2013年12月
2013年12月31日 (火)
2013年12月29日 (日)
冬の光物語 by 木曽三川公園
皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ
今年も残すところ、あと2日。
大掃除やお正月準備に忙しいでしょうか?
今年も木曽三川公園のイルミネーション『冬の光物語』を見に行きました。
今年のテーマは『ロマンチック世界旅行』です。
イルミネーションで、ちょっとした世界旅行気分です。
エントランスをくぐりぬけ、「ロマンチック世界旅行へ出発」です。
南ゾーン、「世界は愛に満ちて」。世界のフードフェアも開催(12/21~25)されていました。
「エトワール凱旋門、世界で一番美しいシャンゼリゼ通り」が続きます。
まずはエジプト。「ピラミッドのパワー」。この右手にはナイル川流れています。
「アフリカ・サバンナ命のはじまり」。雄大なサバンナの様子を光で表現しています。
「ヨーロッパのロマンチックな街」に到着。運河の町。オランダのイメージです。
「ロマンチック・イルミネイト・ミュージカル」です。歌うイルミネーション『ソルとルーナの永遠』が観覧できます。
とても夢のあるファンタジーなイルミネーションの世界が広がっていました。
このイルミネーション、例年はクリスマスが最終日でしたが今回は、年をまたいで1/5まで、そして1/11~13も開催されるようです。
お近くの方、お時間ありましたら、ぜひ訪れてみてください。
駐車場、入園料とも無料です。
2013年12月26日 (木)
ネパール再会の旅 66 『さよなら・・・ブプサ』(再掲)
5月16日(月)晴れのち曇り
ブプサ7:50(徒歩)10:45ポイヤン11:30(徒歩)14:00シュルケイ14:25(徒歩)16:10ルクラ
6時半起床。出発の朝が来た。この日も聖峰クワンデが、頭だけのぞかせている。オートポリジで朝食とし、7時15分、出発の用意も整った。が、母親のドマが「もう少しゆっくりしていきなさい。ソチャでも飲んで、8時ごろ出発したら」というので、お言葉に甘えソチャをご馳走になる。まぁ、この日のうちにルクラまで行ければ行く、行けなければシュルケイで泊まってもいいか、ぐらいの気持ちでいるから、ゆっくりとした。
もう何杯ソチャを頂いただろうか、でも本当に美味しい。気がつくと、他のトレッカーたちは皆、出発して行った。俺は、このロッジの寄せ書き帳に、日本からのトレッカーと、この家族の人々にメッセージを残し、3日間の精算をしようとした。(*トレッキング中のロッジでは、ロッジにあるノートに各自、食べた物などを記入する自己申告制になっています)
およそ900ルピーにもなるのだが、ドマは、
「パルダイナ(いらないわ)」と言う。
「えっ、キナ(どうして)?」
「タパイィ デレィ ラムロー サーティー(あなたはとても良い友達だから)」
「タラ マ デレィ カヨ(でも私はたくさん食べたし)」
それでも、母のドマも父・プーリーも、ほんのわずかさえも受け取ろうとしなかった。その代わり、写真はずいぶんたくさん撮っているけれど。プーリーも「ずいぶんフィルムを使わせてしまったね」と、気にしていたが、「問題ないですよ」と笑って答える。そして彼は妻に何かを告げると、末っ子のダワに真新しいウールのセーターを着せて、「もう1枚だけ撮ってもらえないか」と頼んだ。「もちろん、OK!ですよ」と答えると、ダワはエンターティナーぶりを発揮した昨夜と違って、おしゃまな顔をしていた。
真新しいセーターを着せてもらって、おしゃまにしているダワ。カメラを持っていなかった彼らにとって、幼い頃の貴重な1枚になっただろうか・・・?
もちろん、親子の写真も撮らせていただきました。この3日間、本当にお世話になり、忘れ難いたくさんの思い出ができました。
そして別れ際、ご両親からもカタを頂いた。それだけでも、彼らの気持ちが充分過ぎるほど伝わってくる。とにかく「デレィ クッシー(すごく嬉しい)!」。嬉しくて、嬉しくて、出発するのがとても辛くて。「ダンニャバード!ペリ ベトゥラ!(ありがとう!また会いましょう!)」を何度も繰り返した。ダワは「バイバーイ!」と、いつまでも見送ってくれた。
名残り惜しいが、7時50分、ブプサをスタート。「ありがとう、ヤンジー。ありがとう、イエロートップの皆さん。さようなら。いつまでも覚えていてください、俺のことを。いつまでも・・・」
緩やかな登り坂をゆっくりと歩き、カーレを過ぎ9時15分、カリ・ラ(峠)までやって来た。ここを越えると、もうブプサもカリコーラも視界から見えなくなる。俺は、その峠でじっと静かにたたずんだ。もちろん首には2本のカタが巻かれている。何十分そこにいただろうか?これ以上ここにいたら、今歩いて来た道を戻りかねない。「本当にありがとう。さようなら!」ちょっぴり涙ぐんで、ようやくそこを立ち去る決心がついた。「ルクラへ向かいます。ブプサよ、カリコーラよ、またいつの日か・・・」。
陽が雲に陰り涼しい。汗もほとんどかくことなく、ゆっくりと歩きポイヤンへ10時45分着。ティータイムとする。シュルケイまでは、およそ2時間らしい。ルクラまで行けるだろうか?ついでなので、ここでランチタイムをとる。ヌードルスープを食べ、11時30分にスタートし、シュルケイには2時ちょうど。しかし、好いロッジが見つからず、2時25分スタートし、ルクラへのきつい登り道を、ただひたすら汗にまみれながら登っていく。
ルクラへ着くころ、冷たい雨が降り出した。カトマンドゥへの空の玄関口、つまり、山との別れ。戻ろうと思えば、まだ戻ることができる最後の村。帰らねばならない、帰ることを決意した俺の涙雨なのか。
4時過ぎ、ルクラでのロッジは、クンブー・ロッジ。ロッジのボーイに明朝のエア・チケットの予約・手配を頼む。すぐに走って行ってくれた彼のおかげで、8時40分発のネパール・エアウェイの予約が取れた。
