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2009年10月

2009年10月31日 (土)

ハロウィンと13匹ワンちゃん (Email von Deutschland)

 Happy Halloween

と書かれたEメールが、ドイツのエルマー・アンジュラ夫妻から、今日届きました。そう、この日はハロウィン。我が家では特別何もしていないのですが、こうしてEメールが届くと、世界のあちこちで今日はハロウィンのお祝いをしているのだろうなー、と感じます。

メールには、13匹の犬の写真がありました。

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巨大なかぼちゃに、それぞれのワンちゃんの似顔絵、とてもかわいいですネー!それに、みんなそっくり!犬たちが「どっちが男前(美人)に見える?」と訊いているような表情をしているのが、何とも言えません。

私の自宅は公団ですので、犬を飼うことはできません、ここに来る前は飼っていたのですが・・・。ですから犬は大好きです。でも、それぞれの犬種の名前が・・・?この中で自信持って答えられるのは、シェパードぐらいかな?他にもフレンチ・ブルドッグ、ヨークシャーテリア、ゴールデン・レトリーバー、ダックス・フントもいると思うのですが・・・。もしよろしければ、どなたか教えてください。m(u_u)mオネガイシマス !

それから、お気に入りのワンちゃん、いますか?どの子が一番人気あるだろう・・・?よろしければ、それも教えてくださいませ。

ドイツから届いた、ハロウィン・ワンちゃんたちでした。

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2009年10月29日 (木)

中二のときの銅版画

 ここ数日、私が住んでいる団地では、壁面の再塗装などの工事をしています。そこで、ベランダにある物置を動かさねばならなかったそうですが、中のものを出さないと動かせないようで、その工事が終わるまで、部屋の中はガラクタ(?)だらけ。

すると母が「オヤジ(亡き父)は何でもしまい込んでおいたワ」と言いながら、懐かしいものが出てきました。例えば、父が買ったレコード。まだ若かりし頃(?)の北島三郎さんの「兄弟仁義(兄弟仁義はよ~♪)」、八代亜紀さんの「雨の慕情(雨・雨、降れ降れ、もぉっと降れ~♪)」、天地茂さんの「昭和ブルース(生まれた~時が~、悪い~のか~♪)」、「子連れ狼(しとしとピッチャンしとピッチャン、し~と~ピーッチャン♪)」の主題歌など、懐かしすぎて、思わず「まだ残っていたの?」と驚いたほど!私自身が買ったレコードも、今でも私の部屋にあります。レコード・プレーヤーもありますので、すべて聴くことができます。
*天地茂さんはすでに故人ですが、名古屋市北区出身で母とは同じ学校・同級生だったそうです。

さらに、「卒業証書」と書かれた筒が3本出てきました。2本は兄のもので、1本は私の中学の時のものでした。久しぶりに見てみようと中を取り出すと、卒業証書のほかに○○委員任命状、そして・・・1枚の薄い和紙が出てきました。そこには下手くそな銅版画が描かれていました。作者は・・・私でした(^_^;; 汗)。中学2年の時の作品です。
「なんで?こんなものが・・・?」
裏には○の中に検の文字のスタンプと赤ボールペンで書かれた「10」という数字。
「あっ!」、思い出しました。

小学校の時の図工、中学の美術と、ろくな成績を取ったことがありません。通知表はいつも「2」でした。なのに、この作品は10点。ん?100点満点中の10点と思っている人、いませんか (・o・?違いますヨ (^_^;;!10点満点中の10点です (^_^)/!それにしても、なぜこの作品が、これほど評価されたのか、謎です。よく見ると、かなり雑だし、モチーフが何なのか全く分からない・・・(^_^;;

せっかくですから、プリンターから取り込みましたので、ここに載せてみます(^_^;; 汗…)。

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左端の方が、やや切れてしまいました。

絶対にあり得ない形の三日月、そして山と海(?)、妙に曲がった大木、女性用の靴、ランプ。モチーフが全く分からない・・・。いったい何を表現したかったのだろう?たぶん、そのころ読んだ本からヒントを得たのでは?と思います。

ひょんなことから、中学時代の自分に出会いました。

次回からは、「エヴェレスト街道を行く」の帰路を書き綴ります。

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2009年10月27日 (火)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その8

トレッキング14日目。このエヴェレスト街道のクライマックス、カラ・パタール(5545m)へ向かいます。もちろん仲間たちも一緒です。

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3/19(木)、カラ・パタールを目指すべく、ロブチェをスタート。ヒマラヤを眺めながら歩いていきます。左端の山はプモリ、この山の尾根の先端がカラ・パタールです。

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上の写真の右側に写っているところが、この写真につながります。ヌプツェが目の前に迫っています。カラ・パタールからとは全く違って見えますので、下の方の写真と見比べてみてください。

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そろそろ標高5000mを超えたでしょうか?ヒマラヤがずいぶん近づいてきました。(↑最初の写真に比べ、かなり近くまで来ています。)

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ゴラクシェプ(約5100m)にて。なぜか砂浜のようになっています。これははるか昔の名残でしょう。インド亜大陸がユーラシア大陸のプレート下に潜り、ヒマラヤは隆起してこれほど高くなった、その証明でもあります。きっと大昔のこの辺りは、海辺だったのではないでしょうか?これから、背後にある丘を登って行きます。

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エヴェレストが、その頂を見せ始めました。ついに夢が実現のものになりました。感動!
他にも何人ものトレッカーたちがカラ・パタールを目指して頑張っています。

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しかし、すでに5000mを超える場所。高山病との戦いです。一歩一歩が本当に重く感じられます。時にはこうして座りこんでしまいます。

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何人ものトレッカーが、カラ・パタール目指して登っています。お互いに声かけあい、励ましあいながら、とにかく頑張るしかありません。次に踏み出す一歩が空気の薄さゆえ、本当に重かったです。それでも、ただひたすら、カラ・パタールを目指します。

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カラ・パタールが目の前に見えています。ゴールはもう間もなくです。

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ついに到達しました!カラ・パタール(5545m)の頂へ!思わず「バンザイ!」のガッツポーズ!エルマーも近づいてきました。

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「やったゼ、エルマー!」。およそ2週間、楽しく過ごさせていただいたエルマーと!お互いに健闘を讃えあいました。

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エヴェレスト(左奥)とヌプツェ(右)をバックに。これぞ、”夢・実現”の写真です。

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ロブチェ西峰をバックに。

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アマダブラムがひときわ高く見えます。

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カラ・パタールからの雄大なヒマラヤの眺めです。最大限にズームして撮った写真を3枚つなげ、パノラマにしました。空が近いせいか、その青さが際立っています。

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カトマンドゥへ戻り、写真を現像した後、手紙と共にこの写真を自宅の両親へ送りました。帰国後、今は亡き父が話してくれた言葉、今も覚えています。父はこの写真を見たとき、「えらい感激したワ!よぅ頑張った!」と。さらに「引き伸ばして部屋に飾りたいナー!」と言い、その要望に応え引き伸ばし、今もリビングに飾ってあります。

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2009年10月25日 (日)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その7

トレッキング11日目。標高はいよいよ4000mを超えます。1984年のトレッキングでの最高到達地、アンナプルナ・ベースキャンプが3962mでしたので、まさに「未知の領域」に入ります。

