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2009年9月

2009年9月30日 (水)

カリブの怪人?いえ快人です。2人のジャマイカン。

2月25日(火)

 イミグレーション・オフィス(出入国管理事務所)へ、トレッキング・パーミットの申請に出かける。ところが、かつてはトレッキングパーミット申請・取得で自動的にビザも延長できたのに、現在はビザはビザとして延長、しかも1日につき20ドルのバンクレシート(両替証明書)、1ヵ月延長するなら600ドルものバンクレシートが必要だという。冗談じゃない!600ドルあれば、3ヵ月以上滞在できるって!しかしこれが、今の規則だと言う。

1人で悩んでいても仕方がない。西遊旅行社で日本語が堪能なスタッフに相談する。すると、「先日、20ドルのバンクレシートさえあれば延長できる、と政府が発表しました。新聞にも載っています。ただ、政府からの正式な文書が、イミグレーションにまだ届いていないのでしょう。この国は仕事が遅いですから・・・」という返事。それならば後日、再アタックすればいいか。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

2月26日(水)

 午前8時30分起床。11時間も休んだことになる。気温10℃位。朝食を終え、今、午前10時。朝の陽だまりの中、マナスル・ゲストハウスの204号室のバルコニー。ここで究極の怠け者ぶりを発揮している。放浪癖が身についてしまった俺は、我武者羅に仕事をしながらも、時として、どうにもならないほど旅に出たくなることがある。そして、ある日突然、職を辞し旅に出る。

怠惰で放浪癖のある俺は、ここネパールで今、究極の怠惰をむさぼり楽しんでいる。毎日、何もすることがないことの贅沢。日本という国の気ぜわしさが、はなはだ良く分かる。とはいえ、日々一生懸命働いている人々からすれば、烈火のごとく怒りたくなるようなことだろう。

10:30ごろ、隣町のパタンへと出かけることにする。ゲストハウスを出たところで、仲良くなったジャマイカンのサムエルと会う。

S「dsching、どこへ行くんだい?」
d「パタンまでのんびり歩いて行くつもりだ」
S「どれくらいかかるんだい?」
d「1時間ぐらいじゃないかな?一緒に行くかい?」

冗談で誘ったつもりが、彼はしばらく考えた後「OK!」と返事をし、一緒に行くことになった。片道5~6kmってところか。ぶらぶらと1時間半ほど。2月とはいえ日中は暑い。パタンで好物のパポリ(スナック菓子の一つ)を発見。1ルピーで8本。相変わらずウマイ!

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パタン中心部。お寺がたくさんあります。

ふと、前方から学校帰りの子供たちが、ふざけあいながら歩いてきた。しかし彼らは、我々の姿を見た途端、ふざけあうのをやめて、道の端の方を静かに歩きだした。まるで何かを恐れているかのよう。

d「ヘィ、サムエル。子供たちが君を怖がって逃げてるぜ。危ない男と思われているんじゃないのか?」
S「オー、ノー!俺は危ない男じゃないぜ!」

サムエルはそう言いながら、子供たちに愛想を振りまきながら、満面の笑みで近づき、

S「ハロー!ナマステ!俺は怖い男じゃないよ。いい人だよ。だから握手しようぜ!」

子供たちは、初めは驚いたのか逃げ腰だったが、すぐに面白がって彼と握手しだした。俺は、サムエルのあまりの茶目っ気ぷりに、腹を抱えて大笑い!

d「サムエル!ホントあなたは、ナイスガイだよ!」
S「だろ?俺はいい奴なんだよ!」

お互いにさらに親しくなったのだが、ここパタンはカトマンドゥとあまり大差のない街。そろそろ飽きてしまった。帰りにどこかで昼食を、と思ったのだが、サムエルが「ゲストハウスの俺の部屋で一緒に食べよう!」と言うので、乗り合いタクシーでラーニーポカリ(カトマンドゥ中心部)まで1人3ルピーで行き、ゲストハウスへと戻る。

サムエルの部屋へ行くと、アレックスがいて、皆で一緒にランチにする。俺は、ご馳走になるほうだが。3人でパンとミルクティーで食事を始める。しばらくすると、部屋の前を通る2人の女性。俺は初対面だが、彼らはすでに彼女たちとは顔なじみだったようで、彼女たちを部屋へ招き入れる。彼女たちはいずれも一人旅で、1人はスウェーデンのミリアン嬢。もう1人はアフリカ・モザンビークのビクトリア(通称;ピッキー)嬢。とうとう5人での賑やかな昼食となった。

すると、驚いたことに、「ジン、ツナがあるけどパンに塗って食べるかい?」とサムエルが言う。俺は、缶詰のパッケージのデザインを見て、それがシーチキンと分かるやいなや、「オーッ!欲しいぃぃっ!サンキュー!」と言って、パンにツナを乗せて美味しく頂いた。彼らは「日本人はやっぱり魚が好きなんだな!」と笑いながら言っていた。おかげで、腹いっぱい食べることができた。

アジア(日本)、アメリカ(というのは?中南米・ジャマイカ)、ヨーロッパ(スウェーデン)、そしてアフリカ(モザンビーク)。それぞれ全く違うところから来ているのに、不思議なくらい楽しかった!こういったインターナショナルな交流も、1人旅ならでは、である。

その後も5人でおしゃべりしたり、夕方、2人のジャマイカンと時間を持て余しているスタッフのゴビンダとパブラムと共に、屋上でふざけあったり写真を撮ったり・・・。サムエルとアレックスにボクシングのファイティングポーズをしてもらうと、逆に俺は空手のファイティングポーズをさせられた。空手を習っていたわけではないが、高校時代の体育祭の応援団の経験があるので、それを思い出して、何とか少しばかりの形だけでも披露した。

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アレックス(左)とサムエル(右)に、ボクシングのファイティングポーズをお願い!彼らがかぶっている帽子も、おしゃれで、とても似合っていました。

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アレックス、ゴビンダ、サムエルとともに。アレックスの上半身のすごさ、服の上からでも分かります。さすが、元アマチュアのチャンピオンボクサー!

S「ヘイ!dsching!ボクシングvs空手」
d「OK!カモン!」

さすがにこれには皆、”バカ受け”だ!

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サムエルと空手対決???

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一見、強面、しかし明るく陽気なジャマイカン、サムエル氏。

それにしても、スタッフの皆が俺にネパール語で話しかけたり教えてくれているせいか、ずいぶんネパール語のボキャブラリーが増え、覚えてきた。パブラムのお姉さんのアンジュ(マッサージ師であり、ヨガの先生でもある;ゲストハウスの一室を借り経営している)に、「あなたのネパール語は、とても上手だ」と褒められた。

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レセプションのパブラムと、彼の姉でマッサージャーのアンジュさん。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年9月29日 (火)

ゴビンダ君宅へ

2月24日(月)

 わずか1泊で、かつて慣れ親しんだストーン・ハウス・ロッジを脱出し、マナスル・ゲストハウスに戻る。居心地・良。泊まり勤務を終え、夕方まで自宅にいるというゴビンダ君に「あなたも一緒に来ますか?」と誘われ、彼の家へ遊びに行くことにする。彼の自宅は、ゲストハウスから歩いて10~15分ほど。

彼の自宅へ着くと、ご家族の人たちは「誰?」というような顔つきだ。俺は覚えたばかりのネパール語で自己紹介した。

「ナマステ!マ・ジャパン・バーター・アーエン。メロ・ナム・○○・ホー(こんにちは!私は日本から来ました。名前は○○です)」
*ネパール語の語順は、日本語と同じです。単語さえ覚えれば、語尾変化が多少間違っていても、割と通じます。

このネパール語での挨拶が功を奏したようで、一瞬硬くなった雰囲気が、すぐに和らいだ。覚えたてのネパール語(ゴビンダ君に教えてもらったり、ガイドブックなどで覚えた)とアンチョコを使って、片言でもネパール語を話そうと心掛け、その結果、皆の笑いを誘い、気がつくと、もうそこにいる家族の一人一人の中に溶け込んでいた。

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ゴビンダ君の兄(ラビンダ)と弟(サビンダ)。ネパールの代表的なお土産の一つ、ライスペーパーのカレンダーにポスターカラーで色を塗っています。

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ゴビンダ君の父(ラム)、妹(ルビナ)、従姉妹(マカナニ)。女の子は2人とも美少女!でした。

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ゴビンダ君の弟、サビンダ君。なかなかの美男子。ペットのヤギにミルクを与えています。

そしてダルバート(ネパールの一般的な食事)をご馳走になる。タルカリ(野菜)はカレー味で炒めてあるようで、ちょっぴり辛い。ゴビンダが「”ピロ(辛い)”と言ってください」と耳打ちするので、そう言うと皆、大爆笑!

