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2010年8月

2010年8月31日 (火)

ネパール再会の旅 78 『そろそろ・・・帰国の準備』

5月28日(土)晴れ
カトマンドゥ

 10時ごろ起床。ここ最近、気づかないうちに、遅寝遅起きになってしまった。日本で必死になって働いている企業戦士が知ったら、目くじら立てて怒りそうな、だらだらとした生活である。

11時ごろ、ラッキー・チベッタン・レストランにて、軽く朝食をとり、買い物をする。スーパーで、紅茶とパール・エッセンシャルバーム、クラフトショップでカレンダーと骨董品のブリキで出来たポット(300ルピー)。さらに、自分用に刺繍入りのTシャツをオーダーする。これは、いくつもあるデザインのサンプルの中から気に入ったものを選び、無地のTシャツ(サイズ・色は自由)に刺繍してくれるシステム。お土産にするにはなかなかの逸品なのだが、既製のものに比べるとやや割高。

帰国日がいつになるか分からないから、お土産を先に買いこんで、お金の段取りをしておこう。ミュージックテープも計4本、お土産などを入れるナイロンのバッグが200ルピーで買えたのは、安くて助かった。残るお土産は、スティックのお香と、ララ・ヌードルも買っていくか。ゴビンダに頼まれた原稿が思うようにはかどらず、苦労している。

夕方、外からにぎやかな声が聞こえてきた。見てみると、インド人の蛇使いの大道芸が行われていた。せっかくだから、部屋を飛び出し、目の前で見てみた。初めて見たのだが、やっぱりヘビは好きになれない。

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賑やかな声につられて、部屋のバルコニーから下を見ると・・・w(゚o゚)w!

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鎌首上げたコプラが・・・アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!

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チップを要求していた蛇使いのインド人。

夕食は、オム・マンダラ・レストランで ”すき焼き”にチャレンジ。お味のほうはいかがなものだろうか?しかし、案ずるより産むが易し、食べてみると何ともデリシャス!肉がやや硬いかなぁ、でも豆腐に長ネギ、春雨になぜかホウレンソウが入っていて、お味噌汁付きで100ルピー。これならば、ここがネパールだということを考えれば、充分に合格だ。

夜、アンジュと明後日のパブラムの子供のバースデーパーティーと、その翌日のアランさんのバースデーパーティーに行くか確認する。一緒に行くことにして、夜更け、ヤンジーとの思い出をノートにまとめ、12時床に就く。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月30日 (月)

ネパール再会の旅 77 『やっぱり・・・』

5月27日(金)晴れ
カトマンドゥ

 9時起床。今一つ、寝つきが悪かったなぁ。まずシャンプーして10時にラッキー・チベッタン・レストランへ朝食。スクランブルエッグにトースト、フルーツカードにコーヒーで46ルピー。まぁこんなところでしょう。

部屋でのんびりし、2時過ぎにアンジュと日本大使館へ。大方、予想されたように、ビザの発給は拒否された。やはり皆の言う通り、非常に難しいようだ。正規の書類をそろえてもダメなのだから・・・。あとで『風の旅行社』で訊ねてみたら、その会社でさえも、初めてネパール人のスタッフを、研修のため日本へ招くのに、ビザ発給まで半年かかったそうだ。一個人レベルでは、やはり無理なのか。日本で不法に滞在する外国人労働者が多いのが根底にあるだけに、止むをえないのだろうか。どうしてもと言うならば、結婚するしかないのだろうが、アンジュの娘さんのことを思うとそれは考えられない。残念だが、この時点ではあきらめざるを得ない。

これによって、帰国は6月2日か5日になるだろう。いずれにせよ、あと数日のビザの延長が必要だ。6月2日の便が取れれば、言うことなしなのだが・・・。帰りにシンガポールにも寄って行こうか。でも、寄るとしても夜中にしか到着できないし・・・。

夕食は、ラサ・レストランでエッグ・チョウミンとポーク・ビーンカード。麻婆豆腐とは少し違っていたが、まぁイケる味である。食後の帰り道、ネパールのミュージックテープを2本(250ルピー)買い、ゲストハウスへ戻るとオーナーが俺を呼ぶ。アンジュのビザが発給されなかったことは、俺にとってもアンジュにとっても、とてもショックだった。昨日は、「もしかしたら・・・?」の期待で、ハッピーだったのに・・・。

でも、これで終わったわけではない。次があると信じて、いつか必ずアンジュを、そしてヤンジーを俺は日本へ招きたい。彼女たちとの友情のためにも・・・。

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オーナーに呼ばれて3人で、ビールを飲みながら ”残念会”(?)。でも、ダメ元だったし、チャレンジしただけでもいいんじゃないかな!アンジュのこの笑顔に救われる気がしました。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月29日 (日)

器用だねぇ~ (゚o゚;;!

動物たちのユニークな写真、決定的瞬間を捉えた写真も、残り少なくなってきました。
今日は、可愛らしい姿の動物写真、2枚紹介します。ほのぼのと癒されるかな (゚▽゚*)

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ワインのコルクでしょうか?ネコが立ち上がって両手で遊んでいまーす
器用なネコちゃんですネェ

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このリスは、両手を口に・・・、食事中かな?それにしても、どこで食べてんの (○゚ε゚○) ?
器用に木に摑まるんだねぇ でも、お行儀悪いヨ

まだまだ残暑厳しいですが、皆様お体、くれぐれもご自愛ください。

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2010年8月28日 (土)

ネパール再会の旅 76 『ダメ元のビザ申請』

5月26日(木)晴れ
カトマンドゥ

 8時20分起床。比較的良く眠れたほうである。とりあえずシャワーを浴びるとして、9時30分過ぎ、ロードウェイ・カフェで朝食。60ルピーもの朝食は、ちょっと贅沢かな。しかし、ゲストハウスの水はよくないし、お湯でさえも一抹の不安が残るし・・・。自炊できないのが辛い。

ゲストハウスへ戻ると、昨日心配かけたウマとガンガも出勤していた。2人に昨日のお礼とお詫びを言い、夕方頂いたトーストとチャイの料金を尋ねると、「ノーノー!」と言って教えてくれない。ウマは「あれは私たちがあなたのことを思って、したことだから。あなたが頼んだものじゃないわ」と言って、その代金を受け取る気は全くないようだ。日頃の彼女たちを少しは理解しているつもりだ。これ以上どう話したところで、絶対に受け取ってもらえないだろう。俺は「ダンニャバード!デレィ ダンニャバード!(ありがとう!ホントにありがとう!)」とお礼を言った。

11時ごろより、アンジュと彼の弟との3人で日本大使館へ。書類がそろっていてビザ申請は出来た。問題は発給されるかどうか、されるとして、いつごろになるのか、である。それによって俺の帰国の予約、ビザの延長、両替とすべてが決まる。明日の2時30分に再度行かなければならないのだが、わずか1日で発給されるわけはないだろうし・・・。とりあえず$100両替しておいたのだが、残る日の滞在費用、空港税、あと少々のお土産とそれらを入れるバッグetc・・・。もう$50から$100くらいは必要だろうなぁ。

それにしても、やたらに暑いこの日。午後は部屋でゴロゴロしたり、アンジュが仮に来日できた時のための日本語のアンチョコづくり。

6時過ぎ、ラッキー・チベッタン・レストランでチキン・コーンスープとエッグ・フライドライスで38ルピー。朝食よりはるかに安い。ゲストハウスへ戻り、休憩してから洗濯とシャワー。そして例のものを飲む。意外に夜更かしして、11時30分過ぎに眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月26日 (木)