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3/16(月)、タンボチェ村を出て、まもなく4000mを超えます。

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「ヒマラヤのトラック」とも呼ばれるヤクの隊商。名前の通り、ヤクは「役」にたつ動物です。

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すでに標高は4200mを超えました。ヌプツェ(7855m)が見えてきました。もうすぐ、この日の目的地、ディンボチェ村(4343m)です。

トレッキング12日目。この日はディンボチェのロッジに荷物を置いて、高所順応のため、チャクン(4730m)まで往復します。

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3/17(火)、目の前に聳え立つ、「母の首飾り」という名のアマダブラム(6856m)。ナムチェからも見えたのですが、まるで違う山のように、形が違って見えます。

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タボチェ(6542m)も誇り高く聳えています。

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こんな高所にも少なからず草木が生えています。もう4500mぐらいでしょうか?少しずつ頭痛を感じ始めました。

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チュクン付近から見たヒマラヤ。2枚重ねてパノラマにしてみました。右側にひときわ高くそびえる山はヌプツェです。昨日見た感じとは、全く違って見えます。(3枚目の写真です)

トレッキング13日目。目的地のカラ・パタールまであと2日。この日はロブチェ(4930m)まで歩きます。高山病との戦いでもありました。

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3/18(水)、ディンボチェの丘から。目の前の雲の合間からタボチェ(6542m)の頂が顔を見せてくれました。

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トゥクラ(4593m)付近にて。荷物を運んだ帰りのヤクでしょうか?ヤクはもともと標高3000m以上の高所に棲む動物。ヒマラヤでは頼りになる存在です。お疲れ様!

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トゥクラ・モレーンの丘。ヒマラヤ登山で命を落とした方を慰める石積みのケルンが、いくつも並んでいます。それだけ多くの登山者やシェルパの方々が、尊い命を失ったのでしょう。合掌。

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いよいよロブチェへ、クンブー氷河のそばを歩いて行きます。目の前には、ヒマラヤのそうそうたる山々が、幾重にも連なっています。左からプモリ(7161m)、リントレン(6697m)、クンブーツェ(6640m)、右へ高く続く山はヌプツェ。

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2009年10月24日 (土)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その6

10日目。再びトレッキングのスタートです。ここから先は、いよいよ富士山よりも高いところとなります。が、その前に昨日休館していたナムチェ国立博物館へ行ってみました。(ネパールは土曜日が休日、日曜日が週の始まりです。我々の感覚とは1日ずれています。)

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3/15(日)、博物館にて。エドモンド・ヒラリー卿と共に世界で初めてエヴェレストに登頂したシェルパのテンジン氏の登山姿の人形です。ちなみに「シェルパ」とは、ヒマラヤ登山の山岳ガイドとして、その名を世界に馳せていますが、本来はこの地域で暮らすチベット系少数民族のことで、チベット語で「東の人」という意味だそうです。

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曼荼羅(マンダラ)。仏の世界が描かれています。

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10時過ぎ、絵葉書を出すため郵便局が開くのを待っていた仲間たちと共にタンボチェ村へ向かいます。初めは平坦な道でしたが、やがて谷を一気に下り、そして2時間ほど登りが続きました。

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タンボチェ村(3867m)で。ヤクが出迎えてくれました。

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宿泊したロッジ。宿泊者数は今までのところに比べ、かなり多かったです。

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マニ車を備えたチョルテン(仏塔)がありました。

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背後にはタムセルクが間近に迫っています。

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シェルパ・カルチャーセンターに飾られていた絵。この地方の文化の一部だけでも、窺い知ることができます。撮る前に管理人の僧侶の方にネパール語で「写真を撮っても良いですか?」と訊ね、許可を頂いてから撮りました。

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これも曼荼羅です。描かれている山は、この付近の山のようです。

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2009年10月22日 (木)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その5

トレッキング開始から9日目。待望(?)の休養日です。今日は荷物を背負うこともなく、ナムチェ村で1日のんびり過ごします。

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3/14(土)、毎週土曜日開催されるバザール。近隣の村の人々だけでなく、何日もかけてやって来る人々もいるそうです。

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ヤクの肉でしょうか?ダイナミックな売り方です。

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日用品も食料品も、何でもそろっています。溢れんばかりの人々がそれぞれお目当てのものを買い求めていきます。

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丘へ上がってみました。クシュム(6369m)という山だそうです。

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ヘリポートとクワンデリ(6187m)

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丘へはイングリッドもご一緒しました。

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高台から見たナムチェ村です。今では、焼き立てパンを売るベーカリーもあるようで、この地を訪れる外国人トレッカーに人気のようです。

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2009年10月20日 (火)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その4

トレッキング8日目。いよいよシェルパ族の故郷・ナムチェ村へ向かいます。この日1日頑張れば、明日は休養日です。

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3/13(金)、トレッキングの街道沿いに架かる橋です。何とも心もとない橋です。

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ここから「サガルマータ国立公園」内へ入ります。「サガルマータ」とはネパール語で「母なる山」、つまり「エヴェレスト」を意味します。

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ジョルサレ村のバッティ(茶店)で、ここからの急な登りの前に皆でティータイム。左手前から、私・イングリッド(カナダ)・ラジン(私のガイド)、右手前から、アンジュラ・エルマー夫妻(ドイツ)・ポーター。

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ナムチェ村までの急坂を、それぞれマイペースで登り切りました。村の入り口で皆で落ち合い、ナムチェ村へと入りました。標高は3446m。明日はこの大きな村でのんびり過ごします。

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2009年10月19日 (月)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その3

トレッキング6日目。可愛い働き者の少女、ヤンジーがいるカリ・コーラの村とお別れです。今一つ体調が悪いアンジュラはここでポーターを雇いました。私は連日のアップダウンの道に、とうとう膝を痛めてしまいました。それでもどうにか、この日の目的地シュルケイ村へたどり着きました。

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3/11(水)、カリ・コーラの村を出ると、さっそく急な登りが待っていました。登りきった丘からカリ・コーラを眺めます。ヤンジー一家はその後、この場所(ブプサ村)へ引っ越し、ここで新たなロッジを経営していました。2年後の1994年、この地でヤンジーと再会しました。

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振り向けば、ヒマラヤの高峰がずいぶん間近に見えてきました。この後しばらくは平坦な道でしたが、やがて階段状の下り坂。そこで膝が悲鳴を上げ始め、大幅にペースダウン。仲間達には「ゆっくり行くから」と言って、先に進んでもらいました。

トレッキング7日目。この日の目的地はパクディン村。カトマンドゥからルクラまで飛行機でやって来るトレッカーたちにとっては、最初の宿泊地となるところです。

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3/12(木)、ドゥドゥ・コシ川沿いの道を歩きます。比較的フラットな道で安心しました。ドゥドゥとはミルクを意味します。つまり、乳白色の川なのです。

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まだ昼食前というのに、この日の目的地・パクディン村が見えてきました。昨年だか今年だか、TVのドキュメンタリー番組でこの辺りの景色を見ました。すると、橋を渡った先にあるロッジが、すごく立派に建て替えられていて、「なにっ?」と声を上げるほど、驚きました。とても近代的なロッジに生まれ変わっていました。

