2012年6月14日 (木)

(再掲)帰国 その3

12月22日、カルカッタを出発した。もう日本へ帰るのみだ

12/22 カルカッタ12:10(バングラデシュ航空)13:20ダッカ15:40(バングラデシュ航空)19:40バンコク 

*日本との時差は、カルカッタ(インド)は-3.5時間、ダッカ(バングラデシュ)は-3時間、バンコク(タイ)は-2時間です。

12/23 バンコク1日滞在

12/24 バンコク17:20(列車)17:58バンコク国際空港

12/25 バンコク1:45(パキスタン航空)12:00東京国際空港13:45(京成スカイライナー)14:45上野、東京18:00(ひかり31号)20:01名古屋

 バンコクでは、”ニュー・エンパイア・ホテル ”(シングル275バーツ)というビジネスホテルに泊まった。そこで、帰国前に、すっかり伸びきった髭を剃った。街では、’食べ歩き’を楽しみ、また、フルーツ を買ってホテルで食べたりもしていた。帰国前の最後のひとときを楽しんでいた

そして、日本 へ帰ってきた。名古屋へ戻る前に、東京でしなければならないことがあった。盗難に遭ったトラベラーズ・チェックの再発行手続きなどだ。それらのことをすべて済ませ、夕方の新幹線 で名古屋へと帰る。初めての海外への旅が、終わった。

(カテゴリー 「1984 初めての海外へ」 完)

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年6月13日 (水)

(再掲)帰国 その2

翌日、ラクソウルよりローカル線の列車 で、ムザファルプールへ。列車から眺める風景は   、日本では見られない、亜熱帯の平原が延々と続いている。列車は、各駅停車ではなく、快速列車のようだった。ムザファルプールまでは、6時間ちょっとかかった 。そして、ここからカルカッタへ向け、長距離列車に乗り込む。夜行の寝台列車だ。20時間ほどかかって、無事、カルカッタ近郊のハウラ駅へ着いた。

カルカッタでは、今回は”モダンロッジ”ではなく、その隣の”ホテル・パラゴン ”に部屋をとった。なぜなら、この2つのロッジは、カルカッタでは’日本人御用達’とも言える、代表的な宿だからだ。2泊のみではあるが、こちらにもぜひ、泊まっておきたかった 。そして、やはり、ここ”ホテル・パラゴン”にも、学生の冬休みと重なって、多くの日本人旅行者がいた。

と、ある日、ここで知り合った日本人の学生と、街を一緒に歩いていると 、例によって’こじきさん’達が、まとわりついてくる。が、俺も一緒にいるにもかかわらず、どの’こじきさん’も、俺には何も言ってこない。誰もが、学生さんだけに「バクシーシ(お布施を)」と言っている。彼は「なんで、僕にしか来ないんですか 」と、憤慨 していたが、それもそのはず。彼はまだ来たばかりで、身なりもこざっぱりとしていた。一方で俺は、髭は伸び放題、サンダル履きなどなど、誰がどう見ても、俺の方がみすぼらしい’貧乏人(ヒッピー)’に見えるはず 。でも、それはそれで、何か淋しいものがあった 。うっとおしいのだけど、こう、あからさまに比べられてはネェ

モダンロッジ へも遊びに行ってみた。朝食 を約束していた人がいたので、朝、彼の部屋を訪ねた。そこで、’唖然 ’とする光景を目 にした。彼の部屋はドミトリーで、男も女の人もいた。こういう安宿なので、宿泊客は若い人ばかりだ。ちょうど起きたばかりの金髪の可愛い女の子 (オランダ人だそうだ)が、上半身はTシャツ のみ(明らかにブラジャーをつけていないのが分かるほど)で、下半身は、何と、たったパンティー1枚で「Good morning 」と言い、顔を洗いに行こうとしていた。薄紫色の小さなパンティーが、’丸見え ’なのだ 彼の話によると、「毎朝こうなんですヨ 初めは嬉しい と言えば嬉しかったけど、こう毎日ではネェ 目のやり場に困りますヨ 」と、困惑していた。

また、ここカルカッタへインドの民族楽器”シタール”を習いに来ている日本人がいて、夜 になって彼の部屋へも訪ねてみた。彼は、俺が盗難に遭ったときもここにいたので、お互いに顔は知っていたのだ。彼を訪ねてあいさつ を交わした後、俺が最も訊きたかったことを彼に尋ねた。「クーデターの時、どうでした?」と。

