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2013年8月

2013年8月29日 (木)

ネパール再会の旅 15 『日本通のアグニさん』(再掲)

荷物を下ろし、日当たりの良い庭でくつろぐ。暇そうにしているスタッフたちが、当然のことながら愛想よく話しかけてくる。俺はいつものごとく、ネパール語で自己紹介した。
「ナマステ!マ ジャパン バーター アーエン。メロ ナム ○○ ホ。(こんにちは!私は日本から来ました。私の名前は○○です。)」
たったそれだけのことで、スタッフたちは「オォッ!」と驚き、「タパイィ ネパリー ボルヌ ツゥ?(ネパール語が話せるの?)」とネパール語で訊いてくる。その問いにも「アリアリ(少しだけ)」とネパール語で返したら、ここからはほとんどネパール語だけで話を続ける。

やがて一人のスタッフが、「『レッソム・フィリリ』を知っているか?」と尋ねてきた。俺は、「ここぞ!」とばかりに、カトマンドゥで教えてもらった成果を披露した。

♪レッソム フィリリ レッソム フィリリ
ウンダル ジャンキ ダンダマ バッサム レッソム フィリリ
エクナリ バンドゥ ドゥイナリ バンドゥ ミルガライ タケコ
ミルガラ マイレ タケコ ワイナ マヤライ ダケコ
レッソム フィリリ・・・・・・♪

「スゴイ!」「上手だ」「メロディもあってる」等々、彼らは驚きと共に俺に対して、称賛の声を上げた。偶然門のところで聞いていた学校帰りの子供たちも、ビックリして騒いでいた。オーナー夫人のミラさんには「日本人のあなたが、ネパールの女の子の前でこの歌を歌ったら、どの娘もあなたのことを好きになってしまうわよ」と言われた。「エッ!本当?」と思わず顔がにやけてしまうのは、男の性か。彼らが言うには、「今まで ”レッソム・フィリリ”を、こんなに上手に歌った旅行者はいない!」そうだ。カトマンドゥのマナスル・ゲストハウスで、きれいなスタッフのウマたちに教えてもらったことが、さっそく生かされた。

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オーナー夫人のミラさん 。

しかし、上には上がいるもので、このゲストハウスのマネージャーのアグニさん。彼はカトマンドゥで2年ほど日本語を学び、会話はおろか読み書きもできる。さらに、短波放送でNHKのラジオ番組も良く聴いているそうで、日本情勢にもかなり詳しい。たまたま俺が日本を出発する前日に、細川首相が辞意を表明したのだが、彼はそのことも知っていて「次の首相は誰になるのだろうか」と心配している。もっと驚いたことは、彼がここ最近の歴代の首相の名前を、非常によく知っていることだった。日本人でさえも忘れてしまいそうな「鈴木善幸、宇野・・・、・・・」といった首相の名前までも覚えているほどの『日本通!』。このようなスタッフがいれば、何かの時にも言葉の心配はないし、日本語でも話が弾むし、退屈しないですむ。

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日本通のアグニさん。

夕方、散歩に出かけると10分ほどで湖に出た。ふと見ると、2年前にダムサイトの方から40分もかけて歩いてきた銀行がある。「けっこう奥の方へ来ていたんだ」。レイクサイドをぶらぶらし、茶店でラッシー(ヨーグルトドリンク)を飲む。出されたラッシーは、普通のコップの3~4倍もありそうな器に入っていた。あまりにダイナミックで、ブッたまげたが、値段を聞いて完全にぶっ飛んでしまった。そりゃ、初めに値段を聞かなかったのは俺だよ。だからって、140ルピーはないでしょ?!カトマンドゥからポカラまで200km、7時間半もバスに乗ったって150ルピーなのに!とはいえ、飲んでしまっては後の祭り。お腹もふくれたことだし、これが夕食だったと思うことにして、開き直る。

ゲストハウスに戻り、8時過ぎからシャワーと洗濯。向かいにある店でククリラム(ラム酒)を買い、ストレートのまま、ちびちび飲んで、10時に就寝。

ポカラ、ホテル・マウントエヴェレストにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月28日 (水)

ネパール再会の旅 14 『ポカラへGo!』(再掲)

4月14日(木)晴れ
カトマンドゥ7:00ごろ(バス)14:30ごろポカラ

 午前5時半起床。買い置きのパンとコーラで朝食とし、バスが出るカンティパトへ。歩いて10分ほどだ。6時半にはバスは来ていて、車掌に乗客名簿と照合してもらい、バスに乗る。やがて、昨夜の約束通りクリシュナがやって来て、ポカラのホテルの紹介状を手渡してくれた。

7時、バスはカトマンドゥを出発し、雑踏を通り抜け、曲がりくねった山道を下り、谷あいの平坦な道を、一路西へとひた走る。この道は、首都カトマンドゥとネパール第二の都市ポカラを結ぶとあって、舗装はされているが、所々穴があいていたり、土砂崩れや崖崩れの影響で、かなりデコボコになっているところもある。

バスは40分ほど走って、最初の休憩タイムを取った。朝食をとる人もいれば、チャイ(ミルクティー)を飲む人、ビスケットなどのおやつを買う人、様々だ。俺はチャイを飲み、ミカンを買いこんでおいた。何しろ、空気は乾燥しているわ、窓を開ければ砂塵が舞い込むわで、喉が渇く。ミネラルウォーターも持っているが、やはりおやつとして果物も欲しい。

2~3度、このような停車時間があって、ムグリンへ11時。この街は、カトマンドゥ~ポカラ間をはじめ、インドとの国境近くの町とを結ぶ、交通の要衝で、多くの長距離バスがここで食事休憩をとる。バスだけでなく、トラックや自家用車も多く、さしずめ『宿場町』『ネパール版サービスエリア』といった感じだ。多くの人が昼食を取っているが、俺はあまり腹が減っていなかったので、チャイのみにした。

バスは再び走り出し、かつて降りたことがあるドゥムレに12時半着。ここで何人かのツーリストが下車した。彼らは、2年前俺がたどったアンナプルナ周遊コースを20日ほどかけて歩くのだろう。そしてカトマンドゥより7時間以上かかって、2時半過ぎ、ポカラへ到着。

ポカラのバスターミナルは、町の入り口近くにあり、旅行者用のホテルやゲストハウスが集中するダムサイドやレイクサイドとは離れている。バスから降りた途端に、たくさんの客引きに取り囲まれた。彼らは、オフシーズンの数少ないお客を、よそに奪われまいとホテル名が書かれた名刺を見せながら、必死の形相で交渉にかかってくる。俺は、クリシュナの紹介で、泊まるところは決めてあったので、「ホテル・マウントエヴェレスト」と叫んでそのホテルの人を探したが、どうやら客引きには来ていないようだ。そこでフリーのタクシーの運転手を見つけ、紹介されたホテルへと向かった。
*タクシーの運転手の中には、ホテルやゲストハウスと契約(?)している人がいます。リベート目的で、客をそのホテルへ連れて行きます。

