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2010年8月14日 (土)

盆が来ると思いだす・・・

 明日8月15日は『終戦記念日』。でも、なぜ『記念日』なのだろう?あの時代の日本は、最後まで「勝つ!」と信じて戦い、そして敗れた、むしろ『屈辱の日』。しかし、我々は皆ごく普通に今日この日を『終戦記念日』と呼んでいる。戦争に敗れ、屈辱を味わったものの、「これで平和が訪れる、終わって良かった」から『記念日』なのだろうと、私なりの解釈。
戦争を知らない私が、↑のようなことを言うのは、『おこがましいにもほどがある』ので、皆様のご意見を、お聞かせいただけると幸いです(ブログ仲間の方々は、私よりご年配の方のほうが多いので!)。

さて、この時期になると必ずや思い出さずにいられないのは、戦死した祖父(母の父)です(父方の祖父は、私が生まれる以前どころか両親の結婚前に、すでに他界していました)。私の祖父は『近衛兵』として出征しました。しかし、南の方の海で『赤十字船』に乗っているときに、理不尽にも攻撃を受け、そのまま海へ沈んだらしいです。
私自身も、少しばかり調べてみました。祖父が所属していた『近衛歩兵第4連隊』は、確かにマレー半島へと出征していました。その際に負傷し、赤十字船に乗っていたのでは?と考えられます。

その祖父は、近衛兵として入隊した後の写真を、多数残してくれました。毎年この時期になると、自然にそれらのアルバムに目を向けたくなります。アルバムは4冊。貴重な写真が、たくさん残されています。

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若かりし頃の祖父の軍服姿です。「凛凛しい!」というか...カッコ良すぎる・・・!叔母は少しずつ年をとった私に対して「じさまに似てきた!」と、会う度に言います。

アルバムには、戦地へ赴く前の様子の写真、共に過ごした戦友の方々の写真、実戦訓練の様子もありました。そうかと思えば、『軍旗祭』といったイベントも行われていたり、伊勢神宮へ参拝したり、兵舎の中の写真もあって、とても興味深いものです。私は『辛く厳しい訓練を受けたのだろうなぁ?!』という思いがあっただけに、少しはホッ!とする写真もあって、心慰められました。

でもさすが『皇軍・近衛兵』だった祖父のアルバム。天皇・皇后両陛下の写真をはじめ、各皇族の方々、さらには満州国皇帝陛下の写真も。そう、中国・清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀。さらには、歴史の教科書で見覚えのある乃木大将、東郷元帥・・・。そうそうたる顔触れの写真が、これでもか!というほど残されていました。

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満州国皇帝陛下・愛新覚羅溥儀。戦勝祈願のパレードのようです。

さらには、宮城(皇居)、皇居内部の写真もありました。玉座、豊明殿、千種の間・・・と、決して見ることができない貴重な写真。これらの写真は、すべてキャビネサイズで、母曰く「天皇陛下から頂いた写真」と聞かされたそうです。また、日本の象徴でもある『富士山』も、富士五湖すべてから撮られた写真が残されていました。

そしてつい数年前までは、何気に見ていた写真があります。映画『硫黄島からの手紙』の後、私もその名を知った『バロン西』こと、西竹一氏。1936年ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト。アルバムには『西大尉ノ馬術』と書いてあります。映画以降、『バロン西』については、耳にすることがありましたので、すぐにピン!ときました。その写真は間違いなく、『バロン西』であると。映画では、大尉どころかもっと上の階級に昇格していました。

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祖父の字で『西大尉ノ馬術』と書かれていました。

そしてもう1人、私にとって忘れえぬ人物がいます。とりあえず、その時の新聞の一面を載せます。

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昭和47年(1972年)1月25日、中日新聞夕刊のようです。(複製版より)

皆様、この方を覚えていらっしゃいますか?「dsching (ジン)さん、前にも書いていたヨォ!」と思われた方、ごめんなさい。横井庄一さん、『恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました。天皇陛下からいただいた小銃は、ちゃんと持って帰ってまいりました』が、帰国後の第一声。この言葉の中に、戦時中の考え方、思想が垣間見ることができます。

横井庄一さんがその後、故郷へ帰って来た日のエピソード、少し紹介します。

私は当時、小学5年生。横井さんが故郷である名古屋へ帰郷する日、我が小学校は午後は臨時休校。実は、横井さんは私の地元出身だったのです。マスコミ関係者が多く来るだろうとの配慮か、早めに下校させたようです。そんな日に限って、私の隣に座っていた女の子は休んでいました。『もったいない・・・』と思ったものでした。