夕食は、ヤク・ステーキとポテトチップス、ムスタンコーヒー。ヤク・ステーキは、ハンバーグ大の大きさだ。ポテトチップスは、ステーキに添えられているものなのだが、それでも量は多い。久々に食べるヤク・ステーキは、とても美味しい。今日は疲れているので、もう休むことにする。素敵な思い出と共に・・・。
*ヤク・・・標高3000m以上の高地に住む牛の一種。長い毛で覆われた体は寒さに強く、荷物もたくさん運ぶことができるので、『ヒマラヤのトラック』とも云われています。
ルクラ、クンブー・ロッジにて
*この旅日記は1994年のものです。
2013年12月25日 (水)
ネパール再会の旅 65 『ヤンジーがいないブプサで』(再掲)
カリコーラの村では、プーリーの旧知の知人宅で、チャイやコーヒー、ホットレモンなど、ご馳走になった。プーリーも自慢げに、俺を村人に紹介する。その中に1人、見覚えのある顔がいた。2年前、一緒にトレッキングしていたドイツ人のエルマー&アンジュラが、ここカリコーラからナムチェまで雇ったポーターである。彼は俺のことを覚えていなかったのか、気付かなかったのか、すぐにどこかへ行ってしまい、話をすることはできなかった。
2時前にカリコーラを出て、ブプサへと戻る。急な坂道を汗だくで登る。プーリーは俺に気を遣い、所々休憩しながら、お互いに「ビスタリ ビスタリ ジャンツァ(ゆっくりゆっくり行こう)」と声かけ合う。約1時間後の2時半過ぎ、ようやくブプサへたどり着いた。これでは子供たちがカリコーラで下宿するのも、無理のないことだ。
とりあえず、ロッジでララ・ヌードルスープをいただき、ミントティーを飲み休憩。そしてシャワーを浴びる。
シャワーを浴び、着替えた直後、ベッドルームで。ヤンジーから頂いたカタも一緒に。
夕方、なんとなく気が抜けて、ボーっとカリコーラの村を眺めていた。次、いつ会えるか分からないヤンジー、彼女がいるカリコーラをいつまでも眺めていた。
夕食は、いつも通りポテトチップスとムスタンコーヒー。「もう1杯、いかがですか」と勧める母親のドマ。そのうちに、この夜もカンチャ(末っ子)のダワが、歌って踊ってみせる。なかなかのエンターティナーぶりである。この夜、俺はブプサ最後の晩とあって、勧められるままムスタンコーヒーを4杯、10時過ぎまで電気のないオイルランタンの灯りの下で、いつまでも夜更かししていた。
私が持っていたヘッドランプを、面白がって頭に着けながら踊るダワ。
ブプサ、ホテル・イエロートップにて
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月24日 (火)
ネパール再会の旅 64 『ヤンジー達の学校へ』(再掲)
ヤンジーに、彼女の下宿の中を案内してもらうと、いきなり2年前に一緒に撮った写真が飾られてあった。そういえば2年前、できた写真をガイドを雇ったトレッキング・エージェントに持って行ってもらうよう託したのだが、その数週間後ガイドと偶然会った時、「忘れてた」と言っていたので、本当に届けてくれるかどうか不安で、地図でカリコーラの県と郡を調べて、日本からも送ったのだ。そうか!それで同じ写真がブプサにもカリコーラにもあるんだ。2年前に雇ったガイドのラジンはその後、約束通り写真を届けてくれたのだ。
2階へ上がると、ベッドルームと小さなキッチン。狭い部屋だが、きちんと片づけられている。子供たちは皆、それぞれの制服に着替える。白いブラウスに紺色のスカート。男の子は白いカッターシャツに紺色のズボン。だが一つ、面白いのは女の子は普段パンジャビスーツ(足元まであるドレスとズボンのセット。同じデザインのツーピースで、パジャマの起源でもある)を着ているのだが、パンジャビスーツのズボンをはいたまま、スカートをはいてしまうのである。
9時20分ごろ、彼女たちの学校へと向かう。村の外れの方にあり20分ほどかかる。ヤンジーは登校の道すがら「来年の11月、10年生を卒業したらカトマンドゥで日本語の勉強をする」と言う。理由は、俺ともっといろいろな話がしたいからだそうだ。父親も、卒業したらOKだと許可しているらしい。とても嬉しかった。俺のために日本語を学びたいというヤンジーが、とてもいじらしく、可愛く思えた。
学校までの途中で、何人もの友達を誘って登校していく。他の子供たちは、一緒に歩いている俺を見て「誰なんだろう?」とでも言いたげに、興味津々で見つめている。ヤンジー達は、それだけでも自慢げである。やがて学校に到着する。
学校は10クラスあり、授業は10時から16時まで。300人近い生徒が通っているそうだ。プーリーが先生方に俺を紹介する。俺もネパール語で自己紹介する。先生方は、思わぬ日本人の訪問を、とてもビックリし、喜んでくれた。
ヤンジー達は、それぞれの教室へ。薄暗い教室だが、黒板も机もイスもそろっている。ヤンジーは、ニコニコしながら友達に俺を紹介している。ここでもネパール語で挨拶すると、子供たちも驚いたようで、とたんに大騒ぎ。
校庭へ出てみる。サッカーで遊んでいる子供たち。そうかと思えば、突然やって来た日本人を遠巻きに取り囲む子供たちもいた。「お前、何かしゃべってみろよ」「いや、おまえが行けよ」とでも言い合っている様子だ。そんな中、ヤンジー達は平気で話しかけてくる。当然と言えば当然だが・・・。
朝礼が始まった。各学年ごとに並び、国旗と校旗を持った生徒が3人(そのうちの1人はヤンジーだった)、そして国歌を歌い、体操をする。朝礼が終わると、授業に入る。もうこれでお別れである。心の中でヤンジーに「元気でね」と告げ、プーリーと共にカリコーラの村へと戻る。
朝礼が始まります。ヤンジーは右から2列目、前から2番目にいます。その左側の列、前から3番目にマヤがいます。
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月23日 (月)
サンタクロースからの手紙
皆様、おはこんにちばんは ヽ(´▽`)/
明日はクリスマスイヴ、今年ももうこの季節になりました。
皆様のところではクリスマスのお祝いやパーティーなどされましたか?