ネパール再会の旅 75 『二日酔いの日のこと』

5月25日(水)晴れ
カトマンドゥ

昨夜はククリラムの飲み過ぎ(中ビン1本)で、胃の中がおかしく、今朝はなかなか起き上がれなかった。ルームキーパーが部屋の掃除のために、ドアをノックしても応答する元気もないほど。部屋の中から返事がなければ、ルームキーパーは合鍵を使って部屋の中へ入り掃除をしていく。のだが、合鍵を使ってもドアは開かない。内側からカギがかけられていれば、部屋の中にいることは、彼女らは分かっている。

他の部屋の掃除を済ませて、最後にもう一度俺の部屋へ来たのだろうか、再びドアをノックする。しかし、二日酔いであまりにも気分がすぐれなかった俺は、そのままベッド上に横たわっているしかなかった。すると、ルームキーパーはウマと相談したのだろうか、ノックと一緒にウマの声で「ハロー、○○!いるんでしょ?」とドアの向こうから呼んでいる。こうなると、ドアを開けざるを得ない。無理やり体を起こし、内鍵を開け、そしてすぐにまたベッドへ。

ウマとガンガが入って来て、「どうしたの?」と心配そうに聞いてくる。「ストマック・トラブル・・・」と力なく答える。「薬は飲んだの?」「飲んだけど、効かない・・・もう少し寝かせて」と言うと、彼女たちは「分かったわ、でも鍵はかけないでネ」と言って、部屋を後にした。

スタッフの心配をよそに、2時過ぎまで体を休めていた。1階の雑貨屋で冷えたファンタを1本飲んだきり、何も食べられない状態だ。再び部屋の中で休む。4時ごろ、ウマとガンガが俺の様子を見に来た。

「何か食べた?」
「いや、何も食べてない・・・」
「何か食べないと、薬も効かないわよ」
「あぁ、分かってるけど、食べに行けるほどじゃないんだ」

するとしばらくして、チャイとジャムトーストを持ってきてくれた。「これを食べて、それから薬を飲んで休んだら、きっと良くなるわよ」と言って、置いて行ってくれた。俺は彼女らの好意に感謝し、それらを何とか口に入れた。そして薬を飲んでもうしばらく横になる。

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私を気遣って世話してくれたウマとガンガです。2人とも、キレイですよネェ (^_^)!

まだ体は気だるいが、5時45分ごろ重い体を無理にでも引きずり、トコトコと外出。オム・マンダラ・レストランで、牛丼とおひたしを注文する。どんな牛丼が出てくることやら・・・。日本の牛丼は、玉子でとじてはいないのだが、この店のものは、まるで親子丼のようで、ただお肉はやはりバフ(水牛)かな?けっこう大盛りなので、全部も食べきれずギブアップ。トロトロとゲストハウスへ戻り、Tシャツなどを洗濯し、シャワーを浴び、今日は酒はほどほどにして眠ろう。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月25日 (水)

ネパール再会の旅 74 『5000ルピー?』

5月24日(火)曇りのち晴れ
カトマンドゥ

 昨夜、スタッフの好意で扇風機を借りて寝ていたのだが、途中で外枠が外れ、羽が折れるハプニングが起こった。結局、蚊に悩まされながら眠った。9時20分に一旦目覚め、扇風機のことを話し、再度眠り、12時に起きる。

重い腰を上げ12時20分、クリシュナ・モモ・レストランでチョウミンとモモを食べる。計25ルピーと相変わらず安い。ネパリーキッチンでコーヒーブレイクとする。明け方の天気は曇っていたが、昼は暑いほど陽が照っている。

ゲストハウスへ戻りシャワーを浴びていると、その間にパブラムから4回も電話があったらしい。何か急ぎの用事だろうかと考えていたら、再度電話がかかり、直後にゲストハウスまでやって来た。要件を尋ねると、どうしても5時までに5000ルピー必要らしい。しかし、彼の奥さんが鍵をかけたまま出掛けているらしく、家の中に入れない。だから、5000ルピー用意できなくて、貸してもらえないか、ということだ。事情に関わらず、貸してあげたかったが、さすがに5000ルピーもの大金は、手元になかった。

パブラムには、今月30日午後7時に彼の子供のバースデーパーティーが、ホテル・ウッドランド近くのレストランで開かれ、招待されている。何かプレゼントを持って駆けつけなければいかんな。

ゲストハウスでウマにネパール語(文字)を教えてもらい、アンジュにマッサージを施してもらう。しかし疲れがたまっているのか、足が重い。午後に色々間食をしたせいか、今一つお腹が減っていなくて、7時にヤク・レストランにてトマト・エッグスープとサラダのみの夕食とする。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月24日 (火)

ネパール再会の旅 73 『ウマは、”ネパールの妹?”』

5月23日(月)晴れ一時雨
カトマンドゥ

 8時20分起床。洗顔、歯磨きを終え、パブラムを待つ。9時ごろ電話があり、9時半に迎えに来ると言う。いつものように、バイクでやって来て、2人乗りでパブラム宅へ。先日注文しておいたランチョンマットのセットを受け取り、他にもサンプルとして数点頂いた。そして奥様手作りのダルバートを頂き、しばらく談笑した後、ゲストハウスへと送ってもらう。

ゲストハウスでは、コーラを飲みながら、久しぶりにウマをはじめとするスタッフの女の子たちと戯れる。彼女たち3人そろえば、俺は格好のからかい相手、楽しい暇つぶし相手なのかもしれない。俺からしても、お互い様なんだけどネ。

トレッキングシューズを売ることにする。もう必要ないだろうから。すると、600ルピーで買い取ってくれた。新品で1750ルピーで買ったものだから、差し引き1150ルピー。1日40ルピーでレンタルしたことと同じ計算になる。残る日々で、自分や友人たちへのお土産を買わなければならない。

午後、晴れているにもかかわらず、雨。一時は本降りになって来た。これじゃどこへも行けないな。ゲストハウスで暇そうにしていると、ウマがまた日本語の勉強、というよりも、俺のことをいろいろ聞いて面白がっているような気もするが・・・。『なぜ、あなたは結婚しないのですか?』『たばこやお酒は体に良くない』など、けっこう突っ込まれた。まぁ俺にとっても、ネパール語の勉強になるからいいか。それに彼女は俺のことを「日本のお兄さん」と言い、自ら「私はあなたの妹」と言っている。悪い気はしない。するはずがない。他の日本人も、「彼女きれいですねー」と認めるほどの子だ。まだ22才で6人家族と共に暮らしているそうだ。327_2私を『日本のお兄さん』と言っていたウマです。この写真は、帰国直前に撮った写真を、顔だけトリミングしました。いかがですか?ホント、きれいな子でしょ?!

夕食は、ヒマラヤン・キッチンへ。欧米からのツーリスト向けのレストランのせいか、メニューを見ると、どれもこれも軒並み高い。安いところで、グリルド・ステーキ(99ルピー)にする。やはり、しっかりとした店構えのところは、どこも高いナァ。ヤク・レストランやラッキー・チベッタン・レストランが、俺には似合いか。7時30分ごろ戻り、洗濯とシャワー。そして毎夜のごとく、コーラ割りを飲んで眠ることにする。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月22日 (日)

歩いてみれば・・・(゚o゚)!

 いつもマイカー利用で移動する私、ドライブ先で、のんびり花を眺めたりすることは当たり前のようにありますが、自分が住んでいる地元は、素通りです。

母が昨日、買い物し忘れたものがあったらしく、買い物がてら散歩して見ることにしました。スーパーまでは片道1.5km、ポケットにデジカメを入れて寄り道、遠回りしながら行きました。すると、「こんなにも色んな花が咲いているんだぁ!」と再発見!

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これは、ムクゲの仲間かな?