せっかくカメラを持って行っていたので、何枚か写真を撮らせていただいた。ゴビンダのリクエストもあって、ご両親や祖父母だけの写真も撮ってあげた。この国ではカメラは、まだまだ贅沢品。滅多に写真を撮る機会がないようだ。俺にとっても、彼らご家族にとっても、お互いに良い思い出・記念になるだろう。それにしても、もはやこれほど歓迎される事が起ろうとは思ってもいなかった。

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ゴビンダ君の自宅からは、スワヤンブーナートを眺めることができます。

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ゴビンダ君一家と。前列左から、ゴビンダの兄、弟、私。中列左から、ゴビンダ、従兄弟(ナンチュリ)、従姉妹、妹、祖母(ナウニマヤ)。後列左から、伯母(スレッシュ)、祖父(ナラヤン)、父、母(ビシュヌ)。

マナスル・ゲストハウスでも、他の宿泊客と親しくなった。特にアレックス、サムエルの2人のジャマイカン。アレックスは、ジャマイカのボクシング・アマチュア・ゴールドメダリストに輝いたそうだ。確かに彼の胸板は、服の上から見てもスゴイ!彼らは一見「強面(こわもて)」だが、黒人特有のいたって陽気で明るい性格。さすが、レゲェ発祥の国ジャマイカ!愉快な仲間だ。

そしてゴビンダやパブラム(彼もレセプション係)は、ネパール語を少しでも多く覚えようと、勉強に熱心な俺に、「マルシャンディ・シャララ」という、とても有名なネパールの歌を教えてくれた。何ともアットホームなムードである。

Mar Shyang Di Sha La La (マルシャンディ・シャララ)

Pan ko Pat Maya Timilai sam Than Chhu

Din ko Rat Mar Shyang Di Sha La La ...

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年9月27日 (日)

なつかしの、ストーン・ハウス・ロッジ

2月23日(日)

 午前6時に起床し、2泊一緒だった佐土原君、逸見君を見送る。1人になり、このままここへ留まるか否か迷った。シングル1泊、本来なら8ドルのところを3ドルで、と言ってくれたが、この国で1泊3ドルはやっぱりイタイ!100ルピー(2ドル強)まで下げてくれたが、やはり一度出て、他を探してみることにする。

午前8時にチェックアウトし、とりあえず、以前ずっと過ごしたストーン・ハウス・ロッジへチェックイン。聞けばなんと、シングル1泊50ルピーに値上がっている(”地球の歩き方”を読んだら、22ルピーだったのに・・・)。う~ん?!

初めて訪れた1984年に、ずいぶんお世話になったサキャさんのお店を訪ねたが、違う人がいた。一応サキャさんのことを尋ねてみたが「知らない」そうだ。近所もあちこち尋ね回ったが結局、彼の消息はつかめなかった。残念!

ニューロードのスーパーマーケット(ここは、デパートのようなところ)でアーミーナイフを見つけ、210ルピーで購入。同じレベルのものを日本で買えば1万円ぐらいはするかな?帰り際、何かチラシでも配っているようで1枚もらうと、小さな新聞紙の切れ端に何か留めてある。「何だ?」と思ってみてみると・・・「ウッソー!何考えとんじゃい?信じられん・・・!」。周囲の人々も笑っている。そこには驚いたことに避妊具(コ○ドーム)が・・・。何度も首をひねって、マーケットを後にした。 *ちなみに、このスーパーマーケットには、ネパール唯一のエスカレーターがあります。

そして昨日歩かなかったタルカリバザール(野菜市場)やGPO(中央郵便局)近辺をうろつき、あちこちのロッジ、ゲストハウスでシングルの料金と設備を聞いて回る。

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タルカリバザールの様子。以前はずいぶんここへ通いました。

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ニューロードの東端付近にある歩道橋。この国では唯一?かも。それにしても、形がお国柄を表しています。

気がつくと、タメルに来ていた。一体何軒周ったか分からないが、再びマナスル・ゲストハウスの前へ来ていた。ストーン・ハウス・ロッジのあの設備で50ルピーなら、倍額払ってでもここの方が良いと考え、明日戻ることにする。

夜、マンダリン・レストランでたらふく食べ、ストーン・ハウス・ロッジの若い日本人客を誘って、路端のチャイ屋へ。こういうところでチャイを飲むと、カトマンドゥにいるんだって、強く感じる。

カトマンドゥ、ストーン・ハウス・ロッジにて

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2009年9月26日 (土)

ばあちゃんとシロ

 1959年(昭和34年)9月26日、東海地方をかつてない未曽有の恐怖が襲った。その名は 伊勢湾台風 。今日でちょうど50年である。死者・行方不明者は5000人を超え、負傷者は40000人近くにも上ったといいます 。地元紙 やテレビ などでも、発生から50年という節目の年とあって、特集記事や特別ドラマなど、決して風化させてはならない自然災害として、今の私たちに伝えています。

その時私は、まだ生まれていませんでしたが、幼いころ両親によく話を聞かされました 。しかし、私にとって「伊勢湾台風 」と聞いて真っ先に思い出すのは、今は亡きばあちゃん(父の母)から何度も何度も聞かされた、ある犬 の話。ばあちゃんは私が小学5年生のときに亡くなりましたが、あれから30年以上経った今でも、覚えている話です。

伊勢湾台風後、その被害によって、ばあちゃんの家は住むことができなくなり、知多半島の高台に住んでいた長男(私の叔父)宅 へと身を寄せました。その時、飼い犬だったシロ も一緒に連れて行ったそうです。しかし、そこに住んでいた叔母は、犬が苦手で、シロを飼うことを拒否 したそうです。

ばあちゃんは仕方なく、シロを手放すことにしたそうです 。時代が時代だっただけに、なかなか引き取り手が見つからず、ついにシロは捨てられることになりました

シロはそこからおよそ30Kmほど離れた名古屋市内の、とある下町へ捨てられたそうです 。そこへは伯父(ばあちゃんの末っ子)が車 で連れて行き、「良い人に拾われるんだぞ 」と言って、シロ をそこへ置き去りに、捨ててきたそうです。

ばあちゃんは、シロを捨てたことがとても残念で、悲しかったそうです。「あんな台風さえなければ・・・ 」と。

それから1年近く経ったある日のこと。ばあちゃんが庭で洗濯物を干していた時のことだそうす。どこからか「クゥンクゥン」という犬 の鳴き声が聞こえてきました。声のする方を見ると、一匹の白い犬がいました。その姿は、かつて飼っていたシロとは似ても似つかぬほど、やせ細っていたそうですが、ばあちゃんは、すぐに分かった そうです。

「シロ ・・・   お前・・・シロか 」と。

そう言いながら、ばあちゃんが近づいた途端、そのやせ細った白い犬 は、しっぽを大きく振りながら「キャンキャン」と鳴き叫んだそうです

その犬 はまさしく1年前、叔母の命令でそこから30Km離れたところに捨てられた「シロ」だったのです 。シロは1年ほどかかって、名古屋の中心部に近い下町から、30Kmも離れた知多半島のばあちゃんのところへ戻って来たのです 。シロが叔父宅で過ごした日は、ほんの数日しかなかったそうです。それなのに見事 に、ばあちゃんのもとへと戻って来たのです ス・スッゲェ ! ウレシィー 。

ばあちゃんは、シロの話をするとき、いつもこう言っていました。

「どんだけ辛かっただろう 。それを思ったら、涙が止まらんかった 」と。(私も )

が苦手な叔母も、さすがにシロを飼うことを許すしかなかったそうです。そしてシロは、ばあちゃんと伴にそこで暮らしたそうです ヨカッタァ ! 。

ばあちゃんが亡くなって30数年、今でも忘れられません 。ばあちゃんは、この話をする度に、最後はいつも涙ぐんでいました (今、これを書いている私も、思い出して目頭が熱くなっています・・・)。私の両親も、シロのことは当然知っていましたので、犬のことになると、いつもシロのことを思い出していました。

私が動物好きになったのも、これがきっかけかもしれません。末っ子で育っただけに、家で飼うペットたちは皆、私の弟であり妹でもありましたので

私もシロを、一目だけでも見てみたかったです 。そして、もしシロが人間の言葉を話せるとしたら、聞いてみたいです。「お前、この1年、どこをどう歩いて、何を食べて生きてきたんだい?そしてどうやって、ばあちゃんの居場所を捜し当てたのかい?」と

当時、未曽有の台風と言われた「伊勢湾台風」。多数の犠牲者を出し、甚大な被害をもたらしました。そんな中で、かろうじて生き延びたにもかかわらず、その後過酷な運命にさらされ、人生いや犬生を翻弄されたシロ。彼もまた、伊勢湾台風の被害者(犬)でしょう

まだ生まれていなかった私にとって「伊勢湾台風」とは、亡きばあちゃんが涙ながらに話してくれたシロ の話、これに尽きます

*今日の記事は、保存してある、昨年別サイトに投稿した記事をもとに、加筆・修正し書き綴りました。

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2009年9月23日 (水)

7年ぶりのカトマンドゥの街

2月22日(土)

 ネパール初日の朝、天気は良い。今日は土曜日、と言うと、この国では休日(ネパールは土曜日が休日で、日曜日が週の始まり)。朝、マナスル・ゲストハウスのレセプション(受付)で夜勤番のゴビンダ君(彼は日本語を勉強中で、昨夜も宿泊料金について、我々に便宜を図ってくれた)の紹介の店で、これから必要となるセーター、帽子、ウールの手袋を購入。計500ルピー(1500円)とメチャメチャ安い。セーターはカシミアのもので、日本で買えば一体いくらすることやら・・・?

