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2013年11月

2013年11月28日 (木)

ネパール再会の旅 54 『アンジュって・・・?』(再掲)

夕方、アンジュに日本へのことを話す。何とかトライしてみると言う。しかし彼女には9才で今6年生の娘さんがいるのだが、大丈夫なのだろうか?当然結婚していると思うのだが、けれど夫は?込み入ったことは聞かない方がいいだろうが、それにしても・・・?普段の彼女を見ていると、夫がいるような雰囲気は全く感じられない。それに、もしいるのであれば、お姉さんの自宅へ俺を招待するはずがない。謎である。

とりあえず3日後にブプサへ行くことにする。ランタンへも行ってみたいが、ここまで来ているからには、やはりあの笑顔が素敵なヤンジーに会わずに帰るわけにはいかない。

それにしても俺の将来、どうなってゆくのだろうか?いつまでもこんな生活を繰り返すわけにはいかないし・・・。それに結婚だって考えなければ。相手は・・・ネパールの子?ジェンテン?ニール?ヤンジー?ウマもまだ独身だって言ってたし・・・。

夜、夕食から戻るとオーナーに呼び止められ、アンジュと共に3人でビールを飲み交わす。ビールはオーナーのおごりだ。他のツーリストに比べ、待遇が目に見えて違ってきている。ビールのつまみが足りなくなると、オーナーが夜勤番のスタッフのアカッシュを呼び、つまみを買いに走らせる。気がつくと10時である。皆それぞれのところへ戻り、11時に眠る。

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オーナーに呼ばれて、他の宿泊客の目も気にせず、レセプションで堂々とご馳走になりました。

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アンジュと。

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夜勤番のアカッシュ。オーナーに命じられ、つまみを買いに走ってくれました。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。 

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2013年11月27日 (水)

ネパール再会の旅 53 『に・日本食だ!』(再掲)

5月10日(火)晴れ
カトマンドゥ

 昨夜、飲み過ぎたのか、なかなか起きられず11時に体を起こす。いったんシャワーを浴び、体を目覚めさせる。12時ごろ、出かけようとしたが、レセプションでスタッフが暇つぶしなのか、皆で歌を歌っている。ネパールの流行歌なのだろうか、歌集を見ながら歌っていた。しばらく一緒にいたが、さすがに歌集を見て一緒に歌えるほどのネパール語の知識はない。

『月の旅行社』へ行って、日本ビザ、航空券について尋ねてみる。ビザ取得はやはり難しいようだ。航空券は、シンガポール航空で950ドル。まあこんなもんだろう。とにかく一度アンジュと一緒に日本大使館へ行って、ダメもとでトライするしかない。

昼食は、オム・マンダラ・レストランにてカツ丼にする。はたしてどんなカツ丼が出てくるやら、期待と不安半々である。しかし、出て来たものを見てビックリ!どんぶりもみそ汁のお椀も日本風のもの。で、肝心のお味は・・・、たしかにカツ丼だ!これはまさしく日本のカツ丼と同じである。これで70ルピーなら安い!日本食が恋しくなったらここだな!

ゲストハウスへ戻り、レセプションでスタッフたちと一緒に音楽を聴いたり、皆で写真を撮ったり・・・。ふと彼らが何やら話し、サンカールが外へ。戻って来ると、彼は人数分のチャイを買って来たようだ。俺の分まであったのでお金を払おうとすると「いいよいいよ」と言う。こうなって来ると、客というより『仲間』になった気分だ。

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スタッフたちと。前列左からアンジュ、私、ウマ、後列左からガンガ、サンカール。

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大笑いしているウマ。

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サンカールと共に。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月26日 (火)

ネパール再会の旅 52 『バブラム宅へ』

5月9日(月)曇りのち晴れ
カトマンドゥ

 明け方まで激しい雷雨。良く眠れぬまま朝を迎え、8時に起床。10分後に早や来客。バブラムだ。こんなに早く来るとは思っていなかったので、慌てて準備する。彼の奥さんも自宅で待っているそうで、彼のバイクに2人乗りして向かう。

現在の彼の自宅は、空港へ向かうちょうど中間あたりにある。2年前のあの狭い部屋に比べ、ずいぶん大きな家の3階に彼らは住んでいた。キッチンにベッドルーム、ちょっとしたオフィスも構え、さながら『青年実業家』だ。ランチョンマットのセットやエプロンなどのハンディクラフト商品を作り、ニューヨークや東京、インドあたりにも輸出しているそうだ。なかなかおしゃれなものもあって、両親や姉、兄夫婦のところへのお土産に少し注文した。そして朝食のダルバートをいただき、皆で写真を撮る。

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92年、当時は狭いアパートで暮らしていたバブラム夫妻。

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バブラムの自宅前で。奥さんがずいぶん垢ぬけた感じがします。

9時半過ぎにゲストハウスへ送ってもらうと、アルジュンが我々の帰りを待っていた。昨日アルジュンに今朝の予定のことを話したら、「久しぶりにバブラムとも会いたいから」と言っていた通り、再びゲストハウスを訪ねてくれたのだ。バブラムはアルジュンが来ているとは思ってもいなかったようで、しばらく3人で楽しく話をしていた。

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再び訪れてくれたアルジュンと。

11時過ぎにシャワーを浴びヒゲを剃り、1時ごろアンジュに「今から日本大使館へ行く」と言って、この日はとりあえず1人で行く。が、午後は2時30分からになっており、近くのレストランへ行き昼食にして時間をつぶす。チキンカツレツとコーラを注文する。このチキンカツレツがまたとなく美味しい。

