2012年7月26日 (木)

(再掲)素顔のバンコク見聞録 最終回

気がかり

それぞれ自由行動するとき、俺はカトマンドゥまでのチケット の情報を仕入れるため、あちこちの旅行代理店を回った。我々が泊まっているプライバシー・ホテル 近辺は、安宿が多いせいか、バックパッカーも多く、格安チケットを扱う店も多数ある。そんな中で、カトマンドゥまで片道$160(≒25000円)という店を見つけた

しかし、予約はしなかった。日本を出る前の父の体のことが気になっていたからだ 。ここバンコクからなら、電話連絡も取りやすいが、ネパールへ入るとなると、通信事情は悪くなるし、すぐには帰ることができないからだ。

バンコク2日目(3/2)の午後、自宅へ電話 してみたが、留守だった 。夕方再度してみたが、同じ。その翌日(3/3)も、旅行代理店を回り、街の中をぶらぶらしながら、電話局へ行き、自宅へ電話する。午後4時と言えば、日本なら午後6時。「いくらなんでもいるだろう」と思ったのだが、またしても留守 。いやな予感がする

帰国を決意

4日目(3/4)は、高田さんらと共に貸し切りボート で運河巡り。その後、今度こそは ?と思いながら、自宅へ電話 する。日本時間なら午後6~7時。夕食時の頃だ。しかし・・・、またしても・・・ 「何かあったに違いない 。父が入院したのでは・・・?3日も続けて連絡 取れないなんて、あまりにもおかしい 」。父が入院しているような時に、好き勝手に海外を放浪しているとなると、姉や兄はもちろん、親戚に何を言われるか、想像するに難しくない 。俺は帰国を決意した

5日目(3/5)、パキスタン航空 のオフィスへ行く。日本へは週2便だけ。次の便は3月7日午前1:55、つまり明日の深夜過ぎである。予約を取ろうとするが、キャンセル待ちである 。この時期の日本は、学生の休みと重なることもあり、チケットが安いパキスタン航空は、アジアはもちろん南回りでヨーロッパ方面へ行く学生たちにも、よく利用される。

6日目(3/6)、再度パキスタン航空へ。「父が入院したから、どうしても帰らなければならない」と嘘(?本当かも?) を言って、緊急事態であることを伝えると、RQ(キャンセル待ち)のサインを頂き、「空港でトライしてみなさい」とのことだ ガンバ 。

帰国へ

到着時に知り合った高池君と瀬戸口君は、すでに次の目的地へ旅立っていた。高田さんに「乗れるかどうか分からないけど、とにかく行きます。もし乗れなかったら、明日の朝ここへ戻ってきます」と、一応別れを告げた

少しだけ買い物をし夕方、トクトクに乗ってフォアランポン(バンコク中央)駅へ。17:15の列車 に乗る。迎えに座った小さな子供連れの女性がふいに「日本人ですか?」と、たどたどしい日本語で話しかけてきた オォーッ 。驚いて話をすると、その方のおばあさんが日本人だそうで、今も大阪に住んでいるそうだ。日本へも行ったことがあるそうだが、もうずいぶん前のことらしい。それでも少しは日本語を覚えているのが、素晴らしい

その女性が「日本にマンゴーはありますか?」と訊ねるので、「いえ、日本にはほとんどないです。(*今でこそ沖縄どころか九州でも栽培していますが、その頃はマンゴーが市場に出回ることはなかった。)」と答えると、買い物袋からマンゴーを取り出し「どうぞ 」とプレゼントしてくれた 。しかし、「どうやって食べようか?」と考えていると、「そのまま食べればいいですよ」と言う。「エッ?」と思いつつも、マンゴーをそのまま丸かじりした。ジューシーで甘く、とてもおいしいマンゴーだった

43
トクトクの中から。道は車でいっぱいです

44
バンコク中央駅

50_6
列車から見た風景 お寺かな・・・?

