2009年11月 8日 (日)

エヴェレスト街道 帰路 その7

旅の終わり

3月25日(水)晴れ
ルクラ11:00(RA128)11:40カトマンドゥ

 午前7時起床。この日は俺の30回目の誕生日。とうとう20代ではなくなってしまった。飛行場へ行ってみる。予約の確認だ。第何便に乗れるのかは、まだ決まっていない。定期便とはいえ、天候、特に風次第で、何便飛ぶかが決まる。だから、予約はできていても、その飛行機が実際に来るのかどうか、その日の天候次第。1便、2便と見送る。第3便にも乗れない。予約できているとは、聞いているのだが、本当にこの日のうちに帰れるのだろうか?バースデー・フライトできるのだろうか?やがてヘリコプターがやって来た。これに乗ることも可能だそうだが、料金が割高になる。
*この旅日記は1992年のものです。この当時30才。ですから今は・・・?

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ロイヤルネパール・エアラインの飛行機がやってきました。

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ヘリも到着。なかなかカッコイイです。

半ばあきらめかけていたところへ、「第4便がやってくる」と言う。荷物の重量検査を行い、やっとそれに乗ることができた。ヘリコプターに乗ってでも、と考えていたので、ラッキーだった。でも本音を言えば、ヘリに乗ってみたかった。

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第4便、これに乗ってカトマンドゥへ戻ります。ところで、この飛行場、まったく舗装されていません。滑走路も同じで、山の傾斜(下り)を利用し、勢いをつけて飛び立ちます。(着陸時は、登りの傾斜になりますから、自ずとスピードダウンします)

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飛行機の大きさ(小ささ?)、お分かりになりますか?

わずか20人ほどしか乗れない小さな飛行機に乗って、途中歩いた道のりを眺め、ヒマラヤを仰ぎ見る。83ドルの価値はある。デウラリ峠が見える。あそこを歩いたんだなぁ。やがてボーダナートが見えてきた、間もなくカトマンドゥだ。
1週間はかかる道程を、わずか40分で戻る。文明の利器のすごさを感じずにはいられない。11時40分、カトマンドゥ着。21日間のトレッキングは終わった。

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飛行機の中で。こんな小さな飛行機でもスチュワーデスがいて、キャンディーの機内サービスがあります。

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飛行機から、歩いてきたところを眺めます。↑の写真の中央やや左上にボーダナートが見えます(白い大きな建物です)。

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コクピットの中。

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カトマンドゥ到着。バースデー・フライトが終わり、トレッキングも終わりました。そして新たに30代のスタートです。

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2009年11月 7日 (土)

エヴェレスト街道 帰路 その6

20代最後の日

3月24日(火)晴れ
パクディン8:10(徒歩)10:40ルクラ

 とうとう20代最後の日。そして、トレッキング最後の日でもある。背後にクンビラやヌンブルが、我々を見送るかのように聳え立つ。ルクラは、この街道沿いをややそれた丘の上にある村だ。分岐まで来た。左へ行けばルクラ、まっすぐ行けば、カリ・コーラを経てジリへ。できることなら、まっすぐ行きたかった。しかし、今の俺では左へ針路を取るしかなかった。さほどきついところもなく、2時間でルクラ到着。

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パクディンのロッジを出てすぐ、この吊橋を渡ります。とても名残り惜しい・・・。

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パクディンから見たヌンブル(6957m)

ルクラは、カトマンドゥから直行便がやってくる、いわば、エヴェレスト街道の「空の玄関口」。ロッジや日用雑貨店、登山用品のレンタルetc...。大きな村だ。この時もちょうど、日本から中高年のトレッキンググループがやって来た。

そして、異様な日本人の姿も見た。彼らは俺以上に疲れ果てている様子で、まだ若いのに杖をつきながらフラフラと、やっとここまで戻ってこられた、といったように見えた。
そう、彼らは途中で出会った3人の学生で、ジリからナムチェまで我々が8日かけて行く行程を、わずか5日で行くと言い、昼食時に日本語で「ご飯、ラーメン」と言って、仲間たちのひんしゅくを買った男たち。
彼らの歩く姿はあまりにも痛々しいが、しかし、自業自得と言えばそれまでだ。ラジンは彼らと最初に会った後、彼らのスケジュールを「クレイジーだ」と言っていたし、あのペースで行けば当然の結果だ。
彼らは俺たちに気づいたようだが、この時はお互いに声をかけることはなかった。声をかけるのがはばかれるほど、彼らの歩く姿は痛々しかった。

