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2013年10月27日 (日)

スゴイ日本人がいた! その2

皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

台風はどうやら日本列島のかなり南を通過したようですが、先の台風で甚大な被害を受けた伊豆大島の人々は、今回の台風前、本土へと避難されたり大変なようです。
一日も早く島が元の姿を取り戻し、人々が普段と変わらぬ生活を送れるよう祈るばかりです。

今日は先週に引き続き、西川一三氏の話を書きます。


(前回の簡単なあらすじ)
第2次大戦時、日本は中国を脅かす連合政府を作ろうと画策し、その先兵として情報部員である西川一三氏を、西北支那からチベットへと潜行させた。大草原から、ゴビ砂漠を越え、西夏省のバロン廟へとたどり着いた。



バロン廟で西川一三氏は、モンゴル僧、ロブサン・サンボー("美しい心"という意味)として10ヶ月間、身を潜め修業を積んだ。
そして砂漠を越えるキャラバンのラクダひきとして雇われ、西域を進む。しかし、ロブサン・サンボーの行く手には、すさまじい大自然の脅威が待ち受けていた。

バロン廟を出た西川一三ことロブサン・サンボーは、モンゴルからチベットへの最初の難所、テングリ砂漠を行く。砂漠ではラクダの糞は大切な道標であり燃料にもなる。
「砂漠は生きている。刻々とその姿を変えていく。この偉大なる大自然の前では、微々たる人間の力は全くみじめである。」
彼にとってもう一つ、苦労したことがあった。ラクダの見分け方である。モンゴル人にとっては、ラクダ一頭一頭見分けがつかなくてはならない。それができなければ、日本人だということがばれてしまう。それは即、死を意味する。

ラクダの旅を始めて6日後、青海・チベットの山脈を見て、もはや土を盛り上げただけの万里の長城の西の端を南へ越える。しかし、この辺りは旅人を襲う山賊が住む、危険地帯でもあった。
やがて家営から南西へ、大通河、テングリ峠を越え、西寧・タール寺へと向かう。しかしロブサン・サンボーは敵の目を避けて、険しい抜け道をたどらねばならなかった。大通河を渡る橋には、敵の軍隊が目を光らせているからである。
見つかれば、即、射殺される身である彼は、抜け道伝いに大通河の冷たい川を渡り、さらなる難所、テングリ峠へ。そして、青海省タール寺へたどり着く。

タール寺は彼にとって、まず第一にたどり着くべき所であった。当時の日本は、大陸進出の拠点を作ろうとして、その先兵として彼は送り込まれたのだから。
タール寺の修行で彼は、
「一心不乱に祈る。そこに美しい仏の姿である自分が現われる。」
と、書き残している。
タール寺に3カ月滞在し、チベット語とチベット民族の知識を身につける。これは彼に与えられた特命だ。
タール寺では大きな行事があると「ドンゴー」と呼ばれる、ラマ僧憧れのご馳走が振る舞われる。貧しいモンゴル人ラマ僧のロブサン・サンボーにとっては、
「タール寺のドンゴーほど、おいしいものはなかった」そうだ。

3カ月の滞在の後、彼はキャラバンとともに青海湖を目指した。戦争も末期に近づいた昭和20年春のことである。
そしてついに青海湖へ。彼は連れのチベット人がいなかったら
「 "オォ!俺も青海湖まで来たぞ!"と日本語で叫んだだろう」と、その時の感動を書き残している。


ロブサン・サンボーの旅は、さらに南西へチャカ、都蘭、シャンを経て、ナム・ラ峠へ。チベット軍に見つけられるのを避けながら、地図にも載っていない道を行き、ラサをめざす。
ガレキと雪の難関の道を、やっとの思いでたどり着いたナム・ラ峠。はるかに崑崙山脈が見える。しかし彼の目的地・ラサは、さらにその向こうなのである。

(つづく)


いかがでしたでしょうか?少しでも彼の過酷な旅、理解できたでしょうか?正直言って、言葉だけではとても伝えきれないと思っています。しかし、これだけは私にも解ります。彼が受けた特命の有無にかかわらず、命がけの旅であることを。

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コメント

大陸進出の目標がなかったら…と考えます。その時彼はなにをしていたと思います?
現代の日本に生きていたら…そう思って過去の人々を見てみると考えさせられますね。でも人もまた時代の一部として生きていたのかもしれませんから、まったく違う役割をこなしているかも知れません。


agewisdomさんへ

難しい命題ですが・・・、
もし『大陸進出の目標がなかったら』、興亜義塾そのものがなかったでしょうし、彼自身は徴兵されどこかの戦地に赴いたことでしょう。
そこで戦死したかもしれませんし、生き延びて日本へ帰ることができたかもしれません。
ふと思うのは、彼の人生と戦死した日本人、捕虜となりシベリアに抑留され命を落とした日本人…などなど、どちらが過酷だったのかな?
とても比較できないですね。