ホテル・マウントエヴェレストに到着。ホテルというよりゲストハウスと呼ぶ方がふさわしいのだが、まずはレセプションへ。クリシュナから頂いた紹介状を見せ、部屋代の交渉。クリシュナのメッセージには、『私の日本人の親友を紹介します。120ルピーで泊めてあげてください』との内容が書かれていたようで、すんなりそれで決着。シャワー・トイレは共同だが、ペワ湖が見える、見晴らしの良い2階の部屋へと案内してくれた。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月27日 (火)

ネパール再会の旅 13 『女性スタッフたち、そしてクリシュナとも再会』(再掲)

ゲストハウスへ戻り、シャワーを浴び洗濯をしてのんびりしていると、昨日に続いて女の子たちの「カニ(食べる)?」と呼ぶ声。少しお腹が空いていたのか、ウマとガンガが1人分のダルバートを分け合って食べていた。俺が「カヌツァ(食べます)」と答えると、ウマがご飯を、ガンガがダルスープをそれぞれスプーンにすくって、口に運んでくれた。「ラムロー(おいしい)?」と聞かれ、俺も「ラムロー!」と答える。さらにアル(いも)もご馳走になる。

とても親しくなれたところで、ネパールでもっとも有名な歌『レッソム・フィリリ』を教えてもらうことにする。2年前にも初めの部分だけ教えてもらったのだが、今回は続きを教えてもらう。ウマがノートに歌詞を書いてくれたのだが、これが全部ネパール語。「ちょっと待ってヨ!俺、ネパール語、まだそれほどできないよ!」と笑いながら、彼女たちに発音を聞いて、ルビをふって歌えるようにチャレンジする。

しかし、俺が少々ネパール語ができるせいか、彼女たちはネパール語でしか話しかけてくれない。どうしても理解できないときは、英語で話してくれるのだが、メインはネパール語だ。その代わり、ずいぶん仲良くなれるし、ネパール語のボキャブラリーも増える。

夕方、アンジュとバルコニーで2時間ほど話をしていた。彼女の夢は『いつか日本へ行きたい』ことだそうだ。しかし、ネパールでは日本ビザは簡単には取得できない。受け入れ先や日本での身元保証人など、かなりの難問をクリアしなければならないのだ。それでももし行くことができたら、俺の両親に「マッサージしてあげる」と語っていた。

夕食は、ヤク・レストランにて、バフ(水牛)・フライドライスとトマト・エッグスープ(55ルピー)。そしてゲストハウスへ戻り、明日の準備も整い、トレッキング中に不要な荷物を預け、今夜のうちに部屋代を支払い、しばらくレセプションにいると、また一人懐かしい顔がやって来た。以前、キッチンボーイをやっていたクリシュナである。彼は俺の顔を見るなり、フルネームで俺の名前を呼んだ。「オォ!○○○○ ○○○(本名)」と。よく覚えていてくれたものだ。感心した。俺も「ヘィ!クリシュナ!ナマステ!タパィンライ カスト フヌ フンツァ?」と声をかける。

彼は大喜びで、俺を離れのレストランへと誘い、ビールで乾杯した。俺が「明日ポカラへ行く」と言うと、「ポカラのゲストハウスに知り合いがいるから、紹介するよ」と言って、紹介状を書いて明朝、バス乗り場まで持って来て見送ってくれるそうだ。バスの出発は7時と早いのだが、それでも彼は『必ず持って行く』と約束してくれた。

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2年前に撮ったクリシュナです。滞在4日間で、ゴビンダ、元オーナーに続き3人目のかつてのスタッフとの再会でした。

カトマンドゥでのこの4日間、かつての友達との再会の連続で、本当に毎日が楽しかった。ポカラでは、どんな出会いが待ち受けているのだろうか?カグベニ村やマルファ村の友達は、すぐに分かってくれるだろうか?そんな思いを抱き、10時ごろ、眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月25日 (日)

世界の絵葉書 その43 キリマンジャロ

 皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

猛暑の夏から一転、今日は最高気温は30℃も行かず、まるで”秋”のような涼しさ。
雨さえ降っていなければ、こんな涼しい日はどこか出かけたかったのですが・・・。

さて、世界の絵葉書。今回はアフリカ・タンザニア。アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(5895m)の絵葉書3枚、紹介します。

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麓から長い道のりを歩くのでしょう。

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2種類の写真が、さも1枚の写真のように見えます。

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キリンの群れとキリマンジャロ。『絵』になりますネェ!

 これらの絵葉書の送り主は、ドイツのエルマー氏です。
写真とともに封書で送られてきました。
その写真というのが・・・、↓ こちらです。

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キリマンジャロ頂上に立つエルマー。

彼が登ったのは”99年ですから、もう14年前。その頃は頂上付近にはまだ雪渓が残っているようですが、地球温暖化とともに今ではかなり減ってしまったようです。
私も「いつか登ってみたい」と思っていましたが、もう無理だろうなぁ・・・。
数年前、ドイツの彼らの自宅を訪れた際、その時の旅と登山の様子をスライドで見せていただきました。山だけでなく、サファリも楽しんできたようです。

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2013年8月22日 (木)

ネパール再会の旅 12 『ジャックとの別れ』(再掲)

4月13日(水)晴れ
カトマンドゥ

 午前8時起床。今日は腹の調子もよくなり、9時ごろ、朝食はフレンチトーストにする。ジャックも一緒だ。毎朝一緒に食事をしていると、一人旅だということが信じられない。ゴビンダやスリラムも加わり、やがて話題は俺の結婚話へ。ネパールに女の子の友達が何人かいることを知っているゴビンダは、「そのうちの誰と、あなたは結婚したいですか?」と聞いてくるから、たまらん!ジャックは「10月にまたネパールへ来るから、その時に結婚しろよ。フランスからシャンパン10本持ってくるよ」と、からかう。皆して笑いが止まらない。

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食事を終えても、いつも楽しく過ごしていました。左、ゴビンダと私、右、スリラムとジャック。