それにしても、カトマンドゥへはいつ帰れるのだろうか?明日のバースデーフライトに間に合うだろうか?ラジンは何度もチケットの予約に奔走している。そして午後3時。どうやら明日のフライトの予約がとれたようだ。30代のスタートは、ルクラ~カトマンドゥのフライトで始まるわけだ。

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20代最後の日。エヴェレスト街道トレッキング最後の日と重なりました。ルクラ、サウスコル・ガーデンロッジにて。ラリグラスがあちこちに飾られています。

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ルクラより、東にそびえる山々。3枚つなげてパノラマにしてみました。

短いようで長い、けど長いようで短い旅だった。200Km以上は歩いただろうか?左膝の痛みは、最後まで治らなかった。風邪も治らない。カトマンドゥでしばらく休養し、次の予定へと向かおう。

ルクラ、サウスコル・ガーデンロッジにて

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2009年11月 5日 (木)

エヴェレスト街道 帰路 その5

断念

3月23日(月)晴れのち曇り
ナムチェ8:30(徒歩)10:10ジョルサレ10:30(徒歩)12:30パクディン

 昨夜は久々にぐっすり眠れた。風邪薬のせいかな。ナムチェからの下りは左膝にこたえた。「決断」したとはいえ、わずかに希望を持っていたが、やはりこの足の状態で、ジリまでの長い道のり、いくつもの峠越え・・・を戻るのは無理だろう。

ナムチェから下って行く途中、思わず目を覆いたくなるような光景に出くわした。ヤクが血まみれで倒れているのである。まだ息はある。が、起き上がることはできないようだ。いったい何があったのだろう?そのヤクは尻尾がちぎれていた。何故、そんな目に遭ったのか?しかし、誰もそのヤクを助けることができない。どうすることもできないのだ。ヤクは必死にもがき、断末魔のような声と共に起き上がろうとしていた。痛々しいほど生きようと、生きて起き上がろうとするヤク、しかし・・・。俺はやがてそこで命を落とすであろうそのヤクの来世を祈るしかなかった ゴメンヨー 。

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傷ついたヤクの写真は撮りませんでした。あまりに痛々しすぎて・・・ (泣)!代わりに、菜の花畑の写真を撮り、そのヤクの天国への旅立ちのはなむけにします

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ラリグラスも咲いていました。

今日はパクディン、明日はルクラ。トレッキングの日々はもう2日だけ。20代もあと2日。こんな形で20代が終わるなんて想像さえつかなかった。
パクディンに着いて、午後はロッジのオーナーとチャン(ネパール風ビール;見た目は”どぶろく”のようなもの)を飲み交わしていた。どこへ行ってもよく聞かれるのは、「結婚しているのか?」である。この年齢で独身なのは、この国では珍しいのだろう。

夕方、キャンプをしながらトレッキングしているフランス人夫婦が、このキャンプサイトにいた。彼らにカラ・パタール登頂途上でいただいた栄養補給食品のお礼をここで改めて言った。そして記念に3人で写真を撮った。

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シンガポール在住でジャーナリストのフランス人のご夫婦と。トレッキング中は、ほぼ同じ日程だったようです。

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電気のない村では、夜はこのオイルランタンが唯一の灯となります。

パクディン、サンライズ・ロッジにて 

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2009年11月 4日 (水)

エヴェレスト街道 帰路 その4

決断の時

3月22日(日)晴れのち曇り時々雨
ナムチェバザール1日滞在

 朝食後、ラジン、紫藤君と3人でシャンボチェにあるエヴェレスト・ビュー・ホテルへ行ってみることにする。日本人経営の1泊100ドル(ルピーじゃないの?)以上もする、ここでは超高級ホテル。村の北側の丘を登り、シャンボチェの村の森の向こうに立派な建物、そこがエヴェレスト・ビュー・ホテル。

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シャンボチェ、エヴェレスト・ビュー・ホテルへ向かいます。右手に持っている杖は、昨日手に入れたシェルパ仕様(使用)の杖です。

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エヴェレスト・ビュー・ホテル専用と思われる飛行場が見えます。