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マナスル・ゲストハウスから見た周りの様子

その後、昨日一緒にここへ来た2人を連れてカトマンドゥの街を散歩する。アサン広場では、賑やかなバザールと、ちょうど結婚式に向かう花婿を見ることができた。

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アサン広場のバザール。とても賑やかです。

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結婚式へ向かう車でしょうか。下の写真中央に花婿の姿が。

ラトナパークのバザールはやはり賑やかだ。屋台の食べ物に早くも手が出てしまう。サモサにドーナツ、シシケバブー・・・。

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ラトナパークの様子。ここにもたくさんの人とお店があふれています。

ニューロードからジョッチェン(通称;フリークストリート)。懐かしいなぁ!この辺りは、かつて根城にしていたエリア。ジャスミンもコスモポリタン(ともにレストラン)も健在だ。けど、美味しいケーキ屋・スタイリストパイが見当たらない。道行く人々に尋ねてみると、どうやらなくなってしまったらしい。細い路地に入ると、そこは住宅街。ネパール風のアパートが建ち並んでいる。広場では子供たちが大きな声を出して、楽しそうに遊んでいる。

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子供たちにカメラを向けると、ご覧のとおり。皆、お行儀いいです。

ダルバール広場では仏塔に上り、街を見下ろす。休日のせいか、バザールの店の数は少ない。ここでボーッとしていると、必ず何人かのネパール人たちに声かけられる。でも、聞いてくることは皆、ほとんど同じ。どこから来たのか、いつ来たのか、年齢・職業、これからどこを旅するのか・・・。トレッキングの予定を話せば、コースのことを教えてくれるし、ついでに「ガイドに雇ってくれ」と頼まれる。こんな調子で、お互いに暇をつぶす。

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ダルバール(旧王宮)広場の仏塔の上から。真ん中の3階建ての建物は、生き神様「クマリ」が住んでいる「クマリの館」です。

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仏塔の上から見た旧市街地。この辺り一帯は、世界遺産に登録されています。

そして、スワヤンブーナートへと向かう。地元の人々は、「モンキーテンプル」と呼んでいる、巨大な仏塔がある、「仏教の総本山」とも言うべきお寺だ。小高い丘の上に建ち、仏塔の四方には、この国いや全世界を見守るように、ブッダの目が鋭く描かれている。このスワヤンブーナートへ登れば、カトマンドゥの街は一望のもとに見渡すことができる。まだまだ中世の雰囲気だ。かつて感じた「レンガ色」のままだ。「本当に俺は、再びネパールまでやって来たんだ!」。やっと実感が湧いてきた。

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沐浴場で、幼い子供をお姉ちゃんたちが体を洗ってあげていました。

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バグマティ川の向こう岸に、たくさんの野良牛が寝そべっています。

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スワヤンブーナート寺院から見たカトマンドゥの街。

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スワヤンブーナート寺院。大きな目が印象的です。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年9月22日 (火)

カトマンドゥ到着

バンコクより約3時間、午後6時ごろ、カトマンドゥ・トリヴバン空港。無事、着いた。7年ぶりのネパール。前回はインドから陸路で、今回は空路でやって来た。空港で1ドル=42.60ルピー(1ルピー≒3円)で50ドル両替。そしてビザを取得(ネパールは、入国時に1週間のビザが取得可能;料金20ドル)し、外へ出る。あっ!という間にタクシーの運ちゃんたちに取り囲まれる。俺はあらかじめ、インフォメーションでカトマンドゥの市街図を頂き、街までのタクシー料金の相場を確かめておいた。

俺はいったん、彼らから遠ざかり、同じように1人でぶらぶらしている、というより、どうしていいのか迷っている日本人を2人捕まえて、「3人で相乗りして行かない?」と声掛けると、彼らも同意し、伴にタクシーに乗り込む。運転手に「タメル・サンマ・ジャノス(タメルへ行って下さい)」と指示し、陽の暮れかかったカトマンドゥ・タメル地区へと向かった。

同乗したのは、2人とも就職を控えた学生で、佐土原(さどわら)君と逸見(へんみ)君。海外は2人とも初めてだそうだ。タクシーの運ちゃんに任せて連れて行かれたのは、マナスル・ゲストハウス。なかなか小ぎれいなところだ。片言の日本語ができるスタッフがいて、料金を交渉しツィンを3人で借りることにし、1泊1人100ルピー。「300円ぐらいか・・・。この国じゃ、少し高いナ!」と思ったが、一緒だった2人が、2人とも2泊した後ポカラへ行くというので、この料金で2泊付き合うことにした。

夕食は、外でさっそくダルバート(ネパールの代表的かつ一般的な定食)。「ウ~ン、これこれ、これぞネパールの味」と、感慨にふける。そしてゲストハウスに戻り、この日は早めに眠った。

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マナスル・ゲストハウス。玄関は左へ入った方にあります。MANASLU と書かれた看板の下のお店は、小さいながらも種類豊富な雑貨屋。ちょっとした日用品をはじめ、酒類やジュース、たばこ、お菓子なども売っていました。近くて便利、とても重宝しました。

カトマンドゥ、マナスル・ゲストハウスにて

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2009年9月20日 (日)

カトマンドゥへ

2月21日(金)

フォアランポン11:15(161列車)11:55ドンムアン・バンコク国際空港15:30(ロイヤルネパール航空RA402)17:45カトマンドゥ(タイとの時差-1時間15分、日本との時差-3時間15分)

長~~い2日が終わり、今日2月21日。いよいよネパールへ向かう日だ。午前8時起床、ホテル内のレストランで朝食。5年前とほとんど変わってない朝食セット。「変わったのは空港と、若干上がった物価だけか・・・」などとつぶやいても、昨日は昼間、つい眠ってしまったからなぁ。ネパールはどうかな?7年ぶり、その間、大規模な民主運動もあったし。

午前9時30分ごろ、チェックアウトし、駅まで再びぶらぶらと歩く。汗がダラダラと流れ落ちる。思わずコーラに手が出る。「エッ!12バーツ?昨日10バーツだったよなぁ!」しかし、途中でコーラを飲むくらいならバスのほうがはるかに安いし、楽なのに・・・、なぜか後悔。でも、あれが食べたかったんだ、そう、ポーク(?)の串焼き。そこかしこの道端で売ってるから!値段を聞くと「サン(3)バーツ」、1本3バーツで「ハー(5)」と言って5本買う。ホント、ウマイ!*…3はタイ語でも「サン」とか「サム」のように発音されます。

フォアランポン駅に着き、11:15発の列車の切符を買う。今度は各駅列車のようで料金は5バーツだ。ミルクとパンも買いこんで列車に乗る。向かいのシートは、学生さんらしい。数学のテキストを一生懸命解いている。列車の中だというのに。この国にもあるのかな?受験戦争って?

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来る時の半額の料金で、空港駅へと向かいます。

さて、空港へ着くと、俺の予定のロイヤルネパール航空RA408便はディレイして、RA402便に振り替え。15:30発で当初の予定より約1時間早くなった。タイの出国税は200バーツで以前より80バーツも上がっている。俺はてっきり120バーツだと信じていたから、「エッ!200バーツなの?」と言うと、俺の前に並んでいた日本人の男性が「そうですよ」と答える。わずかながら足りない。かといって10ドルも両替する必要もないし・・・。すると、その男性が「もしよかったら、使ってください」と足りない分を出そうとする。しかし、そんなわけにはいかない。だが彼は、「持ってても、もう使わないし、今回、用事があってバンコクに来ただけで、もうここへは戻らないので、使ってください」と言って、不足分のお金を与えてくれた。俺は丁重にお礼を言った。聞けば彼は、日本テレビ「24時間テレビ」のネパールの現地スタッフで、このあとはずっと、ネパールに滞在するとのこと。俺は彼に「このお返しは、今年の24時間テレビで必ず募金します」と約束した。

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ロイヤルネパール航空の搭乗券。ほとんど手書きで書かれています。

さぁ、いよいよ搭乗だ、が、やたら日本人が目につくなぁ。待合室でもそこら中から日本語が聞こえてきたし。「乗客の半分は日本人じゃないか?」って思うほど多い。実際乗ってみると、やっぱり多い。大半は春休み中の学生かな?

ロイヤルネパール航空は、ドリンクサービスの後に食事。しっかりビールを飲み、ワインも飲んで、食後はコーヒーで一服。隣の2人のアメリカ人の女性たちと話をしているうちに、白い帽子をかぶった山々が見えてきた。「ヒマラヤだ!」反対側のシートの人々も立ち上がって、外をのぞき見している。しばらくして、アナウンスに促され、皆シートに着き、飛行機は着陸態勢に入る。ついにカトマンドゥだ。

P.S・・・右サイドバーに、新たにブログパーツを設置しました。登山家・栗城史多氏が現在エヴェレスト登頂を目指すべく、奮闘しているそうです。その様子が映し出されています。お暇な時にでも、どうぞご覧ください。

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2009年9月19日 (土)

バンコクで・・・寝てました!

