那美命は「あなたが早く来てくださらないから、私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。でも、あなたがここまで来てくださったのだから、黄泉の国の神様に相談してみます。でもその間、決して私の姿をご覧にならないでください」と答えました。

長い間待たされ、とうとう我慢しきれず伊邪那岐命は、中へ入ってしまい、そこで伊邪那美命のおぞましい姿を見てしまいました。すると伊邪那美命は「あれほど見ないで下さいと言ったのに。私によくも恥をかかせましたね。許せません」と、黄泉醜女(よもつしこめ)に命じ後を追わせました。

伊邪那岐命は追ってくる黄泉醜女からひたすら逃げました。伊邪那美命はさらに大勢の軍勢をつけて追わせました。伊邪那岐命は腰の長剣を抜いて、それを後ろ手に振りながら逃げました。とうとう現世(うつしよ)と黄泉の国の境の黄泉比良坂(よもつひらさか)までたどり着くと、そこに桃の木がありました。その桃の実をもいで雷神たちを撃つと、みな退散しました。

そこへついに伊邪那美命自身が追いかけてきました。坂を登ればもう現世です。伊邪那岐命は千引き(ちびき)の岩で黄泉比良坂の道を塞ぎました。黄泉比良坂は、現在の出雲の伊賦夜坂(いふやざか)だと云われています。』 *古事記より引用・要約

この話は、古事記の冒頭を要約したものです。20代後半、個人でしがない仕事をしていた私は、ある会社の依頼を受け島根県東出雲町へと車を走らせました。
荷物の届け先の住所は、「東出雲町揖屋(いや)」とありました。手元にあった「毎日グラフ別冊・古事記」の中に載っていた「揖屋神社」があるところです。
私はプライベートでもなかなか行くことができないところだけに、この仕事をとても楽しみにしていました。

指定された期日の朝に荷物を受け取ったのでは、「事故や工事渋滞などで間に合わないといけない」から、前日夕方に荷物を受け取り、カメラ持参で1泊2日の仕事兼旅行へ出かけました。依頼主である会社の担当者も、以前いただいた仕事の評判・実績を知っているので、私が行くことに対してとても安心し、私が「泊まりがけで、ついでに旅を楽しんできます」と言うと、「カメラは持ってきてますか?」と、ニコニコしながら和やかに話していました。
荷物を受け取り、いったん自宅で夕食をとり、夜の高速を西へと走りました。夜7時に出発し中国道・大佐 I.Cに着いたのは、真夜中0時ごろ。この日はここで仮眠し、翌朝6時、起床し目的地へと向かいました。日本海側へ向かう道の途中にある峠では、雲が低くたちこめ、下界が全く見えず、「雲上にいる」と感じさせられました。峠を下ると、雲の中。そこを抜けると下界が見えてきました。
届け先は事前に調べておいたところ、「揖屋」という駅があり、「その近くだろう」と思った私は、東出雲町に入り、国道9号線から駅方面への旧道を走りました。すると、目についたのは「揖屋神社」。その横を通り過ぎ、駅から電話をし届け先の場所を尋ね、8時半に荷物を無事届け、仕事を終えた後、この「揖屋神社」を訪れました。

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揖屋神社です。とても歴史のある神社でした。

本殿はとても立派な神社です。社務所を訪ね「由緒記」なるものがあれば頂きたかったのですが、あいにく社務所に声をかけても返事はありません。仕方なく、お参りに来ていたご近所の方に声をかけ、この神社について尋ねてみました。
その方(神社の目の前の家に住んでいらっしゃる女性)は、私がまだ若かったせいか、このようなことに興味があることをとても感心してくださいました。そしてもう一度一緒に社務所を訪ね、留守と分かると氏子の方を紹介しようか?と、おっしゃってくださいました。しかし、まだ9時前。みなさん、お忙しい時間帯では?と思い遠慮しました。そのお気持ちだけでも嬉しかったですし。

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揖屋神社本殿。しめ縄がとても立派!やはり、それなりの歴史を持つ神社だけあります。

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本殿にある鏡。これとて、太古の昔から今に伝わる貴重な鏡だと思います。