投稿: agewisdom | 2013年10月27日 (日) 22時00分

すごいお話ですね~
全く知らなかったです。

河口慧海の紹介もして下さい。
私はアウトラインを知っている
だけです。
時代がだいぶ遡りますね~
明日よりUSAに行きますから
よろしく~


matsubaraさんへ

この西川一三氏の話は、あと1回あります。
ぜひ楽しみにしてください (^_^)!
河口慧海氏も紹介したいのですが、彼の著書『チベット旅行記』を読んで10数年・・・。ブログに紹介できるほどのことは覚えていなくて・・・(^_^;;アセッ!
文庫本で5冊・・・もう一度読むには時間が・・・(-_-)ウーン...
でもやはり、いつかは書くべきテーマだと思っています。

投稿: matsubara | 2013年10月28日 (月) 07時54分

こんにちわ
そうですね 命を懸けた大苦行には
ただただ驚きと感動を覚えるばかりです
結果的には何も報われないことになるのですが
その時の彼は必至で密命を果すことに邁進する
ばかりだったのですね
凄い精神力と言わざるを得ませんね


古都人さんへ

この特命に彼が選ばれたのは、きっと彼自身の『心の強さ』を認められたからでしょう。
この話は、あと1話あるのですが、おっしゃる通りに彼は密命を果たすべく邁進していたようです。
それにしても、いつ正体がばれるか分からない状況の中、これほどの特命を背負っての旅、心身ともに『命がけ』だったでしょう!
この精神力、凄過ぎます!

投稿: 古都人 | 2013年10月28日 (月) 16時23分

これは凄い旅ですね。過酷極まりないです。
よく無事にとりあえずここまでたどり着きました。言語のことも大変で必死だったのでしょうね。
河口慧海の5冊、以前読みましたが地理も歴史も風俗など諸々何も予備知識なしで読みましたので、その大変さの実態は把握していませんでした。
このお話を拝見するに及んで、もう1度読めば少しは理解できるかもしれませんね。


tonaさんへ

日本が大きな戦争へと向かった時代、時の首相直々の特命とはいえ、よくぞここまで正体もバレずに行ったものです。
河口慧海氏の『チベット旅行記』、読んだことがあるのですね。慧海氏の足跡は西川氏とは逆方向からですが、こちらも大変な旅でした。
ただ慧海氏の場合、仏教の神髄を求めて周りの反対を押し切って自らの意思で出かけて行ったことなので、西川氏とは比較はできないと私は思います。
それでも共通して言えるのは、どちらもその身分(日本人であること)を隠して語学をマスターし、過酷な旅の末チベットへたどり着いたこと。
これはもっともっと称賛されるべき”偉業”だと思います。

投稿: tona | 2013年10月29日 (火) 22時27分

日本人であることを隠して
中国西域を6000Km旅したなんて…
凄すぎます。
何年学校で勉強しても
外国語を話せない人も多いのに。
日本人に馴染みのないラクダの見分け方なんて
一体どうしたのでしょうね?
本当に世の中には凄い人がいますねえ!


zooeyさんへ

6000kmと言うと、日本を稚内~鹿児島間往復する距離に相当するでしょう。
しかし彼が歩いた道筋は、日本にはない厳しい自然環境がありました。
延々と続く砂漠、5000mを超える峠・・・。
それだけでも大変なのに、語学や風習なども身につけねばならなかったでしょうから、本当に過酷すぎる旅だったと思います。
なのに歴史に埋もれてしまっているのが残念でなりません。

投稿: zooey | 2013年10月30日 (水) 00時05分

こんばんは
命懸けの任務ですね。
あまりにも過酷過ぎます。
寺院での修行、神への祈りはご自身への
安らぎにも成ったのでしょうか?
凄い精神力の方ですね。
凄い日本人、多くの方に知ってほしいです。


すみれさんへ

徴兵され戦地に赴いた人々と彼の任務とでは、一体どちらが過酷だったのだろうと、ふと考えるときがあります。
それでも立ち寄ったお寺での修業の日々は、精神的には穏やかな時もあったでしょう。
しかしやはり正体が決してばれてはならない身の上。しかもたった一人での任務の遂行。孤独との戦いでもあったでしょう。
並大抵の精神力ではとてもできません。ただただスゴイとしか言いようがありません。
戦時中、戦地で戦った人たちばかりでなく、このような過酷な任務を与えられ遂行した日本人がいたこと、本当にもっと知ってもらいたいです。

投稿: すみれ | 2013年10月30日 (水) 22時59分

彼の任務遂行の旅の困難さは 現実には想像は不可能だと
思いますが 慕辺未行さんの素晴らしい文章に 奥地へと
連れて行かれる思いです
特に 最後あたりで それが 昭和20年ごろと聞いて
びっくりしました もっと大昔のお話のように感じていまいたから!


bellaさんへ

この西川一三氏について紹介された番組のビデオは今でも持っています。
その番組では彼が実際に歩いたであろう道筋を紹介していました。
ですからほんのわずか、西川氏の旅の困難さが分かります・・・なんて言ったら怒られますね。
当時彼は、この特命は「お国のため」という思いで、ただひたすら忠実に実行しようとしていたのでしょう。
それにしても、スゴイ精神力です。

投稿: bella | 2013年11月 3日 (日) 11時19分

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