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2013年10月20日 (日)

スゴイ日本人がいた! その1

皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ
先日の台風は伊豆大島をはじめ伊豆地方に大変な被害をもたらしました。そして次の台風も来ているとか?くれぐれも台風情報にお気を付けください。

さて皆さんは、西川一三という人物をご存じでしょうか?

彼は、第二次世界大戦が行われていた時代、情報部員として命懸けで、中国西域を6000Km旅した男なのです。

彼は、南満州鉄道に入社するも、西北への憧れから満鉄を退社。フホホトにある情報部員養成機関の興亜義塾に入塾しました。
昭和18年、当時日本は内モンゴルと結んで中国を脅かす連合政府軍を作ろうとしていました。
そして、東条英機首相から「西北支那に潜入し、支那辺境民族の友となり、永住せよ」と特命を受け、西域を旅することになったのです。

その旅は過酷を極めました。そのうえ、その時代、もし日本人だとばれたら、即刻殺される身なのです。
彼は任務遂行のため、自らモンゴルの貧しいラマ僧に身を代えました。守り本尊のガオーと数珠を肌身離さず持って、国境近い内モンゴルの大草原からチベットを目指したのです。

四子王旗の街から、何一つ目印のない大草原をオボと呼ばれる祭壇だけを頼りにひたすら進みます。やがてサッチン廟へ。
当時、ラマ僧には信仰の自由が許されており、彼はここサッチン廟にしばらく滞在し、学びました。
その後さらに、ウラード中旗・後旗を経て、ゴビ砂漠へ。地獄のゴビ砂漠を越え、彼は「夢に描いていた街・定遠営」に、ついにたどり着きました。
そして西夏省にあるバロン廟で10か月修業を重ね、身も心もモンゴルのラマ僧に生まれ変わったのです。

彼はバロン廟から興亜義塾で学ぶ仲間たちへ激しい手紙を書き送ったそうです。
「雪の高原、不安の国境、砂漠のアラシャンを越え、さらに西すれば、甘粛、青海、チベットの桃源郷にて我ら塾生のピンチなり。来たれ、進め、西北へ。来たれ、進め、西北へ」


彼の旅は、まだまだ続きます。とても一度では書ききれません。

今日書いた内容は、25年ほど前でしょうか、TV「新世界紀行」で紹介された内容です。録画してありましたので、以前他のサイトで書いた記事を引っ張り出してきました。

今回、これを書いたのは、彼の受けた特命が命懸けの旅であったことと、当時の日本がいかに愚かなことをしようとしていたのかを、知ってもらいたいと思ったからです。

彼の旅の続きはまた後日、紹介いたします。

*先週の記事『美しき地球 その6』に掲載しました写真、3枚のうち2枚、場所が判明いたしました。追記いたしましたので、よろしければご覧ください。

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コメント

この方についてもも少しずつ詳細がわかってきているようですね。以前紹介してくださった後で何年か前にテレビでちょっと見ましたが、詳細は覚えていません。


agewisdomさんへ

前のログサイトの記事はすべてCD-ROMに保存してありましたが、いつ書いたのか覚えてなくて捜すのが大変でした (^_^;;アセッ!
あちらのサイトを止めてもう5年ですから、前回お読みいただいたのは5年以上前ですね。
西川一三氏が生まれた日は1918年9月17日、そして2008年2月7日に亡くなられたそうです。チベット暦でちょうど正月だったそうです。
もし生きていれば95歳。agewisdomさんの御母上様とどちらが上でしょうか?

投稿: agewisdom | 2013年10月20日 (日) 22時36分

存じませんでした。
続きも待っています。

観光地の場所が分かって
よかったですね。
ノルウェイに行きましたのに
分かりませんでした。
ぼーっとしていたのですね~


matsubaraさんへ

河口慧海氏はご存知ですよね。
慧海氏はネパール側からチベットを目指しましたが、西川氏は逆方向の中国側からチベットを目指しました。
それぞれ時代も目的も違いますが、いずれにしても過酷な旅だったでしょう。
先週紹介した写真の場所、どこなのか分からなかったのが分かるというのも、嬉しいものです。
これもブログの楽しみですね。

投稿: matsubara | 2013年10月21日 (月) 13時27分

名前は聞いたことがありますが、特命の内容と過酷な旅の様子は全く知りませんでした。
こんなすごい体験をされて、生きていられたなんて驚いてしまいました。
続きが楽しみです。


tonaさんへ

名前をご存じだっただけでも素晴らしいです。
西川氏が成し遂げたことの凄さの割に、戦後彼に対する日本政府(外務省)の対応は冷たく、評価されなかったことがとても残念に思います。
特命によって西川氏はこの旅を決行したのでしょうが、私はこれを一つの『探検』としてとらえ、「スゴイ日本人がいた」と紹介したいというのが本音です。

投稿: tona | 2013年10月21日 (月) 15時09分

その方が ”僧”という形を取らなかったら ほぼその任務は
遂行できなかったでしょうね。 もちろん表面的な変装でなく
魂から 修行に没頭したことでしょうが・・
とりわけ 2008年まで存命だったことに驚きました

