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2013年11月 3日 (日)

スゴイ日本人がいた! 完結編

皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

早いものでもう11月。あと2ヵ月で新年です。1年の何と早いことか?!
これから年末に向け、せわしくなります。皆様、お身体どうぞご留意ください。

さて・・・
先々週・先週紹介しました西川一三氏の話。今日で最終回です。
モンゴル僧ロブサン・サンボーこと西川一三氏の過酷の旅の結末、どうぞ。

ナム・ラ峠からツァイダム盆地へ、ここはサルタン・ジャムとも呼ばれる難所の一つに数えられていた。崑崙越えは、敵の目を避けるため、シュキンゴール河沿いの険しい道を行かねばならない。

昭和20年夏、チベット高原の奥にある大湿地帯を何日もかけて越えようとしていた。
モンゴルのラマ僧、ロブサン・サンボーに身を代えた西川一三氏は、自分の足で歩きながら、日本人の誰もが知らなかった中国辺境の地形を探り、ラマ僧として携えていた経文の中にモンゴル語で情報を書きつけていった。

やがて、ガルチュー河に出た。しかし橋はない。そもそもモンゴル人は泳ぐことができない。彼はできる。しかしそれを知られたら、日本人であることがバレてしまう。
だが、このとき事件が起こった。1頭のヤク(牛の一種:標高の高い所に棲息する)が河へと逃げ出したのだ。誰かが連れ戻さねばならない。
彼は意を決し、自ら志願して河へ入り、ヤクを連れ戻すことに成功したのである。同行のモンゴル僧たちに大いに感謝され、彼はその後の旅の便宜を図ってもらうことができた。

そしていよいよ、魔のタン・ラ峠へ。(タン・ラの "ラ"はチベット語で峠を意味します)モンゴルの大草原を出てすでに5000kmである。
タン・ラ峠は標高5000mを超える。雪と泥の道を行かねばならない、難行苦行である。ゆっくり登っていかないと、高山病にかかってしまう。毎年何人もの人々や動物たちが、ここで命を落としている。
彼ら一行も、息切れ・頭痛・めまいなど、さながら「死の行軍」の様相を呈していた。登りはますますきつくなる。吹雪の中を、まるで地獄を行くかの如く、彼は進んだ。
疲れと寒さによろめきながら、彼はふとこう思った。
「私は今、仏に近づこうとしているのではないか」と。

そして2日かけて、タン・ラ峠へたどり着く。ここを越えると、ラサまではあと400km。
チベットは高原に浮かぶ「仏の国」である。古来より、インドとも中国とも違う独特の文化が育まれてきた。

そしてついに、神秘の都・ラサへ。モンゴル大草原から丸2年、6000kmにおよぶ命がけの旅であった。
「緑の街、白亜の家々、黄金の屋根。おぉ、その上に毅然とそびえる聖ポタラの宮殿よ。」
彼の心は躍った。

しかし、そのラサで彼を待ち受けていたのは…、
「日本が原子爆弾の攻撃を受けて屈服した」というニュースだ。
彼がラサに着いたのは、日本が敗戦して2か月を過ぎた後だった。彼の使命は、すでに虚しいものとなっていた。
ラサで聞く、祖国敗戦のうわさ。
心臓をえぐる、この不吉な噂を聞くたびに、私の心は火のように燃え、焦燥と不安のどん底に突き落とされた。
「そんなバカなことが・・・。日本が負けたなどと、そんなバカなことが・・・」


その後、彼はどうしたでしょうか?この後の彼については、インターネットでも知ることがで
きます。

今回、3回に分けて書きました内容は、たまたまビデオに撮ってあったドキュメンタリー番組を参考にしました。まさに、「命がけ」の旅でした。文章だけでは伝えきれないのが、残念です。