その名の通り、居ながらにしてエヴェレストが眺められるホテルだ。だが、あいにくこの日は曇り空。エヴェレストは見えない。テラスでティータイムとすると、タンボチェの村が見える。マウンテン・フライトらしき飛行機も飛んでいる。

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ホテルのテラスからの眺めです。エヴェレストは残念ながら雲の中です。

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エヴェレスト・ビュー・ホテルでティータイムをとりました。

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エヴェレスト観光飛行(マウンテン・フライト)だと思うのですが・・・。

ナムチェに戻り、午後、体がだるい。咳も激しく医者へ行ってみるが、すでに2時にて終了。栄養を摂ろうと、この日も昼食はヤクステーキにし、薬を飲んでロッジで体を休めていたが、良くなる気配はない。喉もつぶれかかっている。ラジン曰く、風邪だけでなく、毎日歩き続けた疲れだろう、と。確かにそうだろう。足はいうことをきかないし、ジリまで歩き通す自信がない。

決断の時が来たようだ。ルクラからフライトせざるをえない。30才になる直前のこの結果は残念だ。できるなら、計画通りに行きたかった。しかし、ジリから2週間かけてカラ・パタールへ登り、エヴェレストを見たんだ。それだけでも充分ではないか。我ながら「よくやった」と言ってもいいじゃないか。
ただ心残りは、イングリッドやエルマー・アンジュラにきちんと「サヨナラ」が言えなかったこと。そして、カリ・コーラのヤンジーに再び会うことができないこと。本当に悔しい。できることなら、あの娘ともっと交流を深めたかった。残念だ。

ナムチェ、シェルパ・ガイド・ロッジズにて

*今回のブログ記事で、このトレッキングで出会った紫藤君の名字および写真を載せました。紫藤君ご本人とは、この旅以降、全く縁が途絶えていますが、もし万が一、本人もしくは彼を知る人が偶然このブログを目にされた場合、許可なく勝手に掲載したこと、深くお詫びいたします。

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2009年11月 3日 (火)

エヴェレスト街道 帰路 その3

ヤクステーキ

3月21日(土)曇りのち晴れ
タンボチェ9:00(徒歩)12:40ナムチェ

 7時起床。朝食の用意が非常に遅い。こんなところにも、ネパールの「ビスタリズム(ビスタリ;ネパール語で”ゆっくり”という意味)」が顔を出す。昨夕、雪が降ったせいか、少々寒い。体調は、ロブチェから1000m以上下っているせいか、やや回復している。

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タンボチェの朝。うっすらと雪化粧した山が、水墨画のように見えました。

この日は、昨日会った紫藤君もナムチェまで一緒に同行することになった。谷を下りきり、水力式のマニ車にさらなる体調回復を祈り、長い登りとなる。登りきると、ナムチェまでは平坦な道が続く。

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写真中央付近に、野生動物が10数頭います。ラジンは「ゴラール」と言っていましたが、ゴラールって・・・?どんな動物だろう?

ナムチェへと到着し、昼食はヤクステーキを食べることにする。紫藤君は、こちらの食事にかなり警戒心を持っているようで、不安そうに「大丈夫ですか?」と訊くのだが、俺が「大丈夫だって!ホント、美味しいから!来るときだって食べたんだから!」と勧めると、「わかりました。僕も食べてみます。dsching (ジン) さんにそう言われて、僕も食べてみようと勇気が出てきました。」と言った。確かに彼の荷物の中には、日本のインスタント食品がたくさんあった。荷物としては、かさばるカップ麺も。往路でのタンボチェのロッジで出会った日本人の女性も、「きつねどんべえ」を食べていたなー。
ヤクステーキの味は、なかなかの美味。ビーフステーキと何ら変わりはない。俺も紫藤君も「ウマイ!これは本当にウマイ!」と大いに満足。「こんな山奥の村でこんなに美味しいステーキを食べられるとは!」と紫藤君にずいぶん感謝された。

食後は久しぶりのシャワー、洗濯。そして、シェルパたちが使っているラリグラスの木でできたピッケル型の杖を50ルピーで手に入れた。たまたまロッジにおいてあり、売り物ではなかったのだが、「どうしても欲しい!いくらでもいいから売ってほしい!」と言い、半ば強引に手に入れたもの。でも50ルピーなら安い。次のトレッキング(アンナプルナ周遊)にも使えるし、記念に日本へ持ち帰ろう。