朝食後、明日のポカラ行きのバス・チケット(150ルピー)を予約し、トレッキングシューズを1750ルピーで買い、そしてシュラフを1日15ルピーでレンタルしてきた。シュラフは、ポカラで借りてもよかったのだが、帰りにチトワン国立公園へ行くつもりなので、もしかしたら、そこで必要かもと思い、ポカラで過ごす何日間分は無駄になるものの、ここから借りて行くことにした。これで、トレッキング準備はOKだ。
*トレッキングシューズは、以前は日本で愛用しているものを持参していましたが、カトマンドゥでも質の良いシューズを取り扱っている店があり、使用後には中古として売ることもできます。実質的には、新品の靴をレンタルしたようなものです。もちろん、レンタルできる店もあります。

ここネパールでは、明日4月14日はネパール暦の新年である。そこで、レセプションの女の子のウマが、新年のグリーティングカードをプレゼントしてくれた。俺だけでなくジャックにももちろんプレゼントしていた。知り合ってまだほんの3~4日なのに、ジャックと共に二人して「嬉しいネェ!」と喜んでいた。

そして、午後のバスでナガルコートへとミニ旅行するジャックとゴビンダをカンティパトまで見送る。ジャックはその後、帰国するので、これが最後だ。ほんのわずかな日々だったが、とても楽しかった。お互いの旅の安全を祈り、笑顔で握手を交わし、別れた。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月21日 (水)

ネパール再会の旅 11 『かつてのオーナーと、そして新たな友達』(再掲)

4時半ごろ、イミグレーション・オフィスから戻ってくると、今朝同様ゴビンダが来ていた。彼としばらく話をした後、彼は職場である日英ネ言語学校へと向かった。レセプションの前を通って部屋へ戻ろうとすると、従業員の女の子たちが俺を呼び止める。「カニ?(食べる?)カニ?」と聞きながら、スンタラ(みかん)やアル(ふかしいも)を差し出す。「ダンニャバード(ありがとう)」と言って、おやつをいただく。サービスがいいな―。俺が昨日の朝、彼女たちと初めて会ったときにあいさつした際、「ナマステ」だけでなく「タパインライ カスト フヌ フンツァ?(ご機嫌いかがですか)」とネパール語で話したから、そしてアンジュから俺のことを聞いたからなのかもしれない。彼女たちもネパール語で俺に声かけてくれたり、おやつをおすそ分けしてくれたりと、とてもフレンドリーだ。

3階のバルコニーにアンジュがいたので、声をかけ話し始める。やがて二人のハウスキーパー、さらにジャックも加わる。ジャックとアンジュとは再会の思い出に、女の子たちには先ほどのおやつのお礼にと、写真を撮ろうと思い、皆で一緒に撮ったり、女性陣達には一人一人ソロの写真も撮ってあげる。

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後ろ左からジャック、二人のハウスキーパー・ガンガとマンジュ、アンジュ。

部屋へ戻ると、アンジュが「メークアップしてきたから、もう一度撮って!」と言うので、カメラを携え、今度は屋上へ。するとジャックもそこにいた。さらに女の子たちもやって来て、再び撮影会の始まりだ。先ほどバルコニーにいなかったレセプションの女の子に「ソロで撮ってあげるよ」と言うと、「ノー、ノー」と恥ずかしがっていたが、他の子たちに「撮ってもらいなさいよ。私たちも撮ってもらったから」とでも言われたようで、彼女のソロの写真も撮ってあげた。彼女たちの名前は、レセプションの子がウマ、ハウスキーパーはガンガとマンジュ。この国では、カメラは贅沢品なので、彼女たちにとっては滅多に写真をとる機会がないから、良いプレゼントになる。スワヤンブーナートの方の夕焼けを見ながら、6人が入れ替わり立ち替わりで写真を撮った。

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夕焼けを背景に、ウマとマンジュと一緒に。

撮影会が終わり、レセプション横のバルコニーで皆でしゃべっていると、ヘルメットをかぶった男がやって来た。ヘルメット越しの顔を良く見てみると、案の定向こうから「覚えているか?」と、先に声かけられた。
「もちろん!オーナーでしょ?」
「今はオーナーじゃないよ」
「ええ、知っていますよ。でも2年前はここのオーナーでしたよね」
元オーナーでさえも、2年前の宿泊客の俺を覚えていてくれたのだ。俺だけでなく彼は、ジャックのことも覚えていた。今は、ハンディクラフトショップを経営しているそうだ。

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2年前に撮った、元オーナーの写真。

夕食はこの日はパスすることにした。夜、暇つぶしにジャックが散歩へと誘ってくれた。タメル近辺は旅行者が多いせいか、9時ごろでも賑やかだ。ダーバーマルグ(王宮通り)やアサン広場あたりは、ずいぶん静かなのだが。9時半ごろ戻り、眠るとする。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*マナスル・ゲストハウスを彩る、4人のネパール美女たちです。

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マッサージャーであり、ヨガの先生でもある、アンジュ。

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レセプションのウマ。当時まだ22才で独身。とてもキレイで性格の良い子でした。

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ハウスキーパーのガンガ。

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ハウスキーパーのマンジュ。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月20日 (火)

ネパール再会の旅 10 『アンジュと再会』(再掲)

4月12日(火)晴れ
カトマンドゥ

 午前9時ごろ、ゴビンダがやって来て起床となった。下にあるレストランで朝食にする。しかし、どうやら最初の儀礼がやって来たようだ。ほとんど食べられない。下痢である。食生活が違うのだから、こればかりは仕方がない。注文したパンケーキを半分以上残してしまった。自分としては、食べられると思っていたのに・・・。やがて、ジャックとレストランのボーイのスリラムも加わって、10時半ごろまで話をしながら過ごす。

一度、部屋へ戻り、イミグレーション・オフィスへ行く用意をすると、レセプション横のバルコニーに、スタッフの女の子たちと話している、見覚えのある後ろ姿の女性。ここしばらく、遠方へ出かけていて留守だった、マッサージ師のアンジュさんである。

「ナマステ!アンジュ!」と言うと、彼女は振り返り、ちょっと怪訝な顔をしていた。
「Do you remember me ?」と問いかけると、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって、
「オ~!ナマステ!When you come ?」 と、短い言葉で問い返してきた。
「2日前だよ。マッサージをしてもらいたくて、あなたを待っていたんだよ!」と答えると、
「ごめんなさい。実家があるタンセンへ10日ほど行っていたのよ!」と、申し訳なさそうに、でもやはり嬉しそうな表情で話していた。
「今からイミグレーション・オフィスへ行かなければいけないから、その後でマッサージしてもらえるかな?」と、アンジュさんへ早速マッサージの予約をする。
「もちろん!OKよ!」と、本当に嬉しそうに答えてくれた。