再び大使館へ行き、日本ビザ取得のために必要な情報を得る。しかし、いずれにしても招待状がいる。『友人だから招きたい』などと言う簡単な理由では、100%間違いなく断られる。何らかの大義名分がないとダメなのだが、果たしてそれが俺に可能なのか?ゲストハウスに戻りアンジュにそのことを話す。アンジュは初めての海外だし、もし可能であれば、俺の帰国時に一緒に行きたいようだ。1ヵ月以内に事がうまく運べばいいのだが・・・。

7時過ぎ、再びバブラムがやって来て「どうしたのか?」と聞くと、「夕食もうちで一緒に食べよう。妻が『今朝は時間があまりなくて、話ができなかったから』と言っているんだ」というわけで、夕食をご馳走になりに行く。

バブラムの家に着くと、まだ支度中だったが、ご飯が炊きあがるまで彼の奥さんも一緒に3人で話をしていた。彼女は嬉しそうな顔でアルバムを1冊持ってきた。その中の1ページを開くと、2年前彼らの小さなアパートに招かれた時に撮った写真があり、彼女は「2年前のことは良く覚えています。昨日主人から話を聞いて、すぐに思い出しました。」と話した。「本当かい?」と聞くとバブラムが、「あぁ、あなたのことを話したら、このアルバムを持ってきて『この人でしょ?』って言ったんだ。そしたら『ぜひ食事に招待して!』って言っていたんだ」。その時の彼女の表情がすごく印象的だった。

そしてダルバートをいただく。すっかり馴染んだネパールの一般家庭の料理。とても美味しい。ダル(豆)スープは、それぞれの家庭で使う豆が違ったりするのだが、どれもこれも美味しい。

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夜もバブラム宅で。バブラムと彼の子供。

バブラムにバイクで送ってもらい、9時30分にゲストハウスに戻る。そしてククリラムを飲み、眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月24日 (日)

世界の絵葉書 その45 ポンペイ遺跡の絵?

皆様、おはこんにちばんは (*゚▽゚)ノ

この週末、すっかり良い天気に恵まれ紅葉狩りなどお出かけになられた方もいらっしゃるでしょう。
私は・・・(。_。)...

愚痴っても仕方がありませんから、話題を変えましょう。

久しぶりに『世界の絵葉書』です。
しかしこの写真は・・・何でしょうね?

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タイル画のようですが、それにしてもすごく勇ましい犬だ!

イタリア・ポンペイの絵葉書です。
ポンペイの遺跡のどこかに残されていたタイル画でしょうか。しかし古代、すでにこのような芸術が存在していたことに驚きです。

差出人はかつてネパールでお会いした日本人女性のMさん。琴の演奏家で世界中で演奏活動を行っていらっしゃいます。
イタリアへは母上様とお嬢様の親子3代と友達2人とで訪れたようです。

ところがこの絵葉書、何かの手違いで航空便ではなく船便で届いたようです。絵葉書に『この航空郵便物は、○月○日イタリアから船便で到着しました。・・・・・・深くお詫び申し上げます。神戸中央郵便局国際郵便課』と書かれた付箋が付けられていました。
イタリアから2ヵ月以上かかって届いたようです。そんなこともあるのですねぇ。

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2013年11月21日 (木)

ネパール再会の旅 51 『パブラム、アルジュンとも再会』(再掲)

昼食は、ラッキー・チベッタン・レストランにてバフチョウミンにバニララッシー、ミルクコーヒーとする。いったんゲストハウスに戻り、3階バルコニーでアンジュと話していると、「弟のパブラムがやって来たわ」と話すので、「ここへ連れてきて」と俺は言った。パブラムもまた、かつてのスタッフだったのだ。アンジュがパブラムを連れてくると、彼も俺のことを良く覚えていて再会を喜んでくれた。彼は「あれから子供が生まれ、事業も始めた。家も引っ越しして大きなところに住んでいる。」と話していた。

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92年に撮ったアンジュとパブラム姉弟。

パブラムが帰って数十分後、彼から電話がかかって来た。「ゲストハウスまで迎えに行くから、明日の朝、我が家で一緒に食事をしよう。妻も大歓迎だから!」と誘われ、お招きにあずかることにした。

その後もアンジュと話をしていると、ふいにポンと肩を叩かれ、振り向くと、やはりかつてのスタッフ(キッチンボーイ)だったアルジュンが!
「おぉーっ!アルジュン!ナマステ!」
「ナマステ!久しぶり!覚えていた?」
「もちろんだよ!」
「久しぶりにこの近くへ来たから寄ってみたんだ。そしたら、あなたが来てるって下で聞いたから!まさかあなたが来ているとは思わなかった!」と話していた。
今は、やや郊外にある大きなレストランで働いており、2年前に俺と出会って以来、空手を習い続けているらしい。彼の兄のタラは、すでに結婚して田舎に帰ってしまったそうだ。それにしても、さすがに皆よく覚えていてくれた。お互いに2年ぶりの再会を喜び合った。

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これも92年に撮ったアルジュン。このとき高校時代の体育祭の応援で覚えた空手の型を教えていたのですが、それがきっかけで空手を本格的に習い始めたそうです。

3時にイミグレーション・オフィスへビザを取りに行き、ゲストハウスの部屋で少し休憩した後、4時30分に写真の焼き増しを受け取りに行く。夕食までの間、部屋でアンジュと話し、アンジュの日本行きのためのビザが取れるかどうか、明日にでも日本大使館へ行ってみることにする。

6時半すぎ、ラッキー・チベッタン・レストランにてバフ・ステーキにジャスミンティーで夕食とする。7時30分ごろ戻り、シャワーを浴びTシャツなどの洗濯をして、ククリラムのコーラ割りを飲みながら時間を過ごし、11時過ぎに眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月20日 (水)