明日も、ここナムチェに1日滞在、のんびり体を休めよう。

ナムチェ、シェルパガイド・ロッジズにて

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2009年11月 2日 (月)

エヴェレスト街道 帰路 その2

疲労のピーク

3月20日(金)晴れのち曇り、夕方雪
ロブチェ7:45(徒歩)10:40ペリチェ11:40(徒歩)15:40タンボチェ

 6時40分起床。相変わらず風邪と頭痛の症状。下痢も起こしており、左膝は痛みの治まる日がない。無理せずパンボチェ泊にしたかったのだが、ラジンがどうしても行くと言う。高山病を考えての配慮なのだろうが・・・。体調はもはや最悪!ルクラからフライトすることも考えねばならない。辛い1日だ。

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クンブー氷河をペリチェへと下って行きます。
*この氷河、17年以上経った今、どのように変わっているのでしょう・・・?急速に進んだ”地球温暖化”、それがこの地にも影響を及ぼしているのです。

ペリチェで休憩中、2人の日本人と出会った。彼らは単発物のドラマのロケのために、この地まで来たそうだ。「実際の俳優さんはここまで連れてこられないので」と言い、1人は実は俳優・奥田瑛二さんの代役を務める方であった。カトマンドゥには、奥田瑛二さんのほかに、小泉今日子さん、大ベテラン俳優の大滝秀治さんも来ていたそうである。
この年の秋に放送予定の2時間ドラマで、「ヒマラヤの赤い自転車」というタイトルだそうだ。どちらかと言えば、中・高校生向けのドラマとのことだが、ここで出会ったせっかくのご縁、ぜひとも見てみたいものだ。
*この年の秋、このドラマを見ました。もちろん録画することも忘れませんでした。奥田瑛二さんの役柄は、ヒマラヤを撮影しに来ている写真家、小泉今日子さんは海外青年協力隊員の看護師としてネパールに赴任している内容でした。大人でも十分に感動できるドラマでした。
この2年後ネパールを訪れた際、カトマンドゥのゲストハウスのスタッフで日本語学校へ通っていたゴビンダと再会し、このドラマのビデオが教材として使われていることを聞きました。

ペリチェからタンボチェに向かってどんどん下る。体力は、高山病のこともあり、かなり消耗している。タンボチェにずいぶん近づいたとき、ラジンが先行し宿を確保して、俺のもとへ戻り俺のザックを背負ってくれた。彼のこの行為はとてもありがたく、いいガイドなのかそうでないのか、わけわからないことがしばしばある。

タンボチェのロッジは、往路とは違うところであった。ここで同じ愛知県出身という紫藤君と出会った。彼は大学の友達とアイランド・ピーク(6160m)という山を目指していたそうだが、やはり高山病により断念し、下って来たのだという。

彼と二人で話していると、ある老人に声掛けられた。老人は我々に「ジャパン?」と訊いてきた。「イエス」と答えると彼は、「東京?大阪?犬山?」と尋ねた。東京・大阪は解かるが、なぜ犬山を知っているのだろう?犬山のすぐ近くの街に住んでいる紫藤君は驚いて、「僕は犬山から来ました」と答えると、その老人は「ちょっと待ってくれ」と言って、一冊のポケットアルバムを持ってきて、我々に見せてくれた。そのアルバムには、老人がかつて愛知県犬山市にある世界民俗博物館「リトルワールド」に、ネパール仏教寺院の仏画絵師として招かれた時の写真や犬山城、名古屋の「大須観音」などの写真が残されており、俺も紫藤君も大いに感嘆の声をあげ、ラジンを呼び彼にもその写真を見せ俺の街を紹介し、話は盛り上がった。
*リトルワールドでネパール仏教寺院がまだ完成していないときに、一度訪れたことがあるのですが、その時何人かの仏画絵師が寺院内の壁面や天井に仏画を描いていました。もしかしたら、その時にこの老人とお会いしていたかもしれません。

タンボチェ、モナステリー・ロッジにて

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2009年11月 1日 (日)