彼は、「いやー 、怖かったですヨ ここは2階だから大丈夫だ と、思っていたけど、あれだけ銃声が聞こえると・・・ 。もう、いつ、窓ガラスが割られるかと、ヒヤヒヤ していましたヨ 」と、生々しく語ってくれた

そして、「申し訳ない 」と思いつつ、彼に一つだけ俺のわがままを聞いてもらった。それは、「シタールを聞かせてほしい 」ということだった。しかし彼は、「いいですヨ 」と快く引き受け、演奏してくれた 。その演奏は、まだ習っている最中とはいえ、とても素敵だった 。”シタール”という楽器そのものが、俺にとって初めて知ったものだったから。彼の手によって奏でられる音色、メロディ・・・ 、今までに聞いたことがない音楽だった。彼にお礼を言い 、そして別れた。いよいよ、旅も終りになってきた。

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年6月12日 (火)

(再掲)帰国 その1

12月18日早朝、前日にすべての支払い を済ませた俺は、ここカトマンドゥを出発した。チケット は、カトマンドゥの旅行代理店で、カルカッタまで手配してもらった。ルートはこうである。

12/18 カトマンドゥ6:45(バス)15:30ビルガンジ(サイクルリクシャで国境を越える)16:30頃ラクソウル

12/19 ラクソウル6:45(列車)13:00ムザファルプール14:15(夜行列車)

12/20 10:00頃ハウラ

 カトマンドゥから長い時間をバス に揺られ、国境の街・ビルガンジへ。正直に言うと「とても寂しい 」。ネパールがすごく良かっただけに、帰国までわずかとはいえ、あの悲惨な盗難事件に遭ったインド・カルカッタへ入るのが、少し辛かった 。しかし、あのような事件に遭いながらも、ここまで旅を続けられたからこそ、図太くもなっていた

ビルガンジから国境を越え、インド・ラクソウルへ。この日は、ここで宿 をとる。食事は、ラクソウル駅の近くでカリーを食べた。周りに観光客らしき人は、誰もいなかった。そのせいか、皆、やたらに俺の方を注目 していた。国境の街だから、観光客はそれほど珍しくないと思うのだが・・・。それにしても、このカリー、とても辛かった   しかも、スプーンがなく、手で食べなければならない 。カルカッタへ着いたころ以来、久々の本格的”インドカリー”だった。

*この時のルート、カトマンドゥ~ムザファルプールまでは、「深夜特急」の著者、沢木耕太郎氏が、ネパールからインドへ行く際に辿ったルートと同じです。「深夜特急」がTVドラマ化され、それを見た時は、懐かしい風景に、思わず感激しました ウルウル 。

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年6月 7日 (木)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~サキャさんの招待~

俺がネパールを離れる日が近づき、お世話になったサキャさんに、そのことを告げた。すると彼は「明日、ぜひ私の家に来てください。一緒に食事をしましょう」と、招待された

サキャさんは、ストーンハウス・ロッジの近くで小さな雑貨屋を営んでいるが、普段は’橋’の設計デザイナーで、5年前に技術研修のため、日本の清水建設に1年間、研修生として来ていたそうだ エェーッ!。だから日本語も上手で、サキャさんのお店の前を通ると、必ず彼がいるかどうか確かめて 、もしいれば、いつも話をしていた 。するとサキャさんはいつも、奥さんにコーヒー を出すように言ってくれた。もちろん、ときには買い物もしたし、ストーンハウス・ロッジの他の仲間にも、彼のことを教えたものだ。

12月15日、10時に彼の店へ行き、部屋へと案内され、まずコーヒー を頂きながら、彼の日本での写真 を見せていただいた。ホームステイ先や研修風景、ときには観光にも出かけていたようだ。日光や東京、奈良、立山へも行っている。

日本から持ち帰ったというオーディオセットとレコード。彼は「私はこの人、”さっちゃん”が好きです。」と言って、”小林幸子”のレコードを何枚か見せてくれた。さらに”五木ひろし”のレコードも。どうやら、サキャさんは’演歌 ’が好きなようだ。

やがて昼になり、お待ちかねのネパール家庭料理 だ。もちろん、”ダルバート”。マトンカリーとタルカリ(野菜)はほうれん草、フライドポテトにダル(レンズ豆)スープ。このダルスープが、とても美味しかった 。やっぱり家庭料理は違うナァ、と思った。お腹がいっぱいになるまで、何杯でもお代りを頂いた。それほどおいしかった