ネパール再会の旅 50 『西遊旅行社にて』(再掲)

5月8日(日)晴れのち曇り夜雷雨
カトマンドゥ

 9時起床。シャワーは水が出ず、昨日あまり汗をかいていないことだし、まぁいいか。10時、写真の焼き増しを頼んでおき、次のトレッキングの目的地であるブプサの地理を尋ねに、あちこちのエージェントをまわる。しかし、どこで訊いても詳しいことは分からず、最後の砦に日本語の通じる『西遊旅行社』へと向かう。
*かつてエヴェレスト街道トレッキング中に出会ったヤンジーが、カリコーラ村からブプサという村に引っ越したようで、彼女にもう一度会いたいのでブプサの場所を聞いてまわっていたのです。

『西遊旅行社』で事情を説明し、場所を尋ねてみると、スタッフはたまたまオフィスでトレッキングツアーの準備をしていたガイドたちに訊いてくれた。すると、どうやら彼らは知っていたようで、「カリコーラから急な坂を登って行って、お寺のあるところがブプサです。」と教えてくれた。そして「ルクラ バーター ブプサ サンマ カティ ガンタ ラグツァ ?(ルクラからブプサまで何時間かかりますか?)」と直接彼らに尋ねると、「サート ガンタ アート ガンタ (7~8時間)」と教えてくれた。俺が「ルクラからその日のうちに行けるかな?」と言うと、日本語が堪能なスタッフは「以前ジリからカラ・パタールまで歩いたというあなたなら、大丈夫でしょう。その日の朝、カトマンドゥを出て夕方には着けるでしょう。」と、俺の不安を吹き飛ばすかのように、あっさりと答えた。

彼はさらに「あなたは前にもここへ来たことがありますよネ?」と尋ねた。俺は、
「エェ、ありますよ!」と答えると、
「やっぱり!あなたがここへ入って来たときに、すぐに分かりました!」と、笑顔で話してくれた。俺は決して『西遊旅行社』を利用して来ているわけではない、にもかかわらず『日本語が話せるスタッフがいる』ということだけで、図々しくもここへ相談に訪れているだけ。前回もそうだった。そんな俺を、2年前に来たことを覚えていてくれた上に、快く迎えてこちらの話を聞いてくれた。「いいですヨ!どうせ暇ですから!」と言いながら。

そして、時間と体次第だが、もしランタン・トレッキングへ行くとしたら、そちらはトレッカーも少ないし、初めて行くコースなので「一人で大丈夫でしょうか?ガイドを雇った方がいいですか?」(これは、相談のお礼に、もしガイドが必要なら、ここで手配してもらうつもりでいた)と尋ねると、彼は笑いながら「あなたは前にもネパールへ来たことがあるし、ネパール語もできますから必要ないでしょう!もったいないですよ。もし雇うのならポーターを雇ったほうがいいです。現地まで行けばすぐに見つかります。道も良く知っていますから、ガイドの役目もしてくれるでしょう。」とアドバイスしてくれた。
うーん、商売気がない、というか日本なら「よろしければ手配しますよ」と答えるところだろうが・・・。
*ガイドとポーターでは、支払う賃金が大きく違います。ガイドの場合1日数ドル($(8~10)に加え、彼らの宿泊費・食事代も雇う側が持たなければならない。ポーターは、1日2~300ルピー($5~6)のみで、彼らの宿泊費も食事代も支払う必要はない。

2年前に出会ったヤンジーには当然会いたいし、まだ見ぬランタンへも行ってみたい。ビザはとりあえず3週間延長しておこう。

他にも色々な情報を『西遊旅行社』から提供してもらった。例えば、本格的にネパール語を習いたいのなら留学して1~2年のコースどちらかを選び、授業料は年間$500。生活費は、部屋代が1ヵ月3~5000ルピー、計$200ぐらいかかるそうだ。この後帰国したら、しばらく働いて再びネパールへ来ようか?アランさんのようにネパールに住んでみようか?

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月19日 (火)

ネパール再会の旅 49 『アンジュの姉宅へ』(再掲)

5月7日(土)晴れ
カトマンドゥ

 8時30分起床。トレッキング中の習慣のせいか、それとも早く寝たからなのか、6時に一度は目が覚める。まずシャワーを浴びる。朝食は、パンとコーラを買ってきて部屋で食べる。その方が安上がりだ。バルコニーでボーっとしていると、ゴビンダがやって来た。今年の秋に日本へ行くと話している。2週間のツーリスト・ビザが取れるらしい。しかし、そう簡単に取れるとは思えないが・・・。
*彼が実際にビザを取得し来日したのは、それから数年後のことでした。

ふと下を見ると、ポカラそしてタトパニでも会った織田さんと都築さんが歩いている。バルコニーから呼びかけると、彼らも気づいてくれた。彼らは飛行機のストライキの影響で急遽、明日帰国することになったらしい。この日はお土産の買い出しで1日つぶれそうだって。

11時30分、一昨日の約束通りアンジュと彼女のお姉さんの家へ行く。だが面倒なことが一つある。男女交際については、まだまだ遅れているこの国。2人だけで歩いている姿を目撃されるだけで、何かと噂される街。予め打ち合わせたとおり、ゲストハウスを別々に出てしばらく行った道の角で何食わぬ顔をしてアンジュを待ち、お互いさりげなく目配せし、アンジュがオートリクシャとの料金交渉が成立してから俺に合図をし、周囲に知り合いがいないかどうかを確認して、オートリクシャに俺も乗り込む。実に用心深くやらなければならない。
*私が料金交渉すると、当然ツーリストプライスになります。アンジュ1人だけで交渉すれば、ネパリー料金。で、そのあと私が彼女の合図と共に一緒に乗る、ということです。