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あまりの早い到着に、仲間たちは「先へ進む」と言うのでは?、と心配しましたが、「Today is very easy day !」と言って、皆一緒にここで泊まることになりました。
昼食を待っている間、のんびり日向ぼっこを楽しんでいます。

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初めにチェック・インしたロッジに日本人の団体ツアーが泊まることになり、オーナーの勧めもあってすぐ隣のロッジへと皆で移動しました。キャンプをしながらトレッキングしているフランス人夫婦と我が仲間たちです。

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2009年10月18日 (日)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その2

エヴェレスト街道を歩き始めて3日目。ジュンベシ村へ向かいます。

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3/8(日)、セテ村から登り続けると、やがて雪解け水でぬかるんだ泥道に。途中で拾った細長い棒をステッキ代わりに使いました。

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間もなく標高3530mのラムジュラ峠です。トレッキング前半は、このような峠をいくつも越えます。

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峠を越えジュンベシ村へ近づくと、大きな岩にチベット語で経文が書かれていました。

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前日、セテ村のロッジで親しく話をしていた仲間たちと。シェルパ・シチューという郷土料理を皆一緒に注文し、食べました。これがきっかけで、彼らとはとても仲良くなりました。
左から、アンジュラ、イングリッド、エルマー、そして私。

トレッキング4日目。この日も峠越えが待ち構えていました。

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3/9(月)、プッテンにて。写真を重ねパノラマ風にしてみました。ヒマラヤの雄大さ、荘厳さが実感できます。エヴェレストもわずかですが左端に見えます。

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タクシンドゥ峠を越えると、小さな村に立派なゴンパ(お寺)がありました。

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この日の目的地、ヌンタラ村に到着。宿泊したロッジです。昨夜の仲間たちも皆、一緒でした。

5日目です。そろそろ疲れも出てきます。連日、登ったり下ったりを繰り返してきましたから。しかし、先はまだまだ遥か彼方です。

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3/10(火)、この日は早々と目的地、カリ・コーラ村に到着。宿泊したロッジには、笑顔が素敵な可愛い少女、ニマ・ヤンジー・シェルパちゃんがいました。幼い弟の面倒を見ている母親に代わって、ロッジのお手伝いを一生懸命、しかもニコニコと楽しそうにしていました。その様子を見ているだけで、すがすがしい気分になりました。

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たくさんの荷物を背負ったポーターたちが通り過ぎていきます。一体何キロあるのでしょう?そしてどこまで行くのでしょう?

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カリ・コーラ村で泊まったロッジ、「ファイブ・スター・ホテル」です。この日の宿泊客も3日続けて一緒の5人、まさに「ファイブ・スター」ホテルでした。

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子供たちが元気な声をあげて、遊んでいました。

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この日は皆で、トランプをして楽しみました。「クレイジー8」というゲームで、イングリッドがルールを説明してくれたのですが、分かったような分からないような・・・。とりあえずやってみると「ページュ1」と同じ。いつも以上に夜更かしして、大いに楽しみました。

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ロッジ内の売店で。ヤンジーに「一緒に写真撮ろうよ」と言うと、喜んでやってきました。

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2009年10月17日 (土)

写真で振り返る「エヴェレスト街道」 その1

 「1992 ネパール・カトマンドゥ日記」の続きを書くにあたり、その間の話「エヴェレスト街道を行く」の帰路も紹介したく、すでにブログに書いた話ではありますが、今回は目的地のカラ・パタールまで、より多くの写真を掲載し、さらにその後、トレッキングの帰り道、そしてカトマンドゥでの日々の旅日記を綴りたいと思います。
それではどうぞ、写真で振り返る「エヴェレスト街道」をご覧ください。ともにトレッキング、楽しみましょう (^_^)!

カトマンドゥからジリ村へと向かいます。ほとんどの人は、飛行機でルクラ村まで行きそこからトレッキングを楽しみますが、私はあえて長い距離を選びました。

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3/5(木)、カトマンドゥからバスに揺られること延々11時間、やっとトレッキングの出発地・ジリ村に到着しました。意外に大きな村でした。

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ジリ村の小学校で。子供たちに出会いました。校舎へも案内してくれたり、とても楽しいひと時を過ごしました。

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ジリ村、サガルマータ・ロッジにて。ガイドのラジンとトレッキングの健闘を約束。そしてこの後、この日ばかりはビールで乾杯しました。

いよいよ、ヒマラヤ・トレッキングのスタートです。初日は、デウラリ村を目指します。

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3/6(金)、ジリ村を出発し、シバラヤ村付近の登り道で。まだ初日、元気です。自然にガッツ・ポーズが出ます。

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街道沿いには「ラリグラス(ネパールの国の花;赤いシャクナゲ)」が咲き誇っています。この道を、たくさんの荷物を背負った隊商たちも行きます。さしずめ、「ヒマラヤの貨物列車」のようです。彼らによって運ばれる物資が、山奥深いところで暮らす人々・山の民の生活の支えとなっています。

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この日の目的地、デウラリ村に到着。標高はおよそ2700mです。

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デウラリ峠にて。1日無事終えて「バンザーイ!」でも、気温が低く、肌寒かったです。

トレッキング2日目。この日は一気に1000mほど下り、再び同じぐらいの登りが待っています。

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3/7(土)、デウラリ村のデウラリ・ロッジの若いご夫婦と。

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行く先々で、目を楽しませ、心なごませてくれる、ラリグラスの花。

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「きれいだなー!」とラリグラスを眺めていたら、通りかかった村人がラリグラスの枝を折って、「どうぞ」とプレゼントしてくれました。思わぬ出来事に感激!この花が、毎日数時間も歩く私をどれほど癒し、励ましてくれたことか!枯れるまでずっと持ち歩いていました。

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時折、このようにヒマラヤを眺めながら、先へ先へとトレッキングは続きます。この日はセテ村まで歩きました。

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2009年10月16日 (金)

My Beautiful Nepal

というタイトルの動画を先日、YouTubeで見つけました。貼り付けようとしたのですが、なぜか貼り付けられなくて、URLだけ書きました。ネパールの壮大な風景、私にとってはとても懐かしい風景が出てきます。よろしければクリックしてご覧ください。ちなみに8分ほどかかります。

http://www.youtube.com/watch?v=cVsiImfHurA

次回からはしばらく「手抜き」更新します。山陰への「神話の旅」の前に書いていた「1992 ネパール・カトマンドゥ日記」の続きは、「1992 エヴェレスト街道を行く」につながっているのでが、再掲載するのもなんですし、かといって全く触れないのも、その後の話が???となりそうなので、もっとたくさんの写真を載せて「エヴェレスト街道」を紹介します。ただし、日記は割愛しますねー!カテゴリーは・・・、どっちにしようかなー???