2月20日(木)

ドンムアン6:10(912列車)6:50フォアランポン(バンコク中央駅)

 午前5時30分。まだ夜明け前だが、空港を出て隣接するドンムアン駅へ向かう。バンコクの朝は早い。バスも乗合トラックも、それらを待つ行列もすごい人だ。お店もすでに開いている。すごいエネルギーだ。

ドンムアン駅6:10発フォアランポン行きの列車に乗る。この駅始発で快速列車のようである。本来なら5バーツ(1バーツ≒5円)でいけるが、この列車は10パーツである。もっとも、空港ノンストップ特急(とでも言えばいいのか)は、80バーツもかかるらしいが・・・。

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列車の切符です。ペラペラの紙ではなく、硬券と呼ばれる切符でした。

午前7時ごろ、フォアランポン駅。広い構内は、やはりすごい人の山。人が座っていないベンチなぞ全く見当たらない。この喧騒、人々から発散されるエネルギーが、なぜかうっとおしく感じない。「空港は変わってたけど、ここは変わってないナァ!」思わず嬉しくなってしまい、用もないのに構内を懐かしく歩き回った。

外へ出れば、歩道では屋台が並んでいる。ラマ4世通はバス、タクシー、トクトク(オートリクシャ;三輪タクシー)などが走り回っている。バスは乗車口の外にまで人があふれている。手すりや窓枠を持ってバスから落ちないように踏ん張っている人々。アァ!サラリーマン、通勤地獄!ついつい笑ってしまう。

わずか1泊するだけなので、かつて泊まったプライバシー・ホテルへと歩いて行く。ラマ4世通を東へ約1時間。早朝とはいえ、荷物背負ってでは、さすがに汗をかく。ルンピニ競技場のあたりで右へ入り、懐かしい通りへ行く。「オッ!ブルーフォックス(パブ)は、まだ健在だったか!」そして、プライバシー・ホテルへ。

まだ、午前8時30分と早いので、チェックインできないが、部屋はとれるらしい。ルームチャージは350バーツ。「エッ!そんなに高くなったの?」と、思わず言ってしまった。が、この2晩、ほとんど眠っていないし、この暑いバンコク、やはりエアコンの効いた部屋、バス・トイレ付でゆっくり体を休めたい。

午前9時40分チェックインし、部屋代が予想よりも高かったこともあり、もう10ドル両替しておく。部屋でシャワーを浴び、汗ばんだTシャツを洗い、ベッドに横たわる。

いつの間に眠ったのか、気がつくと・・・午後6時。「ありゃ~、何もせんと1日終わりだぁ!」まあ仕方なし、夕食へ出かける。フライドライスにポテトサラダ、オレンジジュースで35バーツ。「けっこうイケル味だし、この値段なら安いよナ!」ホテルへ戻り再びシャワーを浴び、「ブルーフォックスへでも行くか~!」と思ったが、いま一つ体がだるい。「やっぱりおとなしく休も!」

バンコク、プライバシー・ホテルにて

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2009年9月17日 (木)

出発、そして出国

2月18日(火)

名古屋23:00(高速バス:ドリームなごや2号)

 午後9時25分、すべての準備を完了し、家を出た。しばらく帰らないし、「禁欲の世界」を思うと複雑な面持ちである。しかし、すでに矢は放たれた。行かねばなるまい。午後9時40分、名鉄バスセンター(名古屋駅)行きに乗り、名古屋駅で、夜行高速バスに乗り換える。

午後11時、「ドリームなごや2号」は、満員の乗客を乗せ、暁の東京へと走り出した。乗り心地は俺にとっては、評判ほど良くはなく、何度か目が覚め車窓に目をやり、仕事で走り慣れた夜の東名高速を追っていた。

夜行高速バス・車中泊

2月19日(水)

5:40東京(山手線)上野7:03(京成特急)8:15ごろ成田空港16:00(エジプト航空MS865)23:05バンコク(日本との時差-2h)

 午前5時40分、東京駅着。そのまま上野へと向かい、京成の駅構内で朝食とする。洗面も済ませ、午前7時3分発の特急で成田空港へ。空港へは午前8時15分ごろ到着。飛行機の時間を考えれば、この時間に自宅を出発してもいいぐらいなのだが、長い旅になるので、少しでも節約したく、夜行バスを利用した。いささか早すぎるのだが、ここで時間をつぶそう。

思えば海外へ出るのは5年ぶりである。その間にもチャンスはあったのだが、なぜか行こうとしなかった。チェックインまで時間がありすぎて、いろんなことを考えてしまう。裏切ってきた友人たちのことだ。自ら結成したサークルを見捨て、そして、いたたまれないやるせなさ。「ウラギリモノ!ムセキニンオトコ!」そんな罵声が頭の中でこだまする。そんな声から逃げたくて、誰にも旅の予定を告げず、俺はしばらく日本を離れる。「裏切り者の旅だな!」とふと声を漏らし、深いため息をついた。

やや早めに昼食をとり、午後2時よりチェックイン。禁煙席20-A。窓側である。出国手続きを終え、午後3時15分、搭乗開始。午後4時、エジプト航空MS865便、定刻通りに滑走路を疾走し、最初の降機地、マニラ(フィリピン)へと向かった。

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エジプト航空機でタイ・バンコクへと向かいます。

「とうとう行くんだなぁ、いつ帰ってくるのだろうか・・・?」。これから始まる旅への期待や不安よりも何故か淋しさが俺を包む。なんだかよく分からないが、楽しみよりも寂しさを感じる。友達の誰ひとりにさえ話さなかったことへの後悔なのかもしれない。

しばらくして最初の機内食。魚料理か肉料理のどちらかを選べるメニューである。肉のほうを頂き、とりあえず満腹になった後はウトウト眠ってしまった。スチュワーデスに肩を叩かれ、気がつくと、どうやら間もなくマニラらしい。午後7時30分(日本時間午後8時30分)、マニラ到着。

およそ1時間後離陸し、完全満席状態で次のバンコクへと向かう。俺のフライトの最初の降機地であり、毎回降り立ってきた都市である。東京-バンコク間(1年オープンチケット)は俺が知る限りでは、このエジプト航空が一番安く79000円(往復)。次いでパキスタン航空の84000円ってところか。2度目の機内食が運ばれてきた。が、さすがに今度はほとんどパス。食っちゃ寝では、食欲もない。再びウトウトし、午後11時5分(日本時間翌日午前1時5分)バンコク着。

ムッ!とする暑さが体中をとり巻く。入国手続きを済ませ、空港ロビーへ出る。1ドル≒25バーツで20ドル両替。わずか1日の滞在なのでこれだけで足りると思うが・・・?それにしても、5年ぶりのバンコク・ドンムアン空港、なんときれいで立派になったこと!昔は到着ロビーに出るやいなや、数人のタクシーの運転手が客引きに俺の体をとりまいたものだが・・・その姿さえもない。セルフサービスのレストランまである。ウ~ン、思わず苦笑い。ずいぶんとイメージチェンジしたものだ。まぁ、こんな深夜に高いタクシー代払って、どこのホテルへ連れて行かれるか分からないまま外へ出るより、ビールでも飲んで早朝の列車で街へ出よう。そして出発ロビーの空いているベンチで、ザックを枕に仮眠をとる。

バンコク国際空港内にて泊

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2009年9月15日 (火)

1992冬 再びネパールへ

 序の思い

1992年1月、俺はある一つの決心をした。それは8年越しの夢、ネパール・ヒマラヤでエヴェレストを見るために、カラ・パタール(5545m)へ登頂することだ。常々30才までには実現したいと考えていた。おそらく長い旅になるだろうこの旅は、フリーで行く長期の旅のラストチャンスかもしれない。幸か不幸か、バブル経済の破綻の影響をもろに受け、俺の仕事は極端に減少していた。しがない弱小個人事業主は、この大きなうねりにあっという間に溺れ沈んだ。そして廃業を決意した、と同時にネパール行きを決心した。1月15日のことである。

パスポートの再申請、航空券の手配、最低限必要なものだけを日本から用意し、後は現地でそろえることにして、2月18日夜、俺は家を飛び出した。

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準備した荷物のすべて。これだけをザックに詰め、出発しました。

*カテゴリーにある「1992 エヴェレスト街道を行く」は、今回の旅の中でのことです。すでに、お読みくださった方は、話が前後してしまいますが、トレッキングに出る前、終えた後のことを書き綴りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2009年9月14日 (月)

パソコンが・・・

おかしいのです。インターネットにつなげたら、いつもは日本語で表示されるはずの「ページ」「ツール」などがすべて英語表示に変わってしまっています 。クリックしても、やはりすべて英語で表示されてしまっています。いつもは、ブログ記事を書くとき「オフライン」にしているのですが、それとて「Work Offline」と出てきましたし

「ページが表示されました」とか「保護モード」もすべて英語。

ツールバーのプロパティを見ても、今まで通り何ら変えてありませんでしたし。なぜ急にこんなことに・・・?

タブを閉じたときも「タブを閉じますか」と日本語ではなく、すべて英語で表示されてましたし。なんか、使いづらくて仕方がありません。

思い当たる節と言っても、昨夜終了するときに更新プログラムがあったようで、それらをインストールしてから終了したのですが。これに何か問題があったのだろうか

パソコンに「英語で表示してやるから、使いこなせるものなら、やってみろ」と挑戦されてるみたいです・・・。

元通りに戻したいのですが、いろいろ調べてみても、どうしたら良いのか分かりません

どなたか、お助けを~

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2009年9月13日 (日)

お気に入りのブログパーツ、ありますか~?

いつもいつもご訪問していただきまして、ありがとうございます 。とはいえ、あまり多くはないのですけど・・・

今日は、私のこのブログのサイドバーに張り付けてあるパーツについて、ご案内というか、皆様がお気に入りのもの・ご意見などあれば、ぜひ頂戴したいと思います

まず、左サイドバーには、世界時計、小動物図鑑、ブログ妖精ココロ。

世界時計は、世界各地の現在時間がわかりますので、私としてはこのブログに載せる時計 としてはピッタリ !と思っています。

小動物図鑑は、私自身、動物が好きなものですから、つい載せてみました 。もっとも、苦手な動物・生き物もありますが・・・ (笑)!