ドンムアン駅(空港駅)で降り、空港内へ。チェックインまで、まだかなりの時間がある。コーヒー を飲みながら休んでいると、2人の日本人男性(山崎さん、高岡さん)と出会った。彼らはバンコクからシンガポールまで、マレー半島を自転車 で旅したそうだ。彼らに事情を話しキャンセル待ちだということを説明すると、「3人で一緒にチェックインしてみれば?自分たちは予約取れてるから、まさか一人だけキャンセル待ちとは思わないだろうし 」と、提案してくれた 。そして、俺のチケットを下にして3人まとめてチェックイン。彼らの言う通り、搭乗券が発行され、大成功 彼らに感謝 しながら、最後に一緒にビール で乾杯した。

52
バンコクよ、サヨナラー ありがとう!楽しかったヨー

最後に

3月7日昼ごろ、1週間ぶりの日本。誰がこんなに早く帰ってくることを予想しただろうか?ネパール、チベットは当分お預けになってしまった。

ほんのわずかの滞在だったバンコク。でも本当に面白かった 。屋台のおっちゃん、おばちゃん、英語が全く通じないトクトクの兄ちゃん。汽車の中でマンゴーをくれた子連れのお母さん。そして’天使’。皆それぞれ一人の異邦人の旅の演出をしてくれた。そしてバンコクの街で、力強く生きてゆくのでしょう!再びバンコクの街を訪れることができるのなら、あの界隈をもう一度歩いてみたいものだ。

3月7日帰国。日本は雪国 であった。

*後日談ですが、連絡 がとれなかったのは、「病院 の帰りに映画 を見てきた」ことと、私の旅に合わせ、「親戚と一緒に旅行していた」ためで、父の体調に関しては、何の問題もありませんでした

カテゴリー 「1987 バンコク」 完

*この旅日記は、1987年の時のものです。

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2012年7月25日 (水)

(再掲)素顔のバンコク見聞録 その4

夜の天使

バンコクと言えば、今や東南アジア随一の夜 の歓楽街 。夜、外で飲んでいると、必ずや若き娼婦 たちが出没する。が、あえて彼女たちを娼婦だとか売春婦と呼びたくない 。素顔は、心優しく、かつ、たくましい女性なのである

バンコク初日の夜 、空港で知り合った旅人同士4人で、ホテル近くのパブで飲んでいた 。そこに現れたのが、ポルという名の女の子 。彼女は我々にビールをついでくれたり、つかの間ホステスのようになっていた。

05
バンコク初日の夜。右がポルさんです。つい浮かれて、こんな写真・・・!

我々、時には一人で飲みに行ったこともあったが、彼女 とは、飲みに出るたびに、店を変えてもなぜか顔を合わせていた 。どうやら彼女は、この辺りの店へは、自由に出入りすることができ ナァーンダ!、そして夜の相手を探しているようだ。

我々も彼女とはすっかり話がしやすくなって、ある夜、かなり突っ込んだ話をしてみた 。そして我々は、アッ と驚く彼女らの意外な一面を知った ナニーッ 。

A:君、毎晩(男と)寝てるの

P:うん、だいたい… 。でも最近はちょっと… 。エイズの影響かな

B:君、エイズなの?

P:まさか!違うわヨ

A:一晩、いくら稼ぐの

P:4時間で500バーツ。

A:500パーツか。3000円ぐらい。

C:でも、ここの物価だと、かなりの大金 だよ。

D:日本の2~3万円に値するなー。で、お金貯めてどうするの?

P:家族に仕送りするの。

皆:エーッ

D:仕送りって?故郷はどこ?バンコクじゃないの?

P:ラオスに近い所。お母さんや妹たちに仕送りしないとね

C:今いくつなの?

P:25才。

D:俺と同じだ。もっと若く見えたけどなー!

B:稼いだお金は、ほとんど送っちゃうの?

P:ううん、私の生活費と、いつかスイスに行きたいから、少しずつ貯金してる。

A:日本は

P:日本は寒いわ 。それに物価も高いし・・・ 。そろそろ帰るワ!それじゃ、お休み!