外出後にマッサージして頂くことにして、とりあえず銀行へ。トレッキング中、必要となるお金を両替し、そしてイミグレーション・オフィスへ。アンナプルナ方面へのトレッキング・パーミットの申請書に必要事項を記入し、窓口に並ぶと、並んでいるのはわずかに2人。30分もかかったかどうかで申請を終えた。3度目のネパールだが、こんなに早く申請できたのは初めてだ。

ゲストハウスへ戻り約束通り、アンジュさんにマッサージを施してもらう。1時間で500ルピー(≒1000円)。頭のてっぺんからつま先まで、全身くまなくマッサージしてくれる。アンジュさんはマッサージをしながら、「私はとてもラッキーよ。だって久しぶりにカトマンドゥへ戻ってきて最初のお客さんが、日本人の友達なんだから!」と話していた。俺のことは、いつもゴビンダから聞いていたそうで、『元気だ』ということも知っていたと言う。

気がつくと、1時間以上念入りにマッサージしてくれて、楽な気分になった。が、やはり胃腸がおかしい。あまり出歩かずに、4時にトレッキング・パーミットを受け取りに行くだけにする。

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2年前(1992)のアンジュさん。いつもお読みくださっている皆様、覚えていますか?

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月17日 (土)

モノクロでも絢爛豪華!さすが皇居です。

皆様、おはこんにちばんは ヽ(´▽`)/

連日の熱帯夜・酷暑日にイライラうんざり・・・の私ですが、いかがお過ごしでしょうか?

この季節は”お盆”ということもあり、母方の祖母の死後我が家が受け継いだ亡き祖父のアルバムをやはり一度は開いてしまいます。
そのアルバムには、『近衛兵だからこそ手に入れることができた写真(と私自身は思います)』が、多数残されています。
例えば、天皇・皇后両陛下はもちろん各宮家の殿下・妃、内親王様など当時の時勢さえ偲ばせる写真があります。

そのアルバムの中に『宮城』、つまり『皇居』内部の写真もありました。
皇居内は予約すれば見学可能のようですが、私は祖父が残してくれた写真から少しでも中の様子を知ることができました。
残されている写真すべてではありませんが、元・近衛兵だった祖父のアルバムから皇居内の写真、紹介します。
* もしかしたら、宮内庁から苦情が来るかな・・・(^_^;;アセッ?

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『御車寄』。さすがに立派です。

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歴史上にも名高い桜田門。ここでかつて歴史的な事件が起こったのですね。
他に、半蔵門の写真も残されていました。

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『玉座』。天皇・皇后両陛下だけが着席を許されるところでしょうか。

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『豊明殿』。モノクロなのが残念なほど、見てみたいお部屋です。

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『千種の間』。シャンデリアを始め天井や右手上部に描かれた絵など、実際に見てみたいものです。

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こちらの部屋もやはり『豪華絢爛』ですね。
ドイツで見たお城の内部とも共通点があるように感じました。

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襖に描かれた『松』。それだけでなく欄間や欄干、それらも素晴らしい!です。

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『虎の間』。どのような機会にこの部屋を使うのでしょうね?

父の死から半年後、母にとって初めての『東京見物』へと連れて行きました。
その際、真っ先に訪れたのが『宮城・二重橋』でした。中を見ることはできませんでしたが、それでもきっと感慨深いものがあったに違いありません。
今思えば、島倉千代子さんの♪東京だよ、おっかさん♪の歌そのものの『東京見物』でした。
戦死した亡き祖父も少しは喜んでくれているでしょうか・・・(;_;)ジイチャン...?    

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2013年8月15日 (木)

ネパール再会の旅 9 『ジャックと共にカジノへ』(再掲)

夕食はジャックお勧めの『ラサ・レストラン』というチベット料理店へ。ジャックは仕事上、何度もこちらの方を訪れているせいか、インド料理もネパール料理もチベット料理もOKだそうだ。トゥンパというお酒で乾杯し、モモ(ネパール・チベット風餃子)とエッグサラダを食べる。が、サラダの量が異常に多い。ネパールの人はどんな胃袋をしているのかと思うほど、よく食べる。一食あたり、日本人の倍ぐらい食べるのではないだろうか。それゆえ、レストランでも一品料理の量たるや、すさまじいものになるのである。

腹も朽ちて、いよいよ本日のメイン・イベント、カジノへと向かう。我々は、ホテル・ド・アンナプルナにあるカジノ・アンナでプレイすることにして、レストランの前でリクシャ(人力車の自転車版)をひろい、それに乗っていざ戦場へ。

ホテル・ド・アンナプルナへ到着し、カジノへと向かう。入り口でパスポートと航空券を見せ、インドルピーで400ルピー分(ネパールのカジノでは、なぜかインドルピーが使われる)のクーポンをいただく。まだ8時ごろのわりに、けっこうお客は入っている。

まず初めに、ルーレット。しかし、このクーポンには制約があった。100ルピーのクーポンが4枚あり、1枚を現金の100ルピー札と交換。だが、そのお札をさらに細かく両替することはできないのだ。つまり、どんなゲームでもいきなり100ルピー賭けなければならないのだ。とどのつまりは、『一発勝負』。勝たなければ、『ハイ、サヨナラ』ということなのだ。とりあえず、確率1/2のところへ賭け、無難に勝ったが、ジャックは・・・。少し賭け札が増えると、つい大胆な賭け方をしてしまう。しかし、タダでもらえるクーポン客に儲けさせることはなく、あっさりオ・ケ・ラ。ブラックジャックでも同様。

「勝ってやるぞ」と勇ましく来たはずだが、ものの数十分後には、2人ともクーポンは無くなっていた。でもまぁ、カジノの雰囲気を味わえただけでもいいじゃないか。ジャックもそれなりに楽しんでいたし、一発勝負にすべて負けたわけでもないから。
ブラブラと夜の街を散歩しながら、ゲストハウスへと帰る。ビールを1本飲んで、10時過ぎに眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月14日 (水)

ネパール再会の旅 8 『スワヤンブーナートへ』(再掲)

ゲストハウスへ戻り、自宅宛てに『無事ネパールへ到着した』ことを知らせる手紙を書く。昨日1日で、あまりに多くの出来事があり、それらのことを書いているうちに、あっという間に4時ごろとなってしまった。ジャックの部屋を訪ねると、スワヤンブーナートは「夕日が素晴らしい」と言うので、4時半にゲストハウスを出ることにする。
スワヤンブーナートは、カトマンドゥの街外れ、西の小高い丘に建っている。仏教の『総本山』とも言うべきお寺で、ストウーパ(仏塔)には巨大なブッダの目が人々の暮らしを見守るかのように描かれている。