ブログ妖精ココロは、よろしければ、画像を一度クリックしてみてください。愛らしい表情で何かしらのセリフが出てくると思います。私がたまにクリックすると、「慕辺未行さん・・・」などと語りかけてきます 。外部の人だと、どうなるのかな~ ?興味津々です。

続いて、右サイドバーのパーツです。温泉案内、オージーマスターズ、絶滅危惧種、世界遺産があります。

温泉 案内は、国内を旅する時に参考にしていただけると嬉しいです 。今週末から5連休という方々もいらっしゃるでしょうし。行ったことがある温泉地、知らなかった名湯・秘湯もあるのではないでしょうか?私自身は、「ワッ!懐かしい!」というところも「ウッ!行ってみたい!」というところ両方とも、たくさんありました。

オージーマスターズは、オーストラリアに関するクイズです 。私はオーストラリアへは行ったことはありません。いつか行きたいと思います。しかし、オーストラリアに興味があるなしにかかわらず、豆知識としても役立つ情報が満載です。ぜひチャレンジしてみてください

絶滅危惧種。「エッ?!この動物が?」と思うような動物たちが、絶滅の危機に瀕しています 。地球という同じ星で生命を営んでいるのですから、同じ仲間です。すでに絶滅してしまった動物も数多(あまた)にいることでしょう 。二酸化炭素排出量とそれに伴うオゾン層の破壊、地球温暖化。これらの問題だけでなく、人類の手による自然破壊や外来種の輸入などが原因で絶滅してしまった動物、その危機にさらされている動物がどれほどいることか 私は、私自身も含め、一人でも多くの人に知っていただきたく、このブログパーツを載せました。

そして最後に、世界遺産。世界各地に後世まで残すべき「地球の宝」ものとして、大切に保護されています 。日本にも十数か所あります。自然遺産もあれば文化遺産もあります。と同時に「危機遺産」もあるのです 。たとえば、私が訪れたネパール・カトマンドゥの旧市街地やエヴェレスト街道奥地は、まさに危機遺産です 旧市街地に先祖代々続いて暮らしている人々は、建物が老朽化しているのにも関わらず、世界遺産に登録されたことによって、新たに建て直しすることもできず(景観を損なうから)、中には何百年もの間住み続けた愛着ある先祖代々の家を放置し、引っ越しせざるを得なかった人々もいると聞きます 。エヴェレスト街道奥地は、地球温暖化に伴い、ここ数年間で氷河が急速に溶けだし、その姿は大きく変わってしまいました 。憧れの旅先、または知識としてこのパーツを載せたのですが、このような「負」の面もあること、これもぜひ知っておいていただきたいと思い、こんな記事を書いてみました。

さてと・・・、次回からの「古い旅日記」は・・・、かつて「エヴェレスト街道を行く」を書きましたが、その時のトレッキングへ行く前、後のことを書き綴ろうかと思います。同じところの話が多いのですが、どうかお見捨てなくご愛読くださるよう、お願いいたします

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2009年9月12日 (土)

お別れ

2月21日(土)晴れ

Bergisch Gladbach 9:30ごろ(エルマーのアウディ)11:00Frankfurt Flughafen (フランクフルト空港)13:40(LH3102)

 最後の朝 、6:45に起床しシャワーを浴び、身支度を整える 。8泊過ごしたこの部屋、前回と合わせると11泊にもなる。次はいつ・・・?全く予測できない

8:00ごろ、朝食 。皆揃って最後の食事の前に写真を1枚 。お父さんは泣きまね をする。最後まで冗談好きで楽しい人だ

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5人そろっての朝食も、これで最後です。本当にお世話になりました

朝食を終えると、アンジュラがランチ にとオープンサンドを作ってくれた。大好物のリーバーヴルストをたっぷり塗って 前回訪れたときも、私がスイスへ旅立つときに作ってくれた。この気配りが何とも嬉しい限りだ

9:15、すべての身支度を終え出発準備完了。すると、お母さんからもプレゼントを頂いた 。シュナップス用の小さなグラスと、おやつのクッキーだ 。そしていよいよ出発の時。お世話になったご両親にお別れのあいさつ

「Es war sehr schön bei Ihnen. Vielen Dank für alles. (とても楽しかったです。本当にありがとうございました。) 

「Gute Reise ! Viel Spaß ! (良い旅を!たくさん楽しんでいらっしゃい!)

「Alles Gute ! Auf wiedersehen ! (お元気で!さようなら!)

9:30すぎ、ご両親に見送られ、エルマー・アンジュラと共にフランクフルト国際空港 へ向かう。アウトバーン3号線に入るまで10数km、そしてアウトバーンでフランクフルトまで178km、約200km弱あるのだが、道路が空いていたこともあり1時間半ほどで到着 。まだ11:00だ 。早く着きすぎたようだ。

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フランクフルト国際空港。フィンランドからの帰国時に撮ったものです。

出発ロビーのチェックインカウンターは、どこもかしこも長蛇の列。出発案内ボードに、私が乗るヘルシンキ便が表示される。ふと気がつけば、この日は日本 へも東京、名古屋、大阪へと出発便 がある。彼らにそう話すと、エルマーは「よし、俺たちは今から日本へ行ってみるよ 」と冗談を言っている。そして彼らはチェックインカウンターではなく、クイックチェックインの機械へと私を案内し、カウンターの前の長い列に並ぶことなく、チェックインすることができた 。そして出国口へ。エルマー・アンジュラとはここでお別れだ

本当に何もかもお世話になりました 。次はいつ会えるのか、見当もつかないけれど、少なくともこれだけは言える。いつでも迎えてくれる友達が、家族がドイツにいるということを アッという間の8日間。ドイツ語、英語チャンポンの会話をしながらの食事 。Wuppertal や Solingen へのドライブ 。国境4カ国へのドライブ 。街へ一人ぶらり歩き 。アンジュラのご両親、レックス を連れての散歩。そしてカーニバル 。一生涯、記憶に残る素敵な思い出だ

お金 も、ドイツのミュージックCD を買うのに使ったことがほとんどで、あまり使っていない。宿泊代はもちろん、移動や食費には全くと言っていいほど使っていない。本当にすべてにおいて、お世話になった 。Vielen Dank

(カテゴリー;プチホームスティ in Deutschland  完 )

*この旅の続きは、昨年すでに書きました「オーロラ紀行」へと繋がっています。

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2009年9月11日 (金)

最後の夜

いったんアンジュラの実家 へ行き、レックス の散歩。今回レックスとは何度もこうして散歩し、すっかり私にも懐いてくれた 。そしてアンジュラのご両親にも、お礼 を言い別れ を告げる。お二人とも80歳以上のご高齢だが、来るたびにいつもコーヒー 、時にはビール をご馳走していただいた。本当に嬉しかった

そして帰宅し夕食 。スペイン風のパンにオリーブオイルをつけて食べる。オリーブオイルといっても、種類が色々あるのかな?エルマーはこうして食べるのが大好きだそうだ ヘェーッ 。そして赤ワイン 。BGMに先ほど買ってきた die PRINZEN のCD をかける。「chronisch pleite 」、直訳すると、「慢性的に破産=いつもお金がない」という意味だ 。歌詞の内容は、決してネガティブではなく、むしろ楽観的だ 。歌詞カードを見ながら歌ってみると、アンジュラとエルマーにバカ受け

♪ Ich bin chronisch pleite♪ と歌うと、エルマーが、♪pleite♪ と実際の歌同様に間の手を入れる 。アンジュラはもう大笑い 私が「これは僕のテーマソング だよ」と言うと、「私たちのテーマソングよ」とアンジュラも笑いながら話す 。そしてCD のタイトル「MONARCHIE IN GERMANY」の MONARCHIE の意味が分からずにいると、エルマーが「Kaiser (カイザー)」と教えてくれた。が、私は「Kaiser ?・・・ 」。すると「dsching ,Beckenbauer!(ベッケンバウアー) 」・・・、なるほど 、「皇帝」という意味か ベッケンバウアーと言えば、ドイツサッカー界 で、かつて「皇帝」と呼ばれたほどの名選手。知らないわけがない

私は、できるだけドイツ語を覚えたいと思い 、食事の時にも常に辞書を持って来ていた。彼らは気を使って英語でも話してくれるのだが、ドイツ語で話した後、ときどき私が辞書を使って調べよう とすると、このように分かりやすいヒントで教えてくれたりする

せっかくサッカーの話題が出たので、私が「今、日本でいちばん有名なドイツ人は誰だかわかるかい? 」と尋ねると、彼らは「誰だろう? 」と考えたものの、答えは出ない。「オリバー・カーンだよ」と言うと、彼らは「あ~ と言いながら納得 フムフム の笑顔 。そう、2002年サッカー ・ワールドカップ日韓大会で、キャプテンとしてドイツチームを準優勝に導き、自らもMVPを獲得したゴールキーパーのオリバー・カーンである 。この大会以降、色々なTVコマーシャルで彼の姿をよく見たものだ。するとエルマーが「もしかしたらカーンは、日本でプレーする可能性もあるんじゃないか?」と話し始めた エッ 。理由は「スキャンダルもあったし、年齢的にもバイエルン・ミュンヘン(ドイツのプロサッカーチーム)では出場の機会が少なくなる」からだそうだ。「ヨーロッパの他のチームに移籍したとしても、スキャンダルの噂は聞こえてくるだろう。しかし日本ならば、言われないだろうからね」とも付け加えた ナットク 。もし実現すれば、日本のJリーグが大いに盛り上がること間違いないだろう。私としても、楽しみである

この夜 が最後とあって、話は尽きない。12:00近くまでずっと話をしていた。そして、彼らは私にお土産、プレゼント まで用意していてくれた 。先日、エルマーと一緒に本屋で見た Bergischland の写真集、そして Karneval の音楽CD。どちらも欲しいな、買おうかどうしようかと迷っていたものだった(が、買わなかった)だけに、とても嬉しい カーニバルの時に借りて行った海賊キャップのようなバンダナも欲しかったけど、それじゃエルマーが困るだろうし。それにしても、本当にたくさんの想い出ができた

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エルマー・アンジュラの自宅です。屋根裏部屋を含めると3階建て・・・?