エヴェレスト街道 帰路 その1

 カラ・パタールに登頂し、夢を実現した後は、ひたすら下って行くのみです。帰り道の様子をご覧ください。

カラ・パタールを下る

3月19日(木)晴れ
カラ・パタール12:15(徒歩)16:00ロブチェ

 15分ほどして、下山開始。高山病の症状が出ている俺にラジンは「この日のうちにペリチェ(標高約4200m)まで下ろう」と言う。確かに高山病は、少しでも低いところへ下り、酸素を摂り入れるのが鉄則であるが、何しろ体力がそこまでもつ自信がない。左膝が、特に下りでは激しく痛む。ロブチェまで戻るのが俺には精一杯だった。

イングリッドは今日も他のロッジで泊まり、明日エヴェレスト・ベースキャンプへ行くそうだ。エルマーとアンジュラは、ゴラクシェプ泊で、やはり明日イングリッドと同じエヴェレスト・ベースキャンプへ。仲間たちとは、とうとうバラバラになってしまった。

ロブチェ、ロブチェ・ゲストハウスにて

*その後、ドイツを訪れた際にエルマー・アンジュラから教えられたのですが、エヴェレスト・ベースキャンプで、偶然にもあのエドモンド・ヒラリー卿(世界初のエヴェレスト登頂者)とお会いできたそうです。エルマーは持っていたステッキに彼のサインを頂いてました。そのステッキは彼の自宅のリビングに飾ってあります。ヒラリー卿が来ていると知っていたなら、私も行っただろうなー!とても残念でした。

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カラ・パタールから下って行きます。

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エヴェレストが少しずつ隠れていきます。名残り惜しい・・・。

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ゴラクシェプまで下ってきました。ヤクがたくさんいました。

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ゴラクシェプからタボチェ方面。

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もう一度、カラ・パタールを振り返ってみました。近いようで遠い道のりでした。

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2009年10月27日 (火)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その8

トレッキング14日目。このエヴェレスト街道のクライマックス、カラ・パタール(5545m)へ向かいます。もちろん仲間たちも一緒です。

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3/19(木)、カラ・パタールを目指すべく、ロブチェをスタート。ヒマラヤを眺めながら歩いていきます。左端の山はプモリ、この山の尾根の先端がカラ・パタールです。

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上の写真の右側に写っているところが、この写真につながります。ヌプツェが目の前に迫っています。カラ・パタールからとは全く違って見えますので、下の方の写真と見比べてみてください。

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そろそろ標高5000mを超えたでしょうか?ヒマラヤがずいぶん近づいてきました。(↑最初の写真に比べ、かなり近くまで来ています。)

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ゴラクシェプ(約5100m)にて。なぜか砂浜のようになっています。これははるか昔の名残でしょう。インド亜大陸がユーラシア大陸のプレート下に潜り、ヒマラヤは隆起してこれほど高くなった、その証明でもあります。きっと大昔のこの辺りは、海辺だったのではないでしょうか?これから、背後にある丘を登って行きます。

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エヴェレストが、その頂を見せ始めました。ついに夢が実現のものになりました。感動!
他にも何人ものトレッカーたちがカラ・パタールを目指して頑張っています。

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しかし、すでに5000mを超える場所。高山病との戦いです。一歩一歩が本当に重く感じられます。時にはこうして座りこんでしまいます。

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何人ものトレッカーが、カラ・パタール目指して登っています。お互いに声かけあい、励ましあいながら、とにかく頑張るしかありません。次に踏み出す一歩が空気の薄さゆえ、本当に重かったです。それでも、ただひたすら、カラ・パタールを目指します。

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カラ・パタールが目の前に見えています。ゴールはもう間もなくです。

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ついに到達しました!カラ・パタール(5545m)の頂へ!思わず「バンザイ!」のガッツポーズ!エルマーも近づいてきました。

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「やったゼ、エルマー!」。およそ2週間、楽しく過ごさせていただいたエルマーと!お互いに健闘を讃えあいました。

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エヴェレスト(左奥)とヌプツェ(右)をバックに。これぞ、”夢・実現”の写真です。

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ロブチェ西峰をバックに。

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アマダブラムがひときわ高く見えます。

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カラ・パタールからの雄大なヒマラヤの眺めです。最大限にズームして撮った写真を3枚つなげ、パノラマにしました。空が近いせいか、その青さが際立っています。