彼女の姉の自宅は、やや郊外にあり、ネパールでも1・2を争う高級ホテル、『ソルティ・オベロイ』のすぐそばだ。このホテルは初めてこの国を訪れたとき、カジノを楽しんだところ。そのホテルのすぐ近くだから、いやがうえにも場所を覚えることができる。その自宅はとても大きくて、家の中へ入るとアンジュの姉夫婦が出迎えてくれた。

彼らはアンジュが連れてきた思いがけない日本人客の訪問にも、大歓迎してくれた。アンジュの姉、ウタンさんはいたって明るく陽気で、カナダ人の夫アランさんは62才で敬虔な仏教徒だそうだ。アランさんは自室に小さな祭壇を祀り、「ここは私のパラダイスだ」と話していた。我々日本人も仏教徒ではあるが、彼のこの敬虔な姿、信仰心の強さには、何か感じるものがあった。

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左からアランさん、ウタンさん、アンジュ、俺。

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ウタンさんとアンジュ姉妹で!

4人でウィスキーを飲み交わし、写真を撮ったり音楽を聴いたり。ラジカセからはイーグルスの『ホテルカリフォルニア』が!歌に合わせて口ずさんでいるとウタンさんも一緒に歌い始め、お互いにニッコリ!テーブルの上に2つの新聞。ひとつは英字、もうひとつはネパールの新聞。ネパール語で書かれた新聞名を見て俺は「ゴルカパトラ?」と聞くと、合っていた!これにはウタンさんもアランさんもビックリ!アランさんはもう数年ネパールに住んでいるのに、ネパール語を話せないし、まして読むことなんかできないそうで、本当に驚いていた。

アランさんが一番好きなお酒は『ブラディマリー』だそうだ。それを聞いて俺も嬉しくなった。俺も大好きなカクテルだし、ネパールまで来るシンガポール航空の機内サービスで『ブラディマリー』を1杯2杯と飲んだことを話すと、彼はとても喜び、好きなお酒が同じだということで、俺のことをたいそう気に入ってくれたようだ。アンジュは本当はほとんどお酒は飲めないのだが、「全く飲まないと姉が怒るし、少しでも飲めば姉は喜ぶから!」と言って水割りを飲んでいた。

夕食までご馳走になり、気がつけばもう8時半。さすがにそろそろ帰ることにする。アンジュとオートリクシャに乗り俺はゲストハウスの少し手前で降ろしてもらう。万が一、誰かに見られるとすぐに噂になるから、慎重に行動しなければならない。2人だけの秘密ができたようで、こういうのって何となく楽しい!9時ごろ戻り、ウィスキーで酔っているせいか、そのまま眠る。

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初めてお会いしたアランさん、ウタンさんともすっかり打ち解け合いました。それを一番喜んでいるのは・・・、アンジュかも?!

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アランさん、ウタンさんのラブラブぶり!ペットの『チャボ』と共に!

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月17日 (日)

ブルートレインがなくなる・・・

皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

この週末は小春日和の良い天気で、お出かけされた方も多いのでは?
私は・・・、諸所諸々の事情でどこへも出かけることができません。
この秋、紅葉を見に行くこともできるかどうか・・・(-_-)ウーン...

先日の新聞に『昭和駆けた青 終着 ブルートレイン全面廃止へ』という記事が載っていました。
若いころ周遊券を持って北海道や九州へ旅した際、ほんの数回ですが利用しました。
また、私が『鉄ちゃん』だった高校時代にはブルートレインに憧れ、写真を撮りに行ったりもしました。

そのブルートレインが2015年度末までに全面廃止される方向で検討されているそうです。
飛行機や新幹線の路線拡大とともに、利用者が減る一方だったブルートレイン。今では上野~青森間の『あけぼの』と上野~札幌間の『北斗星』しか残っていないそうです。
(ブルートレインとは、青い塗装の寝台車を機関車がけん引する夜行特急の愛称。カシオペアやトワイライトエクスプレス、サンライズ出雲・瀬戸は寝台特急ではありますが、ブルートレインではありません。)

時代の流れとはいえ、やはり寂しさを感じます。
私が乗ったことがあるブルートレインは、『みずほ』『さくら』『ゆうづる』、そして今も走っている『あけぼの』の4つだけ。それでも旅の始まりや終わりを素敵に演出してくれた列車。

♪ピィーッ♪という電気機関車の警笛、窓の外を流れていく街の灯り、やがて電気が消され列車の振動を揺りかごに旅への期待を夢見たり、旅の思い出を振り返ったり・・・。

この新聞記事を見て30年以上昔の旅を思い出しました。「若かったなぁ!」と思いながら。

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かつての夜行寝台特急『さくら』。東京~長崎・佐世保間を走っていました。この愛称は今では九州新幹線に。

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長崎から東京へ向かう『さくら』。長崎駅にて1981年撮影。

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2013年11月14日 (木)

ネパール再会の旅 48 『帰郷(?!)して』(再掲)

5月6日(金)晴れのち曇り夕方より雨
カトマンドゥ

 8時ごろ起床。ピザ用の写真を撮るため、髪を洗い髭を剃り、シャワーを浴びる。9時ごろ、ネパール・カラー・ラボ(写真屋)へ行き、ピザ用の写真を撮ってもらい、これまでのフィルムのプリントを頼んでおく。

朝食はラクシミ・ナラヤン・レストランにて、コンチネンタル・ブレックファスト(60ルピー)にする。そして街をぶらぶらと散歩し、使い捨てライターのガスチャージ屋がいたので、ほとんどガスが無くなっていたライターにガスを充填してもらう。わずか2ルピーで100円ライターが甦る。そして銀行で100ドル両替しゲストハウスへ戻る。