ポルトガルのあの避暑地は 行ってませ~ん。 どこの国も大体
そうですが 南方の避暑地の形態は驚く程似ていますが
北ほど 個性的で面白いのです。 でもあの洞窟は見てみたい
ですね! またポルトガルに行くチャンスなんて来るでしょうか~sweat01


bellaさんへ

西川氏は課せられた特命を完遂するための最善策を考えた末、身も心もモンゴルのラマ僧になることを選んだのでしょう。
それでもちょっとしたことで「モンゴル人ではない」ことがばれるのを防ぐため、彼は『無口な男』でいたようです。
2008年までご存命だったことは、私も驚きました。
たしか地元紙に彼の死が小さく載っていたのを覚えています。
ウィキペディアを見ると、チベット暦の正月元日に亡くなられたそうですね。

前回 bellaさんから頂いたコメントが「ポルトガルにいます」でしたので、もしかしたらあの洞窟、訪れているのでは?と思ったのですが・・・。
ぜひまた機会を作って訪れてみてくださいませ。

投稿: bella | 2013年10月21日 (月) 15時14分

こんばんわ
会津方面に出かけていまして
先ほど帰宅しました
総てが初めて聞いたお話です
そんなことがあったのですね
河口慧海氏の名前は耳にしたことが
あります 確か龍谷大学での展示だった
ように記憶しますが・・・


古都人さんへ

お帰りなさい。
会津のほうへお出かけでしたか?またご報告、楽しみにしています。
西川一三氏、すごいことを成し遂げた方であるのに、戦後日本の外務省の方針か、彼のしたことは全く無駄なことのように扱われたようです。GHQは彼から連日のように情報を収集したそうです。
河口慧海氏は仏教の神髄を求めて日本人として初めてチベットの地を踏んだ人ですが、やはり身分を中国人と偽って潜入・滞在されました。

投稿: 古都人 | 2013年10月22日 (火) 21時21分

こんばんは
お名前、初めて知りました。
特命、過酷過ぎる旅、命懸けの旅
心身ともに凄い方ですね。
続き楽しみにしています。

美しき地球、再度拝見しました。
皆さん良くご存知ですね。


すみれさんへ

西川氏自身、与えられた任務を遂行しただけなのかもしれませんが、その特命はあまりにも過酷なものでした。
戦後帰国し、外務省に特命の報告に出向くも、もはや相手にされなかったそうです。
それだけに世にあまり知られることがなかったのでしょう。
本当に凄い人だったのです。
『美しき地球』、再度ご覧いただきありがとうございます。
こうして場所が分かるのも、嬉しいことです。

投稿: すみれ | 2013年10月22日 (火) 23時33分

2016年9月8日盛岡市で講演会があり
奥様と娘さんが出席されました。
奥様はご高齢の為車椅子でしたが
口調はしっかりされており故人の
戦後の生活や執筆の様子など貴重な
証言をされていました。


marui様

3年ほど前に書いたブログをご覧いただき、さらにコメント、ありがとうございました。
西川一三氏は8年前にお亡くなりになりましたが、奥様はまだご存命なのですね。初めて知りました。
戦後、帰国して彼が一体何を思い、何を感じていたのか、ご家族のみぞ知ることと思います。
まだまだあまり知られていないだけに、ご家族による講演会は、彼の偉業を少しでも広めることに役立つと思います。

投稿: marui | 2016年9月 8日 (木) 22時12分

このような日本人が盛岡にいた(しかもご近所)ことに驚きました。
講演会を企画した人がご遺族が保存していたテレビ放送の
ビデオテープの劣化を防ぐ為DVDにダビングしております。
西川家には原稿3200枚他、新聞雑誌の記事等膨大な
資料が保存してあります。不世出な日本人で今後このような
人物は出現しないでしょう。


marui様

再びのコメント、大変ありがとうございます。
ご近所だったのですね?!それでも講演会までは、彼の偉業については、ご存じなかったのでしょうね。
それほど彼のことは、世間では知られていなかったのですから。
ご遺族が保存していたテレビ放送、私が見たものと同じかも?その番組をもとにこの記事を書きました。

続きの記事が、この4つ後に、さらに4つ後にこのストーリーの完結編を掲載しています。
もしよろしければ、ご覧いただけると嬉しいです。

投稿: marui | 2016年9月10日 (土) 18時12分

講演を聞いて謝意と感想を認めた手紙を娘さんに出したところ
さっき電話で娘さんが感謝の意を伝えてきました。奥様は
大変重い病気で今回の講演も断ろうと思ったそうです。
私の手紙を見て「こんなに喜んでもらって良かった」と言っているそうです。西川氏の出身は山口、奥様は静岡で盛岡には
親戚、知人が全くいなく戦後の生活は大変苦労されたようです。


marui様

講演会がどれほど素晴らしい内容だったか、marui様がご遺族の方に手紙を書かれたことで、とてもよく分かります。
彼の帰国後の生活は、ウィキペディアに載っていること以外、私は知ることができないのですが、命がけの旅の報告を当時の日本(たぶん外務省)は相手にしなかったと思います。
逆にGHQは何日も彼から話を聞きだしたとか・・・?!

度々のコメント、ご遺族(娘様)からのご連絡、こちらにまで知らせてくださり、ありがたく存じます。

投稿: marui | 2016年9月10日 (土) 19時56分

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