と、こんな会話をしながら、彼女は再び夜 の街へ出て、別の店へ男を探し求めに行ったのだろう。それにしても、故郷に残る家族のために、都会へ一人で出て来て、まさに体を張って夜の街をさまよう彼女たち。悲しいことなのだが、彼女らのポリシーは、こちらの国の現状を考えると、当然のことなのかもしれない

決してすべてがそうだとは思わないが、彼女たちの生き様を知って、こちらの方の国々に生まれ住む人々の現実を知る 。そして、優しさ、たくましさを知った。彼女たちは「夜の天使 」だ

38
相変わらず・・・です。どうにも困った「呑んべい」です。

*この旅日記は、1987年の時のものです。

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2012年7月24日 (火)

(再掲)素顔のバンコク見聞録 その3

高田さんとバス に乗って王宮方面へと出かける。黄金に輝く寺院。天気 が良ければ、キラキラ 輝いて、さぞかし綺麗だろう。

06
黄金の屋根の寺院。バンコクの象徴。

高田さんが昨日知り合ったというデビッドとマイケルに会う。バンコクには多くの運河が流れている。そこで4人で運河をボート を貸し切りで周って見た。

大きなチャオプラヤ(メナム)川より、小さな運河へ入って行く。すると、タイの普通の人々の生活が、目に飛び込んできた 。運河の上に家 が建ち並び、運河へは階段で降りられる。ここに住む人々の生活の足は、ボート なのだ。そして運河自体、ここでは道路なのである。

運河の脇では、洗濯をする婦人、食器を洗うおばあさん。水浴びする子供たち、見守っているお父さん、のんびり談笑する男たち。ボートに日用品や野菜、フルーツ、おやつを乗せて行商するおじさん。手をふると皆、屈託のない笑顔で答えてくれる 。子供たちは、なんて可愛いのだろう

今や400万人都市となったバンコクの庶民の素顔を見た。そんな気がした

11_01
ボート乗り場を出発。たくさんのボートが観光客を待っている。

12_02
チャオプラヤ川、広いです。日本ではメナム川と呼んでいます。

17_07
庶民の生活が垣間見えます。いつも歩いているところとは違う・・・

18_08
洗濯しているのでしょうか?「何見てんだよ」とでも言いたげ・・・

21_11
何をしているのかな?でも、なんか微笑ましい!

22_12
お姉ちゃんと幼い子供 !手を振ったら、応えてくれました。カワイイ!

28_18
彼らにとって、運河は道路、ボートは車、なのでしょう。

31_21
ボートで行商するおじさん。おやつを売っていました。

32_22
古タイヤが浮き袋。川が庭の、元気な子供たちです

*この旅日記は、1987年の時のものです。

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2012年7月19日 (木)

(再掲)素顔のバンコク見聞録 その2

拠点はプライバシー・ホテル

3月1日の朝を迎える。昨夜 遅かったので、のんびりと起きる。俺は現在地の確認のため、地図を持ってホテル の近くを歩いてみた。そして、通りの名前が分かり、現在地を特定 。皆で相談し 、ガイドブックに載っている他の安宿へと向かうことにする。

02
朝、ホテルから外を眺める 。その後、現在地を確認

4人で歩く こと、約30分、プライバシー・ホテル に到着。2組に分かれツインをシェアすることにし、1人210バーツ。昨夜のホテルに比べ、4割安い 。安宿と言っても、エアコンもあるしバス・トイレ付の部屋だ 。これなら文句はない 。皆も納得していた

この日は、皆からの提案 もあり、一応2度目の海外、バンコクも先回立ち寄っている俺がリーダーとなり、皆と共にバンコクの街を歩いた 。ラマ4世通りを歩き、駅周辺や、チャオプラヤ川あたり、道端のフルーツ屋などにも目を向けたりしていた

夕食は、ホテル近くの店へ行く。子豚 の丸焼きがある。4人でなら食べられそうなので、食べてみると、何とも美味しい 。上質のハムという感じだ。そして、その後は飲み屋 へ。水割りなどで乾杯する。明日からは、プライバシー・ホテル を拠点に、それぞれが自由に楽しむことにする。

街の様子

バンコクの街、一言で言うと、メチャクチャ !道路はバス 、自動車 、トラック、バイク、トクトクというオート三輪タクシーが、ところ狭しと騒音けたたましく走っている 。バスもタクシーも、クラクションをぶーぶー鳴らし、ぶっ飛ばしている。急ブレーキ踏まれて怒っていたら、キリがない