食後、しばらく休憩していると、ニューロードで、お祭りのような音がしている。見に行くと、すごいパレードだ オォーッ !。たくさんの人々がパレードに参加していた。

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ニューロードのパレード。 いったい何のパレードだったのだろう?わからないままでした。

彼の家へ戻ると、午後はサキャさんの友人がやって来て、トランプでゲームを始めた。どんなゲームなのか全く分からず 、俺はしばらく見ていた。しかし、最後まで何が何だかわからなかった。

ロッジに帰る前、レモンティーを頂き、そして彼はお土産(餞別)に”ラム酒”を1本、プレゼントしてくれた。帰国後すぐに手紙 を書くこと、そしていつか再会し、一緒にネパールを旅する約束をして別れた。

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年6月 6日 (水)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~自炊生活~ その8

12/14 バナナ12本3.5Rs、パン2.35Rs、

昼食・・・粉吹きいもとキャベツ(塩で味付け)、ゆで卵、味噌汁(キャベツ)、バナナ

 これでほぼ、だいたいの食材は使い切った 。残っているのは、チーズとバナナ、コーヒーぐらいだ。翌15日、16日の朝食は自炊した。しかし18日の朝、カトマンドゥを離れなければならない 。俺は食器類を売り払った。例えば、ラーメン用の器は20Rsが5Rs、ポリタンクと味噌汁用の器、皿が全部で20Rsだったのを7Rsで売ることができた 。そして残っていた調味料(塩、味の素など)は、他の日本人旅行者に分け与えた

自炊して思ったことは、はじめは節約するつもりだったけど、お金 のことより、”より楽しく 、よりおいしく ”作るかが重点的だった。メニューは確かに’タンパク質’が多かったけど、お腹いっぱい食べられたし、作る楽しみもあった 。時間もつぶれるし・・・。

金井さんが’カジノ’へ誘いに来た時に、初めて皆に自炊した料理を試食してもらったのだが、その時たくさんの賛辞を頂いた

「いやー、君がここまでやるとは思わなかった!」と金井さん。

「尊敬しますヨ!電気コイルヒーター1本で、これだけ作れるなんて!」と日浦さん。

「カルカッタで会った時(盗難直後)を考えると、スッゴイネー、これは!よくここまで”立ち直った”ヨ!」と上田さん。

安全性と健康を考えても、自炊のほうがいい。できれば、他の自炊者の人たちのように、ケロシンを使っていたら、”肉料理”も作れたのだが・・・ 。また、自炊するということは、当然’買い出し’にも行かねばならない。それによって、バザールや野菜市場へも必然的に足が向く 。そこでは当然のごとく、ネパールの一般庶民の人々が働いている。知らず知らずのうちに、ネパールの人々とコミュニケーションしていた

カトマンドゥを離れる前の日、ケロシンを使って自炊している人から、「(調味料を)分けてくれたお礼に、今’もつ’を煮込んでいるから一緒に食べよう」と誘われ、’もつ’をご馳走になった 。ニンニクと唐辛子を入れ、味噌で煮込んだそうだ。本当においしい’もつ’だった

あらためて思ったこと、それは「食生活は、楽しくおいしく満足できるものでなければならない」、ということだった

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年6月 5日 (火)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~自炊生活~ その7

12/6 パン2.5Rs、バナナ16本5Rs、チーズ7.8Rs、卵4個4Rs

夕食・・・アンちゃん送別会で、皆で外食

12/7 菜っ葉0.5Re

夕食・・・サラダ(ポテト、玉ねぎ、キャベツ、サラダクリーム)、味噌汁(菜っ葉)、卵入りラーメン

12/8 パン2.5Rs、サモサ2個2Rs

夕食・・・雑炊(米、ポテト、菜っ葉、味噌、塩、味の素、卵)、おひたし(菜っ葉)、サモサ

12/9 バター6.5Rs、ポテト1kg3Rs、なす1本0.5Re、ほうれん草0.5Re、豆腐1丁3Rs、パン2.35Rs、卵4個4.8Rs

夕食・・・雑炊(米、ポテト、ほうれん草、味噌、塩、味の素、卵)、湯豆腐

12/10 キャベツ7Rs、カリフラワー1Re、にんじん1Re

夕食・・・サラダ(ポテト、カリフラワー、玉ねぎ、にんじん、キャベツ、バター、塩)、味噌スープ(なす、にんじん、豆腐、卵)、おひたし(ほうれん草)

