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2009年8月16日 (日)

我がじいちゃん、ばあちゃん

昨日は終戦記念日、そして今日でお盆休みも終わり・・・

1週間前、このブログにも書きましたが、我がじいちゃん・ばあちゃん、我が家 house へ帰って来てくれていたかな~?仏壇や写真の前にお花 tulip ・お供え物 present (果物 banana )・お酒 bottle とビール beer をお供えしてお迎えした(つもり)なのですが・・・think

 Photo  

我がじいちゃんの、凛々しい軍服姿です。coldsweats02オォーッ ! カッコイイ- !

Photo_6若かりし頃のばあちゃん。孫の私から見ても「きれい lovely!」です。

ところで、我がじいちゃんは、生前 ”近衛歩兵第4連隊”に所属し、戦争へと赴き亡くなりました weep 。南方の海で、負傷兵や病気などの兵士を輸送する赤十字船 hospital ship に乗っていたのですが、理不尽にも攻撃されてしまい angryナンデダ ? 、沈没してしまったそうです crying 。船ごと海に沈んでしまったので、亡骸はありません weep

先日、たまたま Wikipedia で「近衛兵」について調べてみました。すると、次のような記述がありました。

『 第二次世界大戦 [編集]
上述の近衛師団は、太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、昭和16年(1941年)12月8日から昭和17年(1942年)1月31日のマレー作戦には第25軍に属し、近衛歩兵第3連隊、同第4連隊、同第5連隊及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。』
ここには、我がじいちゃんが所属していた「近衛歩兵第4連隊」が、南方戦線で活躍したことが書かれていました good 。じいちゃんが何故赤十字船に乗っていたかは不明ですが、いずれにしても、南方戦線に赴いたことは確かであり、何らかの怪我を負って赤十字船 hospital ship に乗っていたのでは?そして・・・crying
「近衛兵」、決して誰もがなれるわけではなかったようです。天皇陛下直属の兵士ですから!近衛兵となるには、当時としては家柄や身分などがかなり影響したと思われます。我がじいちゃんのご先祖様をさらに遡れば、江戸時代、桑名藩の武士であったそうです coldsweats02ス・スゲェ ! 。
じいちゃんは、「我らの思ひ出 近衛歩兵第4連隊」と書かれた重厚な革表紙のアルバム3冊を残してくれました confident 。その中には、歴史的に貴重な写真が何枚も残されていました。
001  
じいちゃんが残してくれたアルバム。下のアルバムが連隊入隊後に残されたものです。
天皇・皇后両陛下をはじめ、各皇族(宮様)方。皇居(宮城)と内部。連隊の各隊長と戦友たち。さらには、日清・日露戦争で活躍された東郷元帥や乃木大将も coldsweats02スゴスギ ! 。これらだけでも十分に「スゴイ sign03 」のに、もっと驚く (coldsweats02 ナ・ナニー !) べき写真もありました。
Photo_5
「西大尉ノ馬術」と書かれています。この写真の人物こそ、1932年ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し、その紳士的な態度・振舞いから「バロン(男爵)西」と呼ばれた西竹一氏なのです happy02 。ほんの数年前、映画 movie 「硫黄島からの手紙」の公開で一躍、多くの人々に知られることとなりました。昨夜TVでこの映画が放映されていました。映画を見て、改めて当時の人々が様々な思いでこの戦争に臨んだことを知りました。この写真が撮られた頃は、大尉だったようですが、最終的には陸軍大佐で生涯を終えたそうです。
私は、「バロン西」という名前を知る前は、この写真をただ何気に見ていただけでしたが、今では本当に「貴重な写真」だと思っています。このような写真を残してくれたじいちゃん、あなたもやっぱり「スゴイ!」です confidentアリガト 。そして・・・
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中国・清朝最後の皇帝であり、日本の傀儡国家・満州国の皇帝陛下「愛新覚羅溥儀」。満州国皇帝陛下として招かれ、パレードした時の写真のようです coldsweats02ヘェー 。キャビネサイズで残されていました。
「愛新覚羅溥儀」...映画 movie 「ラストエンペラー」のモデルと言われる人物です。私はその映画は見たことがないので、内容は知らないのですが、それでも波乱万丈な生涯を送っただろうことは、想像できます。
このような歴史的人物の生の写真を残してくれたじいちゃん。じいちゃん、どんな気持ちで戦争に立ち向かったのだろう think ?一兵士として「お国のため」、近衛兵として「天皇陛下」のために戦ったのだろうか think
母から聞いた話によると、じいちゃんはとても短気な性格で、間違ったことは大嫌いな人だったようです。南方戦線へ向かったじいちゃん、「お国のため」とはいえ「何故マレー半島を・・・weep sign02 」という気持ちもあったのでは?、と思うようになりました。戦いの中で「優しさ」は禁物。だからこそ、じいちゃんは負傷し赤十字船で帰ることになったのでは・・・?そして・・・命を落としました crying
じいちゃん、亡くなる直前、どんなことを考えていたのでしょう?安全なはずの赤十字船に乗っていて、命を落とすことになるなんて、考えてもいなかったでしょうし、それこそ、悔いを残してしまったのでは・・・? weep 私には、判りませんが、近衛兵として誇りを持って戦争に向かっただろうことだけは、解かるような気がします。
今、私がじいちゃんに何か話すとすれば、「じいちゃん、お疲れ様でした。盆や正月には必ずここへ帰ってきてね。お会いしたことはないけど、とても尊敬している confident からネ!いつでも喜んでお迎えします。」かな?もちろん、ばあちゃんだって喜んでお迎えしますよー happy01 sign03