その女性は、「せっかく遠く(名古屋)から来ているのに…」と、神社内を色々案内してくださいました。そして、この神社の由緒が書かれた石碑へと案内し、この神社に祀られている神様のことを説明してくれました。それによると、この神社のご祭神は「伊邪那美命(イザナミノミコト)・大穴牟遅神(オオナムヂノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)・少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)」の四柱の神様です。
ところがこの女性、伊邪那美命・事代主命・少名毘古那神はご存じだったのですが、「大穴牟遅神様という神様は知らないのですよ」とおっしゃいました。そこで私が「大穴牟遅神様は、大国主神様のことですよ。大国様は・・・」と話すと、その方は本当に感心し、「目の前に住んでいるのに知らなかった」ことを恥ずかしがっていました。

私が仕事で名古屋から走って来て、まだ朝食をとっていないと知ったその方は、「ちょっと待ってて」と言い、自宅へ戻り、しばらく待っていると、「おにぎり」を作って私に持たせてくださいました。私は恐縮しながらも、せっかくのご厚意に甘えることにしました。そしてさらに、その方から伺った話で、「黄泉比良坂・伊賦夜坂」も訪れました。

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この坂の奥は、どうなっているのでしょうか?私はまだ死にたくなかったので、足を踏み入れることができませんでした。

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2009年10月10日 (土)

因幡の白ウサギ

 『むかしむかし、出雲の国の八十神(やそがみ)と呼ばれる大国主神の兄弟たちは、稲羽(因幡)の国の八上媛(やがみひめ)という美しい女性を嫁にもらおうと、一同、稲羽の国へ出かけて行きました。
稲羽の気多(けた)という海岸で、毛のない赤っ裸のウサギが伏していました。ウサギは、もと隠岐の島のもので、本土へ渡る手だてがなく、寂しがっていたところ、「いつもそんなところで何をしている」とワニ(サメ)に尋ねられ、「君たちの数を数えていたんだ。僕たちウサギの数とどちらが多いか知りたかったんだ」と言うと、ワニは仲間たちを集め海上に並びました。数を数えると言いながら、本当は数など数えてなくワニの背中をピョンピョンと上手に渡りました。が、本土へ着く寸前、「数なんて数えてなかったのさ」と、だましたことをしゃべってしまい、一番最後のワニに「よくも、だましたな」と、捕らえられ、着物をはがされてしまったのです。

八十神たちは惨めな姿のウサギをからかい、「海水を浴び、風に当たりながら寝ていれば治る」と嘘を教え、その通りにしたウサギはさらにひどい痛みにおんおん泣いてしまいました。最後に通りかかった大穴牟遅神(オオナムヂノミコト;のちの大国主神)は、その様子を見て、ウサギに「どうしたんだい」と尋ね、ウサギの話を聞き、兄・八十神たちのことを詫び、ウサギに「真水で身体を洗い清め、蒲の花の黄色い花粉を敷き散らし、その上を転がり身体にまぶすのです」と、治る方法を教えてあげました。
ウサギは「八上媛はきっと、あなたの嫁になる、とおっしゃるでしょう」と、大国主神に申しました。そしてウサギは、元の白いウサギに戻りました。』 *古事記より引用・要約

 この話は、幼少のころならば誰もが一度は耳にしたことがある「因幡の白ウサギ」。古事記の中の神話、というより「おとぎ話」として覚えています。この話の舞台となった鳥取・白兎(はくと)神社を訪ねてみたことがあります。

鳥取砂丘から国道9号線を西へ10kmあまり行ったところに、夏は海水浴客でにぎわう白兎海岸、その裏側にひっそりと、白兎神社はたたずんでおります。神社の中には、白ウサギが大国主神に教えられて身を洗った「不増不減の池」があります。

海岸には、この神社の由来を知ってかしらずか、大勢の海水浴客が夏のひと時を楽しんでいます。さしずめ、海水浴客が意地悪い八十神で、私は大国主神、というところでしょうか・・・?