我が家はそんな雰囲気皆無です (^_^;;
今日は、サンタクロースからの手紙を紹介します。
『北極圏にて、
20○○年クリスマス
大好きな○○君(ちゃん)へ
元気にしていますか。私はコルバトントリ山にいるよ。今、美味しい、ラズベリーパイを妖精たちが、焼き上げたところなんだ。ラズベリーは、秋のうちに、妖精たちが森で集めておいたんだよ。私の住んでいるラップランドには、大きな森やきれいな湖がたくさんあってね、私たちの宝物なんだ。
ラップランドはフィンランドという国の北にあって、季節が変わると、周りの景色もすっかり変わってしまうんだ。北極圏にあるので、冬には、たくさんの雪が降って、お日さまは1日に2、3時間しか出てこないんだよ。空がオーロラで不思議な色に染まることもある。夏になると、今度はお日さまが沈まなくなるから、暖かくて、いつも明るいんだ。夜になってもだよ。それで、眠れないときには、妖精たちと一緒に、昔の写真を並べたりしながら、楽しく過ごしているよ。
君もきっと、お花や、鳥や、きれいな自然の景色をたくさん見たことがあるよね。でも、自然はきれいなだけじゃないんだよ。自然のもう一つのいいところはね、ゴミを散らかさずにきちんとゴミ箱に捨てたりして、自然を守ってあげることを忘れないようにすれば、自然のほうもみんなを守ってくれるんだ。だから、リサイクルできるものはちゃんとリサイクルするようにしようね。
君のことは、私のノートの442ページに、妖精たちが書いてくれているよ。君はとってもいい子で、いつも自然を大切にしている、ってね。とっても嬉しい。君のことを褒めている人がいるよ。その人は○○○○さん。
メリークリスマス。お友達やお父さん、お母さんにもよろしくね。君が、楽しく毎日を過ごせるように、お祈りしているよ。
君の友達、サンタクロースより』
この手紙は以前、フィンランドにあるサンタクロース村を訪れた際、自ら自分宛てに申し込んでおいた”サンタクロースからの手紙”の内容です。
実際には、ほとんどひらがなで書かれてあり、子供向けの内容です。
それでも、サンタクロースを信じている子供たちにとっては、プレゼント以上に嬉しいものかもしれません。
この手紙や封筒、同封されていたポストカードをプリンターからダウンロードし、小さな子供さんがいるプロ友さんに送ったことがあります。
それをもとにして、プレゼントと一緒にサンタクロースからの手紙も添えたそうです。
子供たち、大喜びしたそうです。
皆様へも、サンタクロースからの手紙、おすそ分けです。
2013年12月19日 (木)
ネパール再会の旅 63 『カリコーラへ』(再掲)
5月15日(日)晴れ
ブプサ(徒歩)カリコーラ(徒歩)ブプサ
6時過ぎ起床。昨日のバレーボールの影響か、筋肉痛である。今日からまた学校のため、ヤンジー達がカリコーラへ帰る日だ。6時半にオートポリジで軽く朝食を済ませ、しばらくの間、ヤンジー、マヤ、チリとバレーボールで遊ぶ。「エク(1)、ドゥイ(2)、ティン(3)・・・」とボールを落とさずにどれだけパスが続けられるかやってみる。ヤンジーは慣れていて、なかなか上手い。
7時半過ぎに、学校へ行くために子供たちはいつもよりうんと早い朝食。そこには俺の分まで用意され、子供たちと一緒にダルバートを食べる。
8時20分、彼女たちと父親のプーリーと俺の5人でカリコーラへ向かおうとしたその時、ヤンジーがカタ(健康や幸運、旅の安全などの祈りが込められた白い布)を首にかけてくれた。俺のような個人旅行者は、よほどでない限り、滅多に頂くことはないカタ。俺は「デライ クッシー!(すごく嬉しい!)」を連発した。
ブプサから。聖峰クワンデ(6011m)が頭を覗かせています。
ヤンジーの家族全員と一緒に!
ブプサからカリコーラを望みます。真ん中よりやや左下に見える集落がカリコーラの中心部です。
ブプサから急な山道を下り、向こうの山裾のカリコーラを目指します。
カタをいただいた後、皆揃って写真を撮り、カタを首に巻いたまま俺は、ヤンジーら3人の子供と父プーリーと一緒にカリコーラへ。急な坂道を一気に下り、約30分でカリコーラへ到着。従妹のマヤは、自宅へ制服に着替えに戻った。
そしてヤンジーと弟チリの下宿先は、かつて住んでいた『ホテル・ファイブスター』の正面にある。ここは、親戚の家のようで、そこで自炊しながら暮らしているそうだ。まだ14才なのに親元離れて、しかも弟の面倒まで見ているのだから、しっかりしている。そういえば、ヤンジーの父プーリーも言っていた。「ヤンジーは料理を作るのが早くて、しかも上手なんだ」と。俺もそう思う。ヤンジーの手料理は、とても美味しい。ダルバートもシェルパシチューもポテトチップスにムスタンコーヒー、どれもこれも美味しかった。彼女だからこそ、安心して下宿させられるのだろう。
*この旅日記は1994年のものです。
2013年12月18日 (水)
ネパール再会の旅 62 『ブプサの夜』(再掲)
夕食は、ララ・ヌードルスープ。そしてポテトチップスをつまみにムスタンコーヒー。すると、チリのタブラ(日本の太鼓や鼓に似た打楽器)に合わせ、ダワが踊る。そして歌に合わせて、マヤとチリ、ダワの3人でシェルパダンス。ヤンジーは・・・、相変わらずお手伝いだ。
幼い弟のダワ。「どう?僕踊れるんだよ!」というような顔をしています。
ムスタンコーヒーのグラスが空になると、「もう1杯飲みますか?」と母親のドマ。そしてにっこりしながらムスタンコーヒーを持って来てくれるヤンジー。昨夜も飲んでいたので、気がつくと1杯分ではなく、小さなお鍋にいっぱい作ってあった。きっと俺が何杯か飲むだろうことを予測していたのだろう。気配りを感じる。
ずいぶん夜も更けてきた頃、彼女らはこの日2回目の食事(ネパールでは食事は1日2回、午前10時ごろと午後8時か9時ごろに食べる)をとり始めた。今夜はシェルパシチューである。この家庭のシェルパシチューは、日本で言うならば、『おじや』と『おかゆ』と『雑炊』を足して3で割ったようなもの。以前、カリコーラで泊まった時に食べたことがある。野菜や卵が入っていて、とても美味しかったことを覚えている。すると母親のドマに「食べますか?」と訊かれ、どうしようかと思ったが、やはりもう一度食べたい。すぐに俺の分の茶碗とスプーンが用意され、ご馳走になる。やっぱりウマイ!「もう1杯食べますか?」と再び訊かれ、図々しくもおかわりしてしまった。それほど美味しいのだ。美味しそうに食べている俺を、家族の皆も嬉しそうに見ている。家族の夕食に俺も加わり、ますますこの一家の一員になったような気分だ。他のトレッカーは、もうとっくにベッドルームに戻っているのに、俺はいつまでもそこにいた。
やっと自分の時間が取れたヤンジーは、今度は勉強(宿題?)である。数学をやっているのを見ていると、ある公式の問題でヤンジーと俺の答えが合わない。俺が間違っているのかと思い再び頭の中で計算しても答えは・・・?