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これは・・・、えーっと (^_^;;

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百日紅、アップで撮ったら・・・ボケました。

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上の三つの花も、ムクゲや芙蓉の仲間でしょうか?

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これは、何の実でしょうか?あけび?

足元に咲く花も、たくさんありました。

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これは・・・、何かナァ?

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チトニアでしょうか?

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えーっと、これらは何だったっけ・・・?知っていたのに・・・(>_<)!
*追記・・・あま・コスモス様のブログで解かりました。ランタナでぇ~す (^o^)!

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これらの花々も???私の手許の本では、調べるにも限界が・・・ (^_^;;

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蝶々も暑そうで、バテてるように見えました。

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すすき!秋も近いんだぁ (^o^)!

これだけたくさんの花を見られるとは、思いもしませんでした。名前を調べようか、でも大変・・・ (^_^;;!皆様のブログでも、紹介されていたお花もありますし、少しずつ名前が分かればいいかな!と思います。

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2010年8月21日 (土)

可愛いハンター!

カテゴリー『衝撃・笑劇・写真館』で、野生の鳥たちの見事なハンターぶりの決定的瞬間写真、紹介しましたが、今日は、とても可愛らしくもたくましいハンターの写真です。

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ネェ、君・・・アヒルの子?それとも白鳥の子?どっちかなぁ?

まだヒナなのに、空中に飛ぶ虫を捕らえようとジャーンプ (゚o゚)オォーッ!エライねぇ、君は!「自分の食いぶちは、自分で!」なのかな?ヒナのうちはみぃ~んな、親が運んでくれる餌をもらって食べているのに・・・!ホントだよ!↓の写真、見てご覧!

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見たことがない鳥。『ヤツガシラ』という名の鳥だそうです。

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これまた、見たことがない鳥です。名前は・・・?minojiさんなら、ご存知かナァ?

この3枚の写真も、すべて『決定的瞬間』を捉えた写真ですネェ (^o^)!プロでなければ撮れないような写真ばかりです。シャッタースピードが、とても気になります。2枚目の写真、ホバリングしていないと空中に留まることはできないでしょう?!でも、ホバリングしているように見えないのですから!
3枚目の写真、場所はどこだろう?地面だけを見れば『砂漠』。運んできた獲物は、虫のようでもあり、小魚のようにも見える・・・?でも、ここが砂漠だとしたら、小魚はあり得ない・・・?!

*今年の春以降、お友達になってくださいましたブログ仲間の方々へ。
これらはすべて今年の正月、ドイツに住む我が『エヴェレスト・トレッキング仲間』のエルマー&アンジュラ夫妻から送られてきたユニークな写真です。それ以前にも、面白い写真を、メールとともに送ってくれましたので、皆様にもご覧いただきたいという思いから、カテゴリー『衝撃・笑劇・写真館』を作りました。写真がメインの記事ですので、きっと楽しんでいただけるかと思います (^_^)!

追記・・・最後の写真の鳥、コアジサシでは?と、minoji様のブログにお返事がありました。

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2010年8月19日 (木)

ネパール再会の旅 72 『再び、アンジュの姉宅へ』

5月22日(日)曇り
カトマンドゥ

 3日続けて寝苦しい夜だった。9時20分にやっと起床。シャワーを浴びる。10時30分、パンとファンタオレンジを買い、朝食とする。昨日洗ったスニーカーとブルゾンはほぼ乾いている。ジーンズもかなり乾いている。寝不足の体を昼近くまで休める。

11時40分ごろ、アンジュがやって来て、出かける用意をする。大っぴらに出来ないので、ゲストハウスを別々に出て、チェトラパティでアンジュがタクシーを拾う。前回同様、合図をもらってから俺もタクシーに乗る。今日は、アンジュの娘さんも一緒だ。今6年生で、今日は学校は休みとのこと。

12時20分にアンジュの姉夫婦、アランさんとウタンさんの家へ到着。ここへ来るのは2度目とあって、大歓迎された。ブプサへのトレッキングの話など、とにかく一生懸命に英語で話をしていた。お酒は今日はウォッカである。しかし、これはどうにもきつ過ぎる。少しずつ飲んでは水でうすめる。でないと、酔い潰れてしまいそうだ。今日は子供たちもいて、賑やかだ。ウタンさんの孫に当たる男の子は、けっこうワンパク。これぐらい元気な方がいいのかも。

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この日は、アンジュの娘さんだけでなく、ウタンさんの娘さんとその子供たちもいました。

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ウタンさんの幼いお孫さん達とアンジュ。

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アランさんは、この時すでに相当酔っていました。

夕食は、皆揃ってネパール料理とスパゲティ。しかし、アランさんは完全に飲み過ぎで、もうヘベレケ状態。ウタンさんが支えないと、とても歩けないほどまで、酔っぱらっていた。それだけ俺の訪問を喜び機嫌を好くし、歓迎してくれた、ということなのだろう。久しぶりに食べるスパゲティはとても美味しく、お腹いっぱいだ。

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皆で夕食を頂きます。ネパール料理のほかに、スパゲティもありました。

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美味しかった料理に、ご満悦状態の私です。

折からの寝不足もあって、体がかなり辛い。7時30分過ぎにおいとましてゲストハウスへと帰る。シャワーを浴び、ククリラムのコーラ割りを少しだけ飲んで、休むことにする。明日は、パブラム宅にお呼ばれだ。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月18日 (水)

ネパール再会の旅 71 『ダルバール広場界隈』

5月21日(土)晴れ一時雨
カトマンドゥ

 昨夜も、蚊と向かえにあるTシャツ屋のミシンの音が夜中過ぎまでうるさくて、あまり眠れなかった。8時40分過ぎに起き、洗濯とシャワー。10時過ぎ、ゴビンダが来ていたが、腹が減っていたので、サード・アイ・レストランで65ルピーものコンチネンタル・ブレックファストをとる。やっぱりきれいなレストランだけあって、高い。今日は1日、何をしようかな。体がピシッとしないので、部屋で休むことにする。

1時に再び外出し、ダルバール広場から、昨日に続きメギー・レストランへ。コロッケ定食(60ルピー)を注文する。コロッケは日本のものと全く同じで、けっこうお腹もふくれる。外を見ると、時折雨がぽつぽつと降っている。新聞や週刊誌を読みふける。気になるのは、プロ野球だ。中日は山本、今中をはじめとする投手陣が頑張っているようだ。
*他のチームのファンの方、あまり気にしないでください (^_^;;!私は名古屋生まれ名古屋育ちですので・・・。一応・・・、1994年の話ですからネェ (^_^)!

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ダルバール(旧王宮)広場の象徴、シヴァ・パールヴァティ寺院。シヴァ神とパールヴァティ神が街を見守っています。

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この付近一帯は、お寺がいくつもあります。それにしても、鳩の数もスゴイ!

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ハヌマンドゥカ入口に祀られている神々。ネパールは人口より、神口の方が多いとさえ云われています。

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ハヌマン像。なぜ、このようなマントを着ているのだろう・・・?