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2009年10月15日 (木)

出雲大社

今日の「古事記」からの引用・要約は、「因幡の白ウサギ」の話の続きから始めます。

『八十神(やそがみ)たちは八上媛に、「我々の中から婿を選んでください」と言いました。そこへ、兄たちの荷物を持った大穴牟遅(おおなむぢ)神がやっと到着すると、八上媛は「大穴牟遅神と結婚します」と答えられました。
怒った八十神たちは、大穴牟遅神を殺そうと相談し、嘘をついて殺してしまいました。これを見た母なる神は泣き悲しみ天に昇り、神産巣日神(かむむすひのかみ)にすがると、その神は他の神を遣わし治療に当たらせました。やがて大穴牟遅神は生き返り、元気に歩きだしました。
その姿に驚いた八十神たちは、再びたくらみを仕掛け、またしても大穴牟遅神を殺してしまいました。泣きながら息子を探していた母神が発見し、再び生き返らせました。そして「ここにいては危険だから、須佐之男命のおられる根之堅州(ねのかたす)国へおいでなさい。きっとよいように計らって下さるでしょう」と言って、大穴牟遅神は須佐之男命がいる根之堅州国(地底の国、黄泉の世界)へ行きました。

しかし、そこでも試練が待ち構えていました。須佐之男命の娘・須勢理毘売(すせりびめ)とお互いに一目惚れし、すぐさま結婚を誓いあったのです。須佐之男命は、それが気に食わず、試練を与え勇気を試してみようと考えました。まず、蛇のいる部屋へ大穴牟遅神を呼び入れ、そこで寝かせました。しかし、須勢理毘売が須佐之男命に内緒で知恵を授け、ぐっすりと眠ることができました。
次の夜はムカデと蜂の部屋に寝かされました。しかし昨晩同様に安眠し、無事その部屋から出てきました。
そして今度は、鏑矢(かぶらや)を野に放ち、その矢を「探して採ってこい」と命じました。大穴牟遅神が野原へ入ると須佐之男命は野原に火をつけ、火はみるみる広がり、逃げられなくなってしまいました。そこへ鼠がやって来て「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言いました。その意味を理解した大穴牟遅神は、足元の土を勢いよく踏むと、穴の中へ落ち、そこに隠れているうちに野火は頭上を焼け過ぎて行きました。そして鼠が鏑矢をくわえて来て、大穴牟遅神に渡しました。
須勢理毘売も須佐之男命も、大穴牟遅神が死んだものと思っていましたが、野原に出てみると、大穴牟遅神が鏑矢を持って現れました。須佐之男命は「何としぶとい」と思い、御殿に連れ帰り広間に呼び入れ、自分の頭の虱(しらみ)を取るよう命じました。しかしそれは虱ではなく、たくさんのムカデでした。須勢理毘売はここでも知恵を授け、椋の木の実と赤土を手渡しました。木の実を食いちぎり、口中に赤土を含んで、唾と一緒に吐き出すと、須佐之男命は「ムカデを食いつぶして吐き出しているのだナ。なんと可愛い奴!」と思いました。須佐之男命は安心し、ぐっすりと寝込んでしまいました。

大穴牟遅神はこの隙に、須佐之男命の髪をいくつかに束ね、部屋の垂木に一つずつ結び付けました。そして大岩で部屋の入り口をふさぎ、須勢理毘売を背負い、須佐之男命の象徴である生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)、それに天の沼琴(あめのぬごと)を持って逃げようとしました。
すると琴が木に触れて大きな音がしました。須佐之男命は驚いて起き上がり、その勢いで部屋が引き倒れてしまいました。垂木に結ばれた髪をほどいているうちに、大穴牟遅神と須勢理毘売ははるか遠くに逃げ去りました。
須佐之男命は黄泉比良坂まで追いましたが、二人はすでに手の届かぬ現世国(うつしよのくに)へ逃げ延びていました。須佐之男命は二人に向かって叫びました。
「もうよい大穴牟遅、須勢理毘売はお前にくれてやる。その生大刀と生弓矢で八十神たちを追い払い、大国主神となって宮殿を建て出雲の国を治めろ」と。
須佐之男命に言われたとおり、大穴牟遅神は悪い兄弟たちを追い払い、大国主神となって国造りを始めました。』 *古事記より引用・要約

「古事記」からの引用文は、古い順から「黄泉比良坂」→「八岐大蛇」→「因幡の白ウサギ」→「出雲大社」となります。もちろん、これがすべてではなく、高天原の天照大神様の「天岩戸」伝説が間にありますが、この地に残る話ではありませんので、割愛致しました。

「神無月」、出雲地方では「神有月」ということもあり、今の時期、全国津々浦々の神々たちが、ここ出雲に集まって「全国神様集会(会議)」を行なっているのでしょうか?神様たち、どんな話をしているのでしょうネ?「政権交替したから、少しは良くなるんじゃないか」とか、「今の日本は・・・」などと愚痴をこぼしている神様もいるのかな?

「出雲大社」、ほとんどの方は「いずもたいしゃ」と読まれるでしょう。しかし、正式には「いずもおおやしろ」と読むそうです。
私は出雲大社へは、二度行ったことがあります。最初は「因幡の白ウサギ」伝説を追って、鳥取・白兎神社へ行った後(1985年)、二度目は仕事で東出雲町まで行ったついでの旅(1990年)で訪れました。
さすが、出雲大社です。本当に立派で風格漂うところでした。外国人旅行者の姿も目につきます。

この格調高い出雲大社で、私の目を引いたのは、大国主命像でした。本当に威厳のある神様、そう感じました。と同時に、とても優しい神様だということも感じ取ることができました。大国主命(大穴牟遅神)と白ウサギの像もありましたから!「古事記」の伝説の人物像そのままを、象(かたど)って作られたものだと思わずにいられませんでした。

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出雲大社本殿。平日のせいか、参拝者・観光客は少なめでした。

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大きなザックを背負ったバックパッカー。外国からの旅行者でした。

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境内にある大国主命像。

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上の写真を後ろから撮ったものです。少名毘古神を迎えるところでしょうか?

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大国主命(大穴牟遅神)と因幡の白ウサギ

時間の都合、というよりもう1か所、是が非でも行きたいところがあり、出雲大社を後にして、私は近くの海辺へと向かいました。平田市(島根県)にある猪目洞窟遺跡です。かつてここで、縄文時代から弥生時代、古墳時代のころの土器や埋葬品、人骨などが多数見つかったことから、「黄泉の国の入り口では?」という伝説があります。

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猪目洞窟入り口。写っている人は・・・私です。大きさがお分かりかと思いまして!

中へ入ってみました。地面は濡れています。先は暗くて見えません。頭上の岩が徐々に低くなり、いよいよ四つん這いにならなければ進めない・・・、で、そこであきらめました。でももし、レインウェアを持っていたら・・・、さらに先まで行っていたでしょう。とても後悔したことを今でも覚えています。(そのまま、”黄泉の国”まで行ってしまったりして・・・)

4回だけですが、「神話の旅」書いてみました。順序的には逆になりますが・・・。
お読みくださった方々が、日本の古典文学の面白さ・素晴らしさとともに、私の旅も楽しんでくださったなら、光栄に思います。

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2009年10月12日 (月)

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)

『高天原を追われた須佐之男命(スサノオノミコト)は、出雲の国肥河(ひのかわ;現在の斐伊川)の上流、鳥髪というところに降り立ちました。そこへ箸が流れて来て、上流に人家があるのだろうとしばらく行くと、老夫婦がいた。真ん中に少女を置いて泣いている。