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コメント

この写真のおじい様はまだ初々しい感じですね。短気なとは想像できません。我が家にも古色蒼然たる写真がいっぱいありましたが、引っ越すときに置いてきてしまったりで、どこにあるのやら?

身近では叔父が衛生兵で従軍してた以外は、軍隊に行ったということは聞いていません。従兄弟を栄養失調でなくした叔父です。

冥福を祈るとともに平和を願いたいです。


hannaさんへ

いつ、どこで撮られた写真かは分かりませんが、たぶん20代後半から30前後の頃だと思います。母に訊いてみても、いつ頃撮られたものかは、よく分からないらしく、風貌からすると27~8才ぐらいのころじゃないか?とのことです。
祖父は本当に気が短い人だったらしいです。逆に祖母はのん気な人でした。私も少なからず、この祖父母の性格を受け継いでいるところもあります。時には ”瞬間湯沸し器”のごとく怒ったり、旅先で予定どころかその日の宿泊先さえも決めず、旅をしていたり…。「のん気」と言うより「無鉄砲」かな?(笑)
あの戦争でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りしています。

投稿: hanna | 2009年8月16日 (日) 23時14分

こんばんは。
よいお祖父様だったようですね。
これからも供養されて下さい。
第二次世界大戦での日本軍の戦死者は約250万人という数字を覚えています(確かこれくらいだったと先日新聞で読んだのですけど)

アルピニスト野口さんは戦死者遺骨収集活動をされているとのこと。海に沈まれた方の回収は出来ないでしょうが、一人でも多くの遺骨収集が出来ればと思っています。

それにしても近衛兵とは・・・誰でもなれる訳ではないですから、折り目が正しかった方と思います。
合掌


青龍○段さんへ

ありがとうございます。戦争で亡くなってますので、お会いしたことは当然ないのですが、残されたアルバムを初めて見た時、「スゴイ!」と思ったものです。天皇陛下をはじめとする皇族方の写真、決して見ることができない皇居内部、これらは祖父が近衛兵だったからこそ、残すことができたものだと思います。他にもいろんな写真がありました。「軍旗祭」というお祭り・レクレーションや、伊勢神宮参拝後の休憩時間に撮られた写真、辛いばかりではなく、楽しかったこともあったのだと、知ることができました。亡くなる前の元気な姿を見ることができて、少しでも当時のことを知ることができて、本当に素晴らしいものを残してくれた祖父です。私にとっても、誇りです。
野口健さんの活動、それは知りませんでしたが、とても良いことだと思います。エヴェレストや富士山の清掃登山など、彼の活動には心に感じるものがあるのですが、そのようなことまでしているとは・・・!彼はまだまだ若い方なので、これからも活躍していただきたいと思います。

投稿: 青龍○段 | 2009年8月17日 (月) 21時19分

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