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カーラ・バイラブ神。シヴァ神の化身だそうで憤怒の形相らしいのですが・・・。

ゲストハウスに戻り、ブルゾンとスニーカーを洗う。明日、明後日と招待されているのに、汚れたものを身につけていては恥をかくだけだし、招待者に申し訳ないから。6時過ぎまでウトウトし、夕食は、ラッキー・チベッタン・レストランにてガーリック・ステーキとする。今日は食費だけで200ルピー弱使ってるな。$9弱か。残りのお金を考えると、少し控えなければいけないのだが・・・。

ゲストハウスに戻り、今度はジーンズの洗濯。今日はまるで ”洗濯デー”だ。ククリラムのコーラ割りは、カトマンドゥでは毎夜のパターン。飲み過ぎない程度に、眠ろう。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月16日 (月)

快晴ではなかったけど・・・大垣市・ひまわりランド

 以前、南知多町のヒマワリ畑を紹介した際に書きました、大垣市のヒマワリ畑。13日から見ごろを迎えたそうです。ちょうど盆休みに入ったのですが、今年の休みは、その直前に兄が入院したり、毎日のように何か用事ができて、時間はあっても中途半端で行けそうで行けない状態でした。今日も、退院する兄を迎えに行き、その後墓参りへ連れていきました。

気がつけば、1時半。母は「買い物に行かないかん」と言うし、それに天気も晴れとはいっても、すっきりした青空でもない。「今週末にしようか?」とも考えたのですが、週末の天気もどうなるか分からないし、その時間から大垣へと走ることにしました。それに、ブログ仲間のきゃぶさんも、昨日行かれたそうですから、私としても行かないわけにはいかない (^o^)/!

毎年開催される大垣市の『ひまわりランド』。休耕田を利用していますので場所は毎年変わります。今年は『美濃国分寺跡』周辺の大垣市青野町です。

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一面の、ヒマワリ畑!全部で20万本あるそうです。

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道を挟んだ向こうの畑も、ヒマワリばかりです!

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もう少し、すっきりした青空だったら・・・と思うのですヨォ!

ところで、このヒマワリ畑の一角に、違う花が咲いていました。お名前教えていただけると嬉しい!のですが・・・?

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これは・・・、ヒャクニチソウでしょうか?

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これが全く分かりません。初めて見る花のような気がします。

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これも、私には・・・???

この週末、すっきりした青空が広がっていたら、もう一度行ってみようかと思います。それまで見ごろが続いてくれることを祈りながら・・・m(u_u)mオネガイ!

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2010年8月15日 (日)

愛が感じられます (^o^)!

 お盆ですね。皆様、どのようにお過ごしでしょうか?帰省されていらっしゃる方、逆に独立された子供さん家族が帰省していらっしゃったり、お孫さんの顔を見ながら頬がゆるみっ放しの方、楽しく賑やかに過ごされていらっしゃるでしょうか?

久しぶりに『衝撃!笑劇!写真館』に、コレクションする写真を紹介します。動物界の『親子の絆』を感じる写真です。ほのぼのとした雰囲気、”癒し系”の写真3枚、どうぞご覧ください。

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行儀良く並んでいるヒナたちを、親鳥が見つめています。

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左の翼の下に、何羽いるのでしょう?寒さから守ってあげてるのでしょうか?

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あなたの本当の子供は、横にいるのですが・・・(笑)!それにしても、この関係はいったい・・・?

どの写真も、『愛』が感じられませんか?!我々人間も、大いに見習いたいものです。特に最近よく聞く、『100歳以上の所在不明者』の問題。行政や警察の対応に問題があると思いますが、しかし底辺には、『失われた家族愛』があるのではないでしょうか?

*これらの写真は、決して私が撮影したものではありません。ドイツに住む友人がインターネットで見つけたのか、メールとともに送ってくれた写真です。

ところで昨日夕方、例によっておしろい花を見ていました。

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こんな感じで咲いているのですが・・・、

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ほんのわずかですが、黄色の花の一部が赤!

以前のような、きれいに半分ずつとはいきませんでしたが、しかしこれも、他にはないものです。この1輪だけ。ちなみに今日は、赤と黄色、そしてこの2色が混ざり合ったオレンジ色の花、いつもどおりでした。

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2010年8月14日 (土)

盆が来ると思いだす・・・

 明日8月15日は『終戦記念日』。でも、なぜ『記念日』なのだろう?あの時代の日本は、最後まで「勝つ!」と信じて戦い、そして敗れた、むしろ『屈辱の日』。しかし、我々は皆ごく普通に今日この日を『終戦記念日』と呼んでいる。戦争に敗れ、屈辱を味わったものの、「これで平和が訪れる、終わって良かった」から『記念日』なのだろうと、私なりの解釈。
戦争を知らない私が、↑のようなことを言うのは、『おこがましいにもほどがある』ので、皆様のご意見を、お聞かせいただけると幸いです(ブログ仲間の方々は、私よりご年配の方のほうが多いので!)。

さて、この時期になると必ずや思い出さずにいられないのは、戦死した祖父(母の父)です(父方の祖父は、私が生まれる以前どころか両親の結婚前に、すでに他界していました)。私の祖父は『近衛兵』として出征しました。しかし、南の方の海で『赤十字船』に乗っているときに、理不尽にも攻撃を受け、そのまま海へ沈んだらしいです。
私自身も、少しばかり調べてみました。祖父が所属していた『近衛歩兵第4連隊』は、確かにマレー半島へと出征していました。その際に負傷し、赤十字船に乗っていたのでは?と考えられます。

その祖父は、近衛兵として入隊した後の写真を、多数残してくれました。毎年この時期になると、自然にそれらのアルバムに目を向けたくなります。アルバムは4冊。貴重な写真が、たくさん残されています。

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若かりし頃の祖父の軍服姿です。「凛凛しい!」というか...カッコ良すぎる・・・!叔母は少しずつ年をとった私に対して「じさまに似てきた!」と、会う度に言います。

アルバムには、戦地へ赴く前の様子の写真、共に過ごした戦友の方々の写真、実戦訓練の様子もありました。そうかと思えば、『軍旗祭』といったイベントも行われていたり、伊勢神宮へ参拝したり、兵舎の中の写真もあって、とても興味深いものです。私は『辛く厳しい訓練を受けたのだろうなぁ?!』という思いがあっただけに、少しはホッ!とする写真もあって、心慰められました。

でもさすが『皇軍・近衛兵』だった祖父のアルバム。天皇・皇后両陛下の写真をはじめ、各皇族の方々、さらには満州国皇帝陛下の写真も。そう、中国・清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀。さらには、歴史の教科書で見覚えのある乃木大将、東郷元帥・・・。そうそうたる顔触れの写真が、これでもか!というほど残されていました。

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満州国皇帝陛下・愛新覚羅溥儀。戦勝祈願のパレードのようです。

さらには、宮城(皇居)、皇居内部の写真もありました。玉座、豊明殿、千種の間・・・と、決して見ることができない貴重な写真。これらの写真は、すべてキャビネサイズで、母曰く「天皇陛下から頂いた写真」と聞かされたそうです。また、日本の象徴でもある『富士山』も、富士五湖すべてから撮られた写真が残されていました。

そしてつい数年前までは、何気に見ていた写真があります。映画『硫黄島からの手紙』の後、私もその名を知った『バロン西』こと、西竹一氏。1936年ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト。アルバムには『西大尉ノ馬術』と書いてあります。映画以降、『バロン西』については、耳にすることがありましたので、すぐにピン!ときました。その写真は間違いなく、『バロン西』であると。映画では、大尉どころかもっと上の階級に昇格していました。

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祖父の字で『西大尉ノ馬術』と書かれていました。

そしてもう1人、私にとって忘れえぬ人物がいます。とりあえず、その時の新聞の一面を載せます。

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昭和47年(1972年)1月25日、中日新聞夕刊のようです。(複製版より)

皆様、この方を覚えていらっしゃいますか?「dsching (ジン)さん、前にも書いていたヨォ!」と思われた方、ごめんなさい。横井庄一さん、『恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました。天皇陛下からいただいた小銃は、ちゃんと持って帰ってまいりました』が、帰国後の第一声。この言葉の中に、戦時中の考え方、思想が垣間見ることができます。