「お前たちは誰だ」と須佐之男命が問うと、
「私はこの国の神、大山津見の神の子で足名椎(あしなづち)、妻は手名椎(てなづち)、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)と申します。」と答えました。
「なぜ泣いている」
「私の娘は八人おりましたが、八岐大蛇が毎年やって来て食べてしまい、今年もその時期が来て最後に残ったこの子も食べられてしまうのかと、泣いていたのです。」
「どんな姿の大蛇なのだ」
「頭が八つ、尾が八つ、その目は真っ赤で胴体には苔がむして、さらに桧や杉が生えている化け物でございます。長さは八つの谷、八つの峰をまたがるほどで、その腹はいつも血が滲み出ています。」
「よし、俺が退治してやろう。その前にその娘を俺にくれないか。必ずや娘を大蛇から守ってやる」
「いったいあなた様はどなた様ですか」
「俺は天照大神の弟、須佐之男命というものだ。今、高天原から降りてきたところだ」
「それは恐れ多い事でございます。娘を差し上げましょう」

須佐之男命の指示で八塩折(やしおおり)の酒がつくられ、垣をめぐらし八つの門を作り、門になみなみ注いだ酒桶を置き、八岐大蛇が来るのを待ちました。須佐之男命は櫛名田比売の姿を爪櫛(つまぐし)に変え角髪(みずら)に挿しました。

そして八岐大蛇が、足名椎が話した通りの姿でやって来ました。大蛇の八つの頭は八つの酒桶の酒を飲み、酔っ払って寝込んでしまいました。
須佐之男命は腰の長剣を抜いて、大蛇をズタズタに切り裂きました。すると、大蛇の体の中から鋭い剣が現れました。その剣を須佐之男命は、天照大神に献上いたしました。これがのちの草薙の剣です。

須佐之男命は、櫛名田比売と新たな宮殿を建てるため、出雲の国の須賀を訪ねました。
「俺はここへ来て、心がすがすがしくなった」と話し、この地に宮殿を作ろうとすると、雲が立ち上りました。そして須佐之男命は、歌いました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

そして、足名椎をその宮殿の長官に任じました。』 *古事記より引用・要約

 この話も「古事記」の中では、よく知られている有名な話です。須佐之男命のヤマタノオロチ退治です。揖屋神社でお世話になったご婦人に教えていただいた「出雲国分寺跡」、「神魂(かもす)神社」を訪ねたのち、この伝説が残る「八重垣神社」へと向かいました。

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松江市に残る「出雲国分寺跡」。

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古代日本の中心地だったのでしょう。

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神魂神社(松江市)歴史を感じさせる造りです。

八重垣神社境内へ入ると、立派な本殿が見えました。由緒正しき神社、という雰囲気・風格です。由来記には、ここが須佐之男命と稲田姫(櫛名田媛)と結ばれたことから、「縁結び」にも御利益があるような内容が書かれていました。

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八重垣神社へ到着しました。お参りしてきます。

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「國家重要文化財本殿壁画」があるようです。どんなものでしょう?

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この由来記にも「八岐大蛇退治」について書かれています。

境内にある「鏡池」では、占いもできます。10cm四方ぐらいの紙の中心に小さな穴が二つ開いています。その間に五円(ご縁)玉を載せ、池に浮かべ縁を占います。15分以内に沈むと、早いうちに良縁に恵まれ、沈んだところが近ければ、近くの人と結ばれる、と云われています。せっかくなので、私も占ってみました。すると・・・、7~8分後、池のほぼ中央で沈みました。ということは・・・?、ということか・・・!

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鏡池。占いの結果とは裏腹に、今だ独身の私です。何故でしょう・・・?

境内の奥の森は、杉林になっています。地面から出ている杉の木の樹根が、まるで大蛇のように見えます。

次はいよいよ、出雲大社へと向かいます。

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2009年10月11日 (日)

黄泉比良坂(よもつひらさか)

『天地の始めのとき、高天原(たかまがはら)に三柱(みはしら)の神々が生まれました。天と地が渾沌としていて、区別のつかない世界を、三柱の神によってずいぶん区別がつくようになりました。そこへ二柱の神が生まれ、世界は明るさを増し天と地が形づくられていったころ、互いに誘いあった二柱の神が新たに生まれました。男神の名は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、女神の名は伊邪那美命(イザナミノミコト)であります。

新たに生まれたこの二柱の神により、島々がつくられ大八島(おおやしま)国がつくられました。さらにほかの島を生み、家、川、山、船、食物の神々など、多くの神々を生み続けました。しかし、最後に火の神を生んだため、御陰(みほと)を焼かれ病気になり、とうとうお亡くなりになり、死者が住むという黄泉(よみ)の国へと旅立っていかれました。

伊邪那岐命は伊邪那美命が忘れられず、黄泉の国へと向かいました。そして「愛しい我が妻よ。君と私とで作った国はまだ全部作り終えていない。もう一度帰って来てくれ」と言いました。しかし、伊邪那美命は「あなたが早く来てくださらないから、私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。でも、あなたがここまで来てくださったのだから、黄泉の国の神様に相談してみます。でもその間、決して私の姿をご覧にならないでください」と答えました。

長い間待たされ、とうとう我慢しきれず伊邪那岐命は、中へ入ってしまい、そこで伊邪那美命のおぞましい姿を見てしまいました。すると伊邪那美命は「あれほど見ないで下さいと言ったのに。私によくも恥をかかせましたね。許せません」と、黄泉醜女(よもつしこめ)に命じ後を追わせました。

伊邪那岐命は追ってくる黄泉醜女からひたすら逃げました。伊邪那美命はさらに大勢の軍勢をつけて追わせました。伊邪那岐命は腰の長剣を抜いて、それを後ろ手に振りながら逃げました。とうとう現世(うつしよ)と黄泉の国の境の黄泉比良坂(よもつひらさか)までたどり着くと、そこに桃の木がありました。その桃の実をもいで雷神たちを撃つと、みな退散しました。

そこへついに伊邪那美命自身が追いかけてきました。坂を登ればもう現世です。伊邪那岐命は千引き(ちびき)の岩で黄泉比良坂の道を塞ぎました。黄泉比良坂は、現在の出雲の伊賦夜坂(いふやざか)だと云われています。』 *古事記より引用・要約

この話は、古事記の冒頭を要約したものです。20代後半、個人でしがない仕事をしていた私は、ある会社の依頼を受け島根県東出雲町へと車を走らせました。
荷物の届け先の住所は、「東出雲町揖屋(いや)」とありました。手元にあった「毎日グラフ別冊・古事記」の中に載っていた「揖屋神社」があるところです。
私はプライベートでもなかなか行くことができないところだけに、この仕事をとても楽しみにしていました。

指定された期日の朝に荷物を受け取ったのでは、「事故や工事渋滞などで間に合わないといけない」から、前日夕方に荷物を受け取り、カメラ持参で1泊2日の仕事兼旅行へ出かけました。依頼主である会社の担当者も、以前いただいた仕事の評判・実績を知っているので、私が行くことに対してとても安心し、私が「泊まりがけで、ついでに旅を楽しんできます」と言うと、「カメラは持ってきてますか?」と、ニコニコしながら和やかに話していました。
荷物を受け取り、いったん自宅で夕食をとり、夜の高速を西へと走りました。夜7時に出発し中国道・大佐 I.Cに着いたのは、真夜中0時ごろ。この日はここで仮眠し、翌朝6時、起床し目的地へと向かいました。日本海側へ向かう道の途中にある峠では、雲が低くたちこめ、下界が全く見えず、「雲上にいる」と感じさせられました。峠を下ると、雲の中。そこを抜けると下界が見えてきました。
届け先は事前に調べておいたところ、「揖屋」という駅があり、「その近くだろう」と思った私は、東出雲町に入り、国道9号線から駅方面への旧道を走りました。すると、目についたのは「揖屋神社」。その横を通り過ぎ、駅から電話をし届け先の場所を尋ね、8時半に荷物を無事届け、仕事を終えた後、この「揖屋神社」を訪れました。

