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2009年8月12日 (水)

日本武尊と弟橘姫 東国遠征

「相模の国に着いた。その国造に欺かれた。”この野の中に沼があります。その沼に住む神は、大変凶暴な神です”。その神を見ようと日本武尊は野の中に入ると、国造は野に火を放った。たちまち火に囲まれた一行。日本武尊は叔母の倭比売からもらった袋を開けると、火打石が入っていた。まず剣で草を薙ぎ払い火打石で草に火をつけた。風が向かい火となり、火勢は向こうへと押し寄せた。その間に脱出し、そして国造を斬り殺し、その場で死体に火をつけて焼いた。そこで、その地を焼津という。」(古事記より引用・要約)

現在の静岡県焼津の地名の由来です。しかし、その頃は静岡近辺も相模の国だったのでしょうか?また、日本武尊が持っていた剣、倭比売からいただいた天叢雲剣ですが、この時以来、「草薙(くさなぎ)の剣」と呼ぶようになりました。静岡には実際に「草薙」という地名も残っています。

「さらに東へ行き、走水(はしりみず)の海を渡ろうとした。わだつみの神が波を立て一行の船は波に翻弄され進むことができない。そこで同行しているお妃の弟橘姫が、”これは海神(わだつみ)の仕業でしょう。私が海に入ってなだめて参ります。どうか御子はお役目を立派にお果たしなさいませ”と言って、菅畳八枚、皮畳八枚、絹畳八枚を波の上に敷き、その上に降りた。そのときに弟橘姫が詠った歌、

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

(相模の野原に 燃え立つ火の中で 私を心配して下さいました あなたを今も 忘れられないのです)

弟橘姫が海に沈むと、やがて荒波は鎮まり、船は進んで、無事上総の国に着いた。七日後、弟橘姫の櫛が海岸に漂着した。その櫛を取り、陵(みささぎ)を作り、中におさめた。」(古事記より引用・要約)

弟橘姫はどのような気持ちで、海に身を投じたのでしょうか?御子のお妃として、妻として、夫である日本武尊が、「立派に役目を果たして都へ帰ってほしい」、という気持ちだったのでしょうか?今の時代に弟橘姫のような女性はいるのでしょうか?この弟橘姫の献身的な愛情に心を打たれ、私はずいぶん前ですが、一度だけ走水(現;神奈川県横須賀市走水)を訪れました。

当時はカーナビなどあるはずもなく、大雑把な道路地図しか持ってなくて、走水神社の場所は全く分かりません。それでも、とにかく横須賀市へと向かい、海沿いの国道を走り、走水へ着きました。しかし、国道沿いを走っても神社は見つからず、やがて走水から外れてしまい、Uターンして、走って来た道を戻りました。そしてふと左折できる道を見つけ、左へハンドルを切ると・・・、正面に見えたのは、神社の鳥居!

「エッ?ま・まさか・・・?!もしかしたら、導かれたのかな・・・?」

この地へ来て見つけられずに居る私を見て、きっと「助けてくれた」のだと思います、思いたいです。この時、私の古くからの旅仲間(当時、横浜在住)が一緒だったのですが、彼も「きっと、そうだよ。導かれたんだよ」と話していました。私はここで「お守り」と「辞世歌の色紙」を買い求め、それらは今でも私の部屋で、私を日々見守ってくれています。

Img014_2  走水神社。ご祭神はもちろん、

  日本武尊と弟橘姫です。

Img015_2  走水神社の由緒が書かれています。

  近代になってからの意外な事実も・・・。

Img017  弟橘姫、入水時のレリーフ。

  もちろん想像図でしょうが・・・。

  こんな感じで海に入ったのでしょうか?

  姫の気持ちが偲ばれます。

Img020  入水時の辞世歌の碑。

  「さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」

  明治末期、東郷元帥、乃木大将らによって建立されたそうです。日清、日露と海での戦いを制した男たち、解かる気がします。

Img019  神社から見た走水の海。

  古の時代、この海に弟橘姫は・・・(泣)。

私はさらに、たまたま仕事で行く機会を得て、千葉県内を訪れました。あいにくの天気でしたが、その際にもゆかりの地を訪ねてみました。

Img021_2  茂原市本納にある橘神社。

  名前からして、想像できますよネ。

Img022_2  弟橘姫御陵墓と伝えられています。

  傷心の思いで、日本武尊はここに

  姫の陵を作ったのでしょう。

  訪れることができ、感激です。

日本武尊はその後も、荒ぶる蝦夷(えみし)を服従させ、山河の荒ぶる神々を平定していった。しかし、夜になると自分のために海神に身を捧げた弟橘姫を、哀れみ懐かしみ、「あづまはや」と何度も嘆き悲しんだそうです。それ故、東国つまり「東」を「あずま」とも読むようになったそうです。「橘」とか「吾妻」という地名があれば、その由来はここから来ているものだと考えられます。また、これらの名がつく神社も、そのご祭神は「日本武尊」と「弟橘姫」だと考えてよいと思います。

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コメント

人柱、生贄などという思想は洋の東西を問わずあったようですね。どちらにしても538年(これだってあてにはならないけれど)文字伝来以前の歴史は神話といわれる「古事記」のみならず一応歴史書ということになる「日本書紀」にしても物語ですから、かえって面白いのでしょう。最も中国の「史記」だって完全に物語ですよね。古代史は楽しいですね。


hannaさんへ

生贄...かぁ、言われてみれば、弟橘姫自らそうなったわけですよねぇ・・・。悲しいことです・・・(; _ ;) !
古事記の場合は、明らかに「事実ではない、あり得ない」ことも多いですが、神武天皇以降は、多少の誇張はあるでしょうが、事実であっても不思議ではない話もかなりありますよネ!私はどちらも好きです。「ウミサチ・ヤマサチ」「ヤマタノオロチ」「因幡の白うさぎ」などのおとぎ話も、童心をくすぐるような、実に楽しい話だと思います。でも、本当にこれらのおとぎ話も想像力だけで作られたものなのかな?と、疑問も感じます。100%事実ではないにしろ、それに似た何かがあって、伝説として伝わっているのでは・・・?と思います。山陰・出雲地方にはそれらの伝説にまつわるところも、数多く残っていますから!
いずれにしても、古代史は本当にロマンあふれる楽しい読み物デース!

投稿: hanna | 2009年8月12日 (水) 23時35分

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