横井庄一さんがその後、故郷へ帰って来た日のエピソード、少し紹介します。

私は当時、小学5年生。横井さんが故郷である名古屋へ帰郷する日、我が小学校は午後は臨時休校。実は、横井さんは私の地元出身だったのです。マスコミ関係者が多く来るだろうとの配慮か、早めに下校させたようです。そんな日に限って、私の隣に座っていた女の子は休んでいました。『もったいない・・・』と思ったものでした。

帰宅して横井さんの帰郷を報道するTV生中継を見ていました。横井さんが新幹線で名古屋駅へ到着し、ホームへと下りました。すると・・・、「アッ!?だから今日、休んでたんだ!」。当時のクラスメイトで席を並べていた女の子、彼女が着物姿で花束を持って出迎えていたのです。もうビックリ (゚o゚;;)!でした。確かに彼女の名字も『横井』さんでしたが、そんな素振りは一切見せなかったし・・・。翌日、彼女はクラスのみんなから囲まれ、一躍ヒロインになっていました。

その翌年、『創立百周年』を迎えた我が母校。横井さんは母校のために、文化祭の時にグアム島で潜伏生活をしていた時の道具などを、無償で展示してくださいました。当時私は6年生。本当に貴重なものを拝見させていただいたと思っています。

横井さんを出迎えたクラスメイトの子とは、保育園も同じでお互いの母親も顔見知りでした。小学校から中学校へと進学した私、給食から弁当持参になりました。そんなある日、母が彼女の母親から聞いたそうです。横井さんがお弁当を見て「贅沢だ!昔は日の丸弁当だった(怒)!」と、さんざん文句を言っていたそうです。「今は昔と時代が違うのだから・・・」と話しても、まるで『うらしま太郎』だった横井さん、現実を受け入れるまで、かなりの時間が必要だったようです。

『戦争を知らずに育った』私は、名誉ある『近衛兵』だった我が祖父と、戦後28年間潜伏生活をしながら、生きながらえた横井庄一さんを思い出します。
私にとって、ゆかりのある(?)2人を紹介しました。私には、何はともあれ、このお二方を語らずして戦争のことは語ることはできません。語るべき体験も何一つありません。私が私の目で見て知っている『戦争』は、これだけにすぎません。ほとんどのブログ仲間の方が私より『人生の先輩』です。本当に申し訳ありません。身勝手なことを書いてしまいました。でも、思い出さずにいられない、私には大切な思い出です。

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2010年8月13日 (金)

ネパール再会の旅 70 『ワォ!ネパール語が読めた!』

5月20日(金)晴れ
カトマンドゥ 

 9時20分過ぎ起床。蚊がうるさくて今一つよく眠れずに、とりあえずシャワーを浴びることにする。10時にダルバール広場(旧王宮前広場)の方へ行き、多少の日本食と日本の新聞が置いてあるメギー・レストランにてブランチは、おじや(30ルピー)とグリーンティーとする。久々に日本の新聞を読む。昨日帰国された牧原さんと降矢さんからも聞いていた通り、4月下旬の名古屋空港での中華航空機墜落事故、F1レーサー・セナの死など、それらを報じる記事を読んでいた。プロ野球は、中日は2位と健闘しているようだ。

食後、ポストオフィスへ行き、ゲストハウスへ戻る。体を休めていると2時ごろパブラムから電話があり、月曜日に再び食事に招いてくれるそうだ。少し小腹が空いて、クリシュナ・モモ・レストランへ行き、チョウミンを食べる。そして本屋へ立ち寄り、ネパール民話の本(英語版)を買い、ネパリーズキッチンでコーヒーブレイク。

ゲストハウスへ戻り、ウマとアンジュが「日本語を教えて」と言う。どんな言葉を知りたいか尋ねると、ウマが紙に書き始めた。しかしそれがすべてネパール語。

「No,no ! I can't read !」
「No problem !」
「・・・、(読めるわけないじゃん)」

書かれた言葉を見てみると、「キナ タパイィ ・・・チュロット カヌ ツァ?」と読めてしまった!「キナ タパイィ チュロット カヌ ツァ? Why do you smoke? (どうしてあなたはタバコを吸うのですか?)」と言うと、ウマもアンジュもうなずきながら大笑い。いかにも「ほら、読めたでしょ!」と言いたげである。

でも、一番驚いているのは、当の俺自身だ。まさか、読めるだけでなく意味も理解できたのだから!知らず知らずのうちに、けっこう身についてしまっているようだ。ウマとアンジュは「日本語を教えて」というより、このような質問で、俺をからかいながら遊んでいるようにも思うのだけどなぁ。それだけ親しみがある、ということか。

明後日の日曜日は、再びアンジュのお姉さんの家へ行くことになり、月曜日はパブラムの招待、火曜日はアンジュと日本大使館へ行く予定だ。何だかんだ言いつつも、予定が入って来て、いつになったら日本へ帰るのやら・・・。

夕食は、7時ごろヤク・レストランにて、エッグカリーにナン、ラッシーとする。すると食事中に停電。ろうそくの灯りの中で食べる。でも、だいたい1日おきに、この時間になると停電するので、もう慣れっこになってしまった。

ゲストハウスへ戻り、ククリラムのコーラ割りを飲む。しかし、最近飲み過ぎなのか、胃の調子がやや悪い。少し量を控えめにして、今日は早めに休もう。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月12日 (木)

ネパール再会の旅 69 『日英ネ言語学校で』

5月19日(木)晴れのち曇り一時雨
カトマンドゥ

 9時、起床と同時にゴビンダがやって来た。今日の夕方、彼の学校である『日英ネ言語学校』へと誘われた。また、彼の学校で発行している冊子に、ネパールの旅のことを書いてほしいと、原稿を依頼された。

10時にシャワーを浴び、11時にこの日帰国する牧原さんと降矢さんをゲストハウスで見送る。「お世話になりました」「いえ、こちらこそありがとうございました」と挨拶を交わす。やがて迎えの車に乗り込む2人、そしてオーナーとサンカールも空港まで見送りに行くようだ。すると、サンカールが俺の手を取り「一緒に行こうぜ」とオーナーとともに半ば強引に誘われ、とうとう空港まで道連れにされた。空港であらためて、笑いながら2人に別れのあいさつ。牧原さんは「この秋、名古屋でもコンサートを行なうから、その時にできればお会いしましょう」と約束した。
*その年の秋、本当にご連絡を頂き、牧原さんが参加する琴のコンサートに招待して頂きました。初めて見た琴のコンサート、それまでの琴に対するイメージをガラリと変えるほど、印象的な演奏でした。

1時前にゲストハウスに戻り、ヤク・レストランで昼食にトゥクパを食べる。再びゲストハウスにて少し休憩し、4時過ぎ、ゴビンダが迎えに来て彼の学校へと向かう。まず高柳さん(今回の旅でカトマンドゥ到着時、知り合った人)が英語を学んでいる『日英ネ言語学校』へ。そして日本語学校へ。生徒さんや、教える立場にある先生も、自分たちの語学力の実践になるのか、気軽に日本語で話しかけてくる。ほとんど日本語で会話が進む中、逆にネパールの文字を教えてもらったり、教育論が飛び交ったり。

この国でも、政府公立の学校では、英語教育は日本と同じように会話ができない、と言う。つまり、実践的な教育ではないのだ。私立の学校では、すべての授業が英語で行われるそうだ。また、英語ができないと、仕事もないそうで、だからみな一生懸命、英語を勉強するそうだ。したがって、当然『生きた英語』が身につくわけだ。俺もネパール語を学び、日本語の教え方を学び、日本語学校の先生になって、この国で過ごせたら・・・と思う。