’好き嫌い ’が多く、日本ではまず食べない カリフラワーやにんじん、ナスまでも、ここでは食べていた 。何故かは自分でもわからない。アンちゃんと一緒に自炊した効果なのかもしれない

(*現在では、これらの野菜も平気で食べられます 。というより’好き嫌い’そのものがほとんどなくなりました。あちこち”旅”しているうちに、必然的にそうなりました 。)

12/11 パン2.35Rs、卵3個3.6Rs

夕食・・・雑炊(米、ポテト、にんじん、カリフラワー、キャベツ、玉ねぎ、卵、味噌、塩、味の素)、味噌汁(キャベツ、にんじん、ポテト、カリフラワー、玉ねぎ)

12/12 買い出しなし

夕食・・・サラダ(ポテト、玉ねぎ、カリフラワー、にんじん、キャベツ、卵、バター)、味噌汁

12/13 パン2Rs、卵4個4.2Rs

夕食・・・雑炊(米、ポテト、にんじん、キャベツ、玉ねぎ、卵、味噌、塩、味の素)、サラダ(ポテト、玉ねぎ、カリフラワー、にんじん、キャベツ、バター、塩)

アンちゃん帰国後も、一人で毎晩、自炊を続けていた ガンバ!。しかし俺にも帰国が迫ってきた 。これ以上の買い出しは、朝食以外は不要だ。朝食のみでいい。野菜市場へ行くことは、もうなかった

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年5月31日 (木)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~自炊生活~ その6

12/4 パン2.35Rs、卵4個4.2Rs、りんご2Rs、みかん2個2Rs、ヨーグルト3個4Rs

夕食・・・雑炊(米、ポテト、長ネギ、キャベツ、卵、味噌、味の素、塩)、フルーツカード(りんご、バナナ、みかん、ヨーグルト)

 この日もアンちゃん と一緒に自炊した。彼女の「デザートも作っちゃおう 」の一言で、フルーツを買ってきてデザートを作ることにした 。雑炊は、昨日同様、驚くほどに美味しかった 俺は、コイルヒーターでは、ご飯は無理と決めつけていただけに 、アンちゃんのアイデア はとても嬉しかった まして、”デザート”まで作っちゃうんだから ビックリ  やっぱり女の子 が一緒だと’違う’ 。デザートは、ヨーグルトにフルーツ を入れた”フルーツカード(ヨーグルト)”、口当たりがさっぱりとしていておいしい

しかし、2人での自炊生活も、この日までだった 。彼女の帰国が、急遽決まってしまったからだ 。翌日は2人で一緒にナガルコートへ 、1泊2日で出かけた 。(*「ヒマラヤからの朝日」参照)

そして、カトマンドゥへ戻って来たその日の夜 、アンちゃんの送別会を、ストーンハウス・ロッジ で彼女と親しくしたいた仲間と、日本食レストラン”串藤(くしふじ) ”で行なった 。金井さんや上田さん、ドミトリーで自炊している人たちも、この日ばかりは皆で外食した 。俺は’カツ丼’を注文、他の人たちは’すき焼き’’うどん定食’など、色々なものを注文していた。しかし、皆曰く、料金の割には、どれもこれも「素晴らしくおいしい!」と言えるほどのものではなかった 。むしろ、自炊料理のほうが’美味しい’かもしれない。

アンちゃん との自炊は、たった4回だけだったが、本当に楽しかった 。買い出しの時間も含め、彼女とはこの数日間、ずいぶん長い時間を一緒に過ごした 。食後も、コーヒー を飲みながら、色々な話をしていた 。彼女だけでなく、隣室の上田さんも、夜 は俺の部屋の常連で、いつも3人で話をしていた。ここカトマンドゥで、最も楽しい日々だった それらの日が過ぎ去ってからも、俺は自炊生活を続けた

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年5月30日 (水)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~自炊生活~ その5

12/3 ジャム22.5Rs、米500g3Rs、卵4個4.8Rs、味の素50g入6Rs(日浦さん)

夕食・・・雑炊(ご飯、ポテト、長ネギ、キャベツ、味噌、卵、塩、味の素)