いかがでしたでしょうか?敗戦という歴史の陰には、このような日本人もいたのです。彼のたどった道、それはまさに「冒険」であり「探険」でもありました。

私は、西川一三氏を「一人の冒険家、または探険家」として、高く評価し、多くの人に知ってもらいたいです。「こんなスゴイ日本人がいたのだ」と。


長々と読んで下さって、ありがとうございます。

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コメント

こんな凄い日本人がいたなんて、ご紹介くださってありがとうございます。
その後の人生もわかりましたが随分長生きされて、しかも亡くなるまで元旦以外ずっと働き続けたとか、これまた驚きました。
退職後毎日休み続けていて恥ずかしくなりました。真似はできませんが心を少しでも質して生きていかねばと思った次第です。


tonaさんへ

彼に与えられた特命は敗戦によって本当に虚しいものとなってしまいました。帰国後の外務省の応対がそれを物語っています。
その様な特命があり実行した人間の存在そのものを隠したかったのかもしれません。
しかし時のGHQは何日にもわたり彼から情報を聞き出しています。
彼が為し得たことがどれほどすごいことなのか、GHQの対応で一目瞭然です。
こんなスゴイ日本人がいたのに、歴史に埋もれてしまっているのが残念で、この記事を書きました。

投稿: tona | 2013年11月 4日 (月) 16時36分

私もその後の様子をネットで見ました。
日本に帰って来た時、外務省は相手にしなかったとか。
勿体ない事をしましたねえ、外務省は。
貴重な情報をGHQにごっそり取られてしまったのですね。
それにしても2008年、まだ最近亡くなられたと言うことに驚きました。


zooeyさんへ

敗戦国である日本の外務省は、彼に与えられた特命そのものを世界に知られたくなかったのかもしれませんね。
しかし、たとえGHQとはいえ敵国の人間だったわけですから、彼の心境はいかばかりだったことでしょう。
彼自身『お国のため』と思って命がけで果たした特命、その情報をGHQに渡すことになるのですから!
亡くなられてまだほんの数年。こんなスゴイことをしたにもかかわらず、世に知られることもほとんどなかったようです。
それが残念で、この記事を書きました。

投稿: zooey | 2013年11月 4日 (月) 19時14分

こんばんわ
初めて知った凄い日本人がいたことを
そして6000Kmに及ぶ命懸けの大冒険の旅
そしてそれは何と虚しいものか
驚くべき強靭な精神力
こんな凄い日本人がいたなんて唯々驚きです
東條英機首相の指令の非現実性
本当にそんなことが可能と考えていたのでしょうか
狂気の沙汰と思わずにはおれません
彼はその犠牲になったのですね


古都人さんへ

彼はきっと戦地で戦っている軍隊の同じ気持ちで、『お国のため』にただひたすら特命を果たそうとしたのでしょう。
しかしそれが虚しいものとなった時、彼の心境はどうだったでしょう?
帰国後彼は外務省に出向くも、全く相手にされず、GHQが彼の存在を知り、連日彼から情報を聞き出したそうです。
彼に与えられた特命、今の時代から考えればおっしゃる通りあまりにも『非現実的』です。
しかしその時代はそれが『可能』と考えられていたのでしょう。彼自身もそれを信じて行動していたに違いないと思います。
当時の日本がいかに愚かなことをしようとしていたか、そしてこんなスゴイことをやり遂げたにもかかわらず世に知られる機会もほとんどないのが残念でなりません。
そんな思いでこの記事を書きました。

投稿: 古都人 | 2013年11月 4日 (月) 20時06分

私はこれだけお苦労をして得た情報をもっと生かせたら、中国のチベット問題にも何か役立てられたかもしれないし、なんか敗戦というだけで片付けてしまってはもったいなかったような気がします。もっともGHQはかなり有利な情報を得ていたのでしょうね。


agewisdomさんへ

この特命そのものが”A級戦犯”として罰せられた東条英機・元首相からのものだっただけに、終戦後の日本、外務省はこの特命を表に出したくなかったのかもしれませんね。
彼が得た情報を外務省がもし聞き出していたら・・・GHQはもちろん周辺諸国から「日本はまた戦争を起こすかもしれない」と勘ぐられたかも・・・そんな気がします。
しかし『国のため』に成し遂げた特命、そこで得た情報を敵国であったGHQに話すことになった時の彼の心境は、いかばかりだったでしょう?