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実は、裏から見ると、半地下構造です。つまり4階建て!

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借りていたゲストルームは、一番下にあります。素敵な部屋でした。

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ベッドはもちろん、テーブルにキッチンまでありました。冷蔵庫もありましたよ!

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シャワーです。お風呂ではないところが日本との違い・・・!

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シャワーの隣には、このトイレ。便座カバーがとってもおしゃれ!

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2009年9月10日 (木)

Leverkusen へ

 13:00過ぎ、エルマーたちも仕事より帰宅して、ご両親宅で昼食 。先ほどビールを飲んだばかりで、あまり食べられない 。この日の昼食は、豆と肉が入ったシチューとパン、ビール

15:00ごろよりエルマーとドライブ に出かける。Wipperfürth (ヴィッパーフュルト)から Kürten (キュルテン)、そして Leverkusen (リーバークーゼン)へ。この辺りを Bergischland (バーギッシュラント)という。なだらかな牧草地が続く。街・牧草地・街・・・のくりかえし。

Leverkusen は工業都市。ここには日本庭園もあるそうで、訪れてみる。が、到着したのは17:20。すでに閉まっていて、外から見るだけとなった 。神社とお寺が合体・融合したような感じだ。エルマーに「狛犬」「鯉」「しだれ柳」など、日本語で教える。そして、夏の生暖かい夜、柳の木の下に幽霊が出ると言われる怪談話をジェスチャーしながら教えた。

*2006年サッカー・ワールドカップ・ドイツ大会で、大会前、日本代表チームがドイツ代表チームと親善試合を行ったのが、この Leverkusen の街です。

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日本庭園の案内板。夏ならばもっと遅くまで開いているようです。

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庭園入り口。目の前には鳥居、橋の下には鯉が泳いでいました。

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入口には鳥居があったのですが、中は金閣寺や銀閣寺を思わせる建物が!

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全体は、こんな感じになっています。

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庭園の周囲には水仙が咲いていました。

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さらに、梅の花も・・・!

日本庭園から商店街へ行き、ウインドーショッピングを楽しむ。SATURN があったので店の中へ入って見る。エルマーはパソコンコーナーで色々なパソコンを見ている。値段を見ると、日本よりやや高いように感じた 。そしてCDショップへ。先日見つけられなかった die PRINZEN (ディー・プリンツェン)のCD を探すと、「chronisch pleite  (クローニッシュ・プライテ)」が入っているCD「MONARCHIE IN GERMANY」(17.99ユーロ)をついに見つけた 。エルマーにこのCDを見せ、「この曲が好きなんだよ 」と話すと、「どうしてこのCDを探していたか、よく分ったよ。これは俺も好きな曲だよ 」とエルマーも嬉しそうに話していた。さらに、Yvonne のスター伝説というCDを11.99ユーロで。合計30ユーロ。

18:30ごろ、Leverkusen を出て帰宅する。19:00だ。

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2009年9月 9日 (水)

欽ちゃん球団VS中日ドラゴンズ二軍

今日、ナゴヤドームで中日ドラゴンズの二軍と、欽ちゃんこと萩本欽一監督(通称:キントク)率いる茨城ゴールデンゴールズとの交流試合 が行われました。

観戦へは行けなかったものの、幸いTV で生中継されていまして、試合途中から見ることができました。ナゴヤドームには、二軍の試合とはいえ、あの欽ちゃん球団との交流試合が見られるとあって、16000人ものファンが観戦に訪れたようです。試合は、交流試合とはいえプロの意地、「負けるわけにはいかない」と中日二軍がリードしていました。

しかし、この試合、先制点を取ったのはゴールデンゴールズでした。元プロ野球選手もいるようで、初回3番バッターの酒井選手(元中日、ロッテ、楽天で活躍)のタイムリーヒットで1点を先行したそうです。すると、中日の二軍選手は気を引き締めたのか、その裏の攻撃で3点を取り逆転。その後も2点を追加し5-1とリードし、最終回を迎えました。

9回表、ゴールデンゴールズの攻撃が始まりました。まず最初のバッターを打ち取りました。するとここで、辻・中日二軍監督が審判に選手の交代を告げたようです。ナント!それは・・・

「ピンチヒッター、片岡安祐美」ナ・ナニ?

エッ 相手チームの選手交代なんですけど~?いいのでしょうか~? そりゃ、もちろん普通なら絶対にあり得ないし、できないことです。でもそれが、この試合の楽しいところでしょう。それに、片岡安祐美選手と言えば、欽ちゃん球団の顔として、知っている方も多いはず。欽ちゃんは「まさか相手チームからこっちの選手の交代をさせられたのは、初めてだよ」とおどけていました。当の片岡選手は「エッ ワタシ? 」というような顔をして、急いでヘルメットをかぶりバットを持って、バッターボックスへ。

スタンドは大いに沸いていました 。欽ちゃん球団唯一のアイドル選手の登場に大歓声でした。私もこれには「粋なことをしてくれるなぁ 」と笑ってしまいました 。ピッチャーは思わぬ女性選手の代打での登場に、投げにくそう。ストライクが入らずボールが3球続いた後、やっと1ストライク。相手が女性とあって、少し手加減したようなボールに見えました。とはいえ、プロです。球速120~130km/hは出ているでしょう。そして次のど真ん中に来たボールを、片岡選手は見事に打ち返しました オッ !。

打った瞬間、それだけでも「オォーッ 」という歓声。それどころか、打球は内野の頭を越えレフト前へポトリ!ナント!見事にヒットを打ち、期待に応えたのですスゲェ 。観客は大喜びです。打った片岡選手も一塁ベース上で大喜び。私は、テレビの前で笑いながら拍手していました

その後、2アウトとなり、ゴールデンゴールズ最後のバッターを迎えます。そこで再び辻・中日二軍監督が選手の交代を告げました。

「ピンチヒッター、欽ちゃん!」マ・マジ !

ナント、またしても辻二軍監督は、相手チームの代打を審判に告げました。しかも、「欽ちゃん」!これにはもう、笑いが止まりません 。できれば、生で見たかった・・・!欽ちゃんが金色のヘルメットをかぶりバッターボックスへ。ピッチャーは欽ちゃんが打てそうなボールを投げました。欽ちゃん、バットを振りました!かろうじて当たりました。が、ピッチャーゴロ。一塁に向かって走る欽ちゃん 。打球を捕ったピッチャーは、ボールを一塁へ投げると思いきや、しばらく欽ちゃんと一緒に一塁へ走り、ぎりぎりのタイミングで一塁手へボールをトスし、ゲームセット。

ゴールデンゴールズの選手たちは「胸を借りる」つもりでいたでしょう。中日二軍選手は「プロとして負けるわけにはいかない」と、真剣になったでしょう。しかし、最後にはこのようなパフォーマンスを見せていただいて、本当に楽しい試合でした 。このような野球の試合なら、これからも見てみたい!と思います

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2009年9月 7日 (月)

エルマー宅付近の様子

2月20日(金)晴れ 

 8:00起床。シャワーを浴び朝食 。この日もご両親宅でいただく イタダキマース 。新聞には昨日のカーニバルの記事・写真が満載。隣の大都市 Köln (ケルン)は、派手なパレードが行われていたようだ スゴイ 。

エルマー・アンジュラは今日、13:00まで仕事。それまでの時間、先日買った地図を頼りに、この近辺を散歩してみることにする テクテク 。10:20にスタートし、まず自宅前の Irlenfelder Weg (イルレンフェルダー・ヴェーク)を西へ。右手には、牧草地が広がり、牛 が放牧されている、のどかなところだ 。Johanes Straße (ヨハネス・シュトラーセ)で左折し、Rommerscheider (ロンマーシャイダー)から Höhe (ヘーエ)へ。教会もある。

そして牧草地帯 Natur-park (ナトゥア・パーク)へ テクテクブラブラ 。人の居住区と自然区が、はっきりと区別されていて、牧草地は北海道を思わせる。ふと見ると、まだ10代と思われる女の子 が、厩舎から馬 に乗って現われた。うーむ、カッコイイ ホレボレ ぐるりと一周し、Irlenfelder kamm(イルレンフェルダー・カム)へ。遠く Köln の街の大聖堂まで見渡せる。

およそ2時間ほど散歩し、12:10すぎ帰宅。ビール (Reissdorf kölsch;ライスドルフ・ケルシュ)を飲みながら Yvonne (イボンヌ)のCD を聴く

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エルマー宅前の小道 Irlenfelder Weg を西へ。右手には牧草地があります。

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Rommerscheider から Höhe 付近。この建物は・・・大邸宅?アパート?