その晩、満天の空にいくつもの流れ星を見ました。大国主神や白ウサギが傷心状態でたった一人参拝した私へのお礼に、励ましてくれたのでしょうか?神々とか星とか、人間世界の現実を超越したものを前にして、人間の何という因果な生き物の「くだらなさ」を感じます。

翌日、私は予定コースを変更し、惹かれるように出雲大社へと足を延ばしたのは、言うまでもありません。

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白兎神社についてふれられています。

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白兎神社本殿。ごく普通の神社、と言えばそうなのかもしれませんが・・・。

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白ウサギは、この池で身を洗ったそうです。そのころはもっときれいな水だったでしょう!

*今日の記事は、若かりし頃所属していた旅サークルの会誌に寄稿したものを、一部加筆・修正したものです。盆休みを利用して、1人で山陰地方をドライブした時(1985年)のことです。
 大国主神という名は、実は最初からこの名であったのではありません。のちに須佐之男命(スサノオノミコト)によって名づけられたものです。要約文の中にも書きましたが、このころは大穴牟遅神(オオナムヂノミコト)と名乗っていました。

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2009年8月22日 (土)

日本武尊 白鳥になる

「そこからさらに進んで、能煩野(のぼの)に着いた。そして故郷を偲んで、歌った。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし

(倭はもっとも良い国 青々とした垣のような山にかこまれ 倭はなんと美しい国)

また、こうも歌った。

命の またけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

(生命にみちみちた人よ 倭の国の 平群の山の りっぱな樫の木の葉を 髪飾りにしなさい お前)

この歌は、国思(しの)び歌。またこうも歌った。

はしけやし 我家(わきへ)の方よ 雲居立ちくも

(おおなつかしい わが家の方から 雲が立ち昇って来る)

この歌は、片歌。この歌を歌いながら、危篤状態に陥った。それでもなお、こう歌った。

嬢子(をとめ)の 床のべに わが置きし 剣の太刀 その太刀はや

(姫の床のあたりに わたしが置いて来た太刀 ああ あの太刀は)

歌い終わると、ついに息をひきとった。」(古事記より引用・要約)

これらの言い伝えを残すところが、三重県鈴鹿市と亀山市にあります。

Img057  長瀬神社(三重県鈴鹿市)

  日本武尊御陵道とあります。

  息も絶え絶えにひたすら故郷である倭・纏向(まきむく)を目指していたのでしょう。

Img058  片歌碑

  長瀬神社内にあります。

Img059  片歌碑はどうやら江戸時代に

  建てられたようです。

Img062  能褒野神社(三重県亀山市)

  古事記の中にもこの地名が出てきます。漢字は変わっていますが・・・。

Img063  宮内庁治定の御墓があります。

  それについて説明されてありました。

Img064  御墓への参道です。

  静かな所にあります。

Img065_2  ここが日本武尊御墓

  お参りすることができました。

「日本武尊の死は、早馬により倭へと伝えられた。后や御子たちは伊勢の能煩野へ下り、御陵を作り、そばの田に身を投げ出し泣きながら歌を歌った。そして、日本武尊は大きな白鳥となり空を翔り、海辺に向かって行った。」(古事記より引用・要約)

Img060  加佐登神社(三重県鈴鹿市)

  これも日本武尊像です。

  伊吹山にあるものを

  参考にしたそうです。

Img066  この地にも

  それらしき古墳があるそうです。

Img067  ここから白鳥となって

  飛び立ったのでしょうか?

いかがでしたか?興味・関心のある方にとっては、楽しんでいただけたでしょう。そうではなかった方には、少しは関心を持っていただけたでしょうか?今回は、日本武尊と二人のお妃について書き綴りました。

このカテゴリー「神話の旅」は、またの機会に違う話を書き綴る予定です。さらに古い時代の話、幼い頃に誰もが聞いたことがある話、それらの伝説の地を書いてみようと思います。

次回の旅日記は、5年前ドイツの友人エルマー&アンジュラ宅に1週間ほど滞在した時の「プチホームスティ」を紹介します。

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2009年8月20日 (木)