帰宅して横井さんの帰郷を報道するTV生中継を見ていました。横井さんが新幹線で名古屋駅へ到着し、ホームへと下りました。すると・・・、「アッ!?だから今日、休んでたんだ!」。当時のクラスメイトで席を並べていた女の子、彼女が着物姿で花束を持って出迎えていたのです。もうビックリ (゚o゚;;)!でした。確かに彼女の名字も『横井』さんでしたが、そんな素振りは一切見せなかったし・・・。翌日、彼女はクラスのみんなから囲まれ、一躍ヒロインになっていました。

その翌年、『創立百周年』を迎えた我が母校。横井さんは母校のために、文化祭の時にグアム島で潜伏生活をしていた時の道具などを、無償で展示してくださいました。当時私は6年生。本当に貴重なものを拝見させていただいたと思っています。

横井さんを出迎えたクラスメイトの子とは、保育園も同じでお互いの母親も顔見知りでした。小学校から中学校へと進学した私、給食から弁当持参になりました。そんなある日、母が彼女の母親から聞いたそうです。横井さんがお弁当を見て「贅沢だ!昔は日の丸弁当だった(怒)!」と、さんざん文句を言っていたそうです。「今は昔と時代が違うのだから・・・」と話しても、まるで『うらしま太郎』だった横井さん、現実を受け入れるまで、かなりの時間が必要だったようです。

『戦争を知らずに育った』私は、名誉ある『近衛兵』だった我が祖父と、戦後28年間潜伏生活をしながら、生きながらえた横井庄一さんを思い出します。
私にとって、ゆかりのある(?)2人を紹介しました。私には、何はともあれ、このお二方を語らずして戦争のことは語ることはできません。語るべき体験も何一つありません。私が私の目で見て知っている『戦争』は、これだけにすぎません。ほとんどのブログ仲間の方が私より『人生の先輩』です。本当に申し訳ありません。身勝手なことを書いてしまいました。でも、思い出さずにいられない、私には大切な思い出です。

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コメント

それでも、横井さんという人は、小野田さん立場が違ったこともあるでしょうが、戦後の日本への適応がよかったようですね。幸いなことと思います。
英語の力があったばかりに軍の英文解読などに協力して、戦後追放の憂き目にあった伯父のことを思うと「アホらしい」と思ったものでした。
日清・日ロ戦争に勝った辺りから日本は自国の本当の国力について正しい認識が出来ていなかった。その錯覚が敗戦につながります。敗戦に至るまでに、どれだけかけがえのない命が失われたでしょう。戦争を本当にしたいと思っていた人はほんの一握りだったと思います。
実は思い出したくない、でも忘れてはいけないこの敗戦記念日をどうして国民の祝日にしないのでしょうか。「敗戦」はおかしいとしても「先祖を思う日」でもいいです。でもやはり「敗戦」であったことを忘れるべきではありません。
お答になっていないかもしれませんが。


hannaさんへ

帰国直後からしばらくは、やはり『うらしま太郎』状態だっただろう横井さんですが、徐々にその頃の現実社会に馴染まれ、結婚もされました。そして自身の体験をもとに『耐乏生活評論家』として、各地で講演されたりしました。『サバイバル極意書、もっと困れ』というタイトルだったかと思いますが、本も出版されました。
大国相手だった日清・日露戦争に勝利したこと、それが第二次大戦の敗戦につながっていることは、私も理解できます。軍艦主体の戦争から航空機主体に変わり、それがあの『戦艦大和』でさえも沈没することとなった・・・!当時の日本は、海での戦いに日清・日露での勝利に驕っていたのでは?時代は、海での戦いでさえも空中戦になっていたのですから。← これらも『戦争を知らない』私が言うべきことではありませんでした。申し訳ありません。
それから、生意気なことを言いますが、『敗戦記念日』という言葉も、私には違和感を感じます (^_^;; 。とは言っても、どんな言葉を使えば良いのか・・・?『終戦の日』、『敗戦の日』・・・?この日を『国民の祝日』にする案は、賛成です。盆休みの時期ですから、多くの人々は休みでしょうが、それでも『国民の祝日』、いや『祝日』ではなく『国民の休日』にすることにより、戦争を知らない世代たちにも、戦争について考える意識が高まると思います。
私には、充分答えになっています (^_^) 。ありがとうございました m(u_u)mアリガト!