「・・・、ヤンジー、この問題の答え、間違ってるんじゃないかな?ほら・・・・・・でしょ?」
ヤンジーも間違いに気がついたようだ。両親がヤンジーに何か聞いている。ヤンジーが答えると両親は俺に「ダンニャバード(ありがとう)」と言った。きっとヤンジーは「間違っていた問題の答えを教えてくれたの」とでも話したのだろう。少しはヤンジーの ”兄”としての ”威厳(?)”を見せられたかな?
マヤとチリ、ヤンジーの3人は、昼間教えた『春が来た』『チューリップ』を覚えようと練習しています。
10時をまわってベッドルームに戻り、寝支度をしていると、1階からヤンジー達の歌声が聞こえてきた。昼間に教えた『春が来た』と『チューリップ』、まだ練習している。忘れないようにしているのだろう。
この日、ここで過ごした時間、子供たちの遊んでいる姿、勉強している姿、お手伝いしている姿、すべてが微笑ましい。ここまで来て良かった。本当に良かった。とてもハッピーな気分で床に就いた。
ブプサ、ホテル・イエロートップにて
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月17日 (火)
ネパール再会の旅 61 『ブプサでの1日』(再掲)
5月14日(土)晴れ時々曇り
ブプサ
7時起床。足に疲れを感じる。昨日はずいぶんアップダウンがあったし、長い距離を歩いたからナ。子供たちは朝から勉強(宿題?)だ。朝食は、オートポリジとミルクコーヒー。朝食後、子供たちとバレーボールをやったり、ダイニングルームで休んだり。ヤンジーは、相変わらずロッジのお手伝いをしている。
11時にヤンジーの手作りのダルバートを昼食(彼女たちにとっては朝食)に、皆と一緒に頂く。子供たちが食べるときに、俺の分まで用意してくれたのだ。ヤンジーがいつも一生懸命、楽しそうに手伝って作っているせいか、本当に美味しい。皆と一緒にダルバートを食べていると、まるでこの家族の一員になったような気分だ。
ヤンジーは朝から忙しく働きまわって、食後にやっと時間が取れるようになった。「日本語や日本の歌を教えて!」という彼女たちに、簡単なあいさつと『春が来た』『チューリップ』を教えてあげる。ノートにメモをし、一生懸命覚えようとしている。皆で一緒に写真を撮ったり、また彼女たちだけの写真を撮ってあげたり・・・。
1時半ごろ、いったんシャワーを浴びることにする。はるばるやって来たのだから、身だしなみはきちんと、清潔にしておきたい。子供たちは、相変わらず外で元気に遊んでいる。ヤンジーも時には遊んだり、幼い弟の面倒を見たり、そうかと思えばロッジの仕事を手伝ったり。2年前に比べ、本当に大人びた感じがする。そんな彼女に、俺はそっと腕時計をプレゼントした。それは、俺がここ2年間毎日使っていたものだ。しかし俺は、新品ではないそれをプレゼントしたかった。
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月15日 (日)
紅葉ライトアップ
2013年12月12日 (木)
ネパール再会の旅 60 『ヤンジーと再会!』(再掲)
6時ごろ、「ヤンジーがもうすぐ帰って来るぞ!」と、ここへ案内してくれた男が呼びに来た。外へ出てカリコーラへと続く道を眺めていると、3人の子供が歩いているのが見える。そこでヤンジーの帰りを待つ。ようやく顔がはっきり見えるところまで来たので、「ヤンジー!」と声をかけてみた。すると「ジャパニ・ダイ(日本のお兄さん)」と、ビックリした顔で言った。すぐに分かってくれたのが、何より嬉しい。
小さな村なので、『ヤンジーに会うために日本人が来ている』という噂がアッという間に広まったのか、たくさんの村人たちが見守る(冷やかす?)中、ヤンジーは嬉しいような恥ずかしいような、駆け足でロッジへと入って行った。俺もロッジへ戻ると、ヤンジーが母親に「いつ来たの?」と問いかけている。「今日よ。あなたに会うために来てくれたのよ」と答える母親。2年と2ヵ月ぶりに会うヤンジーは、背が高くなって大人びてきれいになっていた。そして相変わらず、素敵な笑顔をしている。
「いつまでいられるの?」と尋ねるヤンジーに、
「ヤンジーがカリコーラへ戻って行ったら、僕もカトマンドゥへ帰るよ。そのためだけに来たんだからネ」と答えた。
すごく嬉しそうな顔をしている。そしてヤンジーや家族の写真を撮る。ブプサ滞在中は、カメラが手放せないぐらいであろう。少しでも思い出を多く残しておきたいから。
左から、従妹のパサン・マヤ、母アン・ドマと末っ子アン・ダワ、弟ミンマ・チリ、ヤンジー
家に帰って来てからのヤンジーは、ロッジの仕事のお手伝いに一生懸命だ。弟のチリやダワ、従妹のマヤは遊んでいる。前もそうだったのだが、ヤンジーは本当に働き者だ。しかも楽しそうに手伝っている。彼女にとっては、遊ぶことよりお手伝いの方が面白いのかもしれない。偶然ここへ世界中からやって来るトレッカーが宿泊し、食事などのお世話をしながら少し会話をする。それが楽しいのかもしれない。
ムスタンコーヒーを飲みながら夕食をいただく。夕食が終った後の片づけを済ませてから、ヤンジーは学校の宿題を始めた。そんなシーンも漏らさずに写真に撮っておく。他のトレッカーはもうベッドルームへと戻って行ったが、俺はもうしばらくそこにいた。しかし、朝が早く眠い今夜は、9時半には寝ることにする。
カリコーラから帰って来た3人の子供たちは、トレッカーがいなくなった後の食堂兼ダイニングで宿題を始めました。
ブプサ、ホテル・イエロートップにて
*この旅日記は1994年のものです。
2013年12月11日 (水)
ネパール再会の旅 59 『ヤンジーの自宅発見』(再掲)
再びブプサに着くと、俺を呼び戻した男がヤンジーの自宅・ロッジへと案内してくれた。見ると『ホテル・エヴェレストトップ』ではなく『ホテル・イエロートップ』となっている。しかし建物は、ヤンジーから送られてきた写真そのもののようだ。中へ入って行くと、そのロッジの女性が出迎えてくれた。2年前、カリコーラのロッジにいた女性と同じだ。間違いない!彼女はヤンジーの母親だ!