道すがら、ジャックと話をするが、俺の貧しい英語ではなかなかはかどらない。それでも理解し合おうという気持ちがあれば、何とかなるものである。ヴィシュヌマティ川を渡ると、街中の賑わいはないものの、子供たちは元気いっぱいに遊んでいる。「ナマステ」とあいさつすると、どの子も元気よく「ナマステ」と叫ぶように返事をしてくれる。皆、屈託のない可愛い笑顔をしている。日本にはこのような子どもたちは、もういないんじゃないかと思う。

そうこうしているうちに、スワヤンブーナートまでやって来た。長い階段を登り始める。ここへ来るたびに何段あるのか数えてみるのだが、いつも途中で数を数えるのをあきらめてしまう。それぐらい長いのだ。やっとストウーパのあるところまで登って来た。あぁ、しんど!こんなことで、今週末からのトレッキング、大丈夫かな。まぁ、マイペースで行けばいいか。

ところで、ジャック推薦のスワヤンブーナートからの夕陽、さすがにきれいである。西の空が夕焼けで真っ赤に燃えている。マニ車(経典が入っている筒)を回しながらストウーパの周りを一周する。マニ車は、一度回すとお経を一回唱えたことと同じ功徳があるという、ありがたいもの。ふだん、信仰心など全くない俺だが、この国へ来るとなぜか敬虔な(ってほどでもないが)仏教徒になってしまう。30分ほどそこで過ごし、夕食をとりに街へ下る。

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*いずれも2年前の写真です。スワヤンブーナートとそこから見たカトマンドゥの街です。せっかく、赤く染まる街を見に行ったのですが、どうやら写真を撮り忘れるほどでした。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月13日 (火)

ネパール再会の旅 7 『2年ぶりにカトマンドゥの街を歩く』(再掲)

4月11日(月)晴れ
カトマンドゥ

 午前8時起床。ぐっすり眠れた。ここまでのわずかな時差(3時間15分)による睡眠不足からであろうか。朝食は、ゲストハウスの離れにあるレストランの外テーブルでとる。しばらくするとジャックも朝食のために下りてきて、一緒に朝食を楽しむ。

昨夜彼が「パリからニューデリー、そして3日前にカトマンドゥへやって来た」と話していたのを思い出し、俺はあることを思いついた。ネパールへ飛行機で入国後1週間以内なら、ネパールに4ヵ所あるカジノのどこでもクーポンをもらうことができ、それで遊ぶことができると。もちろん証明に、パスポートと航空券を提示しなければならないが。この話をジャックに切り出すと、彼はこの特典を知らなかったようで、目を輝かせ「今夜にでもぜひ行ってみよう」と、話がまとまった。俺は10年ほど前に、同じカトマンドゥにあるホテル・ソルティ・オベロイでカジノを体験しているが、彼は全く初めてだという。そしてこの日夕方4時にゲストハウスで待ち合わせ、スワヤンブーナート寺院や、夕食を共にしてからカジノへ出かける約束をした。

朝食を終え、いったん部屋へと戻ろうとする。レセプションを見ると、若いネパール人女性がいた。どうやら、スタッフの一人のようだ。ハウスキーパーも、かつてとは違う女性が2人いる。彼女たちに「ナマステ」とあいさつする。さらに「タパイィライ カスト フヌ フンツァ ?(ご機嫌いかがですか?;元気?)」と尋ねると、彼女たちは一瞬、驚きながらも「ラムロー ツァ!(良いです;元気です)」と答えてくれた。俺はさらに彼女たちに尋ねた。階段沿いの壁に、宣伝のためか、アンジュさんがここでマッサージ業を営んでいる旨が書かれたチラシが貼られているのだが、当のアンジュさんがいない。彼女たちの話によると、現在遠くに出掛けているようで、いつ帰ってくるか分からないそうだ。アンジュさんのマッサージを楽しみにしていたのに・・・、残念!

10時ごろより街の方へ散歩に出る。アサン広場のあたりは、時間のせいかまだあまり賑わいはなかったが、他は至るところ相変わらずで懐かしい。アサンからインドラ・チョークは土産物屋をはじめ、たくさんの店が軒を連ね、人々の往来も多く活気に満ちあふれている。ネパールの人たちの生きるエネルギーを感じる。同じ人混みでも、日本とは完全に異質のもので、こちらはあえて言うならば『有機質』なのである。日本の人混みの中にいるとうんざりするが、こちらでは心地よいのである。日本人として日本に嫌気がさしているのだろうか。正直言って自分でもよく解からない。ただ、このカトマンドゥの雑踏が好きなことだけは確かである。

ダルバール広場で『瑞草油』『珍珠清涼油』を買う。それぞれ10ルピーに20ルピー。後で知ったのだが、薬局やスーパーで買えば、もっと安かった。再びアサンの方へ戻ると、ネパール暦のカレンダーを売り歩いている子供に声かけられた。「いくらなの?」と尋ねると「15ルピー」と答えた。しかし、多少ネパールの文字や数字が読める俺は『12ルピー』と書いてあるのを見逃さなかった。その子は俺が外国人だから、本当の値段は分からないと思って、少しだけふっかけたのだろう。俺はその子に「ここに12ルピーって書いてあるよ」と言うと、申し訳なさそうに「ごめんなさい。12ルピーでいいから買っておくれよ」と話した。まだネパールへ来たばかりで、買うのはまだ早いと思ったものの、このカレンダーは貴重だ。なぜならば、間もなくネパール暦の新年になるからだ。俺はその子供に12ルピー支払い、そのカレンダーを買った。

いったんゲストハウスへ戻り、シャワーを浴び洗濯をして、クリシュナ・モモ・レストランへ。昼食はチョウミン(ネパール風焼きそば)、14ルピーと安い。この店は2年前にもよく通った店で、オーナーも俺のことをよく覚えていてくれた。狭い路地の奥にひっそりとあるこの店の客は、ほとんど地元の人だけで、ツーリストが来ることは、まずない。それゆえに覚えていたのだろう。それにしても、ここのチョウミンはうまい。日本の焼きそばと少し異なるが、それでも充分になじめる味だ。テーブルにソイソースが置いてあるところなんて、気が利いてる。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月11日 (日)

美しき地球 その4

 皆様、おはこんにちばんは (◎´∀`)ノ

残暑お見舞い申し上げます。

いよいよ盆休みに入りましたね。
今日だけに限らず、ここ数日のこの暑さ、尋常ではないですね。
最低気温は25℃を超す熱帯夜。最高気温は35℃を超す酷暑日。
水分や塩分を摂るだけでなく、なるべく風通しの良い部屋やエアコンが効いた部屋で過ごすなど、熱中症にはくれぐれもご留意ください。

 さて、久々にアンジュラ&エルマーから届いたメールにクリップされていた写真の紹介です。しかし残念なことに、どの国の写真なのか分からなくなってしまいました。
実は先月初め、私のPCが調子悪くリセットするしかなくなり、その際写真が添付されていたメールそのものを失いました。

ただ幸いに、これらの写真はメールからコピーして保存してありましたので失くさずに済みましたが、場所の説明ができなくなったのが残念です。

 ここ数日、地方によっては40℃を超す暑さだったようで、少しでも”涼”をお届けすべく、こんな写真を紹介いたします。

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ここはいったい・・・地球なのか?!と思うほどの光景。しかし、高所恐怖症の人はせり出た回遊路は歩けそうもないかな?