日本武尊 杖突坂

「玉倉部を出発して当芸野(たぎの)に着いた。”我が心はいつも空を飛んでいた。それなのに今、わが足は動かない。たぎたぎしくなってしまった。”と嘆いた。そこでその地を当芸(たぎ)という。そこからやや行ったところで、とうとう杖をついて歩かねばならなくなった。そこでその地を杖衝坂(つえつきざか)という。

尾津の埼の一本松に着いた。往路で食事をした時、そこに忘れて行った刀があった。そこで歌った。

尾張に ただに向かへる 尾津の埼なる 一つ松 あせを

一つ松 人にありせば 太刀はけましを きぬ着せましを 一つ松 あせを

(尾張の国に真直ぐに向いた 尾津の岬の一本松よ お前 一本松が人であるなら 太刀をはかせようもの 着物を着せようもの 一本松よ お前) 」(古事記より引用・要約)

日本武尊がこの時たどった道は、現在の岐阜県関ヶ原町から養老町、そして三重県桑名市へ至る国道沿いあたりであろうと推測できます。私にとっては、準地元と言えるほど近いところです。当芸野という地名は残念ながら見つかりませんでした。

Img051  杖突坂伝承地です

  岐阜県南濃町行基寺参道入り口

Img052  太刀の伝説が残る尾津神社

  三重県多度町(現;桑名市)

「三重の村に着いた。そして言った。”わが足は、三重の勾(まがり)の様だ。疲れた。”そこでその地を三重という。」(古事記より引用・要約)

これが三重県の名の由来であることは、誰もが想像するに難しくないでしょう。日本武尊の苦悩、それが現代に至るまで地名として残ることを、その時の尊は想像できたでしょうか?

この辺りでは日本武尊は、本当に杖を衝かなければ歩けなかったのでしょう。三重県四日市市にも「杖衝坂」と呼ばれるところがあります。そして坂を登りきったところには「御血塚」が残っています。尊はここで血を吐いたと云われています。

Img054  四日市市采女に残る

  杖衝坂伝承地

Img053  坂の向こうに

  御血塚が見えます

Img055  御血塚。

  奥に石碑があります。

日本武尊は、この後いよいよ、最期の時を迎えます。そこはどんなところなのでしょうか?そして何が残されているのでしょうか?

* 杖突坂と杖衝坂、どちらも「つえつきざか」と読みます。石碑に書かれていた文字の通りに表記しました。

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2009年8月18日 (火)

日本武尊 伊服岐の山

「伊服岐(いぶき)の山に着いた日本武尊は、”この山の神は素手で討ち取る”と豪語し、山に登った。山道で白い猪に出会った。”この猪は、山の神の使いだろう。今は殺さずとも帰りに殺してやる。”と言いながら登った。しかしこれが、山の神の怒りを買った。白い猪は、山の神の化身だったのだ。神は怒って氷雨(雹;ひょう)を降らせ、日本武尊はヘトヘトになった。山から降りて、玉倉部の清水で一休みした。ようやく醒めたような気持ちになれた。そこでその清水を、居醒の清水という。」(古事記より引用・要約)

日本武尊は、大きな失敗、取り返しのつかない失敗をしてしまいました。伊勢の斎宮・倭比売から頂いた草薙の剣を手放して行ったことが、慢心だったのでは?と思わざるを得ません。あの剣は日本武尊にとって、東征で何度も窮地を乗り越えた「神刀」だったはず。

伊服岐の山、現在の伊吹山は、東海地方の人々にとっては、とてもなじみ深い山である。ドライブウェイで山頂付近まで気軽に行くことができます。私も友人や、時には両親と何度も行ったことがあります。一度だけ、ドライブウェイではなく登山道を登って行ったことがあります。12月初旬でしたが、山の南側から登る登山道は、冬とはいえ陽射しもきつく、半袖Tシャツ1枚になって登りました。

頂上には「日本武尊」像があります。そのすぐそばで、私は昼食を作り始めました。ドライブウェイが完備されているところですから、レストランなど食事処もあるのですが、やはり山登りの時は自分で作ります。この日はチキンラーメンに中華丼の具をかけて食べてみました。長崎の「皿うどん」のようにならないかなー?と思ったのですが、チキンラーメンの味が強かったです。お湯で温めるだけのチキンハンバーグも。匂いにつられたのか、小さな子供が指をくわえて見ていました。