 俺とアンちゃん の2人は、本当に”雑炊”を作った 。買い出しに行く前、彼女が

「ジンさん ’味の素’見つけたヨ 」と言って、俺の部屋へやって来た。

「エッ ナニーッ! ’味の素’?ホントに 」。

彼女はタメル地区を歩いている ときに、たまたま見つけて 買ってきたそうだ 。’日本製’ではなく’タイ製’のものだが、トレードマークの’お椀’のデザインに’味の素’と書かれた文字は同じだった オォーッ! 。これによって料理の幅も広がるし 、美味しくなる 。代金 を払おうとしたが、彼女は「そんなの、いいですヨ 」と拒んだ。’味の素’が手に入ったことによって、料理の幅も美味しさもグンと変わった オォーッ !。とくに味噌汁は’ダシ’の代用として、格段においしくなった

そして、アンちゃん と一緒に自炊することによって、初めて作った”米料理” 。調理している武器がコイルヒーターなので、水分が完全になくなるほど使うことはできない (”コイルヒーター”は、あくまで”お湯”を沸かすためのものである)ので、慎重になっていた 。アンちゃんと2人して「もういいかナァ ?」とか「そろそろヒーターが焼けつきそうだ 」などと言いながら、’できぐあい’を見ていた。多少はお米がコイルヒーターの電熱部にくっついてしまったが 、それは仕方があるまい。

しかし、出来上がった”雑炊”は、我々にとっては、大絶賛 すべきほどの料理で、予想をはるかに上回る’おいしさ ’だった。俺もアンちゃんも、「ウワーッ オイシーイ 」と、思わず歓声 を上げたほどだ。本当においしかった コイルヒーターでも、”お米”を使った料理が出来るんだ あらためて、アンちゃんに感謝した アリガト 。

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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2012年5月29日 (火)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~自炊生活~ その4

12/2 パン2.35Rs、バナナ14本5Rs、豆腐1丁3Rs、長ネギ1Re、なす2個1Re、ほうれん草1Re、ライム2個1Re

夕食・・・サラダ(ポテト、玉ねぎ、キャベツ、ゆで卵、トマト、サラダクリーム)、おひたし(ほうれん草、長ネギ、しょう油、ライム)、湯豆腐(豆腐、ポン酢)、味噌汁(豆腐、長ネギ、なす)

 昨日は余っていたもので自炊したのだが 、この日はアンちゃん と一緒にタルカリバザール(野菜市場)へ買い出しに行く 。アンちゃんは初めて来たそうだ オォーッ!。売っている野菜は、日本でもお馴染みのものが多い。彼女とメニューを考えながら 、というかほとんど彼女のアイデア で、買うものを決める

野菜市場から”肉市場”へも案内する 。生臭い臭いが漂っている 。自炊では’肉料理’は作れないから、買うものは何もないけれど、観光案内のつもり で彼女をそこへと案内した

その日の夕食 、作ったものは、まずはやはり好評の”サラダ” 。そして彼女のアイデアである”ほうれん草のおひたし”。”湯豆腐”に”味噌汁(具は、豆腐とねぎ、なす)”。味噌汁に”なす”を入れたのも、彼女のアイデアだ

”おひたし”は、すごくおいしい たくさん作ったので、ドミトリーの自炊者の人たちへ差し入れに行くと、「エッ おひたし 」と、皆ビックリ ナニーッ! 。そして誰もが、「ウワー これはホントに日本の”おひたし”だぁー これはおいしい 」と大絶賛 ”おひたし”には、わずかに残っていた’しょう油’と、この日買った’ライム’を絞って味付けしてあったのだが、それが功を奏したようだ(しょう油が少ない分、彼女のアイデアでライムを使った)

その2日後、たまたまドミトリーを訪ねてみたら、我々にならって”おひたし”を作っている人たちがいた オォーッ! 。俺とアンちゃん が、

「こんばんはー !(自炊)やってますー?何作ってるんですかー 」と訊くと、

「いやー・・・、実は”ほうれん草のおひたし”なんですよ 」と、照れながら答えていた。

彼は俺たちの”おひたし”があまりに美味しかった ことに触発されたようだ。彼だけでなく、もう1組自炊している人がいるのだが、彼らもやはり”おひたし”を作っていた 。たとえ’コイルヒーター’1本でも、彼らに負けない料理を作っていた

そして翌日は、2人で話し合った結果、「”お米”を使って”雑炊”を作ってみよう 」ということになった。

*この記事は、1984年の時のものです。

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2012年5月24日 (木)