42
街を走るトクトク。料金交渉制のタクシーです。

40
大判焼き(王将焼き、今川焼とも言う)屋。まさかバンコクにこんなものがあるとは・・・

歩道もまた、露店や屋台であふれている。フルーツや揚げ物、串焼き、大判焼きの屋台まである 。昼になると、そこら中の店は、昼食の人々でごった返す。タイ料理はたいていのものは辛い。バーミーナム(ラーメンに似ている)とかミーパット(焼き飯)は、我々にもなじめる味で、10~15バーツ。1パーツが約6円程度なので、1食当たり100円ぐらいですむ。これは大変大きな魅力だ

10
美味しそうなフルーツがいっぱい。もう、たまりません

それにしても、これだけ屋台が氾濫していると、どちらかと言えば間食の方が多くなってしまう。特に串焼き(豚だと思う)は、お気に入り だ。でも、今の日本では、お祭り以外ではなかなか味わえない楽しみだ。

*この旅日記は、1987年の時のものです。

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2012年7月18日 (水)

(再掲)素顔のバンコク見聞録 その1

はじめに

1987年3月、2年半ぶりに海外へ旅立った 。目標はネパール・エヴェレストトレッキングとチベットだったのだが、事情によりわずか1週間でバンコクより緊急帰国 。でも、それなりに面白かったバンコクの街 、ほんの少し垣間見たバンコクの素顔を紹介してみたい。

バンコク到着まで

俺がネパール・チベットへの旅を決断してから、父の体調がおかしくなった 。キャンセル料も覚悟の上で、延期するか中止しようかとも考えたが 、父の「心配せんでもいい」の言葉で、気がかりではあるものの、出発することにした。

2月27日、横浜の旅仲間宅にて1泊お世話になる。彼は2年前にインドからネパール、チベットを経て中国を旅している。そこで彼に話を聞いたり、何かアドバイスをしてもらいたかったからだ。

2月28日、横浜から成田へと向かう。成田へは午後1時に到着。チェックインまでは、まだ1時間ほどあった。今回も前回同様、パキスタン航空 利用だ。ただし、チケットはバンコクまでしか買っていない。そこから先は、バンコクで手配するつもりだ。その方が日本で買うより安くすむし、前回あまり周れなかったバンコクの街を、のんびり歩いてみたかった。

チェックインを済ませ、待合ロビーで同じ便に乗る人と話をする。彼(高田さん)は、初めての海外で 、同じ飛行機でバンコクまで。そしてホテル は決めていないと言う。俺もホテルは決めていなかったので、彼に「バンコクへ着いたら街までタクシー を相乗りしましょう」と提案すると、彼も賛成してくれた。

パキスタン航空763便は定刻の16:00、成田を飛び立った。途中マニラ経由だが、バンコクへは2時間遅れの現地時間の夜中の12:00 に到着した。

01
飛行機から見る雲海。一度は撮りたくなるものです 。

入国手続きを済ませ、成田で会った高田さんと合流。彼はもう一人瀬戸口君という男性を連れて来た。彼も泊まるところは決めていないらしい。すると、瀬戸口君は、「もう一人、同じような人がいましたよ」と言って、その男、高池君を探し連れて来た。

泊まるところを決めていない4人でタクシーを相乗りして街まで行くことにする。1人で行くよりは安心だし、タクシー代も割り勘すれば安くなる 。訊いてみると、俺以外は皆、初めての海外旅行らしい。

タクシーの運転手は、空港での交渉時「300バーツ」と言っていたのだが、途中で「高速道路に乗るから、もう100パーツ出せ」と言ってきた。俺はすかさず「サムロイ(300)パーツって言っただろ 」と、タイ語を交えて猛抗議!すると、運転手は料金の釣り上げをあきらめた。ただひとつ心配だったのは、「安いホテルへ」と運転手任せにしていたので、「どこへ連れて行かれるのか?妙な所へは連れて行かないだろうな?」ということだ。しかし、こちらも4人いる。”いざ”となれば「4人いるから、何とかなるだろう」と、皆で話していた。

到着したホテルは、マイアミホテルというところだった。夜中なので、バンコクのどのあたりなのかもわからないが、料金を訊くと1人350バーツ。俺は「やや高い」と思ったのだが、もうすでに2時近い。日本時間で午前4時だ。皆で「一人でタクシーに乗ったと思えば、その分安く済んだわけだし、今日はここで我慢しよう」ということにした。