ゲストハウスでは、昨日は会えなかったスタッフたちが、愛想よく「ナマステ!帰って来てたんだ」と笑顔でごあいさつ。そしてアンジュにマッサージを施してもらう。かなり疲れがたまっているようだ。もう1~2回受けた方がいいかな。

昼食はラッキー・チベッタン・レストランにてチキン・ヌードルスープとレモンソーダ。午後、頼んでおいた写真が出来上がり、アンジュやウマなどスタッフたちと写真を見ながらふざけ合う。皆、各々のソロの写真をもらって嬉しそうだ。アンジュはさっそく何枚か持って行ってしまった。そして、カグベニやマルファ、ポカラ、ソウラハへも写真を送るため、手紙を書く。

夕食は、今日はステーキにする。たまには『(肉の)かたまり』も食べたいし、栄養をつけないと。しかし、5本のフィルムを現像したが、フイルムが悪いのか、技術が悪いのか、一部ダメになってしまった。特に、タルーの人々と一緒に撮った写真が無くなったのは悔しい。時は2度と戻らないから・・・。他にも未現像のものもあるし・・・。写真を肴に、ククリラムを飲み、10時に眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月13日 (水)

ネパール再会の旅 47 『カトマンドゥへ戻れた』(再掲)

5月5日(木)晴れ
ソウラハ9:20(ジープ)9:45タディバザール11:00(バス)18:00ごろカトマンドゥ

 7時起床。出発の用意を整え、8時ごろ朝食にする。昨夜のうちにオーダーしておいたコーンフレークにトースト。朝はこれぐらいがちょうどいい。少し休憩し、皆で写真を撮る。ストライキのせいで1泊余分に滞在したのだが、ロッジの方々のご厚意で1泊分の部屋代はサービスで、食事代だけ支払うことになった。彼らは俺がここへ来る前、ポカラでもアクシデントで1泊余分に宿泊していたことを知っていたのだ。だから、気を遣ってくれたようだ。

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ロッジのスタッフとガイドのテジンドラ君。

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ロッジの部屋の前で。

9時20分、ソウラハを出てタディバザールまでジープで向かう。9時45分に到着。カトマンドゥ行きのバスが出るまで、まだ1時間以上ある。近くのチャイ屋で時間をつぶし、11時発のバスに乗り込む。蒸し暑い中、バスはひたすら走る。ムグリンへは12時45分。さらにその先にあるドライブインのようなところで、バスは小休止した。食欲があまりないせいか、コーラやファンタにばかり手がのびる。汗が流れ出てくる。

バスは東へとひた走り、低地からカトマンドゥ盆地へと上って行く。が、カトマンドゥの街の中まで行かずに、バスはストップ。どうやらまだストライキの影響があるらしい。そういえば、2年前にも似たようなことがあった。ダージリンからカトマンドゥへ戻って来る時、街まで入ることができず、同じところ辺りで降りたような・・・。今日も乗客は皆降りて、それぞれの目的地へと向かう。俺もオートリクシャを拾い「タメルまで」と告げ、マナスル・ゲストハウスへと帰って行く。

6時20分、3週間ぶりに帰って来た。シャワー・トイレ付きのシングルを200ルピーで借りる。何しろ、自分の手で洗いたいものも多いし、好きな時にシャワーを浴びたいから。しかし、80ルピーの差はランドリーサービスの方が安くついたかも・・・。

7時ごろ、ヤク・レストランにてトマト・エッグスープにポークチョウミン、レモンコーラで夕食とする。しめて80ルピーだ。ゲストハウスに戻ると、アンジュに声かけられ1時間ほど話をする。「この後のトレッキングのあと、カカニやバクタプールへも行ってみたい」と言うと、「誰と?」と聞くから、「アンジュ、一緒に行こうよ」と誘ってみると「OK!」の返事。本気かな?また、「明後日の土曜日、姉の家へ行くのだけど、一緒に行かない?姉の夫はカナダ人なの」と逆に誘ってくれた。俺ももちろん「OK!」と答えた。No.1のネパールのガールフレンドができたかな?その後、洗濯にシャワー、ククリラムのコーラ割りを飲んで、11時ごろ眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月12日 (火)

ネパール再会の旅 46 『またしても・・・』(再掲)

5月4日(水)晴れ
ソウラハ

 6時起床。夜中から明け方の間は涼しい。朝食前に、早朝のバードウォッチング。名前まではよく解からないが、いろんなのがいるワ。インコまでいるのを見ると、我が家の『ヒメちゃん』は、正直言ってかわいそうなのかな・・・。タルー族の人々の村を通り、ロッジへ戻る。すると「今日、カトマンドゥへ帰れないかもしれない」という話が出てくるではないか!理由を聞くと、どうやら、交通ストライキがあって、バスは全く走っていない、とのこと。もし本当だとしたら、ここでもまた滞在が1日延びるわけだ。これもネパールを旅する者の宿命か。いずれにしても、ガチガチのスケジュールは立てるな、ということだ。ナイトバス(夜行バス)は走るかもしれないそうなので、もし走るのなら手配をお願いしておく。
*『ヒメちゃん』は、当時我が家で飼っていた赤目で全身黄色のセキセイインコ。手乗りでしたが、それは私に対してのみ!私の言うことしか聞かない子で、私以外の人の手には、滅多に乗らない子でした。

