ネパール再会の旅 15 『日本通のアグニさん』(再掲)
荷物を下ろし、日当たりの良い庭でくつろぐ。暇そうにしているスタッフたちが、当然のことながら愛想よく話しかけてくる。俺はいつものごとく、ネパール語で自己紹介した。
「ナマステ!マ ジャパン バーター アーエン。メロ ナム ○○ ホ。(こんにちは!私は日本から来ました。私の名前は○○です。)」
たったそれだけのことで、スタッフたちは「オォッ!」と驚き、「タパイィ ネパリー ボルヌ ツゥ?(ネパール語が話せるの?)」とネパール語で訊いてくる。その問いにも「アリアリ(少しだけ)」とネパール語で返したら、ここからはほとんどネパール語だけで話を続ける。
やがて一人のスタッフが、「『レッソム・フィリリ』を知っているか?」と尋ねてきた。俺は、「ここぞ!」とばかりに、カトマンドゥで教えてもらった成果を披露した。
♪レッソム フィリリ レッソム フィリリ
ウンダル ジャンキ ダンダマ バッサム レッソム フィリリ
エクナリ バンドゥ ドゥイナリ バンドゥ ミルガライ タケコ
ミルガラ マイレ タケコ ワイナ マヤライ ダケコ
レッソム フィリリ・・・・・・♪
「スゴイ!」「上手だ」「メロディもあってる」等々、彼らは驚きと共に俺に対して、称賛の声を上げた。偶然門のところで聞いていた学校帰りの子供たちも、ビックリして騒いでいた。オーナー夫人のミラさんには「日本人のあなたが、ネパールの女の子の前でこの歌を歌ったら、どの娘もあなたのことを好きになってしまうわよ」と言われた。「エッ!本当?」と思わず顔がにやけてしまうのは、男の性か。彼らが言うには、「今まで ”レッソム・フィリリ”を、こんなに上手に歌った旅行者はいない!」そうだ。カトマンドゥのマナスル・ゲストハウスで、きれいなスタッフのウマたちに教えてもらったことが、さっそく生かされた。
しかし、上には上がいるもので、このゲストハウスのマネージャーのアグニさん。彼はカトマンドゥで2年ほど日本語を学び、会話はおろか読み書きもできる。さらに、短波放送でNHKのラジオ番組も良く聴いているそうで、日本情勢にもかなり詳しい。たまたま俺が日本を出発する前日に、細川首相が辞意を表明したのだが、彼はそのことも知っていて「次の首相は誰になるのだろうか」と心配している。もっと驚いたことは、彼がここ最近の歴代の首相の名前を、非常によく知っていることだった。日本人でさえも忘れてしまいそうな「鈴木善幸、宇野・・・、・・・」といった首相の名前までも覚えているほどの『日本通!』。このようなスタッフがいれば、何かの時にも言葉の心配はないし、日本語でも話が弾むし、退屈しないですむ。
夕方、散歩に出かけると10分ほどで湖に出た。ふと見ると、2年前にダムサイトの方から40分もかけて歩いてきた銀行がある。「けっこう奥の方へ来ていたんだ」。レイクサイドをぶらぶらし、茶店でラッシー(ヨーグルトドリンク)を飲む。出されたラッシーは、普通のコップの3~4倍もありそうな器に入っていた。あまりにダイナミックで、ブッたまげたが、値段を聞いて完全にぶっ飛んでしまった。そりゃ、初めに値段を聞かなかったのは俺だよ。だからって、140ルピーはないでしょ?!カトマンドゥからポカラまで200km、7時間半もバスに乗ったって150ルピーなのに!とはいえ、飲んでしまっては後の祭り。お腹もふくれたことだし、これが夕食だったと思うことにして、開き直る。
ゲストハウスに戻り、8時過ぎからシャワーと洗濯。向かいにある店でククリラム(ラム酒)を買い、ストレートのまま、ちびちび飲んで、10時に就寝。
ポカラ、ホテル・マウントエヴェレストにて
*この旅日記は1994年のものです。
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