8時30分、ゲストハウスへ戻る途中、2年前にゴビンダとともにインド・ダージリンへ3人で旅した時の友達・アヌと偶然会った。元気そうだった。

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ゴビンダの親友のアヌ君。彼とも偶然再会することができました。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月11日 (水)

ネパール再会の旅 68 『普通はできない旅の体験』

5月18日(水)曇り
カトマンドゥ

 8時起床。このところ、ぐっすり眠れる日が続く。この国の生活のリズムに慣れてきたからだろうか。とりあえず、シャワーと髭そりを済ませ、9時過ぎにロードウェイ・カフェで朝食にする。コーンフレークとミルクコーヒーを注文する。一度ゲストハウスへ戻り、10時にアンジュと伴に日本大使館へ行く。やはり必要な書類をすべてそろえておかないと、ビザの申請書さえもらえない。

ゲストハウスへ戻ると、牧原さん達が戻って来ていた。お互いに「アッ!こんにちは!」と挨拶。俺は山の方へ行っていたので、想像以上に早い帰りに「もう帰って来てたの?」と、驚いていた。しばらく部屋にいたのだが、やがてサンカールが呼びに来た。レセプションへ行くと、彼女たちは今日この後、来年行う予定の琴のコンサート会場の下見に行くらしいのだが、サンカールがまずシティホールを紹介したらしい。

「シティホールって知ってる?」
「シティホール?聞いたことはあるけど、どこだったかな?」
レセプションに貼ってあるシティマップで探していると、サンカールが「ここだよ」と教えてくれた。
「あっ、ここね。わかった!知ってますよ」
「知ってる?!良かった!タクシーで行くにしても、私たちだけじゃ不安だからさぁ、一緒に行ってくれない?」
「エッ!僕もですか?」
「ちょうどお昼だし、どこかで一緒に食事でもしてから、ねえ?」
「この間も案内してもらってるし、ご馳走するから一緒に行ってくれない?」

2人にそう言われ、結局一緒に行くことに。牧原さん、降矢さん、俺とサンカールも行くことになった。サンカールが一緒なら、俺は必要ないような・・・?とりあえず昼食へ向かうが、さて、どこへ案内しよう?「いつも行ってるようなところでいいよ」と言われ、少し安心して、日本食もできるオム・マンダラ・レストランへと案内する。皆それぞれ違うものを注文する。天ぷらは、衣が多過ぎるかな、みそ汁はダシが今一つ効いていない、しかし、ごまあえとお浸しは、美味しくて、2人にも好評だった。

食後、タクシーを拾い、まずネパール・アカデミーホールへ。ここへ来た目的・主旨を牧原さんが応対してくれた方に話し、我々一行は中へ。ステージや客席はもちろん、舞台下まで見せていただけた。ホールのメイン会場を案内していただいた後、2階にあるカルチャースクールへも案内してくれた。ネパリーミュージック&ダンス、中にはネパールで有名な俳優・女優さん達もいるそうだ。

練習風景を見ていると、「んっ?あの女性は・・・、チトワンで映画の撮影現場に出くわしたとき、出演していた女優さんでは?」。いや、それだけではない。案内していただいた男性、その方も確かその撮影現場でその女優さんとダンスしていた方のような・・・?
*後ほど知ったことですが、この時案内してくださった方は、ネパールでも有名なダンスの先生であり、俳優でもある方でした。

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アカデミー・ホールで。舞台下を案内していただいた後、客席と舞台上を見学。

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カルチャースクール内での、練習風景。後に知ったのですが、ここに写っている皆さん、ネパールではとても有名な方達ばかりだそうです。

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ネパールの女性にしては珍しく、ジーンズをはいている人も。チトワンでの映画の撮影現場で、出演されていた女優さんに間違いない!?と思うのですが・・・。

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彼らは、音楽担当!彼らの音楽に合わせ、ダンスの練習をしていました。

アカデミー・ホールから移動の際、案内していただいたダンスの先生が事情を知って同行してもらえることとなり、次はシティホールへ。が、何か子供たちのコンテストのような催しが行われていて、充分な下見はできなかった。
そしてさらに、やや郊外にある『ホテル・エヴェレスト』へと向かう。そこは、コンサート会場というよりも、ホテル内のステージ付きの広いレストラン。だが、ここでもちょうど、映画のロケが行われていて、ロケの合間に映画スターにサインをねだる少女たちがたくさんいた。どの国も同じだなぁ。そこで我々は紅茶をご馳走になり、しばらく映画のロケ風景を見ていた。
このようなことは、普通に考えれば、まず体験できないことだし、日本にいても関係者でなければ、舞台下まで見ることはないだろう。それだけに、とても貴重な体験であり、ずいぶん得をした気分だ。

6時過ぎにマナスル・ゲストハウスへと戻る。写真の焼き増しを受け取りに行き、ヤンジーやマヤ、イエロートップの人々、そしてブプサへ向かう時に出会ったオングさんに手紙を書く。写真の注文ミスもあったのだが、まぁ自分が悪いんだし、仕方がないか。

ククリラムもずいぶん飲み、夜、牧原さんと降矢さんに初めて来たネパールの旅の話・感想を聞きながら、時間をつぶし、12時過ぎに眠る。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月10日 (火)

ネパール再会の旅 67 『カトマンドゥへ戻る』

5月17日(火)曇り
ルクラ8:30(7E602;ネパール・エアウェイ)9:10カトマンドゥ

 6時20分起床。ムスリーとミルクコーヒーで朝食とする。出発用意を整え、7時30分には飛行場へ行き、チェック・イン。8時40分、ネパール・エアウェイ7E 602便である。荷物の重量を量り、簡単なボディチェックを受けると、いよいよ搭乗だ。

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これが、私が乗ったネパール・エアウェイ機。

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ロイヤルネパール・エアラインの飛行機もやって来ていました。

飛行機は、予定より10分早い8時30分に離陸した。飛び立ってしばらくすると、ブプサ、カリコーラの村が見えてきた。もう一度、心の中で「ありがとう、さようなら」と叫んだ。

カトマンドゥへは9時10分に到着。タクシーに乗り、マナスル・ゲストハウスへ向かい、チェック・イン。まず、シャワーを浴びるのだが、途中でお湯が出なくなってしまった。この日はどの部屋も、水が出ないようだ。5日前に出会った牧原さん達は、オーナーやサンカールと共にポカラの方へ出かけているらしい。だから、今ここにいる従業員は、女の子だけである。

レセプションへ行くと、ブプサへ行く前皆で写真を撮ったことを、その時いなかったハウスキーパーのマンジュが知ってすねていると、ウマが言う。マンジュの顔を見ると・・・、確かにちょっとすねている。ご機嫌を直してもらうために、カメラを持ちだし撮影会の始まりだ。

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ちょっとすねた様子のマンジュ。

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同じく、ハウスキーパーのガンガ。

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ウマを撮るとき、シャッターを押さずにセルフタイマーのボタンを押して・・・、私も一緒に!

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やっと機嫌が直ったマンジュ、そしてウマ、ガンガと仲良く!

楽しくしゃべりながら過ごしていると、マンジュが俺に『アニール』というネパリーネームをつけるではないか!?俺はネパール人か?