朝食は、コーンフレークにオムレツ、パンケーキにミルクティーが出されたのだが、暑さで食欲が減退しているせいか、パンケーキまで手が出ない。2泊3日のプランでのチケットだったので、この日のスケジュールは空白だ。昼までロッジで体を休め、そして一人でのんびりと外出する。しかし、少し動くだけでも汗が流れてくる。ビールを買って飲んだのだが、この村には電気がない。故に、全く冷えていない。かえって汗の量が増えるだけだったかもしれない。そして、チトワンを訪れた記念にTシャツを2枚買う。「レッソム・フィリリを歌うから、少しまけてよ」と言って『レッソム・フィリリ』を歌うと、大喜びでまけてくれた。

1時にロッジへ戻り昼食。ベジタブル・エッグチョウミンにする。再び体を休める。このクソ熱い中、そうそう歩き回れるもんじゃない。この日のナイトバスでカトマンドゥへ戻るつもりでいたが、どうやらそのバスも走るかどうか分からないらしい。開き直ってもう1泊することに決める。しかし、心配なのは財布の中身だ。カトマンドゥで両替するつもりで、ぎりぎりの現金しか持っていない。この村に銀行はないし・・・。まぁ何とかなるか。

夕方、テジンドラ君が来て、「サイの赤ちゃんがいるから、見に行こう」と誘いに来てくれた。本来ならこの時間、カトマンドゥ行きのバスに乗っているはずなので、彼のガイドとしての役目はもう終わっているのだが、ストライキで動けないことを知って、来てくれたようだ。彼自身もこの日、ガイドの仕事がなかったみたいだ。

村の中をのんびり歩き、チトワンの中でも高級なロッジまで来ると、そこで例のサイは飼われていた。庭に行くと、放し飼いで全く人を恐れない小さなサイが1頭いる。小さくても体は鎧をつけているかのように硬い。触ってみても嫌がる素振りもなければ、愛想を振りまくこともない。知らん顔して歩いて行った。

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ジャングルサファリのガイドをしてくれたテジンドラ君と、サイの赤ちゃん。

帰り道、陽も暮れかかって、ちょうどこの日オープンのレストランがあったので、そこで夕食にする。オープニング記念の最初の客ということで、額にティカをつけてくれた。ビールやチャンを飲みながらポテトチップスを食べる。しばらくしてレストランのスタッフが「1人100ルピーお支払いいただければ、タルー・スティック・ダンスを披露できます」と持ちかけられ、他の客(ツーリスト)と共に1人100ルピー支払って、再びタルー・スティック・ダンスを見ることにした。

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まさか再びこの伝統的なダンスが見られるとは・・・!

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レストランにいた客だけのために、特別に披露された催しでした。故に、観客もわずかしかいませんでした。

9時ごろロッジに戻り、シャワーを浴びて10時には眠ることにした。

ソウラハ、チトワン・レストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。 

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2013年11月10日 (日)

美しき地球 その7

皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

今年は夏が長く、あっという間に冷え込みが来て秋がとても短いように感じます。
皆様、お身体いかがでしょうか?風邪などひいておられませんか?

今年初めに送られてきたエルマー&アンジュラからのEメールに添付されていた写真、その中にあったとても美しい中の写真、今回が最後の風景写真です。
相変わらずどこなのか分からない写真があります。またご教示いただけたら幸いです。

では、最後の3枚、ご覧ください。

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これは・・・人々が暮らしている住宅なのでしょうか?屋上もバルコニーも草花で見事に彩られていますね。
*zooey様のコメントより、タイ・プーケットにあることが確認できました。
zooey様、ありがとうございました m(u_u)m!

26
ここは・・・どこでしょう?ヨーロッパ・アルプスの麓のような気がしますが・・・。
*tona様、きゃぶ様からのコメントから、オーストリア・ハルシュタットの街のようです。
私の予想したエリアとも近かったです。
tona様、きゃぶ様、ありがとうございました m(u_u)m!

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ここは?!あるプロ友さんがほんの2ヵ月ほど前に訪れた、アフリカ・ビクトリアの滝ではないでしょうか?

このシリーズ、毎回3枚ずつ21枚紹介しました。まだまだ私たちが知らない世界、たくさんありますね。
そしてさらに多くの絶景がこの地球にはあるのでしょう。
皆様のブログでも、これらに負けないほどの絶景、何度も拝見させていただきました。

本当に地球って素晴らしい星ですね。

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2013年11月 7日 (木)

ネパール再会の旅 45 『ジャングルサファリって?!』(再掲)

5月3日(火)晴れ
ソウラハ

 6時30分起床。蚊帳を吊って寝たのだが、それでも蚊が多く、虫よけスプレーの効果も薄い。明け方にやっと少し眠れた感じだ。今日も暑くなりそうだナ。急いで朝食(ムスリー、トースト、フライドエッグ、コーヒー)を食べ、15分遅れの7時15分にジャングルサファリへスタート。

まず初めは、カヌートリップ。木の真ん中をくりぬいただけの丸木のカヌー。「こんなので大丈夫か?」と不安だったが、意外と丈夫であった。

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何ともシンプルなカヌーで、川を行きます。すると・・・、

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水牛がいました。

そしてジャングルウォーク。鹿の姿を見かけ、後ろ姿を目で追っていたら、数10m先をサイが横切っている。ガイドのテジンドラ君が「危ないから隠れろ!」と言う。サイは時々人間に突進してくることがあるらしい。突然のことに唖然とし、シャッターチャンスを失ったが、しばらくして木に登って周りを見ていると、やはりまだ近くにいた。他に、猿、野豚、様々な鳥を見かけた。

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タライ平原の道を歩きます。後ろに見える動物は・・・?たぶん、野豚!