投稿: hanna | 2010年8月14日 (土) 23時21分

 おはようございます~♪
慕辺未行さん、私も「やっと戦争が終わった」日だったと思います「戦争をして好かったことは何か有ったのか」
当時の事は、具体的には何も覚えていませんが。
↑の二つの呟きは私が大きくなってから聞かされた母の言葉でした。
実際は我家の平和は果てしなく遠い道のりしたが・・
 私の場合は私が生まれた時に既に両親共に親(祖父母)は亡くなっていました。
病死です。
父は身体が弱くて、服役はしていませんし、直接の被害?は有りませんでしたが、戦争の為に仕事を失い、物が無い時代の両親の苦労を思うと、やはり戦争の犠牲者だと思っています。

 若かりし頃のおじいさまは凛々しいですが
戦地でのご苦労は想像を超えるものが有ったのでしょうね
そして、今の若者が「かっこ好い」と思ったら悲しいし危険ですね。
 又、「戦争は絶対にしたらあかん」も母の口癖でした。

 横井正一さんの「恥ずかしながら・・」は流行りましたね。
時間はかかっても今は祖国になじまれてご結婚されて
静かに暮らして居られるのですね
当時小学5年生慕辺未行さんの想いでの方が興味深いですし
ホッとしました(^-^)
私も「敗戦記念日」は必要だと思います。
「戦争は絶対にしない」と改めて自分自身に言い聞かせる日として・・
 中途半端なコメントでごめんなさい。


コスモスさんへ

コスモスさんのお母様の言葉、当時を体験されているからこそ、気持ちが表れていますネ。実際、戦争が終わっても、しばらくは大変な日々を過ごされたのでしょうし。
あの頃を生きてこられた人々は皆『戦争の犠牲者』だと思います。そして戦争は、二度としてはいけないです。しかし、すぐ近くの国の現状を考えると、一抹の不安、巻き込まれやしないか?が頭をよぎります。
アルバムに残された祖父の顔は、このような顔をしている写真より、笑っている写真のほうが多いです。そういうときでないと、写真を撮る機会はなかったでしょうし。戦地へ赴いてからは、私には知るすべもなく、想像を絶する戦いがあったのだろうと思います。
横井庄一さんが、まさか地元の方だったとは、当時本当にビックリしました。まして、机を並べていたクラスメイトが、身内の子だったので、より印象強く残っています。
そうですね、私もこの日を ”平和に向かって歩き始めた”『平和の日』という名目で、祝日にすべきかなぁと思います。

投稿: コスモス | 2010年8月15日 (日) 08時29分

私は大戦中の生まれですが慕辺未行さんの方が戦争に詳しいです。
父は理系の学者でしたので徴兵は免れましたし・・・
親は私を連れて東京空襲が始まる前に岐阜に帰りましたし・・・

お祖父さまはエリートでしたのね。
写真が物語ります。
貴重な歴史的写真ですから大切にして下さい。

横井さんとそのように近いとは・・・
洋服屋さんでしたね。
小野田さんと横井さんと二人が救出されましたが
横井さんの方が印象的です。
素朴で好感が持てますし・・・

亡くなられた今は、講演会を聞いておけばよかったのに
と思います。
でもそのころ関西にいたので無理でした。

matsubaraさんへ

いえいえ、全く詳しくはないです。祖父が残したアルバムから、少し垣間見るだけで、何も知らないに等しいです。
あの頃は、都会は空襲に見舞われ、女性や子供は疎開していたそうですネ!私の母は、当時名古屋から三重県員弁へ疎開していたそうです。
祖父のアルバムを見たのは、祖母が亡くなってからのことでした。祖父が残した写真が、貴重なものばかりで、本当に驚いたものです。母から話は聞いていましたが、大げさに話していると思っていたのです。しかし、実際は大げさなんかではなく、本当に近衛兵として、馬に乗った天皇陛下の後ろを行進する軍人の中に、祖父の姿もありました。それだけで「じいちゃん、すごかったんだ!」と感激しました。
小野田さんも覚えていますが、横井さんが発見された時の衝撃は大きかったですね。まして地元の方でしただけに、強烈な印象でした。講演会は、私も聞いたことはありませんが、彼が書いた著書を読んだことがあります。

