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2009年8月11日 (火)

日本武尊と弟橘姫 尾張の国

「日本武尊は西国遠征(熊襲平定)を終え都へ帰ると、父・景行天皇はすぐさま東国遠征を命じた。日本武尊は叔母である伊勢の斎宮・倭比売のところへ立ち寄り、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と「もし万一のことがあったら、この袋の口をあけるように」と小さな袋を手渡した。そして、尾張の国へ着き尾張の国造のところへ逗留した。」(古事記より引用・要約)

*天叢雲剣・・・伊耶那岐神(いざなぎのみこと)・伊耶那美神(いざなみのみこと)の子である須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時、その大蛇の体から珍しくも鋭利な太刀が現われた。その太刀こそが、この天叢雲剣だと伝えられています。

尾張の国造の邸宅があったであろうと言われるところが、現在の名古屋市緑区大高町である。建稲種命(タケイナダネノミコト)がお迎えし、建稲種命の妹、宮簀媛(ミヤズヒメ)をお妃にしようとした。しかし東征に同行するには危険と判断し、婚約だけ交わし宮簀媛はこの地に残り、建稲種命は副将軍として同行した。これに関しては古事記には記述はありません。

宮簀媛は、古事記からの言い伝えでは、当時すでに尾張の国造だったのか、その後国造になったのか、はっきり分かりませんが、いずれにしてもこの地を治めていたそうです。

現在、この地に「氷上姉子神社」があります。ご祭神は宮簀媛命となっています。

Img031  氷上姉子神社

  一見、どこにでもありそうな神社ですが…

Img032  とても由緒正しき神社です。

  熱田神宮の前身とも言うべき

  歴史のある神社です。

Img033  宮簀媛宅址です。この広さなら

  立派なお屋敷があったと思われます。

日本武尊が、いよいよ東国遠征へと出立する際、「陸を行くより海を行く方が早い」との助言を受け、やや南に下った緒川の地(愛知県知多郡東浦町)へ行き、その地を治めていた穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)に協力を依頼。その際、娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)をお妃に迎え、たくさんの従者と共に姫も東征に同行することになった。

この地にも、弟橘姫をお祀りする神社があります。しかし、ここを紹介するためには、先に東国遠征のことを書き進めなければなりません。日本武尊一行は、ここ緒川の地から船で東へ向かったと伝えられています。

古事記には宮簀媛と結婚の約束をした後、相模の国に着くまでの記述がありません。私なりに文献などを読み調べた結果、知り得たことです。次は、古事記に基づいて私が訪れた関東地方のゆかりの地を書き綴ります。

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コメント

協力を得るたびに妃を迎えるというのも何かおおらかというかいい加減というか。まあ、かなりずっと婚姻は結束の証であったわけだけれど。神社の由来もいろいろあって、罰せられて流されたりしたものもその魂を鎮めるために神として祀ってしまう。そこがわかれば靖国参拝への見方も変わるような。なんか少々ずれましたが、そんなことを考えました。


hannaさんへ

良く言えば「結束」、悪く言えば「人質」なのかもしれませんね。一夫多妻は江戸時代までは続いていたはずですから。神社の由来は、調べてみると、結構面白い話があります。意外な事実もあったりで、興味深いです。靖国については、私が言うべきことはないのですが、でも毎年取り上げられる「靖国参拝」、私は人それぞれに一個人の考えがあるでしょうし、「信仰の自由」でもあります。中国や韓国の人々の感情が分からないわけでもないですが、ならば、今の中国政府のチベットやウイグルの人々への態度は何なのか?とも思います。

投稿: hanna | 2009年8月11日 (火) 23時31分

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