Img049  岐阜・滋賀県境に位置する伊吹山

  登山道を登っていきました。

Img050  伊吹山頂上にある「日本武尊」像。

  なんとなくイメージが違う・・・

玉倉部の清水は、麓近くにあります。とても美味しい水で、地元の方々はよく汲みに来るそうです。ただ、もう1か所、その伝説を残すところがあります。滋賀県側の米原市醒ヶ井です。醒ヶ井へも訪れたことがあります。ここは鈴鹿山脈・霊仙山(りょうぜんさん)の登山口でもあり、実際に登ったことがあります。そのとき私は日本武尊のように、頂上では数メートル先が見えないほどの霧に覆われ、ゴールデンウィークなのに霙(みぞれ)が降ってきました。もし他の登山者がいなかったら、下山道を見失っていたかもしれません。下山すると、嘘のように良い天気でした。

ここ醒ヶ井は、養鱒場としても有名です。小川を覗くと清流の中にたくさんの鱒が泳いでいます。そして鱒料理のフルコースを頂くこともできます。お刺身、フライ、塩焼き・・・あと何があったかなー?とても美味しかったです。

ただ、日本武尊が辿ったその後のルートを調べると、滋賀県側へ行ったというのは、どうにも信じ難いです。古事記によると、日本武尊は岐阜・三重県境を通っているはずですから。

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2009年8月15日 (土)

日本武尊 再び尾張の国へ

日本武尊は甲斐の国、科野(しなの)の国を越え、尾張の国まで来たところ、信じられない知らせを聞いた。副将軍として同行し、帰路は古東海道を帰っていた建稲種命(たけいなだねのみこと)が、駿河の海で水死したという。日本武尊は「ああ うつつかな (ああ、本当かな)」と嘆いたそうだ。そこでその地を内津、現在の愛知県春日井市内津(うっつ、又は、うつつ)という。

建稲種命は古事記の中ではまったく記述がありません。それでも調べて行くうちに、このようなことが分かりました。もしかしたら「日本書紀」には出ているのかな?

Img026  内津神社

  愛知・岐阜県境近くにあります。

Img025  建稲種命の死を知った日本武尊の様子が

  書かれていました。

「そして日本武尊は、かねてから婚約していた宮簀媛の許へ寄った。饗宴が開かれ、宮簀媛は大酒盞(おおさかずき)を捧げた。二人は結婚した。日本武尊は草薙の剣を宮簀媛の許に置いて、伊服岐(いぶき)の山の神を退治しに出かけた。」(古事記より引用・要約)

現在、この地で日本武尊と宮簀媛といえば、もちろん「熱田神宮」。草薙の剣も、ここ熱田神宮に納められています。しかし、その頃から既に存在していたのではありません。この後に遷(うつ)されたと云われています。では、その前身となるところは・・・、前に書きました「氷上姉子神社」です。

氷上姉子神社では毎年3月最終日曜日に「太々神楽」が奉納されます。とても厳かな儀式でした。

Img036  二人の巫女さんが

  出て参りました。

Img037  本殿に向かい

  深々と一礼します。

Img038  シャンシャンと鳴らしながら

  舞を舞います。

Img039  静かに舞い続けます。

  緊張感が伝わってきます。

Img048  舞が終わります。

  3回ほど、舞いました。

カワイイ巫女さんの舞の次は、神楽師の奉納です。面をかぶった滑稽な動きの舞もありました。これには宮簀媛もきっと大満足で、お笑いになられていることでしょう。

Img040  神楽師が登場。

  まず、本殿に一礼します。

Img041  蹲踞の姿勢から、

  どんな舞を披露するのでしょうか?

Img042  力の入った

  男性らしい舞です。

Img043  追儺の舞

  何やら滑稽な動きもありました。

Img044_3  お囃子にのせて

  舞い続けます。

Img047  違う面をつけて、

  高笑い・・・?でしょうか?

Img045  神楽師と共に巫女さんが

  どんな舞を奉納するのでしょう?

