明日8月15日は『終戦記念日』。でも、なぜ『記念日』なのだろう?あの時代の日本は、最後まで「勝つ!」と信じて戦い、そして敗れた、むしろ『屈辱の日』。しかし、我々は皆ごく普通に今日この日を『終戦記念日』と呼んでいる。戦争に敗れ、屈辱を味わったものの、「これで平和が訪れる、終わって良かった」から『記念日』なのだろうと、私なりの解釈。
戦争を知らない私が、↑のようなことを言うのは、『おこがましいにもほどがある』ので、皆様のご意見を、お聞かせいただけると幸いです(ブログ仲間の方々は、私よりご年配の方のほうが多いので!)。
さて、この時期になると必ずや思い出さずにいられないのは、戦死した祖父(母の父)です(父方の祖父は、私が生まれる以前どころか両親の結婚前に、すでに他界していました)。私の祖父は『近衛兵』として出征しました。しかし、南の方の海で『赤十字船』に乗っているときに、理不尽にも攻撃を受け、そのまま海へ沈んだらしいです。
私自身も、少しばかり調べてみました。祖父が所属していた『近衛歩兵第4連隊』は、確かにマレー半島へと出征していました。その際に負傷し、赤十字船に乗っていたのでは?と考えられます。
その祖父は、近衛兵として入隊した後の写真を、多数残してくれました。毎年この時期になると、自然にそれらのアルバムに目を向けたくなります。アルバムは4冊。貴重な写真が、たくさん残されています。
若かりし頃の祖父の軍服姿です。「凛凛しい!」というか...カッコ良すぎる・・・!叔母は少しずつ年をとった私に対して「じさまに似てきた!」と、会う度に言います。
アルバムには、戦地へ赴く前の様子の写真、共に過ごした戦友の方々の写真、実戦訓練の様子もありました。そうかと思えば、『軍旗祭』といったイベントも行われていたり、伊勢神宮へ参拝したり、兵舎の中の写真もあって、とても興味深いものです。私は『辛く厳しい訓練を受けたのだろうなぁ?!』という思いがあっただけに、少しはホッ!とする写真もあって、心慰められました。
でもさすが『皇軍・近衛兵』だった祖父のアルバム。天皇・皇后両陛下の写真をはじめ、各皇族の方々、さらには満州国皇帝陛下の写真も。そう、中国・清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀。さらには、歴史の教科書で見覚えのある乃木大将、東郷元帥・・・。そうそうたる顔触れの写真が、これでもか!というほど残されていました。
満州国皇帝陛下・愛新覚羅溥儀。戦勝祈願のパレードのようです。
さらには、宮城(皇居)、皇居内部の写真もありました。玉座、豊明殿、千種の間・・・と、決して見ることができない貴重な写真。これらの写真は、すべてキャビネサイズで、母曰く「天皇陛下から頂いた写真」と聞かされたそうです。また、日本の象徴でもある『富士山』も、富士五湖すべてから撮られた写真が残されていました。
そしてつい数年前までは、何気に見ていた写真があります。映画『硫黄島からの手紙』の後、私もその名を知った『バロン西』こと、西竹一氏。1936年ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト。アルバムには『西大尉ノ馬術』と書いてあります。映画以降、『バロン西』については、耳にすることがありましたので、すぐにピン!ときました。その写真は間違いなく、『バロン西』であると。映画では、大尉どころかもっと上の階級に昇格していました。
祖父の字で『西大尉ノ馬術』と書かれていました。
そしてもう1人、私にとって忘れえぬ人物がいます。とりあえず、その時の新聞の一面を載せます。
昭和47年(1972年)1月25日、中日新聞夕刊のようです。(複製版より)
皆様、この方を覚えていらっしゃいますか?「dsching (ジン)さん、前にも書いていたヨォ!」と思われた方、ごめんなさい。横井庄一さん、『恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました。天皇陛下からいただいた小銃は、ちゃんと持って帰ってまいりました』が、帰国後の第一声。この言葉の中に、戦時中の考え方、思想が垣間見ることができます。
横井庄一さんがその後、故郷へ帰って来た日のエピソード、少し紹介します。
私は当時、小学5年生。横井さんが故郷である名古屋へ帰郷する日、我が小学校は午後は臨時休校。実は、横井さんは私の地元出身だったのです。マスコミ関係者が多く来るだろうとの配慮か、早めに下校させたようです。そんな日に限って、私の隣に座っていた女の子は休んでいました。『もったいない・・・』と思ったものでした。
帰宅して横井さんの帰郷を報道するTV生中継を見ていました。横井さんが新幹線で名古屋駅へ到着し、ホームへと下りました。すると・・・、「アッ!?だから今日、休んでたんだ!」。当時のクラスメイトで席を並べていた女の子、彼女が着物姿で花束を持って出迎えていたのです。もうビックリ (゚o゚;;)!でした。確かに彼女の名字も『横井』さんでしたが、そんな素振りは一切見せなかったし・・・。翌日、彼女はクラスのみんなから囲まれ、一躍ヒロインになっていました。
その翌年、『創立百周年』を迎えた我が母校。横井さんは母校のために、文化祭の時にグアム島で潜伏生活をしていた時の道具などを、無償で展示してくださいました。当時私は6年生。本当に貴重なものを拝見させていただいたと思っています。
横井さんを出迎えたクラスメイトの子とは、保育園も同じでお互いの母親も顔見知りでした。小学校から中学校へと進学した私、給食から弁当持参になりました。そんなある日、母が彼女の母親から聞いたそうです。横井さんがお弁当を見て「贅沢だ!昔は日の丸弁当だった(怒)!」と、さんざん文句を言っていたそうです。「今は昔と時代が違うのだから・・・」と話しても、まるで『うらしま太郎』だった横井さん、現実を受け入れるまで、かなりの時間が必要だったようです。
『戦争を知らずに育った』私は、名誉ある『近衛兵』だった我が祖父と、戦後28年間潜伏生活をしながら、生きながらえた横井庄一さんを思い出します。
私にとって、ゆかりのある(?)2人を紹介しました。私には、何はともあれ、このお二方を語らずして戦争のことは語ることはできません。語るべき体験も何一つありません。私が私の目で見て知っている『戦争』は、これだけにすぎません。ほとんどのブログ仲間の方が私より『人生の先輩』です。本当に申し訳ありません。身勝手なことを書いてしまいました。でも、思い出さずにいられない、私には大切な思い出です。
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