We are "International Everest Trekking family " !(再掲)
仲間たちと共に、ここタンボチェの博物館を訪れる。
曼荼羅や、この地方に住む民族の絵が飾ってある。俺は、係員である僧侶にネパール語で尋ねてみた。
「(絵を指さしながら)フォト キチ パニ フンツァ ? (写真撮ってもいいですか?)」
僧侶は笑顔で「フンツァ(いいですよ)」と答えてくれた。
そして俺は写真を撮り始めた。すると仲間のイングリッドさんとエルマー氏が、
「dsching 、写真撮ってもいいのかい?」と驚きながら尋ねた。
俺は彼らに、僧侶の了解を得たことを話した。彼らも当然のように、写真を撮り始めた。
シェルパ・カルチャーセンターに飾られていた絵。この地方の文化の一部だけでも、窺い知ることができます。
これも曼荼羅です。描かれている山は、この付近の山のようです。
見学後、ロッジへ戻り自由に過ごす。ベッドルームにいても仕方がないので、皆ダイニングルームへと集まってくる。そこには初日のデウラリ以来、他の日本人宿泊客がいた。そして世界中から、多くのトレッカー。やはりルクラまで空路で来るトレッカーが多いということだろう。ルクラより下の村では、宿泊客が10人を越えたことはなかったのだから。
俺は一人の日本人女性に話しかけられた。その人は、ツアーで来ていたのだが高山病の症状が出て、ツアーを離れ一人のネパール人ポーターとともに、ここまで下って来たそうだ。その時、その人は日本から持参してきた「きつねどん兵衛」を食べていた。
「ワッ!食べたくなるような、いいにおい!」
しばらくの間、その人と話をし、彼女はベッドルームへと戻った。残されたポーターは全くと言っていいほど英語ができないらしい。そこで俺は、できる限りのネパール語で彼の話し相手になっていた。
やがて彼が「サーティ チャイナ ? (連れはいないの?)」と尋ねる。
「ツァ!メロ サーティ・・・、(いるよ!俺の友達は・・・)」
俺は、やや離れたところにいる仲間たち一人一人を彼に紹介し、最後にこう叫んだ。
「We are International Everest Trekking family ! (俺たちは、インターナショナル・エヴェレスト・トレッキング・ファミリーだ!)」と。
すると、仲間たちも全員、「イエース!」と答えてくれたのだ。
その途端、ダイニングルームは多くの感嘆の声と拍手に包まれた。
「オォー!ワンダフル!」
「ブラボー!」
中には、スタンディングオベーションで「素晴らしい!」と拍手してくれた方もいた。
日本、ネパール、カナダ、ドイツの4カ国5人のグループ、たくさんの人たちに称賛された。
別のテーブルでトランプをしようとしている女性から、俺も誘われた。
「dsching、あなたも一緒にやらない?」と。
その女性とは、この日が初対面なのに!もう俺の名前を覚え、トランプに誘ってくれたのだ。こんな嬉しいことはない!
他にも若い日本人男性の2人組がいたのだが、彼らは他の国の人とは全くコミュニケーションしようとしていなかった。俺とは、あいさつだけはしたのだが・・・。もっと勇気を出して他の国の人々とコミュニケーションすれば、また違った旅の想い出が作れるのに・・・。もったいない。
夕食は、仲間たち共に集まってワイワイしながら食べていた。そしてエルマー氏と共にムスタンコーヒーを飲む。
「エルマー、これが最後のムスタンコーヒーだよ。明日からは4000m超えるし、アルコールはとても危険だから!」
「イエス dsching 、俺もそう思っていたんだ!今日が最後だと!」
お互い、お酒が好きだからこそ、重々承知していることだ。高所での飲酒が平地と違い、どれほど酔いがまわるか、と同時に命の危険にもさらされるも。
俺とエルマー氏は、名残惜しむようにムスタンコーヒーを味わっていた。
タンボチェ・タシデレクロッジにて
*この旅日記は1992年のものです。
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