*この旅日記は、1987年の時のものです。

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2009年8月 8日 (土)

素顔のバンコク見聞録 最終回

気がかり

それぞれ自由行動するとき、俺はカトマンドゥまでのチケット の情報を仕入れるため、あちこちの旅行代理店を回った。我々が泊まっているプライバシー・ホテル 近辺は、安宿が多いせいか、バックパッカーも多く、格安チケットを扱う店も多数ある。そんな中で、カトマンドゥまで片道$160(≒25000円)という店を見つけた

しかし、予約はしなかった。日本を出る前の父の体のことが気になっていたからだ 。ここバンコクからなら、電話連絡も取りやすいが、ネパールへ入るとなると、通信事情は悪くなるし、すぐには帰ることができないからだ。

バンコク2日目(3/2)の午後、自宅へ電話 してみたが、留守だった 。夕方再度してみたが、同じ。その翌日(3/3)も、旅行代理店を回り、街の中をぶらぶらしながら、電話局へ行き、自宅へ電話する。午後4時と言えば、日本なら午後6時。「いくらなんでもいるだろう」と思ったのだが、またしても留守 。いやな予感がする

帰国を決意

4日目(3/4)は、高田さんらと共に貸し切りボート で運河巡り。その後、今度こそは ?と思いながら、自宅へ電話 する。日本時間なら午後6~7時。夕食時の頃だ。しかし・・・、またしても・・・ 「何かあったに違いない 。父が入院したのでは・・・?3日も続けて連絡 取れないなんて、あまりにもおかしい 」。父が入院しているような時に、好き勝手に海外を放浪しているとなると、姉や兄はもちろん、親戚に何を言われるか、想像するに難しくない 。俺は帰国を決意した

5日目(3/5)、パキスタン航空 のオフィスへ行く。日本へは週2便だけ。次の便は3月7日午前1:55、つまり明日の深夜過ぎである。予約を取ろうとするが、キャンセル待ちである 。この時期の日本は、学生の休みと重なることもあり、チケットが安いパキスタン航空は、アジアはもちろん南回りでヨーロッパ方面へ行く学生たちにも、よく利用される。

6日目(3/6)、再度パキスタン航空へ。「父が入院したから、どうしても帰らなければならない」と嘘(?本当かも?) を言って、緊急事態であることを伝えると、RQ(キャンセル待ち)のサインを頂き、「空港でトライしてみなさい」とのことだ ガンバ 。

帰国へ

到着時に知り合った高池君と瀬戸口君は、すでに次の目的地へ旅立っていた。高田さんに「乗れるかどうか分からないけど、とにかく行きます。もし乗れなかったら、明日の朝ここへ戻ってきます」と、一応別れを告げた

少しだけ買い物をし夕方、トクトクに乗ってフォアランポン(バンコク中央)駅へ。17:15の列車 に乗る。迎えに座った小さな子供連れの女性がふいに「日本人ですか?」と、たどたどしい日本語で話しかけてきた オォーッ 。驚いて話をすると、その方のおばあさんが日本人だそうで、今も大阪に住んでいるそうだ。日本へも行ったことがあるそうだが、もうずいぶん前のことらしい。それでも少しは日本語を覚えているのが、素晴らしい

その女性が「日本にマンゴーはありますか?」と訊ねるので、「いえ、日本にはほとんどないです。(*今でこそ沖縄どころか九州でも栽培していますが、その頃はマンゴーが市場に出回ることはなかった。)」と答えると、買い物袋からマンゴーを取り出し「どうぞ 」とプレゼントしてくれた 。しかし、「どうやって食べようか?」と考えていると、「そのまま食べればいいですよ」と言う。「エッ?」と思いつつも、マンゴーをそのまま丸かじりした。ジューシーで甘く、とてもおいしいマンゴーだった

43  トクトクの中から

  道は車でいっぱいです

44

 バンコク中央駅

50_6  列車から見た風景

  お寺かな・・・?