昼食は、ラッキー・チベッタンレストランにてチョウミンとし、帰りに写真の仕上がりを受け取る。ブプサでの思い出が、もはやできた。ヤンジーの愛くるしい笑顔が印象的で、数枚はキャビネサイズに引き伸ばすつもりだ。

2時30分ごろ、アンジュがやって来て、3時から1時間どころか15分もオーバーして、入念にマッサージを施してもらった。やはり昨日のロングウェイは、相当足にきている。それでも料金は同じだ。すっかり親しくなったアンジュの、心からのサービスかな。

夕食は、オム・マンダラレストランにて、玉子丼とお浸し、緑茶にする。この店の日本食は、なかなかイケる。たまたま、音楽を奏でているネパール人がいて、俺が日本人と分かっているからか、『シャボン玉、飛んだ』を弾いていた。何か里心がつきそうだ。

食後、本屋へ立ち寄り、ネパール語と日本語の対訳辞書(55ルピー)を購入した。日本へ帰ってからも、もっと勉強してネパール語をマスターし、皆と心を通わせたいものだ。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2010年8月 8日 (日)

その後の『おしろい花』

 2週間前、『おしろい花は、おもしろい花?』というタイトルで、ブログ記事を書きましたが、その後の我が家の『おしろい花』の報告です。

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このように、見事に2色に分かれた『おしろい花』ですが、その後もずぅーっと毎晩欠かさず観察しているのですが、このような花は、咲きません。それ以降はいつも、↓こんな感じで咲いています。

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黄色と赤の『おしろい花』が、夕方になると咲き始めています。

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仲良く並んだ赤と黄色の『おしろい花』です。

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これは・・・、上の二つの色がミックスされた色の『おしろい花』のようです。色の違いが、お解かりになるかと思います。

どうやら、見事に2色に分かれた『おしろい花』は、一度きりの『幻の花』だったのかもしれません。あれから毎晩欠かさず、帰宅すると必ず観察していたのですが、2度と見ることはありません  。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
その代わりに見られるのは、上記の写真のような赤と黄色のミックスの花です。でも、逆にそうなると、それだけ貴重な花だった!と言えるかも・・・?

大垣市のヒマワリが、情報では、まだ一面満開ではないようで、急遽我が家の『おしろい花』のことを書きました。本当は今日は、『ヒマワリ』の写真を紹介できるかナァ?と思っていたのですけどね (^_^;;アセアセ!
けど、絶対に行きますヨー (^o^)/!青空のもと、満開のヒマワリを求めて!

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2010年8月 7日 (土)

ネパール再会の旅 66 『さよなら・・・ブプサ』

5月16日(月)晴れのち曇り
ブプサ7:50(徒歩)10:45ポイヤン11:30(徒歩)14:00シュルケイ14:25(徒歩)16:10ルクラ

 6時半起床。出発の朝が来た。この日も聖峰クワンデが、頭だけのぞかせている。オートポリジで朝食とし、7時15分、出発の用意も整った。が、母親のドマが「もう少しゆっくりしていきなさい。ソチャでも飲んで、8時ごろ出発したら」というので、お言葉に甘えソチャをご馳走になる。まぁ、この日のうちにルクラまで行ければ行く、行けなければシュルケイで泊まってもいいか、ぐらいの気持ちでいるから、ゆっくりとした。

もう何杯ソチャを頂いただろうか、でも本当に美味しい。気がつくと、他のトレッカーたちは皆、出発して行った。俺は、このロッジの寄せ書き帳に、日本からのトレッカーと、この家族の人々にメッセージを残し、3日間の精算をしようとした。(*トレッキング中のロッジでは、ロッジにあるノートに各自、食べた物などを記入する自己申告制になっています)
およそ900ルピーにもなるのだが、ドマは、

「パルダイナ(いらないわ)」と言う。
「えっ、キナ(どうして)?」
「タパイィ デレィ ラムロー サーティー(あなたはとても良い友達だから)」
「タラ マ デレィ カヨ(でも私はたくさん食べたし)」

それでも、母のドマも父・プーリーも、ほんのわずかさえも受け取ろうとしなかった。その代わり、写真はずいぶんたくさん撮っているけれど。プーリーも「ずいぶんフィルムを使わせてしまったね」と、気にしていたが、「問題ないですよ」と笑って答える。そして彼は妻に何かを告げると、末っ子のダワに真新しいウールのセーターを着せて、「もう1枚だけ撮ってもらえないか」と頼んだ。「もちろん、OK!ですよ」と答えると、ダワはエンターティナーぶりを発揮した昨夜と違って、おしゃまな顔をしていた。

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真新しいセーターを着せてもらって、おしゃまにしているダワ。カメラを持っていなかった彼らにとって、幼い頃の貴重な1枚になっただろうか・・・?

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もちろん、親子の写真も撮らせていただきました。この3日間、本当にお世話になり、忘れ難いたくさんの思い出ができました。

そして別れ際、ご両親からもカタを頂いた。それだけでも、彼らの気持ちが充分過ぎるほど伝わってくる。とにかく「デレィ クッシー(すごく嬉しい)!」。嬉しくて、嬉しくて、出発するのがとても辛くて。「ダンニャバード!ペリ ベトゥラ!(ありがとう!また会いましょう!)」を何度も繰り返した。ダワは「バイバーイ!」と、いつまでも見送ってくれた。

名残り惜しいが、7時50分、ブプサをスタート。「ありがとう、ヤンジー。ありがとう、イエロートップの皆さん。さようなら。いつまでも覚えていてください、俺のことを。いつまでも・・・」

緩やかな登り坂をゆっくりと歩き、カーレを過ぎ9時15分、カリ・ラ(峠)までやって来た。ここを越えると、もうブプサもカリコーラも視界から見えなくなる。俺は、その峠でじっと静かにたたずんだ。もちろん首には2本のカタが巻かれている。何十分そこにいただろうか?これ以上ここにいたら、今歩いて来た道を戻りかねない。「本当にありがとう。さようなら!」ちょっぴり涙ぐんで、ようやくそこを立ち去る決心がついた。「ルクラへ向かいます。ブプサよ、カリコーラよ、またいつの日か・・・」。

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カリ・ラからブプサを望む。

陽が雲に陰り涼しい。汗もほとんどかくことなく、ゆっくりと歩きポイヤンへ10時45分着。ティータイムとする。シュルケイまでは、およそ2時間らしい。ルクラまで行けるだろうか?ついでなので、ここでランチタイムをとる。ヌードルスープを食べ、11時30分にスタートし、シュルケイには2時ちょうど。しかし、好いロッジが見つからず、2時25分スタートし、ルクラへのきつい登り道を、ただひたすら汗にまみれながら登っていく。

ルクラへ着くころ、冷たい雨が降り出した。カトマンドゥへの空の玄関口、つまり、山との別れ。戻ろうと思えば、まだ戻ることができる最後の村。帰らねばならない、帰ることを決意した俺の涙雨なのか。

4時過ぎ、ルクラでのロッジは、クンブー・ロッジ。ロッジのボーイに明朝のエア・チケットの予約・手配を頼む。すぐに走って行ってくれた彼のおかげで、8時40分発のネパール・エアウェイの予約が取れた。

夕食は、ヤク・ステーキとポテトチップス、ムスタンコーヒー。ヤク・ステーキは、ハンバーグ大の大きさだ。ポテトチップスは、ステーキに添えられているものなのだが、それでも量は多い。久々に食べるヤク・ステーキは、とても美味しい。今日は疲れているので、もう休むことにする。素敵な思い出と共に・・・。
*ヤク・・・標高3000m以上の高地に住む牛の一種。長い毛で覆われた体は寒さに強く、荷物もたくさん運ぶことができるので、『ヒマラヤのトラック』とも云われています。

ルクラ、クンブー・ロッジにて

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2010年8月 5日 (木)

ネパール再会の旅 65 『ヤンジーがいないブプサで』

カリコーラの村では、プーリーの旧知の知人宅で、チャイやコーヒー、ホットレモンなど、ご馳走になった。プーリーも自慢げに、俺を村人に紹介する。その中に1人、見覚えのある顔がいた。2年前、一緒にトレッキングしていたドイツ人のエルマー&アンジュラが、ここカリコーラからナムチェまで雇ったポーターである。彼は俺のことを覚えていなかったのか、気付かなかったのか、すぐにどこかへ行ってしまい、話をすることはできなかった。