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ジャングルに消えたサイを探しました。

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分かりにくいですが、真ん中辺にサイがいます。

いったんロッジへ戻るのだが、途中で映画の撮影をしているところに出くわした。ネパリースンダリ(美人)の妖しげなダンスに、地元の人々は魅入っていた。

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映画の撮影シーン。この役者さん達、実はこの後カトマンドゥで偶然また見ることになりました。

昼食はベジタブルスープとベジタブル・スプリングロールが提供された。お好み焼きのような味で、とても美味しい。そしてコーラ。食べているだけでも、汗ばんでくる。1時20分過ぎに再び出かけ、2時よりジープサファリでジャングルへ。このコースとは別に『エレファントサファリ』もあるのだが、いかんせん料金が高い!

ジープでジャングルの中を走る。が、俺が期待したベンガルタイガーは見ることができず、ワニも途中立ち寄ったワニ園で見ただけ。川岸にいるインドサイは見かけたが。しかし、ジャングルに沈む夕陽は、とてつもなく大きく、美しかった。

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真ん中の川岸に、インドサイがいます。分かりにくいですが・・・(^_^;;

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ワニ園で見たワニ。

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本当は、こんなシーンを見たかった・・・。(これはもちろん、絵葉書です。)

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野鳥もたくさん棲んでいます。

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タライ平原の様子。

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タライ平原に沈む夕陽。

夕食はマカロニのチーズソースあえとライスプディン。マカロニは今一つであった。ここでは食事は、日本の旅館などと同じように提供される。たぶん、宿泊料かジャングルのガイド料に含まれているのだろう。それより、やたらと水分を欲する。コーラ、ファンタ、ミルクティー・・・。これだけ暑いところだから、その分汗をかくし、仕方がないか。シャワーを浴び、虫よけを塗り、8時30分ごろ休む。

ソウラハ、チトワン・レストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年11月 6日 (水)

ネパール再会の旅 44 『タルー族の村で』(再掲)

日も暮れようとする頃、このタライ平原に住むタルー族の村を訪問しに行った(これもガイドのカリキュラムの一つ)。民家は質素な造りで、窓がほとんどなく、中はずいぶん煙っている。この辺りはマラリアに侵されやすい土地で、蚊の侵入を防ぐために、そのような造りになるのである。突然の異邦人の来訪にも、快く迎えてくれた(と言うか、もうすっかり慣れている)村人たちに、ガイドのテジンドラ君に促されお礼に『レッソム・フィリリ』を歌うと、これがバカ受け!家の中を見せてくださった主人は大喜び、そばにいた子供たちは「日本人が『レッソム・フィリリ』を歌っているよ!」とでも言いながら大騒ぎ。その声を聞いた他の村の人々が集まり「私たちも聞きたいから、もう一度歌ってくれ」と、再度歌うハメに!今度は少し踊りながら歌った。歌い終わると、皆拍手して喜んでくれた。すっかり打ち解けて、一緒に写真を撮ったりもした。

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タルーの人々の前で踊りながら『レッソム・フィリリ』を歌いました。(^_^;; ハズカシ

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タルー族の人々。実際にはもっとたくさん集まっていました。

タルー族の村の訪問を終えると、ロッジの前の広場で『タルー・スティックダンス』の始まりだ。棒や羽根のついた太鼓を打ち鳴らし、勇壮に踊る。大きな音を立てるのは、野生の動物を近づけないための知恵らしい。初めは見ていただけなのだが、またまたガイドのテジンドラ君が俺に「一緒に踊ろう」と輪の中へ。最後は他のツーリストも輪の中に加わり、皆一緒になって踊る。これがけっこう疲れる。

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太鼓を打ち鳴らす人、棒を持って踊る人、なかなか勇ましい踊りでした。

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こちらは鼓によく似た太鼓で『タブラ』。

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見物のツーリストの中では、真っ先に輪の中へ入って踊らされ(?)ました。

ロッジへ戻ると、もう8時30分だ。すると夕食が用意されていた。チキンステーキにライス、スープにコーラが振る舞われた。なかなかウマイ。ダンスで疲れた後だけに、夕食後9時15分には眠ることにした。

ソウラハ、チトワン・レストハウスにて 

*この旅日記は1994年のものです。   

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2013年11月 5日 (火)

ネパール再会の旅 43 『チトワン国立公園へ』(再掲)

5月2日(月)晴れ
ポカラ7:00(バス)11:30タディバザール11:35(ジープ)12:00ソウラハ

 5時15分起床。軽くシャワーを浴び朝食。今日こそチトワンへ行けるかな?ゲストハウスから名刺3枚託された。チトワンやカトマンドゥで『ポカラへ行く』人と会ったら渡してほしい、ということだ。よくあるパターンだ。

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ゲストハウスのスタッフたちと。彼らが着ているTシャツのデザイン、分かりにくいかもしれませんが、日本とネパールの国旗が描かれています。真ん中が、日本語を勉強中のパスカル君。

7時過ぎ、バスがやって来た。昨日のことがあったので、ホッとした。バスはムグリンまではカトマンドゥへの道と同じ。そこで小休止し、そしてインド国境方面への道を走りタディバザールへと向かう。途中のナラヤンガルの街は大きく、サイクルリクシャが大活躍している。ナラヤンガルを出ると、いよいよ平原を走り10分ほどでタディバザールだ。11時30分着。

バスを降りると、予想通りたくさんの客引きたちに囲まれたが、あらかじめ紹介してもらっていたホテルの名前を叫ぶと、一人の男が名刺を持って現れ、見ると間違いなく紹介されたところだった。男は俺をジープへと案内し、他に客はつかまらなかったようで、俺1人乗せてホテルへと向かうことになった。ジープは未舗装の道を南下し、浅い川を横切り、ジャングルに近いソウラハの村へと走った。そして、チトワン・レストハウスにチェックイン。12時である。