ドンムアン駅(空港駅)で降り、空港内へ。チェックインまで、まだかなりの時間がある。コーヒー を飲みながら休んでいると、2人の日本人男性(山崎さん、高岡さん)と出会った。彼らはバンコクからシンガポールまで、マレー半島を自転車 で旅したそうだ。彼らに事情を話しキャンセル待ちだということを説明すると、「3人で一緒にチェックインしてみれば?自分たちは予約取れてるから、まさか一人だけキャンセル待ちとは思わないだろうし 」と、提案してくれた 。そして、俺のチケットを下にして3人まとめてチェックイン。彼らの言う通り、搭乗券が発行され、大成功 彼らに感謝 しながら、最後に一緒にビール で乾杯した。

52  バンコクよ、サヨナラー

  ありがとう!楽しかったヨー

最後に

3月7日昼ごろ、1週間ぶりの日本。誰がこんなに早く帰ってくることを予想しただろうか?ネパール、チベットは当分お預けになってしまった。

ほんのわずかの滞在だったバンコク。でも本当に面白かった 。屋台のおっちゃん、おばちゃん、英語が全く通じないトクトクの兄ちゃん。汽車の中でマンゴーをくれた子連れのお母さん。そして’天使’。皆それぞれ一人の異邦人の旅の演出をしてくれた。そしてバンコクの街で、力強く生きてゆくのでしょう!再びバンコクの街を訪れることができるのなら、あの界隈をもう一度歩いてみたいものだ。

3月7日帰国。日本は雪国 であった。

*後日談ですが、連絡 がとれなかったのは、「病院 の帰りに映画 を見てきた」ことと、私の旅に合わせ、「親戚と一緒に旅行していた」ためで、父の体調に関しては、何の問題もありませんでした

カテゴリー 「1987 バンコク」 完

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2009年8月 6日 (木)

素顔のバンコク見聞録 その4

夜の天使

バンコクと言えば、今や東南アジア随一の夜 の歓楽街 。夜、外で飲んでいると、必ずや若き娼婦 たちが出没する。が、あえて彼女たちを娼婦だとか売春婦と呼びたくない 。素顔は、心優しく、かつ、たくましい女性なのである

バンコク初日の夜 、空港で知り合った旅人同士4人で、ホテル近くのパブで飲んでいた 。そこに現れたのが、ポルという名の女の子 。彼女は我々にビールをついでくれたり、つかの間ホステスのようになっていた。

05  バンコク初日の夜。右がポルさんです。

  つい浮かれて、こんな写真・・・!

我々、時には一人で飲みに行ったこともあったが、彼女 とは、飲みに出るたびに、店を変えてもなぜか顔を合わせていた 。どうやら彼女は、この辺りの店へは、自由に出入りすることができ ナァーンダ!、そして夜の相手を探しているようだ。

我々も彼女とはすっかり話がしやすくなって、ある夜、かなり突っ込んだ話をしてみた 。そして我々は、アッ と驚く彼女らの意外な一面を知った ナニーッ 。

A:君、毎晩(男と)寝てるの

P:うん、だいたい… 。でも最近はちょっと… 。エイズの影響かな

B:君、エイズなの?

P:まさか!違うわヨ

A:一晩、いくら稼ぐの

P:4時間で500バーツ。

A:500パーツか。3000円ぐらい。

C:でも、ここの物価だと、かなりの大金 だよ。

D:日本の2~3万円に値するなー。で、お金貯めてどうするの?

P:家族に仕送りするの。

皆:エーッ

D:仕送りって?故郷はどこ?バンコクじゃないの?

P:ラオスに近い所。お母さんや妹たちに仕送りしないとね

C:今いくつなの?

P:25才。

D:俺と同じだ。もっと若く見えたけどなー!

B:稼いだお金は、ほとんど送っちゃうの?

P:ううん、私の生活費と、いつかスイスに行きたいから、少しずつ貯金してる。

A:日本は

P:日本は寒いわ 。それに物価も高いし・・・ 。そろそろ帰るワ!それじゃ、お休み!