投稿: matsubara | 2010年8月15日 (日) 09時02分

おじい様は立派な軍人さんだったのですね
我が家では戦争の話は聞いた事がなかったです
結婚してから主人から子どもの頃空襲で火の中を逃げ惑った話を聞いて驚きました 
(名古屋の中村に居て その後岐阜に疎開したらしいです)
横井さんの話も何故かよそ事な気がしてましたね
やはり戦争を知らない私達はそれだけ身に感じて
いなかったかもですね
でも小野田さんが帰還された時は 
横井さんとはえらく違うと
感じたのを今もはっきり覚えていますね


あま・コスモスさんへ

幼い頃、母から聞いてはいましたが、正直言って半信半疑でした。しかし、これらのアルバムを見て初めて「じいちゃん、スゴイ!」と思ったものです。
名古屋も軍需産業があったためか、ずいぶん空襲があったそうですね。一度、名古屋の中心部近くのある老舗店で、地下倉庫を案内して頂いたことがあるのですが、その時私はすぐにピンときました。「ここは、昔の防空壕ですか?」と。やはりそうでした。私にとって貴重な体験でした。
横井さんと小野田さん、どこか違ったイメージがありましたね。小野田さんは、発見された後も、しばらくは帰国に応じなかったような記憶があります。上官の命令をずっと忠実に守り続けていた方でしたよね。しかし、帰国したものの彼はブラジルへと渡ったのでしたね。

投稿: あま・コスモス | 2010年8月15日 (日) 11時22分

訂正です。
 横井庄一さんは平成9年に亡くなられていたのですね。


コスモスさんへ

はい、すでに亡くなりました。もう10年以上経つのですネェ!亡くなられた時は、新聞でも大きく報道されていました。

「千本釈迦堂」と「千本閻魔堂」へのコメントです。
お釈迦さまと閻魔様のお堂でしょうか?お釈迦様はまだしても、閻魔様は怖い存在ですが、きちんとお参りされたコスモスさんは、大丈夫ですネ (^_^)!
このような場所では、やはり三脚もフラッシュも禁止されているのでしょうネ。でも、とてもきれいに撮れていますヨー!お精霊さんを迎える灯り、前に書きましたネパールのティハールという祭りで、神様を導き入れる蝋燭の灯明の列に似ている感じがします。

投稿: コスモス | 2010年8月15日 (日) 14時34分

こんにちわ
8月15日の終戦の日は私なりに今も記憶に残る日です
当時私は旧制の中等学校(工業学校)の2年生で学徒動員で東洋レーヨン滋賀工場で魚雷の部品を造っていました
夜勤もありました
当日お昼に我々生徒は広場に集められ戦争が終ったことを告げられました
所謂「玉音放送」は聞いていません
その日は直ぐに帰宅しました
戦時疎開で一家で父母の故郷の滋賀県野洲郡に住んでいました 父母と子供6人の世帯でした
田舎に住んでいても食料難でした 後に田んぼや畑を借りて小農業をしていました
正直言って戦争が終ってやれやれと思いました
それからも平和を感じるより生活に追われる方が大変だった様に覚えています
今は平和の大切さを実感しています


平安人さんへ

貴重なお話、コメントしてくださって本当にありがとうございます。私の亡き父は、戦争の話は一切しない人でしたし、母からは戦死した祖父が『近衛兵』であったということぐらいしか、聞いたことがありません。それだけに、平安人さんの当日のこと、生々しく感じます。
学徒動員してまで、当時の日本は戦争をひたすら進み、切羽詰まった状態だったのでしょうね。きっと、ある年齢に達したら、皆『赤紙』によって徴兵され、軍事部品などを作る担い手は、学生に頼るしかなかったのでしょうね。
玉音放送は、TVで実際のその映像を見たことがあります。皆、地面にひざまずいて両手をついて、その放送を聞いていたように記憶しています。『耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・』というお言葉でしたよね。
戦時中も大変でしたでしょうが、終わってからもしばらくは混乱が続き、誰もが日々の生活に追われていたのでしょうね。
戦争を知らない私ですが、平安人さんの経験されたこと、戦争の事実として、私の記憶の中に残していきます。本当にありがとうございました。

投稿: 平安人 | 2010年8月15日 (日) 17時06分

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