この辺りの特徴か、土壁づくりに茅葺の屋根。部屋はトイレ・シャワー付きで、ベッドには蚊帳が吊ってある。この辺りはかつてはマラリアが大流行したところだ。それだけに、蚊帳があるのは嬉しい。ここへ来たからには、当然サファリを楽しみたいので、ロッジのスタッフに手配を頼んでおく。それにしても暑い!ジッとしていても汗ばむ。Tシャツにランパンでも暑くて、いったんシャワーを浴び昼寝とする。

ここチトワン国立公園でのジャングルサファリは、必ず資格を持ったガイドの案内で周らなければならない。4時にガイドのテジンドラ君が迎えに来て、まずはエレファントパークへ。ここにいる象は、人間によって訓練され、ジャングルガイドや密猟者のパトロールに出るそうだ。テジンドラ君に誘われて、象の餌を持って「ナマステ(こんにちは)!」と言うと、象が右後ろ脚の膝を曲げ、頭を下げてお辞儀をしてから餌をもらうではないか!これには驚いた、というかカワイイというか・・・。

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餌を持って「ナマステ!」と言うと、象もこのように挨拶してくれます。とても礼儀正しい象でした。(写真が斜めですみません (^_^;; )

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その後このように長い鼻を使って、餌をいただきます。

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象の親子。

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これも、象の親子。子象がいるの、分かりますか?

帰り道では、歌を歌ったり茶店でロキシーを飲んだり・・・。テジンドラ君は俺のネパール語や歌には驚いたようで、ネパール名で『マガルマイラ』という名を俺に与えた。

*この旅日記は1994年のものです。   

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2013年11月 3日 (日)

スゴイ日本人がいた! 完結編

皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

早いものでもう11月。あと2ヵ月で新年です。1年の何と早いことか?!
これから年末に向け、せわしくなります。皆様、お身体どうぞご留意ください。

さて・・・
先々週・先週紹介しました西川一三氏の話。今日で最終回です。
モンゴル僧ロブサン・サンボーこと西川一三氏の過酷の旅の結末、どうぞ。

ナム・ラ峠からツァイダム盆地へ、ここはサルタン・ジャムとも呼ばれる難所の一つに数えられていた。崑崙越えは、敵の目を避けるため、シュキンゴール河沿いの険しい道を行かねばならない。

昭和20年夏、チベット高原の奥にある大湿地帯を何日もかけて越えようとしていた。
モンゴルのラマ僧、ロブサン・サンボーに身を代えた西川一三氏は、自分の足で歩きながら、日本人の誰もが知らなかった中国辺境の地形を探り、ラマ僧として携えていた経文の中にモンゴル語で情報を書きつけていった。

やがて、ガルチュー河に出た。しかし橋はない。そもそもモンゴル人は泳ぐことができない。彼はできる。しかしそれを知られたら、日本人であることがバレてしまう。
だが、このとき事件が起こった。1頭のヤク(牛の一種:標高の高い所に棲息する)が河へと逃げ出したのだ。誰かが連れ戻さねばならない。
彼は意を決し、自ら志願して河へ入り、ヤクを連れ戻すことに成功したのである。同行のモンゴル僧たちに大いに感謝され、彼はその後の旅の便宜を図ってもらうことができた。

そしていよいよ、魔のタン・ラ峠へ。(タン・ラの "ラ"はチベット語で峠を意味します)モンゴルの大草原を出てすでに5000kmである。
タン・ラ峠は標高5000mを超える。雪と泥の道を行かねばならない、難行苦行である。ゆっくり登っていかないと、高山病にかかってしまう。毎年何人もの人々や動物たちが、ここで命を落としている。
彼ら一行も、息切れ・頭痛・めまいなど、さながら「死の行軍」の様相を呈していた。登りはますますきつくなる。吹雪の中を、まるで地獄を行くかの如く、彼は進んだ。
疲れと寒さによろめきながら、彼はふとこう思った。
「私は今、仏に近づこうとしているのではないか」と。

そして2日かけて、タン・ラ峠へたどり着く。ここを越えると、ラサまではあと400km。
チベットは高原に浮かぶ「仏の国」である。古来より、インドとも中国とも違う独特の文化が育まれてきた。

そしてついに、神秘の都・ラサへ。モンゴル大草原から丸2年、6000kmにおよぶ命がけの旅であった。
「緑の街、白亜の家々、黄金の屋根。おぉ、その上に毅然とそびえる聖ポタラの宮殿よ。」
彼の心は躍った。

しかし、そのラサで彼を待ち受けていたのは…、
「日本が原子爆弾の攻撃を受けて屈服した」というニュースだ。
彼がラサに着いたのは、日本が敗戦して2か月を過ぎた後だった。彼の使命は、すでに虚しいものとなっていた。
ラサで聞く、祖国敗戦のうわさ。
心臓をえぐる、この不吉な噂を聞くたびに、私の心は火のように燃え、焦燥と不安のどん底に突き落とされた。
「そんなバカなことが・・・。日本が負けたなどと、そんなバカなことが・・・」


その後、彼はどうしたでしょうか?この後の彼については、インターネットでも知ることがで
きます。

今回、3回に分けて書きました内容は、たまたまビデオに撮ってあったドキュメンタリー番組を参考にしました。まさに、「命がけ」の旅でした。文章だけでは伝えきれないのが、残念です。


いかがでしたでしょうか?敗戦という歴史の陰には、このような日本人もいたのです。彼のたどった道、それはまさに「冒険」であり「探険」でもありました。

私は、西川一三氏を「一人の冒険家、または探険家」として、高く評価し、多くの人に知ってもらいたいです。「こんなスゴイ日本人がいたのだ」と。


長々と読んで下さって、ありがとうございます。

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