と、こんな会話をしながら、彼女は再び夜 の街へ出て、別の店へ男を探し求めに行ったのだろう。それにしても、故郷に残る家族のために、都会へ一人で出て来て、まさに体を張って夜の街をさまよう彼女たち。悲しいことなのだが、彼女らのポリシーは、こちらの国の現状を考えると、当然のことなのかもしれない

決してすべてがそうだとは思わないが、彼女たちの生き様を知って、こちらの方の国々に生まれ住む人々の現実を知る 。そして、優しさ、たくましさを知った。彼女たちは「夜の天使 」だ

38  相変わらず・・・です。

  どうにも困った「呑んべい」です。

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2009年8月 5日 (水)

素顔のバンコク見聞録 その3

水上の生活

高田さんとバス に乗って王宮方面へと出かける。黄金に輝く寺院。天気 が良ければ、キラキラ 輝いて、さぞかし綺麗だろう。

06_2  黄金の屋根の寺院

  バンコクの象徴

高田さんが昨日知り合ったというデビッドとマイケルに会う。バンコクには多くの運河が流れている。そこで4人で運河をボート を貸し切りで周って見た。

大きなチャオプラヤ(メナム)川より、小さな運河へ入って行く。すると、タイの普通の人々の生活が、目に飛び込んできた 。運河の上に家 が建ち並び、運河へは階段で降りられる。ここに住む人々の生活の足は、ボート なのだ。そして運河自体、ここでは道路なのである。

運河の脇では、洗濯をする婦人、食器を洗うおばあさん。水浴びする子供たち、見守っているお父さん、のんびり談笑する男たち。ボートに日用品や野菜、フルーツ、おやつを乗せて行商するおじさん。手をふると皆、屈託のない笑顔で答えてくれる 。子供たちは、なんて可愛いのだろう

今や400万人都市となったバンコクの庶民の素顔を見た。そんな気がした

11_01  ボート乗り場を出発 

  たくさんのボートが観光客を待っている。

12_02  チャオプラヤ川、広いです。

  日本ではメナム川と呼んでいます。

17_07  庶民の生活が垣間見えます。

  いつも歩いているところとは違う…

18_08  洗濯しているのでしょうか?

  「何見てんだよ」とでも言いたげ…

21_11  何をしているのかな?

  でも、なんか微笑ましい!

22_12  お姉ちゃんと幼い子供

  手を振ったら、応えてくれました。カワイイ!

28_18  彼らにとって、運河は道路、

  ボートは車、なのでしょう。

31_21  ボートで行商するおじさん。

  おやつを売っていました。

32_22  古タイヤが浮き袋。

  川が庭の、元気な子供たちです

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2009年8月 3日 (月)

素顔のバンコク見聞録 その2

拠点はプライバシー・ホテル

3月1日の朝を迎える。昨夜 遅かったので、のんびりと起きる。俺は現在地の確認のため、地図を持ってホテル の近くを歩いてみた。そして、通りの名前が分かり、現在地を特定 。皆で相談し 、ガイドブックに載っている他の安宿へと向かうことにする。

02  朝、ホテルから外を眺める

  その後、現在地を確認

4人で歩く こと、約30分、プライバシー・ホテル に到着。2組に分かれツインをシェアすることにし、1人210バーツ。昨夜のホテルに比べ、4割安い 。安宿と言っても、エアコンもあるしバス・トイレ付の部屋だ 。これなら文句はない 。皆も納得していた

この日は、皆からの提案 もあり、一応2度目の海外、バンコクも先回立ち寄っている俺がリーダーとなり、皆と共にバンコクの街を歩いた 。ラマ4世通りを歩き、駅周辺や、チャオプラヤ川あたり、道端のフルーツ屋などにも目を向けたりしていた

夕食は、ホテル近くの店へ行く。子豚 の丸焼きがある。4人でなら食べられそうなので、食べてみると、何とも美味しい 。上質のハムという感じだ。そして、その後は飲み屋 へ。水割りなどで乾杯する。明日からは、プライバシー・ホテル を拠点に、それぞれが自由に楽しむことにする。

街の様子

バンコクの街、一言で言うと、メチャクチャ !道路はバス 、自動車 、トラック、バイク、トクトクというオート三輪タクシーが、ところ狭しと騒音けたたましく走っている 。バスもタクシーも、クラクションをぶーぶー鳴らし、ぶっ飛ばしている。急ブレーキ踏まれて怒っていたら、キリがない