「ナマステ!マ ジャパン バーター アーエン(こんにちは!私は日本から来ました)。」とネパール語で挨拶すると、母親はある方向を指さした。見るとそこには写真が額に入れて飾られてあり、下の方に3枚の小さな写真、それらは2年前俺とヤンジーと一緒に撮った写真、そしてヤンジーの笑顔の写真。
「オォ!メロ フォト ツァ!(オォ!私の写真だ!)」と言うと、
「そうよ。ヤンジーの日本の友達が来たって聞いたから、この人じゃなかった?って聞いたの」。案内してくれた男も、
「私もこの写真を見て、間違いなくあなただと分かったから、彼女に言われてあなたを呼び戻したんだよ」と答えた。俺は彼に
「サンキュー、ダンニャバード!(ありがとう!)」とお礼を言った。今日が金曜日だということも含めて、非常にラッキーだった。
2階の部屋に案内され荷物を置いて、1階のレストラン兼ダイニングルームへ。そこで急坂を登って来てまだ汗をかいていた俺に、コーラを出してくれた。やがて父親が戻って来た。彼とは2年前カリコーラでは会っていなかったのだが、すでに俺が来ていることを外で聞いていたようで、にこやかに挨拶してくれた。そして俺がカリコーラへ向かいかけたことを、「自分がロッジの名前を変更していたから」と言って、詫びていた。そしてこの日が初対面だったので、彼はこう話した。
「ヤンジーが『日本にすごくいい友達がいる』と言っていたのだが、私はあなたとは会っていなかった。だから今日、こうして会うことができてとても嬉しいよ。」と大歓迎してくれた。そして、
「ところで、今日はどこから来たんだい?」と尋ねた。
「カトマンドゥからですよ」と答えると、
「エッ?カトマンドゥから?」
「エェ!カトマンドゥからルクラまで飛行機で来て、ここまで歩いてきました。」
父親は、ヤンジーに会うためにこの日俺が、カトマンドゥから一気にここまで来たことを、とても驚きながらも大喜びしていた。そして、
「このあとはどうするのですか?」
「ヤンジーと会えたら、ルクラへ戻り、飛行機でカトマンドゥへ帰ります」
「エッ?!それじゃぁナムチェへも行かず、エヴェレストも見に行かないのかい?」
「えぇ、そうです。今回の目的は、ヤンジーと会うことだけですから!」
「本当かい?今日カトマンドゥから来て、ヤンジーに会えたらそのままカトマンドゥに帰るのかい?」
「そうですヨ!」
『信じられない』という表情でヤンジーの父親は、このことを母親にも話し、2人ともとても喜んでいた。両親はヤンジーの『日本のいい友達』であり、ヤンジーと再会するためだけが目的でやって来た俺を、ソチャ(チベット茶;ミルクティーに塩とバターが入っている)でもてなしてくれた。久しぶりに飲むソチャ、かつて初めて飲んだ時は、奇妙な味だと思ったが、今はそうでもない。
「日本にもソチャがありますよ。大切なお客様を迎え、お茶を出す時『粗茶ですが・・・』と言って出すのです。」と言うと、彼らは大笑いしていた。
『ホテル・イエロートップ』。1階の入り口を入るとレストラン(と言うより食堂)。左半分は家族の部屋だと思います。2階はトレッカーの客室。
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月10日 (火)
ネパール再会の旅 58 『ブプサへ到着して』(再掲)
4時にブプサへ到着。そこでオングさん達に別れを告げ、俺はヤンジーがいる『ホテル・エヴェレストトップ』を探した。しかし、ほんの10軒もないロッジのどこを見ても、その名のロッジはない。声をかけてきた村の男の人に訊ねてみても、「そういう名のロッジはこの村にはない。」と言う。さらに「『エヴェレスト』がつく名前のロッジは私のところだけだから、うちへ泊まりなさい。」と言うので行ってみると、ヤンジーから送られてきた写真の建物とは全く違っている。
俺は彼に「ニマ・ヤンジー・シェルパという女の子を知っているか?」と尋ねると、しばらく考え「あぁ!知ってる。」と答えた。俺は「彼女に会うためにここまで来たのだ。」と説明すると、にわかには信じてもらえず「手紙を持ってきているのか?」などと聞かれた。持ってきていなくても、実在する女の子の名前が分かっているだけで充分だと思うのだが。
彼は「ヤンジーは今、この村にはいない。学校がカリコーラにあるから、そちらに住んでいる。しかし彼女の両親はこの村にいる。」と教えてくれた。「俺はヤンジーに会うために来たのだから、ここにいて会えなければ、来た意味がない。カリコーラまで行くよ。」と言って、カリコーラへの急な山道を下り始めた。すると、オングさん達が俺に気付いたようで、またしても立ち止まって待っていてくれた。
しかし、下り始めて10分ほどだろうか、上の方から「ハロー、ハロー!」という大きな声が聞こえてくる。「ハロー」と英語で叫んでいるところからして、俺を呼んでいると思い、振り返って、
「Do you call me ?(俺かい?)」と答えると、どうやら先ほどの男のようで、
「Yes. Come back, come back !(そうだ。戻って来い、戻って来い!)」と叫んでいる。
「Go back ? Why ?(戻れだって?なぜだ?)」と聞くと、
「Today is Friday and tomorrow is holiday. Yangjee will come back here.(今日は金曜日で、明日は学校が休みだ。だからヤンジーは今日、この村へ帰ってくる。)」と言っている。確かに明日は土曜日で休みだ(ネパールでは土曜日が休日で、日曜日が週の始まりとなっている)。
「Is it true ?(本当か?)」と訊くと、
「Her mother said.(彼女のお母さんがそう言っているんだ)」との返事。そうなれば話は別だ。下って来た道を引き返すしかない。俺を待っていてくれたオングさん達にジェスチャー交じりでブプサへ戻ることを伝え、10分かけて下った道を、20分かけて登った。
この2年前、1992年、カリコーラのロッジで出会った時のヤンジー。この素敵な笑顔にもう一度会うために、やって来ました。
これが、以前ヤンジーから送られてきた、ブプサのロッジの写真。しかし、『Hotel Everest Top』という名のロッジは見つかりませんでした。
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月 8日 (日)
香嵐渓の紅葉
皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ
街はすっかりクリスマスムード1色!いやでも”年の瀬”を感じずにはいられません。
いかがお過ごしですか?