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揖屋神社です。とても歴史のある神社でした。

本殿はとても立派な神社です。社務所を訪ね「由緒記」なるものがあれば頂きたかったのですが、あいにく社務所に声をかけても返事はありません。仕方なく、お参りに来ていたご近所の方に声をかけ、この神社について尋ねてみました。
その方(神社の目の前の家に住んでいらっしゃる女性)は、私がまだ若かったせいか、このようなことに興味があることをとても感心してくださいました。そしてもう一度一緒に社務所を訪ね、留守と分かると氏子の方を紹介しようか?と、おっしゃってくださいました。しかし、まだ9時前。みなさん、お忙しい時間帯では?と思い遠慮しました。そのお気持ちだけでも嬉しかったですし。

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揖屋神社本殿。しめ縄がとても立派!やはり、それなりの歴史を持つ神社だけあります。

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本殿にある鏡。これとて、太古の昔から今に伝わる貴重な鏡だと思います。

その女性は、「せっかく遠く(名古屋)から来ているのに…」と、神社内を色々案内してくださいました。そして、この神社の由緒が書かれた石碑へと案内し、この神社に祀られている神様のことを説明してくれました。それによると、この神社のご祭神は「伊邪那美命(イザナミノミコト)・大穴牟遅神(オオナムヂノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)・少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)」の四柱の神様です。
ところがこの女性、伊邪那美命・事代主命・少名毘古那神はご存じだったのですが、「大穴牟遅神様という神様は知らないのですよ」とおっしゃいました。そこで私が「大穴牟遅神様は、大国主神様のことですよ。大国様は・・・」と話すと、その方は本当に感心し、「目の前に住んでいるのに知らなかった」ことを恥ずかしがっていました。

私が仕事で名古屋から走って来て、まだ朝食をとっていないと知ったその方は、「ちょっと待ってて」と言い、自宅へ戻り、しばらく待っていると、「おにぎり」を作って私に持たせてくださいました。私は恐縮しながらも、せっかくのご厚意に甘えることにしました。そしてさらに、その方から伺った話で、「黄泉比良坂・伊賦夜坂」も訪れました。

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この坂の奥は、どうなっているのでしょうか?私はまだ死にたくなかったので、足を踏み入れることができませんでした。

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2009年10月10日 (土)

因幡の白ウサギ

 『むかしむかし、出雲の国の八十神(やそがみ)と呼ばれる大国主神の兄弟たちは、稲羽(因幡)の国の八上媛(やがみひめ)という美しい女性を嫁にもらおうと、一同、稲羽の国へ出かけて行きました。
稲羽の気多(けた)という海岸で、毛のない赤っ裸のウサギが伏していました。ウサギは、もと隠岐の島のもので、本土へ渡る手だてがなく、寂しがっていたところ、「いつもそんなところで何をしている」とワニ(サメ)に尋ねられ、「君たちの数を数えていたんだ。僕たちウサギの数とどちらが多いか知りたかったんだ」と言うと、ワニは仲間たちを集め海上に並びました。数を数えると言いながら、本当は数など数えてなくワニの背中をピョンピョンと上手に渡りました。が、本土へ着く寸前、「数なんて数えてなかったのさ」と、だましたことをしゃべってしまい、一番最後のワニに「よくも、だましたな」と、捕らえられ、着物をはがされてしまったのです。

八十神たちは惨めな姿のウサギをからかい、「海水を浴び、風に当たりながら寝ていれば治る」と嘘を教え、その通りにしたウサギはさらにひどい痛みにおんおん泣いてしまいました。最後に通りかかった大穴牟遅神(オオナムヂノミコト;のちの大国主神)は、その様子を見て、ウサギに「どうしたんだい」と尋ね、ウサギの話を聞き、兄・八十神たちのことを詫び、ウサギに「真水で身体を洗い清め、蒲の花の黄色い花粉を敷き散らし、その上を転がり身体にまぶすのです」と、治る方法を教えてあげました。
ウサギは「八上媛はきっと、あなたの嫁になる、とおっしゃるでしょう」と、大国主神に申しました。そしてウサギは、元の白いウサギに戻りました。』 *古事記より引用・要約

 この話は、幼少のころならば誰もが一度は耳にしたことがある「因幡の白ウサギ」。古事記の中の神話、というより「おとぎ話」として覚えています。この話の舞台となった鳥取・白兎(はくと)神社を訪ねてみたことがあります。

鳥取砂丘から国道9号線を西へ10kmあまり行ったところに、夏は海水浴客でにぎわう白兎海岸、その裏側にひっそりと、白兎神社はたたずんでおります。神社の中には、白ウサギが大国主神に教えられて身を洗った「不増不減の池」があります。

海岸には、この神社の由来を知ってかしらずか、大勢の海水浴客が夏のひと時を楽しんでいます。さしずめ、海水浴客が意地悪い八十神で、私は大国主神、というところでしょうか・・・?

その晩、満天の空にいくつもの流れ星を見ました。大国主神や白ウサギが傷心状態でたった一人参拝した私へのお礼に、励ましてくれたのでしょうか?神々とか星とか、人間世界の現実を超越したものを前にして、人間の何という因果な生き物の「くだらなさ」を感じます。

翌日、私は予定コースを変更し、惹かれるように出雲大社へと足を延ばしたのは、言うまでもありません。

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白兎神社についてふれられています。

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白兎神社本殿。ごく普通の神社、と言えばそうなのかもしれませんが・・・。

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白ウサギは、この池で身を洗ったそうです。そのころはもっときれいな水だったでしょう!

*今日の記事は、若かりし頃所属していた旅サークルの会誌に寄稿したものを、一部加筆・修正したものです。盆休みを利用して、1人で山陰地方をドライブした時(1985年)のことです。
 大国主神という名は、実は最初からこの名であったのではありません。のちに須佐之男命(スサノオノミコト)によって名づけられたものです。要約文の中にも書きましたが、このころは大穴牟遅神(オオナムヂノミコト)と名乗っていました。

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2009年10月 8日 (木)

神無月です

10月も早や1週間が過ぎました coldsweats01 。10月は「神無月」と言われますが、この由来ご存知でしょうか thinkウーン?
この時期になると、全国津々浦々の八百万(やおよろず)の神々はこぞって出雲へ行くのです coldsweats02ヘェーッ !。その地に根付いた土着の神様たちも皆、出雲におわします大国主命のもとへと出かけて行きます。さしずめ、神様たちの「全国集会」とでもいいましょうか sign02  それで、「神様がいない月」→「神無し月」→「神無月」となりました confidentナルホド 。

しかし、出雲では逆に10月を、「神有月」と呼んでいます coldsweats02ソウナノ ? 。このように呼ぶのは、出雲だけです。理由は、書かなくてもお解かりになられると思います bleah

以前にも書きましたが、「古事記」が大好きな私、この「神無月」・「神有月」にちなんで、かつて訪れた山陰地方への旅を紹介してみようと思います scissors 。とはいえ、長くはなりません。4話ほどで終わるんじゃないかな・・・?