投稿: agewisdom | 2013年11月 4日 (月) 20時53分

こんな特命を受け、「お国のため」と命がけで行動していた日本人がいたなんてまったく知りませんでした。

本当にすごいことですね。

それにしてもこれだけのご苦労の中で得た情報が日本のためにはならなかったなんて。
お気の毒でなりません。


みーこさんへ

第二次大戦では戦死した人もいれば、無事生きて帰ってこられた人もいます。
彼自身、武器こそ携えていなくても特命を成し遂げるため日々孤独と戦い、いつ正体がばれて殺されるかの恐怖もあったでしょう。
そんな過酷な状況で得た情報が、結果的に何の役にもならず、彼の落胆はかなりのものだったでしょう。
戦時中、たとえ軍服を着ていなくても一人戦い続けていたスゴイ日本人がいたこと、一人でも多くの人に知っていただければ、嬉しく思います。

投稿: みーこ | 2013年11月 5日 (火) 17時11分

この記事を読んで昨夜のNHKTVで紹介された
日本人のことを思い出しました。
米国からお金を貰い日本の情報を流していた
多くの人がいたことを・・・
戦後68年もたってようやく明かされたのは
罪悪感が強かったのでしょうね。
苦労の多さは西川さんの場合は並のものでは
なくて、比較の対象にはなりませんが・・・
むなしいことと思われたことでしょう。


matsubaraさんへ

お帰りなさい。楽しくて感慨深い旅だったようですね。
続きも楽しみにしています (^_^)!
うーん…、今さらながら「その様な日本人、いただろうなぁ!」と思いました。
彼らにとって当時はそれも「生きるため」であり「家族のため」でもあったであろうと思います。
決して責めることはできませんね。
しかし、西川氏以外にも直接の戦場ではなく秘密裏にあちこち動いていた日本人がいた、ということでしょうか?

投稿: matsubara | 2013年11月 6日 (水) 22時22分

西川一三著『秘境西域八年の潜行』を借りてきて読み始めました。まだ上巻の三分の一もいきませんが、何しろ凄いとしか言いようがありません。しかし使命を果たそうとする情熱が並みでないです。
ありがとうございました。


tonaさんへ

再びのコメント&西川一三氏自身の著書を読み始めたとのこと、本当に嬉しくこの記事を「紹介して良かった」とブロガー冥利に尽きます。
しかし、紹介しておきながらこの私・・・、その本はまだ読んでいないのです...(^_^;;(^_^;;ハズカシスギィ!
私が紹介した以上の内容が書かれていることは間違いないと思います。
読破しましたら、ぜひその感想を聞かせてくださいませ。よろしく!です。

投稿: tona | 2013年11月 7日 (木) 19時12分

彼のその後については 幸い皆様のコメント欄でわかりました
戦争を通じて過酷な経験をした方が 戦後は頑固に、無口に
厳しい生き方を貫いた、というドキュメントをよく目にします
彼はその最たる事例なのでしょうね

すごくバカなことを書きますが、アイルランドで ワールドカップで
日本が負けたことを アイリッシュパブのバンドのおじさんに
知らされました 残念でしたね、って慰められたのです
あの時の ガッカリ感は 言葉にならない程でした!
平和な時代のお話です~

バンダナは すごくお似合いですよ 昔を思い出してお洒落してみてくださいね! 
 

bellaさんへ

彼の場合、過酷な特命を追いそして成し遂げ帰国したにもかかわらず、彼が得た情報を当時の日本が全く必要としなかったこと、きっと門前払いのような形だったのでは、と思います。
それゆえ落胆し、日本政府への失望などもあったのかもしれませんね。そして固く口を閉ざし、ただひたすら働くことで過去の体験を封印しようとしたのではないでしょうか?
2006年のワールドカップ・ドイツ大会の前年、エルマー宅でTVでサッカーの試合を見ていました。その試合、日本がある国との国際試合だったのですが、日本は負けてしまいました。その時は皆で「残念!」と悔しがりましたが、しかし私は「でも日本はすでにワールドカップの出場権を獲得しているから!」と言うと皆も「オゥ!そうだった!」と笑顔になったのを覚えています。
バンダナ、最近は使う機会もなく・・・、使うとしたら頭に巻いてばかり、です。

投稿: bella | 2013年11月 9日 (土) 17時39分

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