先週、旧・小原村(現:豊田市)の四季桜と紅葉を紹介しました。
今回は、その後に訪れた、東海地方随一の紅葉の名所”香嵐渓”です。
この香嵐渓、この地方のみならず関東・関西からも観光バスがやって来るほど全国に名だたる紅葉の名所!
その様子、どうぞご覧ください (^_^)!
ふと見上げれば・・・輝かんばかりの美しい紅葉&黄葉!
たくさんの人が見上げていました。
真っ直ぐに伸びた木立の中、紅と黄金が鮮やかです (゚ー゚)!
夕方4時をまわり、ライトアップまで巴橋そばの喫茶店へ。
この喫茶店の2階は1人400円でコーヒーー・紅茶がセルフサービスで飲み放題。見晴らしも素晴らしいので、窓際のテーブルを陣取りライトアップを待ちました。
ライトアップの様子は、次週へと続きます。お楽しみに (^_^)ニコッ!
2013年12月 5日 (木)
ネパール再会の旅 57 『ルクラからブプサへ』(再掲)
5月13日(金)晴れのち曇り
カトマンドゥ7:10(RA121;ロイヤルネパール航空)7:50ルクラ8:30(徒歩)16:00ブプサ
4時30分起床。慌ただしく用を済ませ5時。5時10分、オートリクシャを拾い空港へ。200ルピーで交渉成立していたのに、到着すると250ルピーと値を吊り上げる。「タパイィ ドゥイセイ(200)ルピー OK ボルヨ!(あなた200ルピーでOKと言っただろ!)」とネパール語で抗議すると、さすがに即「200ルピーでいいよ」と言った。
5時30分空港着。これがかつては国際線も使っていたとなると、とんでもない田舎の空港だ。が、カトマンドゥ自体が巨大な村なのかもしれない。RA(ロイヤルネパール航空)121便は6時30分発だが、山の方の天候のせいであろうか、7時に搭乗開始。7時10分過ぎに離陸。天気は快晴で、ヒマラヤの峰々が見渡せる絶好のフライトとなった。
ルクラには7時50分着。歩き出す前にティータイムをとり、8時30分、いよいよヤンジーが住む村、ブプサへと向かう。他のトレッカーたちは当然のようにナムチェ方面へと旅立って行ったのだが、俺は皆とは逆方向へ歩き出す。山の斜面を削り取った、『原っぱ』と言ってもいいような飛行場の横の道を、ひたすら下って行く。ジリから歩いて来ているのであろうトレッカーや巡礼者とすれ違う。皆、ルクラまでのこの急な登り坂に、息を切らしている。下りきると、しばらくは平坦な道が続く。
ルクラからの急坂を下り、小さな木橋を渡りシュルケイへ。(セルフタイマーで撮った私の後ろ姿です)
およそ10時にシュルケイ着。ここからのアップダウンの道に備え、ティータイムをとり足を休める。バッティ(茶店)のダイ(”お兄さん”の意味)に「ブプサまでしか行かない」と言うと、「あなたは先生なのですか?」と訊かれた。ブプサまで行って、帰って行くだけのトレッカーなんていないだろうから勘違いされたようだ。
シュルケイから急な石段を登って行くと、ふと眼下にシュルケイの村全体 (?) が見えました。
シュルケイからポイヤンまでは、急な石段の登り道。1時間に1回はティータイムを取りながら登って行く。ポイヤンを出るとアップダウンの繰り返し。途中、バッティで昼食にララヌードルを食べる。バッティを出てしばらく行くと、同じ店で休憩していた2人のネパール人が振り返り、1人で歩いている俺を待っていた。
「ナマステ!サーティ チャイナ?(こんにちは!友達(仲間、連れ)はいないの?)」
「サーティ?ツァ!タパイィハル メロ サーティ ホ(友達?いるよ!あなたたちが私の友達ですよ)」
彼らの問いかけに、こう笑顔で答えると、彼らも嬉しそうに「私たちは今日、カリコーラまで行くからブプサまで一緒に行きましょう」と言って、3人で歩き始めた。声をかけてくれたオングさんは、シャンボチェにある『ホテル・エヴェレストビュー』で働いているそうだ。もっと早いペースで歩けるだろうに、彼らは俺のペースに合わせて歩き、途中1時間おきぐらいにバッティで休憩もした。
*ホテル・エヴェレストビュー…長野県出身の日本人経営の高級ホテル。その名の通り、ホテルにいながらにしてエヴェレストを眺めることができます。ただし、肉眼で見るには、まだはるか彼方です。天候が悪ければ、もちろん見られません。
オングさんは休憩中に「ホテルで日本人客にもらったんだよ」と言って、浮世絵がデザインされたハンカチを見せてくれた。そのバッティでお勘定をしようとしたら、すでにオングさんが済ませていて、ご馳走になる結果になってしまった。本当なら、俺が支払わなければならないところなのに・・・。おかげですごく楽しく、疲れだってほとんど感じないほどであった。
オングさんは浮世絵のデザインのハンカチを、袋に入れたままの状態で大切にしていました。彼らとは本当に楽しく歩くことができました。
カルテ付近まで来て、初めて目的地のブプサが見えました。もうあと少しです。
*この旅日記は1994年のものです。
2013年12月 4日 (水)
ネパール再会の旅 56 『2人の日本人女性』(再掲)
5月12日(木)晴れ
カトマンドゥ
昨夜は夜中の1時過ぎまでククリラムを飲み干し、今朝は体がやや気だるい。というよりも完全な二日酔いだ。10時半過ぎに、なかなか部屋から出てこない俺を心配してか、ウマがドアをノックして入って来た。「どうしたの?」と。「二日酔いなんだ」とは言いづらく、「胃が痛くてね」とごまかした。彼女は明日トレッキングに出発する俺に、餞別としてツルピー(乾燥チーズの一種)を持ってきてくれた。なんと待遇が良いのだろう。
イミグレーション・オフィスへ出向き、トレッキング・パーミットの申請をする。1週間で250ルピー、エントランス料が650ルピー。何のかのといって、金がかかるワ!帰りにロードウェイ・カフェでコーンフレークとラッシー(ヨーグルトドリンク)でブランチ。