今回の話は、「古事記」の中でも「おとぎ話」の世界ですので、子供のころ誰もが聞いたことがある懐かしい話も出てきます wink 。それらの話も書きながら、私の「神話への旅」を楽しんでくださったら、とても嬉しく思います happy01ワーイ ! 。

ということで、昨日まで書いていた「1992 ネパール・カトマンドゥ日記」は、しばらくお休みします。というか、続きは以前に書いた「1992 エヴェレスト街道を行く」につながっていますので confident !(左サイドバーの「カテゴリー」からジャンプできますよー!)
今回の「神話の旅」を書き終えましたら、「エヴェレスト街道を行く」の続きを書き綴りたいと思います。

これまで通り、どうかご愛顧ください。よろしくお願いします confident

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2009年10月 7日 (水)

トレッキング出発準備完了!

3月3日(火)

 とうとう、泣く泣く計600ドル両替し、バンクレシートを持ってイミグレーション・オフィスへ。1ヵ月のビザの延長とトレッキング・パーミットの申請。合わせて1917ルピー(ウゥッ、なんて高い・・・)。何かと相談に乗っていただき、ご迷惑をかけた西遊旅行社が今月下旬より、チベットツアーを行うらしい。行きはバス、帰りは飛行機で毎週土曜日出発、7泊8日で885ドル。中国ビザ代込みらしい。「行ってみたいな、チベット・・・」

また、インドビザもトランジットビザ(15日間のみ、1回だけ入国)であれば1~2日で取得可能。さらに、かつては特別入域許可が必要であったダージリンへも、今はビザのみで行けるという情報を頂いた。

昼ごろ、ここ最近続いている睡眠不足と体調不良で気分が悪くなったが、もう大丈夫。だが、エヴェレスト街道への出発は明後日の予定。あまり無理せず、体を休めよう。

夜、レセプションにいつもの仲間たちが集まっている。「欲しい」と頼まれていた写真の焼き増しができたので、たくさんの写真を持って俺もそこへ行く。すると、アレックスが

「ヘィ・・・、ウォッカ!」
「ウォッカ・・・?」
「ノーノー!・・・、ジン!」
おいおい、俺のニックネーム、酒からつけられたわけじゃないゼ!

写真を見ながら、俺は自分自身(Tシャツ、革ジャン、ジーンズすべて黒で統一)の写真を見せ、「こいつ、誰だか知っているかい?こいつは”ブラックマン”で、悪い奴なんだ」と言うと、彼らは「オー、ノー、こいつはいい奴だよ!ジョークが過ぎるゼ!」と笑いながら言っていた。本当に愉快で楽しい仲間たちだ。

先日、ゲストハウスの屋上で撮った写真を手渡すと、本当に喜んでいた。彼らにとっても、俺にとっても、とても素敵な思い出ができた。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

3月4日(水)

 ここマナスル・ゲストハウスでも、離れにあるレストラン(食堂?)でも食事ができるのだが、今朝初めて気がついた。メニューにコーンフレークがあることを・・・!俺の日本でのいつもの朝食メニューだ。軽めの食事とはいえ、栄養満点だ。

そして明日は、トレッキングのスタート予定。マナスル・ゲストハウスの紹介を受け、ガンジャラ・トレッキング・コーポレーションでガイドを雇うことにした。1日8ドル、トレッキング中の食事と宿泊代も俺が払う、ということらしい。1日8ドルと聞いたときはビックリしたが、日本出国直前に新聞で読んだ記事、「ヒマラヤ・トレッキング中に道を見失い、チョコレートと水だけで1ヵ月近くさまよい続けたオーストラリア人が助かった」という話と、ここ最近も、エヴェレスト・ベースキャンプ付近で遭難しかけた日本人がいると聞き、渋々8ドルで承知した。

ガイドと顔を合わせ、彼とともにトレッキングに必要なものをそろえる。ガイドのザック、シュラフ、高地で着る俺のダウンジャケットなどをレンタルする。「こりゃ、かなり出費するなぁ!もしかしたら600ドルなんて、アッ!という間に飛んで無くなるかも・・・?」と思った。

そして、トレッキングのスタート地点であるジリまでのバスのチケットも手配できて、出発準備は完了。

ガイドは、ラジン・タマン・シェルパ君。24才で、体はどちらかと言えば小柄だ。ガイドとしてのキャリアは6年。つい先日まで、イギリス人のガイドとして、エヴェレスト街道をジリからカラ・パタールまで歩き、帰って来たばかりだそうだ。これから俺が行くコースと全く同じだ。

初対面の印象は・・・、正直に言って、「今一つ気が合わない感じがするなぁ」っていうのが本音。ネパール人特有の、あの人懐こさがないんだよなぁ。しかし、もたもたしていても、時は過ぎていくだけ。明日は、5:30発のバスだ。早朝出発に備え、ガイドのラジンも今夜はここで宿泊。今日は早く休もう。

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お世話になったレセプションのゴビンダとパブラム。

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この2週間で最も親しくなった旅人、サムエル氏。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年10月 5日 (月)

パシュパティナートからボーダナートへ

3月2日(月)

 昨夜、ここマナスル・ゲストハウスのオーナーの晩酌に呼ばれてお付き合い。オーナーが用意していたお酒はウォッカ!一口飲んだ途端、口から火が出そうなほどキツイ!聞けばアルコール度数60%!!すぐに水を用意してもらったが、たぶん俺の胃の中はこの「未知との遭遇」にビックリだろう。水割りで飲んでいたものの、それでもものすごく強く、あえなくダウン!そのくせ、今一つ寝つきが良くなかった。

今日はゴビンダの友人、カビン君の紹介の店で黒の革ジャンと刺繍デザインのTシャツを買った。

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前日買ったジーンズとスニーカー、そしてこの日買った革ジャンとTシャツを着てみました。

今日は、ネパールは祝日。ヒンズー教の祭日らしい。買い物を終えた後、ゴビンダとカビンと一緒にパシュパティナートへと出かける。パシュパティナート(ヒンズー教の聖地)は、すごい人混みだ。日本の正月、初詣での人混み以上では・・・。俺が迷子にならぬよう、同行したゴビンダとカビンが俺の前後を歩き、ナビゲーター兼ボディガードをしてくれる。細やかな気遣いだが、とても嬉しい。

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パシュパティナート。ヒンズー教徒以外は向こうのお寺へ入ることができません。

さらにボーダナートへも足を延ばした。30分ほどのミニトレッキングだ。このお寺もヒンズー教徒や仏教徒の聖地。五体投地の修業をしながら仏塔の周りをまわっている僧侶もいた。その姿に、俺は言葉が出ない。

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ボーダナート寺院。やはりここも、聖地の一つです。この周辺には、多くのチベット難民のお店がありました。

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五体投地をしながら参拝している修行僧。あまりに敬虔で真摯な姿が、心に何か響きました。

夜、夕食へ出かけようとすると、昨日に続きオーナーに呼び止められ、またしても晩酌だ。ビール、ウィスキー、ラム焼肉、ピーナッツ等々。おつまみもあって、これじゃさすがに夕食どころではない。