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カトマンドゥへ戻り、写真を現像した後、手紙と共にこの写真を自宅の両親へ送りました。帰国後、今は亡き父が話してくれた言葉、今も覚えています。父はこの写真を見たとき、「えらい感激したワ!よぅ頑張った!」と。さらに「引き伸ばして部屋に飾りたいナー!」と言い、その要望に応え引き伸ばし、今もリビングに飾ってあります。

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2009年10月25日 (日)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その7

トレッキング11日目。標高はいよいよ4000mを超えます。1984年のトレッキングでの最高到達地、アンナプルナ・ベースキャンプが3962mでしたので、まさに「未知の領域」に入ります。

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3/16(月)、タンボチェ村を出て、まもなく4000mを超えます。

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「ヒマラヤのトラック」とも呼ばれるヤクの隊商。名前の通り、ヤクは「役」にたつ動物です。

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すでに標高は4200mを超えました。ヌプツェ(7855m)が見えてきました。もうすぐ、この日の目的地、ディンボチェ村(4343m)です。

トレッキング12日目。この日はディンボチェのロッジに荷物を置いて、高所順応のため、チャクン(4730m)まで往復します。

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3/17(火)、目の前に聳え立つ、「母の首飾り」という名のアマダブラム(6856m)。ナムチェからも見えたのですが、まるで違う山のように、形が違って見えます。

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タボチェ(6542m)も誇り高く聳えています。

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こんな高所にも少なからず草木が生えています。もう4500mぐらいでしょうか?少しずつ頭痛を感じ始めました。

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チュクン付近から見たヒマラヤ。2枚重ねてパノラマにしてみました。右側にひときわ高くそびえる山はヌプツェです。昨日見た感じとは、全く違って見えます。(3枚目の写真です)

トレッキング13日目。目的地のカラ・パタールまであと2日。この日はロブチェ(4930m)まで歩きます。高山病との戦いでもありました。

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3/18(水)、ディンボチェの丘から。目の前の雲の合間からタボチェ(6542m)の頂が顔を見せてくれました。

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トゥクラ(4593m)付近にて。荷物を運んだ帰りのヤクでしょうか?ヤクはもともと標高3000m以上の高所に棲む動物。ヒマラヤでは頼りになる存在です。お疲れ様!

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トゥクラ・モレーンの丘。ヒマラヤ登山で命を落とした方を慰める石積みのケルンが、いくつも並んでいます。それだけ多くの登山者やシェルパの方々が、尊い命を失ったのでしょう。合掌。

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いよいよロブチェへ、クンブー氷河のそばを歩いて行きます。目の前には、ヒマラヤのそうそうたる山々が、幾重にも連なっています。左からプモリ(7161m)、リントレン(6697m)、クンブーツェ(6640m)、右へ高く続く山はヌプツェ。

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2009年10月24日 (土)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その6

10日目。再びトレッキングのスタートです。ここから先は、いよいよ富士山よりも高いところとなります。が、その前に昨日休館していたナムチェ国立博物館へ行ってみました。(ネパールは土曜日が休日、日曜日が週の始まりです。我々の感覚とは1日ずれています。)

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3/15(日)、博物館にて。エドモンド・ヒラリー卿と共に世界で初めてエヴェレストに登頂したシェルパのテンジン氏の登山姿の人形です。ちなみに「シェルパ」とは、ヒマラヤ登山の山岳ガイドとして、その名を世界に馳せていますが、本来はこの地域で暮らすチベット系少数民族のことで、チベット語で「東の人」という意味だそうです。

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曼荼羅(マンダラ)。仏の世界が描かれています。

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10時過ぎ、絵葉書を出すため郵便局が開くのを待っていた仲間たちと共にタンボチェ村へ向かいます。初めは平坦な道でしたが、やがて谷を一気に下り、そして2時間ほど登りが続きました。

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タンボチェ村(3867m)で。ヤクが出迎えてくれました。

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宿泊したロッジ。宿泊者数は今までのところに比べ、かなり多かったです。

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マニ車を備えたチョルテン(仏塔)がありました。

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背後にはタムセルクが間近に迫っています。

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シェルパ・カルチャーセンターに飾られていた絵。この地方の文化の一部だけでも、窺い知ることができます。撮る前に管理人の僧侶の方にネパール語で「写真を撮っても良いですか?」と訊ね、許可を頂いてから撮りました。

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これも曼荼羅です。描かれている山は、この付近の山のようです。

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