ゲストハウスへ戻りレセプションにいると、オーナーやサンカールが2人の日本人女性を連れてきた。しかし、受け付けはせずそのまま3階へと案内していった。彼女たちの荷物は、ネパール旅行者にしては珍しく、パックザックではなくスーツケースである。しばらくしてサンカールが俺を呼びに来た。その女性たちが「他に日本人は泊まっているの?」と訊いたようで、サンカールは俺のことを「コメディアンみたいな男だ」と話したらしい。そして「ここへ連れてきて」と言われたようだ。「ヘイ。キナ マ コメディアン フ! (おい、なんで俺がコメディアンなんだよ!)」と笑いながらサンカールに抗議しつつ俺も3階へ。彼が冗談めかして言ったのは分かっているから、決して怒ってはいない。
「こんにちは~!」
「こんにちは~!」
「今聞いたんだけど、僕のこと『コメディアンみたいな男だ』って言ったらしいけど、全然違いますからネ!」
「そうなの?『他に日本人泊まってるの』って聞いたら、そう言ってたから、『じゃあここへ連れて来て』って頼んだのよ、ネェ―!」
初対面なのに、初めから和気あいあい。彼女たちは文化交流目的と観光を兼ねて来ており、今回は、来年行う予定の琴のコンサートの下調べ、会場を決めるための下見をプライベート旅行と重ねて来たそうだ。「ヘェ~!そうなんですか!」とちょっとビックリ!ネパールへ来る前、シンガポールへも立ち寄り、そこに住む知人宅で泊めていただいたそうだが、それがとてつもない大邸宅だったらしい。ここマナスル・ゲストハウスへは、日本で知り合ったネパール人(オーナーの親戚らしい)の紹介だそうだ。2人ともネパールへ来たのは初めてだそうだ。
「ところでさぁ、この辺に、コンビニある?」
「すいません・・・(笑)、ここネパールですヨ!ネパールにコンビニがあると思います?」
「アハハ!やっぱり、ない?!」
「でも、コンビニに近いタイプのスーパーなら、ありますよ!」
「ホント?ヘェー、どこ?」
「そこの道を北へ行って、銀行の角を右へ・・・」
「あのねぇ、私達さぁまだ来たばかりで、どっちが北でどっちが南なのかも、わからないだから!連れてってヨ!」
「そりゃそうだ(笑)!じゃあ、3時にイミグレーション・オフィスへ行かなきゃいけないから、その時に案内しますよ。行く途中にありますから!」
2時半ごろ、2人を連れてまずスーパーへ向かう。2人が買い物を済ませ、イミグレーション・オフィスでトレッキング・パーミットを受け取る。そこで、
「さあ、次は?」
「エッ?次って?」
「どうせ暇なんでしょう?!ついでだから、どこか案内してよ。3回もネパールへ来てるんだったら、案内ぐらいできるでしょ?」
「・・・わかりました(笑)。」
とうとう歩いてまわれる範囲内で、カトマンドゥの街を案内することになってしまった。彼女たちの名前は、牧原さんと降矢さん。まずは王宮前を通り、ホテル・ド・アンナプルナを経てアサン広場、ニューロードへ。「ここはいつもバザールが出てて・・・」「ここがネパール一の繁華街・・・」などと案内する。するとふと、ネパールへ到着した時に知り会った高柳さんと会った。彼は今から日英ネ言語学校へ行くそうだ。
そしてスーパーマッケットという名のデパート。「ここは、僕が知る限りでは、ネパールで唯一エスカレーターがある建物なんですよ」と話すと、驚いたというか笑いながら、「見てみたいね。それにどんなものが売ってるのかも見たいし・・・」で、中へ。エスカレーターでは子供たちが下りのエスカレーターを逆に上ろうとしたり、こんな光景、かつて日本でも見たことがあるなぁ。フレッシュジュースを売る店があって、「ねぇ、喉乾いてない?何か飲もうか?」と言われて、ジュースを飲む。俺の分は彼女たちがご馳走してくれた。ジュースを飲みながら1階まで下りてきたら、そこで今度はシンガポールからの飛行機の中で知り合った高橋さんとも偶然再会した。
さらにそこから、観光案内所を経てダルバール広場へ。ここにもお土産を売るバザール、『生き神様』と崇められる『クマリの館』、『カーラ・バイラブ寺院』などを案内し、インドラ・チョークをのんびり歩き、2時間ほどカトマンドゥの街を彼女たちに案内してゲストハウスへ戻る。またしても、喉が渇いていたのでスプライトをご馳走になってしまった。でも2人にとってはデパートでのジュース代と共に俺に対する『ガイド料』だったのかもしれない。俺自身も久々に観光した気分だ。明日からしばらくブプサへと向かう俺、2人とはこれが最初で最後かもしれないので、そのことを告げ、お互い「ありがとう!」とにこやかに握手した。彼女たちは本当に感謝してくれた。そして4時半過ぎ、シャワーを浴びる。
夕食は、ラサ・レストランでエッグ・フライドライスとエッグ・コーンスープ、ジャスミンティー。ゲストハウスへ戻り、明日の出発の用意、部屋代の精算、手紙の投函依頼。そしてオーナーとアンジュと俺の3人で、また酒を飲む。
それにしても、この日は色々な人と会えたし、パブラムからも電話があったし、楽しい日々を送っている。明日は飛行機のフライトが早いので、8時には寝ることにする。
カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月 3日 (火)
ネパール再会の旅 55 『ある日本人男性と』(再掲)
5月11日(水)晴れ
カトマンドゥ
昨夜も良く眠れず、蚊のうるさい音に悩まされた。それでも9時過ぎには起床し、洗濯とシャワー。10時15分に銀行へ行き150ドル両替。ルクラまで往復飛行機を使うと残りは460ドルだ。意外と使っているな。やはり物価が上がっているせいか?それとも俺が贅沢し過ぎているのだろうか?フィルムの現像は、他の店に出してみるとわずか2時間でプリントできるそうだ。