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地底探検?こんな洞窟もあるのですね。

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穏やかな川の流れと対照的な滝が流れ落ちています。 

最初の写真はかなり暑そうな感じですが、下の2枚で少しでも涼を感じていただけたら、幸いに思います。
これらの写真の場所を知っている方、お見えでしたらぜひ教えてください。

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2013年8月 8日 (木)

ネパール再会の旅 6 『ミラクル!奇跡が起こった!』(再掲)

ゴビンダがマナスル・ゲストハウスへフランス人の友達を迎えに行った。俺はその間、彼の自宅で片言の英語とネパール語を使い、皆と過ごしていた。やがてゴビンダが戻って来た。と同時に彼は、「ジンさん!彼はあなたとは友達ですよ!」と大きな声で叫ぶ。「フランス人に友達はいないはずだが・・・」と考えていると、その男は「ヘイ!ミスター○○(俺の名字)、ジン!2年前、マナスル・ゲストハウスで同じ部屋だったことがあっただろう?」と英語で話す。俺はそれを聞いて「Σ( ゜Д゜)ハッ!そういえば・・・、エッ?でも、まさか・・・」と思っていると、彼はさらに「あの時、あなたはエヴェレストの写真を見せてくれたよ。そして私はあなたにアンナプルナの情報を教えたじゃないか」と話した。「そうだよ!思い出したよ!覚えてるよ俺も! (*゚▽゚)ノ」そう答えた。

2年前、オーナーに頼まれ2~3日相部屋したフランス人がいた。名前も住所もお互い教え合うことはなかったし、写真も撮っていないので、忘れてしまっていたが、彼は当時の俺の呼び名(ジン)を覚えていたようだ。

俺は「まさか Σ(゚д゚;)?!」と思うほどの再会に体中が震え興奮し、お互いに握手を交わし、肩を叩きあって、この奇跡的な再会を互いに喜びあった。居合わせた家族の人たちも、この出来事に驚き、もう本当にお祭り騒ぎ。

彼の名前はジャックといい、パリでインドやネパールなどの民芸品を扱う店を開いているそうだ。今回は直接仕入れにやって来たのだという。

それにしても、こんな偶然が起こるものなのか?!この広い地球、60数億人もの人々が住んでいる地球で、互いに連絡先も知らない何の約束もしていない日本人とフランス人が、2年ぶりに再び会うことになろうとは!「ミラクル!」としか言いようがない。旅とは、つくづく不思議なものである。

お互いに驚きと興奮覚めやらぬ中、俺とジャックはゴビンダの家族の方たちからお酒やおつまみをふるまわれ、ダルバートを食べ終えると、もうお腹いっぱいだ。笑い声も高らかに、楽しいひとときが過ぎた。

9時過ぎにゴビンダ宅を後にして、ジャックと共にマナスル・ゲストハウスへ帰って行く。ネパール初日の日に、多くの友達と再会し、味も堪能した。最高の旅のスタートである。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月 7日 (水)

ネパール再会の旅 5 『ゴビンダと再会』(再掲)

そして歩いて20分ほどのところにあるゴビンダの家へ。2年ぶりだが、道は覚えていた。1階2階は貸室で3階がゴビンダの家族が住むマハルザン家。その3階へ上がり「ナマステ」とあいさつする。手前にあるキッチンには女の子が3人、妹と従姉妹とあと一人は・・・?後で聞けば、つい最近結婚したゴビンダの兄の奥さんとのことだ。彼女たちに「ゴビンダ ツァ?;ゴビンダいる?」と尋ねると、隣の部屋を指さした。隣の部屋、リビングを覗くと男たち4人、車座になって何やらゲームに興じている。

「ヘィ!ゴビンダ!ナマステ!」と言うと、皆一斉に俺の方を見た。とたんにゴビンダが目を点にして立ちあがり、「ジンさん!あなたはいつネパールへ来ましたか?!」と驚いたように、日本語で訊いてきた。「今日だよ、今日。ついさっき着いたばかりだよ!」と言うと、「びっくりしましたネ、突然にあなたは来るから!」と答えた。まわりを見ると、父親、弟、従兄弟もいる。皆、俺とは顔なじみなので、覚えていてくれたようで、突然の訪問にも、大歓迎してくれた。

ふと見ると、ゴビンダのお母さんがいない。すぐ隣にある祖父母の家にいるらしい。弟のサビンダが窓からそちらへ向かって「マー!;母の別の言い方(母=アマ)」と呼んでいる。初めにおばあさんが顔を出した。「ナマステ」とあいさつすると、おばあさんはしばらくして俺のことを思い出したようで、笑顔で「ナマステ」と答えてくれた。続いておじいさん。しかし、「誰だったっけ?」という表情だ。そしてお母さん。おばあさんから聞いたのか、「よく来てくれた」と言わんばかりの満面の笑顔で「ナマステ、ナマステ!」と喜んでくれた。

しばらくして、兄のラビンダが外出から戻って来た。彼は色付けが終わったライスペーパー製のカレンダーを、ペーパークラフトショップへ納品しに行っていたそうで、店の主人から俺が来たことを聞かされていたらしい。俺とは行き違いになったわけだ。だから「来ていることは知っていたよ」と話し、再会を喜んでくれた。俺も「結婚したんだってね。おめでとう」と彼を祝福した。

リビングで皆と話していると、妹と従姉妹が「私たちのことも覚えていますか?」と不安げに尋ねてきた。「もちろん。僕が初めてここへ来た時、毛糸を巻いていたでしょ?」と答えると、「そうでした、そうでした。」と2年前に出会った時のことを思い出していた。そしてお母さんもこちらへやって来て、あらためてあいさつすると、本当に喜んでくれているのが伝わってくる。すると、お母さんは女の子たちに突然何か叱りつけている。ゴビンダに聞くと、「お客様が来ているのに食事も出さないで、何をやっているの!」と言っていたそうだ。