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木に青いビール瓶がいくつも・・・?見てみたら、灯明のようでした。

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ここから人の居住区を離れ、Naturpark 、自然区に入ります。

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馬を飼っているところもありました。ドイツは乗馬も盛んな国です。

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広々とした景色の中を、気持ちよく散歩します。

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中央の煙突のやや右に、うっすらとケルン大聖堂の塔が見えます。

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2009年9月 6日 (日)

カーニバル その2

カーニバルは、オフィスから近くのバー (Blau Haus ;ブラオハウス)へと場を移す。人々の熱気がスゴイ 身動きすらできないほどの大勢の客で賑わっている。テーブルも椅子もすべてなくして、皆歌い踊っている。ミュージック のボリュームは最大限に大きくしているのではなかろうか 外にまでガンガン聞こえていたから!ほとんど知らない曲ばかりの中で、「ハレルヤ」だけは皆と一緒に歌えた

これほどの人込みにもかかわらず、どこからともなくビール が客同士手渡しで流れてくる。飲み終わると、空いたグラスは手渡しで回収され、再びビールが届く。このような調子で、いったい何杯飲んだのか分からない。飲みながらでも皆、時には肩を抱き合いステップを踏み、踊り続ける。トイレ へ行くことさえ、ままならない。バーのトイレは、たくさんの人が並んでいるので、アンジュラが「オフィスへ戻ったほうが早い」と言って、オフィスのトイレへと向かったほどだ。

そして再びバーへ戻り、飲み、歌い、踊る。お母さんはさすがに疲れたようで、お父さんに迎えに来てもらい、途中で帰られた。私とアンジュラは6時過ぎまで約7時間、カーニバルを楽しんだ 。休む間もないほど飲み、歌い踊り続けた。こんなに弾けたのは何年、いや何十年振りだろうか?

*バー での様子もできることなら写真 で紹介したかったのですが、なにしろ、書いたとおりのありさま。ただの一枚さえ写真を撮ることはできませんでした。

6:30ごろ、エルマーに迎えに来てもらい 、アンジュラと共に帰宅。軽く夕食をとり、9:30ごろ部屋へ。汗もずいぶんかいていたので、洗濯をしておく。エルマーに借り、カーニバルにも着て行ったTシャツは、記念にプレゼントしてくれた。

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帰宅後に撮った1枚。かけているメダルは、元の持ち主にお返しするよう、アンジュラに頼んでおきました。

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2009年9月 5日 (土)

カーニバル その1

2月19日(木)晴れ

 8:00起床。洗濯・シャワーをすませ、9:00よりご両親宅で朝食。今日は楽しい Karneval (カーニバル;謝肉祭)だ 。どんな1日になるのかな 11:00にアンジュラのオフィスへ行くことになっているので10:40、準備を整えご両親宅へ。この日の私の出で立ちは、ポロシャツの上にあえて、先日エルマーから渡された黒い半袖Tシャツ。下は皮ズボン。頭にはエルマーが貸してくれた海賊キャップ、というかバンダナのようなもの。そしてサングラス。お母さんは、オードリー・ヘップバーンのような淑女に。品がある方だけに、とてもお似合いだ。

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私は海賊風にしたのだが、お父さんから赤い帽子をかぶせられました。お母さんはオードリー・ヘップバーン風の淑女に

お父さんに車でアンジュラのオフィスまで送っていただく。オフィスはすでに準備万全で、続々と人々が集まって来る。ご馳走も並んでいる 。飾り付けも、とても賑やかで、リズムの良いカーニバルの音楽 もかかっている。人々は皆、個性的に仮装してきている。本格的なもの(ピエロ、ミツバチ、ネコ、サッカーのサポーター等々)から顔に少しペイントするだけの人も スゴイ 。

男性は、この日ネクタイをしていると、そのネクタイは鋏でチョキンと切られてしまう。そしてカーニバルのダンスミュージック に合わせ、歌い踊り 、ビール を飲み、料理を食べてと大いに盛り上がる

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手前の男性のネクタイ、すでに切り取られた後です。

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ビールやワイン、コーラも用意されています。

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皆で楽しく、ワイワイガヤガヤと過ごします。

私はアンジュラのオフィスの方たち以外は、出会う人皆、初対面。「Hallo ! Ich bin Dsching aus Japan. (こんにちは!私は日本から来たジンです) 」と挨拶する。すると、ほとんどの人が「Oh ! aus Japan ? (エッ!日本からだって?) 」と驚いている。そりゃそうだろう。仲間うちだけでお祝いしているところへ、日本人が来ているのだから でも、誰もが大喜びで歓迎しフレンドリーに接してくれた

私が着ているTシャツ には「ICH BIN 40 Bitte helfen Sie mir über die Straße」と書かれている。これを見たある男性が「この意味を知っているかい?」と話すので、「I am 40. Everybody please help me on the street. (私は40才なので、道では皆さん、どうか手助けして下さい)」と、私が杖をついて歩く真似をしながらそう話すと、「そう、その通り 」と言いながら、周りの人たちと共に大爆笑だ すっかり皆と打ち解けることができた

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アンジュラとお母さん。アンジュラは切り取ったネクタイを勲章のように帯にはさんでいます。

そして、大きな太鼓を渡され、それを持って誰彼ともなく、後ろからそっと近づいて「ドーン   」と太鼓を響かせる。唯一の日本人の悪ふざけにも、誰もが「オォーッ!」と笑って答えてくれた

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太鼓を持って、ご満悦!大いに楽しみました。

やがて私は、みんなから踊らされることに。「いや、踊れないです。 」と言っても、皆笑いながら「せっかくだから、踊ったら?」と言う。すると、一人の女性が、「私が一緒に踊ってあげるわ 」と名乗りを上げて、ついに一緒に踊る羽目に 不器用ながらも、踊っていると、皆拍手してくれた

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ミツバチの仮装をした女性と一緒に踊っていました。

参加されている人は、比較的若い人は少なかったのだが、一人、とても背が高くてきれいな女性 がいた。頬に赤いペイントをしているだけだったが、彼女にそれを言うと、「あなたにも塗ってあげる 」と言って、私の鼻のてっぺんを赤く塗ってくれた 。できれば、もう少し親しくなれたら、と思った。

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2009年9月 3日 (木)

毎晩楽しい Bergisch Gladbach の夜

まだ4時までは時間があるし 、美術館(Städtische Galerie Villa Zanders ;市立美術館ツァンダー荘(?))へ入ってみることにする。ピカソ展が開かれているようだ オォーッ 。中へ入ると、まず目についたのが、トイレ 。ヤッタ!ラッキー とばかりに一安心 。小用を終えた後、入場料 (2ユーロ)を払い中へ。芸術には疎い私 だが、ここでピカソを見ようとは・・・ しかもたった2ユーロ(¥280)で しかし、やっぱりよく分からない

* Villa は別荘、邸宅、お屋敷。Zander はすずき類(魚)という意味ですが、ここでは人の名字として使われていると思います。

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マルクト広場前にて、バーギッシュ・グラートバッハの街を走るバス。

4:00になり、アンジュラのオフィスへ行くと コンニチハ 、明日のカーニバル(Karneval)の準備をしていた。Köln (ケルン)だけでなく、この辺りではどの街でも行われるようだ。ケルンのカーニバルは世界的にも有名だ

*この翌年行われた愛知万博の「ドイツデ―」では、このケルンのカーニバルが再現され、来場者を大いに楽しませたそうです。私は・・・、残念ながら見逃してしまいました

4:30ごろ、オフィスを出てアンジュラと共に帰宅する。帰りは緩いながらもずっと上り坂。25分ほどかかって到着 。5:30すぎ、この日もご両親宅で夕食 。エルマーはまだ仕事から帰ってきていない 。この日のメニューは、パプリカに先日の炒飯を詰めて蒸した料理。スープがよくしみ込んでいて、とても美味しい 。それと、ポテトプディン。やがてエルマーも帰宅し 、夕食に合流。食後は、いつものごとく Schnaps (シュナップス;消化を助ける薬用酒、色々な種類がある)。アルコール度数は高いが(ほとんど40度以上)、本当に体に良さそうな味だ

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これ、スッゴクおいしかったですヨー

そして、アンジュラの実家へエルマーと2人で向かう。レックス の散歩のためだ。こちらのご両親にも、ずいぶんなじんでもらえたかな レックスを散歩に連れて行く。散歩を終えて戻ると、カーニバルのお祝いのワイン とドーナツをお土産にいただく。

自宅 へと戻ると、アンジュラが明日のオフィスでのカーニバルで一昨年プレゼントした「浴衣を着る」と言う。エルマーのお母さんが、「せっかく dsching が来ているのだから、浴衣を着たら 」とおっしゃっていたらしい。しかし彼女は「もし汚れたりすると・・・ 」と悩んでいた そうだ。しかしやっぱり、私が来ているこの機会に浴衣を着て参加することにしたようだ。

さっそく、帯を締めてあげようとするのだが・・・、思い出せない 。一昨年は来る直前、母に教わって来たので、きちんと正しく締めてあげることができたのだが、今回は急なことで、思い出せない 。我流で締める 。とにかく、結び目が蝶々のようになっていればいいか 。ここは日本じゃないのだし、多少下手でも笑われることは決してないだろう