2時前にカリコーラを出て、ブプサへと戻る。急な坂道を汗だくで登る。プーリーは俺に気を遣い、所々休憩しながら、お互いに「ビスタリ ビスタリ ジャンツァ(ゆっくりゆっくり行こう)」と声かけ合う。約1時間後の2時半過ぎ、ようやくブプサへたどり着いた。これでは子供たちがカリコーラで下宿するのも、無理のないことだ。

とりあえず、ロッジでララ・ヌードルスープをいただき、ミントティーを飲み休憩。そしてシャワーを浴びる。

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シャワーを浴び、着替えた直後、ベッドルームで。ヤンジーから頂いたカタも一緒に。

夕方、なんとなく気が抜けて、ボーっとカリコーラの村を眺めていた。次、いつ会えるか分からないヤンジー、彼女がいるカリコーラをいつまでも眺めていた。

夕食は、いつも通りポテトチップスとムスタンコーヒー。「もう1杯、いかがですか」と勧める母親のドマ。そのうちに、この夜もカンチャ(末っ子)のダワが、歌って踊ってみせる。なかなかのエンターティナーぶりである。この夜、俺はブプサ最後の晩とあって、勧められるままムスタンコーヒーを4杯、10時過ぎまで電気のないオイルランタンの灯りの下で、いつまでも夜更かししていた。

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私が持っていたヘッドランプを、面白がって頭に着けながら踊るダワ。

ブプサ、ホテル・イエロートップにて

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2010年8月 3日 (火)

ネパール再会の旅 64 『ヤンジー達の学校へ』

ヤンジーに、彼女の下宿の中を案内してもらうと、いきなり2年前に一緒に撮った写真が飾られてあった。そういえば2年前、できた写真をガイドを雇ったトレッキング・エージェントに持って行ってもらうよう託したのだが、その数週間後ガイドと偶然会った時、「忘れてた」と言っていたので、本当に届けてくれるかどうか不安で、地図でカリコーラの県と郡を調べて、日本からも送ったのだ。そうか!それで同じ写真がブプサにもカリコーラにもあるんだ。2年前に雇ったガイドのラジンはその後、約束通り写真を届けてくれたのだ。

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ヤンジーとチリの下宿。

2階へ上がると、ベッドルームと小さなキッチン。狭い部屋だが、きちんと片づけられている。子供たちは皆、それぞれの制服に着替える。白いブラウスに紺色のスカート。男の子は白いカッターシャツに紺色のズボン。だが一つ、面白いのは女の子は普段パンジャビスーツ(足元まであるドレスとズボンのセット。同じデザインのツーピースで、パジャマの起源でもある)を着ているのだが、パンジャビスーツのズボンをはいたまま、スカートをはいてしまうのである。

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学校の制服に着替えた子供たち。

9時20分ごろ、彼女たちの学校へと向かう。村の外れの方にあり20分ほどかかる。ヤンジーは登校の道すがら「来年の11月、10年生を卒業したらカトマンドゥで日本語の勉強をする」と言う。理由は、俺ともっといろいろな話がしたいからだそうだ。父親も、卒業したらOKだと許可しているらしい。とても嬉しかった。俺のために日本語を学びたいというヤンジーが、とてもいじらしく、可愛く思えた。

学校までの途中で、何人もの友達を誘って登校していく。他の子供たちは、一緒に歩いている俺を見て「誰なんだろう?」とでも言いたげに、興味津々で見つめている。ヤンジー達は、それだけでも自慢げである。やがて学校に到着する。

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ヤンジー達が通う学校。シュリー・スクール。

学校は10クラスあり、授業は10時から16時まで。300人近い生徒が通っているそうだ。プーリーが先生方に俺を紹介する。俺もネパール語で自己紹介する。先生方は、思わぬ日本人の訪問を、とてもビックリし、喜んでくれた。

ヤンジー達は、それぞれの教室へ。薄暗い教室だが、黒板も机もイスもそろっている。ヤンジーは、ニコニコしながら友達に俺を紹介している。ここでもネパール語で挨拶すると、子供たちも驚いたようで、とたんに大騒ぎ。

校庭へ出てみる。サッカーで遊んでいる子供たち。そうかと思えば、突然やって来た日本人を遠巻きに取り囲む子供たちもいた。「お前、何かしゃべってみろよ」「いや、おまえが行けよ」とでも言い合っている様子だ。そんな中、ヤンジー達は平気で話しかけてくる。当然と言えば当然だが・・・。

朝礼が始まった。各学年ごとに並び、国旗と校旗を持った生徒が3人(そのうちの1人はヤンジーだった)、そして国歌を歌い、体操をする。朝礼が終わると、授業に入る。もうこれでお別れである。心の中でヤンジーに「元気でね」と告げ、プーリーと共にカリコーラの村へと戻る。

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朝礼が始まります。ヤンジーは右から2列目、前から2番目にいます。その左側の列、前から3番目にマヤがいます。

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2010年8月 1日 (日)

ネパール再会の旅 63 『カリコーラへ』

5月15日(日)晴れ
ブプサ(徒歩)カリコーラ(徒歩)ブプサ

 6時過ぎ起床。昨日のバレーボールの影響か、筋肉痛である。今日からまた学校のため、ヤンジー達がカリコーラへ帰る日だ。6時半にオートポリジで軽く朝食を済ませ、しばらくの間、ヤンジー、マヤ、チリとバレーボールで遊ぶ。「エク(1)、ドゥイ(2)、ティン(3)・・・」とボールを落とさずにどれだけパスが続けられるかやってみる。ヤンジーは慣れていて、なかなか上手い。

7時半過ぎに、学校へ行くために子供たちはいつもよりうんと早い朝食。そこには俺の分まで用意され、子供たちと一緒にダルバートを食べる。

8時20分、彼女たちと父親のプーリーと俺の5人でカリコーラへ向かおうとしたその時、ヤンジーがカタ(健康や幸運、旅の安全などの祈りが込められた白い布)を首にかけてくれた。俺のような個人旅行者は、よほどでない限り、滅多に頂くことはないカタ。俺は「デライ クッシー!(すごく嬉しい!)」を連発した。

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ブプサから。聖峰クワンデ(6011m)が頭を覗かせています。

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ヤンジーと、シェルパの民族衣装を着た母ドマ、末っ子のダワ。

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ヤンジーの家族全員と一緒に!

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ブプサからカリコーラを望みます。真ん中よりやや左下に見える集落がカリコーラの中心部です。

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ブプサから急な山道を下り、向こうの山裾のカリコーラを目指します。

カタをいただいた後、皆揃って写真を撮り、カタを首に巻いたまま俺は、ヤンジーら3人の子供と父プーリーと一緒にカリコーラへ。急な坂道を一気に下り、約30分でカリコーラへ到着。従妹のマヤは、自宅へ制服に着替えに戻った。

そしてヤンジーと弟チリの下宿先は、かつて住んでいた『ホテル・ファイブスター』の正面にある。ここは、親戚の家のようで、そこで自炊しながら暮らしているそうだ。まだ14才なのに親元離れて、しかも弟の面倒まで見ているのだから、しっかりしている。そういえば、ヤンジーの父プーリーも言っていた。「ヤンジーは料理を作るのが早くて、しかも上手なんだ」と。俺もそう思う。ヤンジーの手料理は、とても美味しい。ダルバートもシェルパシチューもポテトチップスにムスタンコーヒー、どれもこれも美味しかった。彼女だからこそ、安心して下宿させられるのだろう。

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