Img046  静かでで厳かに

  舞は続けられました。

氷上姉子神社では、このような神楽がご祭神・宮簀媛命に御奉納されます。滅多に見られないものだけに、とても良い機会でした。これも、日本の伝統芸能、いつまでも残していってほしいものです。

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2009年8月13日 (木)

日本武尊と弟橘姫 入海神社

日本武尊のお妃として東国遠征に同行した弟橘姫。走水の海で夫である日本武尊の武運を案じ、自らの身を尊(みこと)に代わり海神に捧げました。その後、関東一円にこれにまつわる地名などが多く残っていることから、当時の日本武尊の悲しみの深さを窺い知ることができます。

では、弟橘姫の故郷、尾張の国緒川はどうだったのでしょうか?実はこの地にも、信じ難い不思議な話(現実的には、決してあり得ないだろう出来事)が伝説として残っています。それは・・・、この地にも「姫の櫛が流れ着いた」そうです。姫の故郷への想いが愛用の櫛に伝わって、この地へ流れたどり着いたのでしょう。

事実かどうかは別にして、私はこの話、信じたいです。いにしえの時代のロマン・・・、ファンタスティック!です。だからこそ、古事記は面白いし、古の人々の豊かな想像力に脱帽!です。現在、この地には「入海神社」があります。この名の由来は、もう言うまでもないでしょう!まさに、そのまま!です。

愛知県知多郡東浦町緒川に入海神社があります。ご祭神は弟橘姫一神だけです。日本武尊は、残念ながら祀られていません。日本全国、数多く神社はありますが、弟橘姫一神だけを祀る神社は唯一ここだけです。また、弟橘姫の父、忍山宿禰は姫の死を彼の死後も嘆き悲しみ、墳墓から「泣き声がした」と言い伝えられています。参道には「夜泣き石」が今も残っています。

Img001  入海神社の鳥居

  石段を登り境内へ行きます。

Img004  入海神社本殿。

  弟橘姫の木彫り像が祀られています。

Img003  弟橘姫の辞世歌碑。

  この地にも当然ありました。

  姫を偲ぶ人々の心が

  伝わってきます。

ここ入海神社では、毎年10月に「駆馬(おまんと)神事」が行われます。悲運の死を遂げた姫を慰めるには、うってつけの勇壮なお祭りです。

Img006  入海神社の神事の前、

  出番を待つお馬さんたち。

Img007  祭りは、勢いよく走る馬と共に

  若者が一緒に走ります。

Img010  簡単そうで難しいようです。

  馬のスピードについて行けない若者も…でも、みんな頑張っています。

  昔から伝わる伝統のお祭り・・・

  誰もが真剣でした。

Img011  とにかく必死です。

  何とか一緒に走るゾ!と。

Img013  本殿では、可愛い子供が

  舞いを披露していました。

弟橘姫、ご存じの方はもちろん、そうでなかった方は今後、ぜひ心に留めていただきたい古代史のヒロインです。私の部屋には、走水神社のレリーフの写真(昨日ブログ記事に掲載)を引き伸ばし飾って、毎朝その辞世歌を唱え「今日も1日無事過ごすことができますように」と、お祈りしています。そしていつも、弟橘姫のご加護を得て、日々を過ごしています。

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2009年8月12日 (水)

日本武尊と弟橘姫 東国遠征

「相模の国に着いた。その国造に欺かれた。”この野の中に沼があります。その沼に住む神は、大変凶暴な神です”。その神を見ようと日本武尊は野の中に入ると、国造は野に火を放った。たちまち火に囲まれた一行。日本武尊は叔母の倭比売からもらった袋を開けると、火打石が入っていた。まず剣で草を薙ぎ払い火打石で草に火をつけた。風が向かい火となり、火勢は向こうへと押し寄せた。その間に脱出し、そして国造を斬り殺し、その場で死体に火をつけて焼いた。そこで、その地を焼津という。」(古事記より引用・要約)

現在の静岡県焼津の地名の由来です。しかし、その頃は静岡近辺も相模の国だったのでしょうか?また、日本武尊が持っていた剣、倭比売からいただいた天叢雲剣ですが、この時以来、「草薙(くさなぎ)の剣」と呼ぶようになりました。静岡には実際に「草薙」という地名も残っています。