42  街を走るトクトク。

  料金交渉制のタクシーです。

40  大判焼き(王将焼き、今川焼とも言う)屋

  まさかバンコクにこんなものがあるとは・・・

歩道もまた、露店や屋台であふれている。フルーツや揚げ物、串焼き、大判焼きの屋台まである 。昼になると、そこら中の店は、昼食の人々でごった返す。タイ料理はたいていのものは辛い。バーミーナム(ラーメンに似ている)とかミーパット(焼き飯)は、我々にもなじめる味で、10~15バーツ。1パーツが約6円程度なので、1食当たり100円ぐらいですむ。これは大変大きな魅力だ

10  美味しそうなフルーツがいっぱい

  もう、たまりません

それにしても、これだけ屋台が氾濫していると、どちらかと言えば間食の方が多くなってしまう。特に串焼き(豚だと思う)は、お気に入り だ。でも、今の日本では、お祭り以外ではなかなか味わえない楽しみだ。

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2009年8月 2日 (日)

素顔のバンコク見聞録 その1

はじめに

1987年3月、2年半ぶりに海外へ旅立った 。目標はネパール・エヴェレストトレッキングとチベットだったのだが、事情によりわずか1週間でバンコクより緊急帰国 。でも、それなりに面白かったバンコクの街 、ほんの少し垣間見たバンコクの素顔を紹介してみたい。

バンコク到着まで

俺がネパール・チベットへの旅を決断してから、父の体調がおかしくなった 。キャンセル料も覚悟の上で、延期するか中止しようかとも考えたが 、父の「心配せんでもいい」の言葉で、気がかりではあるものの、出発することにした。

2月27日、横浜の旅仲間宅にて1泊お世話になる。彼は2年前にインドからネパール、チベットを経て中国を旅している。そこで彼に話を聞いたり、何かアドバイスをしてもらいたかったからだ。

2月28日、横浜から成田へと向かう。成田へは午後1時に到着。チェックインまでは、まだ1時間ほどあった。今回も前回同様、パキスタン航空 利用だ。ただし、チケットはバンコクまでしか買っていない。そこから先は、バンコクで手配するつもりだ。その方が日本で買うより安くすむし、前回あまり周れなかったバンコクの街を、のんびり歩いてみたかった。

チェックインを済ませ、待合ロビーで同じ便に乗る人と話をする。彼(高田さん)は、初めての海外で 、同じ飛行機でバンコクまで。そしてホテル は決めていないと言う。俺もホテルは決めていなかったので、彼に「バンコクへ着いたら街までタクシー を相乗りしましょう」と提案すると、彼も賛成してくれた。

パキスタン航空763便は定刻の16:00、成田を飛び立った。途中マニラ経由だが、バンコクへは2時間遅れの現地時間の夜中の12:00 に到着した。

01_2  飛行機から見る雲海

 一度は撮りたくなるものです

入国手続きを済ませ、成田で会った高田さんと合流。彼はもう一人瀬戸口君という男性を連れて来た。彼も泊まるところは決めていないらしい。すると、瀬戸口君は、「もう一人、同じような人がいましたよ」と言って、その男、高池君を探し連れて来た。

泊まるところを決めていない4人でタクシーを相乗りして街まで行くことにする。1人で行くよりは安心だし、タクシー代も割り勘すれば安くなる 。訊いてみると、俺以外は皆、初めての海外旅行らしい。

タクシーの運転手は、空港での交渉時「300バーツ」と言っていたのだが、途中で「高速道路に乗るから、もう100パーツ出せ」と言ってきた。俺はすかさず「サムロイ(300)パーツって言っただろ 」と、タイ語を交えて猛抗議!すると、運転手は料金の釣り上げをあきらめた。ただひとつ心配だったのは、「安いホテルへ」と運転手任せにしていたので、「どこへ連れて行かれるのか?妙な所へは連れて行かないだろうな?」ということだ。しかし、こちらも4人いる。”いざ”となれば「4人いるから、何とかなるだろう」と、皆で話していた。

到着したホテルは、マイアミホテルというところだった。夜中なので、バンコクのどのあたりなのかもわからないが、料金を訊くと1人350バーツ。俺は「やや高い」と思ったのだが、もうすでに2時近い。日本時間で午前4時だ。皆で「一人でタクシーに乗ったと思えば、その分安く済んだわけだし、今日はここで我慢しよう」ということにした。

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