(再掲)赤褐色の街にてⅡ ~自炊生活~ その3

11/28 ポテト1kg4Rs、豆腐1丁3Rs、トマト200g2Rs

夕食・・・サラダ(ポテト、玉ねぎ、キャベツ、トマト、ゆで卵、サラダクリーム)、湯豆腐、味噌汁(豆腐、長ネギ)

11/29 卵2個2.1Rs

11/30 パン2.5RS、卵2個2.4Rs、ラーメン2袋7Rs

12/1  卵3個3.15Rs

夕食・・・サラダ(ポテト、玉ねぎ、キャベツ、ゆで卵、トマト、サラダクリーム)、味噌汁(長ネギ)、ラーメン(玉ねぎ、キャベツ、長ネギ、ゆで卵)、モモ(ネパール風餃子;小龍包、他の自炊者からの差し入れ)

 この日の朝、先日会った日浦さん(通称;アンちゃん) が、俺の朝食 が終わった頃、不意に訪ねて来てこう言った。

「ジンさん、もし良かったら、一緒に自炊させてもらえませんか 」と。たしか2~3日前、

「私も自炊しようかな?ジンさん、今度作る時、一緒に作りましょう 」と、彼女は話していた。

彼女は、このストーンハウス・ロッジ へ来て、多くの日本人 旅行者が自炊しているのを見て興味を持ち、「ぜひ自分もやりたい 」との気持ちが強くなったようだ。しかし、彼女の滞在期間は短い 。俺や彼らのように、自炊の道具を買いそろえるのは、もったいない 。まして、自炊しているほとんどの人には、パートナー(皆、ひとり旅の日本人女性 )がいた

*それぞれのパートナーは、皆ここで知り合った人ばかりです。皆「面白そう!」という好奇心から一緒に自炊させてもらうようになったそうです。

そこで、最も年齢が近く、コイルヒーター1本だけを武器として、1人で頑張って ガンバ 自炊している俺と「一緒に自炊したい 」と思ってくれたのだろう。俺は喜んで承諾した 。女性が一緒ならば、メニューに幅が出るし、何しろ彼女は可愛かった

ある夜 、俺の部屋でアンちゃんと上田さんの3人で、コーヒー を飲みながら過ごしていると、話の流れでたまたま彼女のビザ用の写真(パスポートの写真と同じ) を見せてもらったのだが、これが”中森明菜”にそっくり オォーッ!上田さんに

「誰かに似ていると思いません 」と訊ねると、

・・・、 中森明菜

「でしょう 」と、彼も同感だった。

彼女 は「エーッ そうかなぁ ?」と謙遜していたが、その写真をドミトリーの人たちにも見せに行くと 、やはり彼らも同感だった 。彼らにも何も言わずに「誰かに似ていると思いません?」と訊ねると、「明菜だ 中森明菜に似ている 」と、たちまち大騒ぎ。彼女はその瞬間、このストーンハウス・ロッジの’アイドル ’になった。ヘアスタイルはいつもポニーテールにしているので、「中森明菜に似ている」とは思ったことはなかったのだが、でもやはり可愛い子だ

 この日(12/1)は、食材はそこそこあったので、それらを使って彼女 と一緒に自炊した 。夕食 は相変わらず、皆にも好評だったサラダ !そして味噌汁(具はネギだけ)、ラーメン (玉ねぎ、キャベツ、ねぎ、卵)。しかし、他の自炊者が「この間(試食したサラダ)のお返し」ということで、モモ(ネパール風餃子;小龍包のようなもの)を差し入れてくれた 。彼は俺が「コイルヒーターでは’肉料理’は食べられないから」ということを知っていたので、買ってきたモモを分けてくれたのだ

彼は、「久しぶりにモモが食べたくなって、買って来たけど、他にも作ってるし、2人で10個(1人前)は多いから、もし良かったら2個ずつだけど、どうぞ !」と言って、プレゼントしてくれたのだ

俺もアンちゃんも、「ウワァ~ 、ありがとうございます 」と、お礼を言った 。彼は、「本当に、この間のサラダがおいしかったし、2人で一緒に自炊するって聞いたから、そのお祝いに 」と言って、恐縮していた。

初めての2人での自炊料理も、なかなかおいしかった 。ただひとつ、味噌汁だけは’だし’がないから、その分”今一つ ”だった。

そして翌日は、一緒に買いだしに行く約束をし 、午後3時過ぎ、彼女とロッジで待ち合わせ、一緒にタルカリバザール(野菜市場)へと買い出しに出かけた

*この旅日記は、1984年の時のものです。

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