するとアンジュラが「ヘイ、ジン。あなたのお母さんを連れて来ないとダメかしらね 」と言う。それを聞いたエルマーのお母さんは、私の家族のことをエルマーに尋ね、私が今、母と二人で暮らしていることを知り、「ジン 今あなたがここにいる間、お母さん一人なんでしょ それはダメよ 今度来るときは、一緒に連れていらっしゃいヨ 歓迎するから 」とおっしゃった。アンジュラもエルマーも「そうだよ、ジン 今度は一緒に連れて来いよ 」と話す。母の年齢を尋ねられ答えると、お母さんはお父さんと共に「ほとんど変わらないじゃない ねえー 」と話し、次回来る機会があれば、「ぜひ連れて来なさい 」とおっしゃってくれた。私も「ぜひ連れて来ます 」と、約束した。

*この翌年、一度も海外へ行ったことがない、いや行きたがらない(言葉ができない、食べ物が違う・・・云々)母を説得して、母を伴いドイツへと行きました

そして昨夜に続き、彼らの旅の写真 (スライド)を見せてもらう。この日はアメリカ西海岸・グランドキャニオン、そしてアフリカ・チュニジア。私も行きたいなぁ アメリカでは、キャンピングカーをレンタルして旅したそうだ 。広大なグランドキャニオンを満喫するには、ナイスアイデアだ

10:20、部屋へ戻り、ウールのシャツとジーンズを洗濯する。そしてビール (Prinzregent Luitpold Weissbier )を飲みながら音楽 を楽しむ。もう12時を過ぎている 。そろそろ寝よう

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2009年9月 2日 (水)

Bergisch Gladbach 中心街を歩く

2月18日(水)くもり一時雨のち晴れ

 7:30起床し、洗濯とシャワーをすませる。エルマーもアンジュラもこの日は仕事なので、昨日言われたとおり、9:00ごろ、ご両親宅で朝食 を頂く。家族ぐるみでお世話していただけるので、ただただ感謝 メニューもいつもエルマー宅で食べているものとほぼ同じ。相変わらず、美味しいものばかりだ

お母さんはこの日、スペイン語講座(学校?)へ行くというので ヘェーッ 、街まで一緒に行くことにする。もう一人の息子さん、つまりエルマーの兄弟が現在スペインのマヨルカ島に住んでいるので、バカンスを兼ねてよく訪れているので、それで少しでもスペイン語を覚えようとしているそうだ。もう70才になろうとしているのに、今なお衰えぬ向学心、頭が下がる思いだ

9:50に出て街の方へと歩く。街までは下り坂なので楽だが、それでも20分ほどかかる。途中に美容院があった。お母さんの話によると、お母さんもお父さんも、エルマーもアンジュラもここを利用しているそうだ。私が「私のヘア・ドレッサーは、私の母なんですヨ 」と話すと、お母さんは「まあ それは高くつくでしょう 」と笑いながらおっしゃった。私も「はい、とても高くつきます 」と、冗談で答えた。この話をお母さんが夕食時に皆に話すと、大爆笑

お母さんと別れ、アンジュラが勤めているオフィスの前を通り過ぎ、マルクト広場へ。天気のせいか、人出は少ないものの、それでもたくさんの店が出ていて賑やかだ。野菜、フルーツ、肉屋、ハムやソーセージ、チーズを売る店、花屋、衣料品から雑貨まで生活に必要なものは何でもそろっている 。ふと見ると、ピエロの人形(レターラック)が5ユーロで売られていた。カーニバルでは、ピエロの仮装をする人もいるそうだし、それに安い。母へのお土産に買っていこう

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この日のマルクトの様子。平日、そしてこの天気、人出もまばらです。

少し雨 が降って来た。商店街の方へ行って、雨を避ける。ちょうどカメラ屋があったので、一眼レフカメラの電池を買っておく。フィンランドでのオーロラ撮影用に持ってきた一眼レフ 。しかし日本には、このカメラに使用されている電池はもう扱っていない。だが、幸いにもこのカメラに合う電池が見つかった 。念のため予備も買っておく

次に本屋 へ行き、Bergisch Gladbach の街の地図(4.95ユーロ)を買う。これで、これまでに案内していただいたところはバッチリ分かるし、何より街の様子、エルマーの自宅の場所なども分かる 。これさえあれば、この街を十分に一人歩きできる

そしてSATURN(大型電気店)の中にあるCDショップへ。Yvonne Catterfeld (イボンヌ・カッターフェルト)のシングルCD 、「du hast mein herz gebrochen」(6ユーロ)を買う。今やドイツの ”シューティング・スター”と言われる Yvonne の歌は押さえた

さらに Center Shop というディスカウントショップのような店で、ランチョンマット(1ユーロ)、イルカのデザインの目覚まし時計(1.99ユーロ)、子供向けと思われるドイツ語で書かれた本(1ユーロ)と、安い買い物を楽しむ 。本は帰国後、ドイツ語の勉強をするのに役立つだろう

外へ出ると偶然、昼休み中のアンジュラと会う。4時にアンジュラの勤務先のオフィスを訪ね、一緒に帰ることを再確認する。昼食は立ち食いスタンドのような屋台で、Currywurst (カリーヴルスト;カレー味のソーセージ)とパン(2.2ユーロ)にする。ちょっとスパイシーすぎないかな?Wurst (ソーセージ)本来の味が分からない・・・。でも、おいしい

銀行 へ行って50ユーロ引き出す。ここで余ったとしても、フィンランドの通貨もユーロなので必要になる。

さて、そろそろトイレ へ行きたいのだが・・・、見つからない。デパートの中、色々な所へ行ってみたが、見つからない。公衆トイレもない 。駅ならばあるのでは・・・、と思ったが、ない。バスターミナルにもない 。仕方がない、喫茶店へ入ろうか・・・、でもこの店にはなさそうな感じだ。そういえば、この辺りにマクドナルド はなかったかな?捜しまわるが、ない・・・ 。さっきから同じところを、行ったり来たりしているだけ。半ばあきらめかける

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2009年9月 1日 (火)

便利さとは・・・?

ホント、最近つくづく思います 。本当に便利になるのかな と思うことだらけ

たとえば、TV 。再来年、アナログ放送からデジタル放送に完全移行。でも、これって従来のTVでは、「もう見られなくなりますよ !」ということで、そのぶん出費 を余儀なくされます。携帯電話 もまたしかり。来年3月から、私が「今使用しているものは使えなくなる」、とのことで仕方なく買い換えました 。で、これまた出費

おいおい、ただでさえ不況の世の中、壊れてもいないものを買い換えさせるのか ?どうにも納得がいきません 。「もったいない」という日本語、決して他の国の言葉には訳せないこの言葉を世界中に広めているマータイ女史も、怒り に震えているのでは?

先週、洗濯機が壊れました。今では珍しいかもしれない二槽式の洗濯機です。たぶん15年ほど使っていたと思います。電化製品は水に弱いので、洗濯機はそれほど長持ちしないというのが、かつての常識でした。よくここまで故障せず、働いてくれたものです 。「ご苦労様でした。ありがとう。」と言って送り出し、新しい洗濯機が明日にも届きます。

もしかしたら、修理すれば、まだまだ働けたかもしれませんが、出張修理は来ていただくだけでも数千円。直していただけたとしても、いつまで持ちこたえられるか?それらを考えると、新たに買う方が結果的に安くつくだろう

しかし、世界には電気も水道さえもない地域が今でもあります。その地域に住む人々は、洗濯機そのものさえ知らない、見たこともない人々がいるはずです。私たち日本人は、これでいいのだろうか?豊かさや便利さは、「もったいない」という精神に反し過ぎてはいないか

私がかつて訪れたネパールには、日本では当然のごとく使い捨てられる百円ライターを、部品を外して新たに液体ガスを入れ、再び使うことができるようにしています 。これを商売にしている人もいるのです。料金も格安でした。日本円で10円もしなかったはず。私は何度か利用しました。これだってガスさえ入れればまだ使えるのですから、「もったいない」という精神そのものだと思います

この夏、母のTV、私の携帯、そして洗濯機。思いがけない出費があいついで、このようなことを感じました。

民主党が政権交代を果たした今、日本経済をどのように立て直してくれるのか?他にも各方面に様々な問題があります。それらをどのようにするのか?国民の多くが期待している以上、生半可なことでは許されません。私も民主党に一票を投じた一人です。まずは、お手並み拝見、といったところでしょう 

ただ「高速道路を段階的に無料にしていく」というマニフェストに対しては、私は大きな疑問を持っています。高速道路がある以上、半永久的に続く道路の維持・管理費はどこから捻出するのか?料金所やゲートの撤去費用も莫大な予算が必要でしょう。、週末ETC割引にあわせ新たにETCを装備した人も多いでしょう。それらすべてが「もったいない」ことになるのでは?私は「無料」にするのではなく、差し支えがない程度までに「値下げ」でいいと思うのですが・・・?!どう思われますか?

便利になることだけが、幸せなことではありません。科学や技術、文化の著しい進歩が、便利な世の中とも言い切れません。この地球上には、その日の暮らしでさえ精一杯の人々がたくさんいるのです。私たち日本人はもっともっと「もったいない」という精神を持たなければいけないのでは?と、自戒の念をこめて、本日のブログとさせていただきました。

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