この日は小さなお祭りの日で、ご馳走も豪華だ。チャン(ネパール風ビール;どぶろくにも近い)を飲み、チュラ(干し飯)、マス(肉)、バラ(ネパール風はんぺん)をご馳走になる。うーん、ネパールの味だ。どれもこれも美味しい。ネパールの人々は、いつでもどんな時でも、今回のような突然の訪問に対しても、お客を丁重にもてなしてくれる。時間を問わず、食事をふるまってくれるのである。ネパールへ着いて最初に口にしたものが、ネパールの一般の家庭での家庭料理。わずか数時間で、身も心もネパールにどっぷりと浸かってしまった。たらふくご馳走になり、お礼を言う。

今からテレビでインド映画が放送されるようで、皆も楽しみにしていたらしく、俺も一緒に見ることにする。1・2階の住人たちも、テレビを見にやって来た。彼らの部屋にはテレビがないそうで、こうしてしばしばやって来るらしい。初めのうち、子供たちは映画よりも「どうしてここに日本人がいるのだろう?」という感じの不思議そうな眼で俺の方を見ていた。

夕方になって、そろそろお暇(いとま)しようとするとゴビンダが、「今、フランス人の友達もネパールへ来ています。今日、彼を招待してここで一緒に食事をすることになっています。ですからあなたも一緒に食事をしていってください。」と言うので、夕食もご馳走になることにした。フランス人の友達の写真を見せてくれたが、俺の知らない人だった。しかし同じマナスル・ゲストハウスに泊まっているそうだ。

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2年前に初めてゴビンダの家を訪れたときです。ここに写っているすべての人と、この日再会できました。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月 6日 (火)

ネパール再会の旅 4 『2年ぶりのカトマンドゥで』(再掲)

シンガポールからおよそ6時間、現地時間の11時55分、カトマンドゥ・トリヴバン国際空港着。座席を立つと、反対側の通路で先ほど話をしていた女性がこちらを見ていた。入国の手続きや友達が迎えに来ていなかった場合の不安もあるのだろう。彼女は俺と一緒に飛行機を降り、空港内でまず初めに1ヶ月間のビザの申請(US40ドル)。ビザ申請には当然、写真が必要なのだが、彼女はその写真が預けた荷物の中だと言う。「どうしよう。どう言ったらいいですか?」と困っている彼女の代わりに俺が説明し、特別に写真なしでビザを発行してもらった。続いて空港内の銀行で両替。1ドル=48.58ルピー。1ルピー≒2円。そして入国審査、荷物の受け取り、税関。税関に申請するほどのものは何一つ持ってきていないので、これらの手続きは簡単にすむ。

空港ロビーに出ると、あっという間にホテルやゲストハウスの客引きたちに取り囲まれる。しかし幸いにも、彼女(高橋さん)の友達が迎えに来ていたので、客引きからは解放された。彼女は友達(高柳さん)に「もしかしたら、高柳さんの友達の友達かもしれないんですよ」と、俺のことを話した。そして俺は彼にあいさつをし、そして訊いてみた。

「ゴビンダって知ってます?ゴビンダ・マハルザンというのですけど。」
「エッ!えぇー、知ってます・・・。あっ!もしかしたら、○○(本名)さん、ジンさん?」
「そうです。えっ?知ってました?」
「えぇー!ゴビンダの古い友達だそうで!」
「古いって・・・、ほんの2年前ですよ」

俺は高橋さんに「やっぱり同じ人だったね」と話し、そしてさらに彼に尋ねた。

「ゴビンダは来てないかな―?今日来ることを手紙で知らせておいたんだけど・・・」
「いや、見てないですねー。いれば、すぐわかると思うし。それにゴビンダからも何も聞いてないし・・・」
「キャンセル待ちで予約が取れたのが、ほんの1週間前だからな―。まだ届いてなかったかな?」
「たぶんそうだと思います。もし届いていれば、ゴビンダが絶対に話していると思いますから」

ネパールに着いた途端、友達の友達に会えるとは幸先がいい。我々はタクシーを相乗りすることにして、カトマンドゥの街中、タメル地区へ。俺はタクシー代の半分を彼らに手渡し、懐かしいマナスル・ゲストハウスの前でタクシーを降りた。高橋さんと高柳さんは、どこだかわからないが、他のゲストハウスへと向かった。

マナスル・ゲストハウスの中へ入って行くと、わずか2年の間で従業員はおろか、オーナーまでもが変わっていて、知っている顔は一人もいない。料金交渉の際、なかなか安くしてもらえず、「ゴビンダだったら100ルピーにしてくれるのだけどな―」と言うと、「ゴビンダの友達なら仕方がないナ」とでも思ったのか、シングル120ルピー(≒240円)で交渉成立。本来は8ドル(≒400ルピー)の部屋だから、3分の1以下にまで安くしてもらったことになる。とりあえず部屋は確保した。

部屋に荷物を置いてすぐ、街へ飛び出した。まず初めに向かったのは、以前ゴビンダの紹介で親しくなり、お土産もたくさん買ったペーパークラフトショップ。その店の主人なら、現在のゴビンダの所在を知っているだろう。「ナマステ(こんにちは)」と言って店に入ると、店主が一瞬「あれっ?」という顔をした。

「Do you remember me ?」
「Yes ! Govinda's friend ! When did you come ?」
「Today ! Before 1 hour I arrived to Manaslu Guest House and check in. 」

店主は俺のことを覚えていて、突然の訪問をとても喜んでくれた。ゴビンダの所在を尋ねてみたが、彼もよく知らないそうで、「しかし今日は祝日だから、きっと家にいるだろう」とのことだ。
*この日は日曜日ですが、ネパールの休日は土曜日で日曜日は週の始まりの日です。

「So, I'll go to his house.」
「Can you go alone ?」
「Yes,of course ! 2 years ago, I went to his house many times.」

今日はまだ来たばかりだから何も買わなかったが、日本へ帰国する前に必ず立ち寄ることを約束し、店を後にし、いったんゲストハウスへ戻った。そしてゲストハウスの1階、道路に面した側にある雑貨屋を覗いてみると、「いるいる」、店員の兄ちゃん。この兄ちゃん、日本人の客には「さん(3)ルピーね」「ご(5)ルピーね」「ありがと」などと、いつも日本語で受け答えする。この日も相変わらずだった。この兄ちゃんにも「覚えているか?」と尋ねると、しばらく俺の顔をじっと見て、思い出したとばかりに「髭はどうしたんだ?髭がないじゃないか!」とジェスチャー交じりに叫んだ。「やっぱり覚えていたか」と俺も苦笑い。前回来た時に知り合った人々が、俺のことを今でも覚えていてくれたと思うと、なんだかこの街が、俺にとって『第二の故郷』のような気がしてくる。