それにしても、従業員たちのボスであるこのオーナー、酒に強い!この時の会話で知ったのだが、このマナスル・ゲストハウスは、今年1月28日にオープンしたばかりだそうだ。どうりでキレイなはずだ。ハウスキーパーもいるし…。長期(といっても、まだ10日ほどだが)滞在の日本人は、俺が初めてらしい。

日本語学校へ通い、ひらがな・カタカナの読み書きができるゴビンダをはじめ、オーナーもレセプションのパブラムも、日本からの旅人のために、少しでも日本語を覚えようと、俺にいろいろ尋ねてくる。たどたどしく話す彼らの「行ってらっしゃい」や「おやすみなさい」に、つい、笑みがこぼれる。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年10月 4日 (日)

泣く泣く600ドル両替

3月1日(日)

 三たび西遊旅行社へ出向き、ビザ申請に関する政府の発表が載った新聞をコピーして頂き、イミグレーション・オフィスへ。それを見せ「20ドルのバンクレシートさえ見せれば、ビザの延長可能と、ここに書いてある。」と食い下がるが、彼らは「まだ何も聞いていない」と言い、規則は規則、1ヵ月延長するならば600ドル両替するしかない。もう仕方あるまい。泣く泣く600ドル分のバンクレシートを用意しよう。たとえ多大のお金がゴミになってしまったとしても、俺は自分の足で歩いてエヴェレストを見たい!そのためにネパールへ来たのだ。

余りそうなお金で贅沢したり、日本へ帰ってから買うつもりのものを、ここで買えばいいんだ。今日は開襟シャツ、黒のジーンズ、スニーカーを買った。明日は刺繍デザインのTシャツ、ジャケット、サブザックでも買おうか?トレッキングにガイドを雇おうか?

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マナスル・ゲストハウスのオーナーと彼のお嬢ちゃん。彼女のセーターに動物のアップリケがデザインしてありました。それぞれの動物に「ZOU」「KUMA」「USAGI」・・・とある。俺はオーナーに「これらの意味を知っていますか?」と尋ねると、彼は「いや、知らない」と答える。そこで俺は彼に「日本では、Elephant=ZOU、Bear=KUMA、Rabbit=USAGI・・・と言うんですよ」と教えると、彼は「オーッ!これは日本語なのか?!」と驚くと同時に、初めて知ったこともあり感激していました。

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ゲストハウスのバルコニーから見た光景。ヒンズー教では、牛は「神聖な動物」であるため、殺生はできません。ヒンズー教を信仰するネパール人は、決して牛肉は食べません(水牛はOKのようです)。だからでしょうか、このような「野良牛」が至る所にいます。ゴミ置き場には、少なからず食べ物となるものがあるのでしょう。どの国も変わらない・・・。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年10月 3日 (土)

マナスル・ゲストハウスの陽気な仲間たち

2月29日(土)

 西遊旅行社、及び、日本人が多く滞在しているインターナショナル・ゲストハウス(オーナー夫人は日本人)へ、ビザ申請の件で相談しに行く。が、いいアイデアはない。そりゃそうだろう、この国の規則なのだから。旅行者の誰もが、ビザ延長したうえでトレッキング・パーミットを取得しているのだから、自分がいくら頑張ったところでどうにかなるわけがない。トレッキング・エージェントの代理申請も、個人では無理があるようだ。

もう1ヵ月延長、600ドル両替するしかないのか?あと5日のうちに結論を出さねばならない。何故こんなに旅がしにくいのだろう。フリーの1人旅の辛さか。日本でもっと情報収集に当たるべきであった。これほどイミグレーションの規制が厳しいとは思わなかった。

ゲストハウスへ戻って、夕方、気を取り直して屋上で、親しくなった仲間たちとふざけあう。このゲストハウスは、離れに小さなレストラン(食堂?)があるのだが、そこで働くキッチンボーイたちとゴビンダやパブラム、サムエルとアレックスのジャマイカン・コンビ。さらに、先日サムエルの部屋で一緒に昼食をご馳走になったミリアン嬢とピッキー嬢もやって来て、皆で楽しく時を過ごす。

キッチンボーイはクリシュナと、タラとアルジュンの若い兄弟。この兄弟が「空手を教えてほしい」とせがむ。別に空手をやっていたわけではないのだが、日本人は皆、空手ができると思われているのだろうか?俺はとりあえず先日同様、高校時代の体育祭の応援で覚えた空手の型を教えることにした。すると彼らは、熱心に真似しだす。俺は「もっと腰を低く・・・」などと、もっともらしいことを言いながら、指導する。俺は実際に空手を学んでいたわけではないので、「申し訳ない」と思うほど、彼らは真剣に取り組んでいた。

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キッチンボーイたちと。左からアルジュン、クリシュナ、俺、タラ。

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腰割りの低い姿勢から基本(?)を教えます。

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アルジュンは特に熱心!この2年後、彼と会うことができましたが、この時以来、空手に興味を持ち「空手道場」に通うようになったそうです。

そして、ネパールをはじめ日本、ジャマイカ、スウェーデン、モザンビークの5ヵ国の人々が集まって、みんなで笑いながらふざけあったり、写真を撮ったり・・・。俺とピッキー2人で写真を撮ると、彼女は「日本人と写真を撮るのは初めてよ」と言っていた。それは俺にとっても同じだ。モザンビークどころか、アフリカ出身の人と話をしたり、一緒に写真を撮ることは初めてだ。

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サムエル(上)とアレックス(下)のブロマイド!?2人とも、いかしたナイスガイ!です。

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ビクトリア嬢(ビッキー)と、おどけたポーズでツーショット!これらの写真をプリントしたら皆、「欲しい」と言うのでいくらかプレゼント。でも、枚数が多いので焼き増し料金は、協力していただきました。それでも皆、喜んで協力してくれました。

思いがけない国際交流、こんな俺でも、民間親善大使の一人になれただろうか?ゲストハウスのスタッフ、世界各地から来ているツーリスト、国の違いこそあれ、同じ人間。ここには明らかに、国境を越えた陽気で楽しい仲間たちがいた。

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5ヵ国の人々が集まって、ハイ、チーズ!ミリアン嬢はその美貌ゆえ、皆から大人気!

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年10月 1日 (木)

パブラム君宅へ

2月27日(木)

 夜中、犬の遠吠えがうるさく、よく眠れなかった。腹の調子も崩れかかっている。食と水の変化による最初の”儀礼”か。食事以外は全く出歩かず、ほぼ1日中、体を休めていた。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

2月28日(金)

 再度、イミグレーション・オフィスへ行く。やはり1日につき20ドルのバンクレシートが必要であるという。困ったもんだ。4日ぶりにシャワーを浴び、午後、パブラムに彼のアパートへと招待される。

彼は22才ながら、すでに結婚している。6畳ほどの広さの部屋にベッド、テーブル、ちょっとしたキッチン。生活のすべてが、この狭い部屋に整っている。非常に質素な暮らしだ。ドゥードゥ(ミルク)とダルバートをご馳走になる。ネパールの人々は、客人が来ると、いつ何どきでも食事を提供するようだ。レストランなどで食べるダルバートより、はるかにウマイ!家庭の味がする。

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パブラム宅で、ダルバートを頂く。

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パブラム夫妻。

夕方はゲストハウスでのんびり過ごした。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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