「さらに東へ行き、走水(はしりみず)の海を渡ろうとした。わだつみの神が波を立て一行の船は波に翻弄され進むことができない。そこで同行しているお妃の弟橘姫が、”これは海神(わだつみ)の仕業でしょう。私が海に入ってなだめて参ります。どうか御子はお役目を立派にお果たしなさいませ”と言って、菅畳八枚、皮畳八枚、絹畳八枚を波の上に敷き、その上に降りた。そのときに弟橘姫が詠った歌、

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

(相模の野原に 燃え立つ火の中で 私を心配して下さいました あなたを今も 忘れられないのです)

弟橘姫が海に沈むと、やがて荒波は鎮まり、船は進んで、無事上総の国に着いた。七日後、弟橘姫の櫛が海岸に漂着した。その櫛を取り、陵(みささぎ)を作り、中におさめた。」(古事記より引用・要約)

弟橘姫はどのような気持ちで、海に身を投じたのでしょうか?御子のお妃として、妻として、夫である日本武尊が、「立派に役目を果たして都へ帰ってほしい」、という気持ちだったのでしょうか?今の時代に弟橘姫のような女性はいるのでしょうか?この弟橘姫の献身的な愛情に心を打たれ、私はずいぶん前ですが、一度だけ走水(現;神奈川県横須賀市走水)を訪れました。

当時はカーナビなどあるはずもなく、大雑把な道路地図しか持ってなくて、走水神社の場所は全く分かりません。それでも、とにかく横須賀市へと向かい、海沿いの国道を走り、走水へ着きました。しかし、国道沿いを走っても神社は見つからず、やがて走水から外れてしまい、Uターンして、走って来た道を戻りました。そしてふと左折できる道を見つけ、左へハンドルを切ると・・・、正面に見えたのは、神社の鳥居!

「エッ?ま・まさか・・・?!もしかしたら、導かれたのかな・・・?」

この地へ来て見つけられずに居る私を見て、きっと「助けてくれた」のだと思います、思いたいです。この時、私の古くからの旅仲間(当時、横浜在住)が一緒だったのですが、彼も「きっと、そうだよ。導かれたんだよ」と話していました。私はここで「お守り」と「辞世歌の色紙」を買い求め、それらは今でも私の部屋で、私を日々見守ってくれています。

Img014_2  走水神社。ご祭神はもちろん、

  日本武尊と弟橘姫です。

Img015_2  走水神社の由緒が書かれています。

  近代になってからの意外な事実も・・・。

Img017  弟橘姫、入水時のレリーフ。

  もちろん想像図でしょうが・・・。

  こんな感じで海に入ったのでしょうか?

  姫の気持ちが偲ばれます。

Img020  入水時の辞世歌の碑。

  「さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」

  明治末期、東郷元帥、乃木大将らによって建立されたそうです。日清、日露と海での戦いを制した男たち、解かる気がします。

Img019  神社から見た走水の海。

  古の時代、この海に弟橘姫は・・・(泣)。

私はさらに、たまたま仕事で行く機会を得て、千葉県内を訪れました。あいにくの天気でしたが、その際にもゆかりの地を訪ねてみました。

Img021_2  茂原市本納にある橘神社。

  名前からして、想像できますよネ。

Img022_2  弟橘姫御陵墓と伝えられています。

  傷心の思いで、日本武尊はここに

  姫の陵を作ったのでしょう。

  訪れることができ、感激です。

日本武尊はその後も、荒ぶる蝦夷(えみし)を服従させ、山河の荒ぶる神々を平定していった。しかし、夜になると自分のために海神に身を捧げた弟橘姫を、哀れみ懐かしみ、「あづまはや」と何度も嘆き悲しんだそうです。それ故、東国つまり「東」を「あずま」とも読むようになったそうです。「橘」とか「吾妻」という地名があれば、その由来はここから来ているものだと考えられます。また、これらの名がつく神社も、そのご祭神は「日本武尊」と「弟橘姫」だと考えてよいと思います。

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