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2年前に撮影したペーパークラフトショップの主人。

*この旅日記は1994年のものです。

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2013年8月 4日 (日)

「よっこいしょっ!ういちさん」

 皆様、おはこんにちばんは (*゚▽゚)ノ

時折不安定な天気で雷鳴や夕立の日がありますが、それでも夏らしい猛暑の日々がやってきました。
毎年8月になるとTVでは戦争テーマの特別番組、新聞もそれらをテーマにした記事をよく見ます。

つい先日、地元紙一面にあの”故・横井庄一さん”の記事が掲載されていました。

『「生きとる」母の一念』というタイトルに『横井庄一さんの戦死公報信じす』とありました。
横井さんの帰国直後、ご先祖様のお墓参りで泣き崩れる写真とともに記事が書かれていました。

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7/30日付、中日新聞朝刊一面です。

この記事を読み「当たり前だよなぁ」と思いました。
戦死された方のほとんどは、どこでどのような形で命を落としたのかご遺族の方には確信がないことと思います。ましてや公報だけで他に情報もなく遺骨もないのに、どうして『死』を信ずることができるでしょうか?!

私の母方の祖父も戦死しました。近衛兵として出征し「南のほうの海で攻撃したらいかん船(赤十字船)に乗っていたのに、攻撃されて船もろとも沈没した。」と聞きました。
ですからやはり遺骨はありません。母曰く、「南の海で魚の餌となってしまった」のでしょう。
祖母から直接話を聞いたわけではありませんが、やはり最初は『死』を受け入れ難かったのでは?と思います。

さて、もうすでにご存知のプロ友さんも多いのですが、実はこの横井庄一さん、我が地元出身の方なのです。
今から40年ほど前、当時私は小学生でした。その時、日本中を驚かせるニュースが流れ、その当事者が我が地元の方でした。
それどころか、横井さんが帰国し名古屋へ凱旋した日、新幹線ホームで横井さんに花束を持って出迎えた女の子、当時の私のクラスメートでしかも席を隣同士で並べていた女の子でした。

その日学校は本来ならば午後まで授業があるのですが、横井さんの帰郷で多くのマスコミが押し寄せることを予想してか、臨時で半日授業となりました。
にもかかわらず隣の席の女の子が休んでいて「こんな日にもったいない」と思ったのですが、帰宅後のTVニュースで横井さんが名古屋へ帰ってきたシーンを見て「何っ?!だから今日、休んでたんだ!」と声をあげていたのを今も覚えています。

故・横井庄一さんが地元の方だから印象強いのは当然ですが、当時のクラスメートで席を並べていた子が横井さんを迎えに行っていたことで、なおさらインパクトが強く残りました。

横井さんが帰国後過ごされたご自宅は今、『横井庄一記念館』として毎週日曜日のみ公開されています。
我が家から車なら5分もかかるかどうかの距離。歩いても2~30分ほどかな?一度だけ訪れました。
横井さんがグアム島でひっそりと隠れて生き延びた洞穴が再現されています。当時使っていた道具、衣服を作るための機織り機も造ったようです。
当時はもちろん今でも「スゴイ!」と思います。

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故・横井庄一さんのご自宅前。開館日はこのように看板が掲げられています。

何の変哲もなく見るからに殺風景な我が街。唯一誇れるのが、この故・横井庄一さんかもしれません。

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2013年8月 1日 (木)

ネパール再会の旅 3 『カトマンドゥへの機内にて』(再掲)

4月10日(日)晴れ
シンガポール8:00(SQ414)11:55カトマンドゥ(現地時間;シンガポール時間14:10)
*ネパールは、日本との時差3時間15分です。

 午前5時起床。洗髪・洗顔を済ませ、出発用意。6時、ホテルのシャトルバスで空港へ。チェックイン、出国手続き(出国税S15ドル)。待合室を見ると、日本人らしき姿はほとんど見かけない。

8時、やはり定刻に出発。機内サービスは、まずおしぼり。朝食は、オムレツにポテト、マフィン、フルーツなど。スチュワーデスも笑顔を浮かべながら、よく動いている。今までに乗った飛行機(E航空やP航空など)では、考えられないほどだ。ドリンクは昨日に続き、ブラディマリーを飲む。うーん、美味しい。トランプやポストカード、ボールペンもいただいた。しかし、シンガポール航空は、日本発着便を除くほとんどすべてで、機内禁煙となっている。それが辛い。でも仕方がないか。

この便は途中ダッカ(バングラデシュ)に寄航する。乗客がかなり降りた。ふと進行方向右側を見ると『地球の歩き方』を読んでいる一人の女性がいる。間違いなく日本人だろう。隣席は空いている。この先、ヒマラヤが見えるのは右側なのだ。もしここから乗客がなく空いているままだったら、移動しようと思い、彼女に声かけてみた。するとあっさりOKの返事をもらい、しばらく話をしていた。

彼女は初めての海外で、一人で心細かったようだ。ネパールへも当然初めてで、色々話しているうちに意外な事実が判明した。彼女の友達がカトマンドゥに英語の勉強で留学していると言うのだが、同じ話を俺のネパールの友人ゴビンダからの手紙で聞いたことがある。

「ネパールへ英語留学って珍しいけど、僕のネパール人の友人の手紙にも書いてあったよ。名古屋から来ている人と友達になったって。」
「えっ!その人も名古屋ですよ。」
「もしかしたら、同じ人かもしれないね」

彼女の友達と、俺のネパールの友達の友達が同一人物かもしれない、これですっかり話が盛り上がった。彼女の友達は空港まで迎えに来てくれるそうなのだが、もし何かの理由で迎えに行けなかった場合、彼女には『富士ゲストハウス』に行くように伝えてあるそうだ。とはいえ、初めてのネパールで彼女一人、もしそうなったとしたら不安でいっぱいだ。俺は『富士ゲストハウス』が、俺が泊まる予定の『マナスルゲストハウス』と道路を挟んだ反対側にあることを覚えている。彼女が持っている『地球の歩き方』で念のために確認してみると、間違いなかった。だから「もし友達が来ていなかったら、僕と一緒に行けばいいよ」と話すと、彼女も「その時はぜひお願いします」と答えた。

楽しく話していたところだったが、ダッカから彼女の隣席に乗客がやって来て、俺は自分の席へと戻らざるをえなかった。そして飛行機は、カトマンドゥへと向かって行った。

*この旅日記は1994年のものです。

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