昼ごろ、アンジュにマッサージを頼んでおいてあったので、レセプションへ行くと、ある若い日本人男性がアンジュとマッサージの交渉をしている。彼はレストランも併設しているヤク・ホテルに泊まっているらしいのだが、マッサージをしてもらおうとあちこちまわっても、「どこで聞いてもボラれているような気がして、何件も回っているんですよ」と言う。そこで、アンジュがカトマンドゥでも5本の指に入るほど有名で優秀なマッサージ師であること、時にはホテル・ド・アンナプルナなどの高級ホテルからも依頼が来るほどだと説明し、料金も妥当だと話すと納得し、彼はアンジュにマッサージを施してもらうことにした。本当は俺の予約の時間だったのだが、順番を彼に譲った。俺はいつでも受けられるから。
1時間ほどしてマッサージを終えた彼は、「いやぁ、気持ち良かったですよ」と、とても満足げな表情で出てきた。さらに初めは500ルピーと聞いていた料金を、アンジュが「俺と同じ日本人だから」と、宿泊客料金の400ルピーにしてもらえたそうだ。彼は関西から来ているそうで、しばらく話していると彼はウマを見て「あの子、きれいですねぇ」と言う。「でしょ!まだ22才で独身ですよ」と話すと、「そんなことまで知ってるんですか?」と驚いていた。その後、彼が宿泊しているホテルのレストラン、つまり俺も何度か利用したことがあるヤク・レストランで昼食を共にする。
そこで彼のトレッキングの話を聞いて、『青山トレッキング・エージェント』の傍若無人ぶりが窺い知れた。例えば、同行していたイギリス人女性がトレッキングガイドから露骨に卑猥な言葉をかけられたり、セックスを求められたこと。何ということだ。そんなエージェントがあっていいものか?!同じツアーに参加していた日本人女性は、体を触られたりしてもニコニコしていたと言う。彼は他の国からのツアー客もいるし、ガイドとその日本人女性をたしなめたところ、「お互いに楽しんでいるのだからいいじゃないか」といったニュアンスの言葉が返ってきたそうだ。もしそれが日本であれば、その女性はたぶんこう言うだろう、「セクハラ!」と。
どちらに対しても、許しがたい事実だ。楽しい思い出を作って帰ることは結構だが、その女性とガイドの場合、フレンドリーとかスキンシップといったレベルではなかったようだし、他の人々は、それを快く思わないこともあるだろう。『ネパールの男性は、女性に対するモラルがない』と誤解されかねない。ガイドはあくまでガイドであって、ホストではない。どちらも勘違いしないでほしいものである。
昼食後、写真の焼き増し分を取りに行き、ゲストハウスへ戻りアンジュにマッサージをしてもらう。明後日、ブプサへ行く前の体の手入れである。そして、ルクラまでの片道のエア・チケットの手配をサンカールに頼んでおく。
7時ごろ、再度ヤク・レストランへ行き夕食。すると昼に会った男も偶然ホテルの部屋から下りて来て、相席して夕食も共にする。彼の名は浦野君で俺より若く、シルクロードや中国を旅したことがあるそうだ。とりわけ中国の旅は、『中国鉄道旅日記』というタイトルで自費出版されたらしい。タイトルと出版社名を聞いて、帰国後「ぜひ読んでみます」と約束した。
*帰国後、実際に彼の著書『中国鉄道旅日記』を近所の本屋に取り寄せていただき、読ませていただきました。ほんのわずかな時間しか彼とはお会いしていませんでしたが、それでも彼の人柄が表れている内容で、とても面白かったです。
9時半ごろまで浦野君と話をしながら過ごす。お互いに似たような考えを持っており、わりと意気投合した。明日は、トレッキング・パーミットの申請をしなければならない。もし、「昼もしくは夜、来られたら来ますよ」と言い残し、ゲストハウスへ戻り、ククリラムのコーラ割りをあおって、11時ごろ就寝とする。
カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて
*この旅日記は1994年のものです。
| 固定リンク
2013年12月 1日 (日)
共演!桜と紅葉 豊田市小原・川見四季桜の里
皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ
早いもので今日から師走。年とともに一年がどんどん短くなっているような気がします。
季節も秋から冬へ。今年は秋があっという間に通り過ぎてしまったような気がします。
「今年は母の状況を考えたら、無理かも・・・」と半ばあきらめていた小原の四季桜。今年も何とか見に行くことができました。
これで4年続けて訪れることになりますが、今までは香嵐渓の紅葉の見ごろに合わせて訪れていたせいか、桜の開花状況が満開とはいきませんでしたが、今年は見事に満開!
真っ赤な紅葉とのコラボレーションが見事でした。
小原の中でも圧倒的な数を誇る『川見(せんみ)四季桜の里』、この季節ならではの絶景、秋に咲く桜と紅葉のハーモニー、どうぞご覧ください。
この小原の四季桜、年々訪れる人も増え先週末の連休は本当にたくさんの人が見に来られたそうです。
昨年、神戸に住んでいらっしゃるプロ友さんが見に来られましたが、その方のお友達が今年やはり神戸からはるばる見に来られました。
さらに私が訪れた翌日、もう一人プロ友さんが訪れています。
お近くの方はぜひ一度は訪れてみてください。本当に素晴らしい光景が待っています。
四季桜を堪能した後は東海地方随一の紅葉の名所・香嵐渓へと向かいました。その様子は後日紹介いたします。
最近のコメント