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2009年8月

2009年8月30日 (日)

ドイツの休日の普通の過ごし方!かな?

2月17日(火)くもり

 7:00起床し、洗濯・シャワー。そして音楽 を聴きながら、少しドイツ語の勉強 をする。9:30ごろ朝食と思いきや、パンやハムを切らしていたらしく、エルマーといったん外出しアンジュラのオフィスへ。オフィスへ着くと、アンジュラの上司・同僚の方々にドイツ語で挨拶と自己紹介をする 。明後日、このオフィスでカーニバルのお祝いをするそうで、それに参加させていただくことになっているからだ。初対面だったが、皆にこやかに迎えてくれた

アンジュラがハムを買っておいてくれたようで、それを受け取り、パン 屋へ行く。たくさんの種類のパンが売られている。いつも食べている小さな丸いパン、「Brotchen (ブローチェン)というんだ」と、エルマーが教えてくれる。いくつかパンを買い、自宅 へと戻り朝食とする。

11:00、エルマーと共にまず Bensberg (ベンスベルク)へ。ここにも Schloß (シュロース;宮殿、城)がある。中へは入れなかったが、なかなか素敵な宮殿だ 。宮殿そばの建物に入ってみると、この街の地図があった。「街の地図が欲しいなぁ」と言うと、「この間行った本屋に売ってるから、買ってくるといい」と教えてくれた。そして、その付近を歩いてみる。一方通行の道路標識の→マークに「Einbahn Straße (アインバーン・シュトラーセ)」と書いてある。それを読んでみると「dsching、”One Way”(ジン、一方通行の意味だよ)」と、またまた教えてくれる

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ベンスベルク宮殿。なかなか立派です

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付近を歩いていたら、高い塔が見えました。教会の塔かな

この後、Odenthal (オーデンタル;Bergisch Gladbach の北にある小さな街)にあるアンジュラのご実家 へ。一昨年もここへ連れて来ていただいたので、私のことを覚えていてくれた 。年老いたアンジュラのご両親(お二人とも80代だそうだ)に歓迎していただき、コーヒー をご馳走になる。

そしてレックス (飼い犬のシェパード)を車に乗せ、Altenberg (アルテンバーク)の近くより散歩 コースを往復約10Km、レックスを連れて散歩する。森の中を川が流れ、民家などもなく、とても静かな散歩道だ 。ここは自動車は入って来ない ので、とても安全だ

トイレ へ行きたくなったのだが、どうやら公衆トイレなどはなさそうだ。エルマーが言うには「その辺でしてくればいい」らしい 。散歩道を外れ林の中へ入って行き小用をする。しばらくすると、後ろから何やら「ガサガサ」と聞こえたかと思ったら、突然「ワン!ワン! 」とレックス。どうやら「何してるの?早く行こうよ」とでも言いたげに、私を迎えに来たようだ。「ちょ、ちょっと待ってくれ~ 、レックス 」と慌てて小用を終えると、レックスは私を先導するかのように、2~3歩行っては立ち止まって振り返り、私がついて来ているのを確認すると、また2~3歩。それを繰り返し、元の散歩道へ。うーん 、なんて賢い犬なんだろう

そして一昨日来た湖へたどり着く。「なぁんだ ここへ通じていたのか 」と、思わず笑顔 になる。そして帰りは、やや違う道も歩く。高校生ぐらいの男の子たちが前から歩いてくる。エルマーは「彼らとは目を合わせるな!」と小声で話した。人里からやや離れたところにある学校、何やら ”曰くつき” らしい・・・

再び森の中の散歩道へ。途中、やはり犬 を連れた人がやって来た。するとレックスは ”お座り” をして首輪にリードを繋げるまでジッと待っている オォーッ 。相手の犬も同じ姿勢をしている。これは犬同士で喧嘩をしないように、とのことらしい 。お互いすれ違う時は、リードをつけて喧嘩しようとするのを防ぐようだ。そして十分な距離ができてから、再びリードから離す。うーん これまた感心 飼い犬に対する教育、完璧

2~3時間ほどの散歩を終え、アンジュラの実家へと戻る。再びコーヒー 、それにアップルケーキ をご馳走になる。ちょうど小腹がすいていたので、とても嬉しい   それにとても美味しい

4:30ごろ自宅 へと戻り、5:00ごろアンジュラも仕事を終えて帰宅しティータイム 。そして、やや早いがご両親宅にて夕食 。ライスとシチュー、サラダ、とても美味しい。食べられないものなんて、何一つない。モーゼルのリースリングワイン も頂く。デザートはチョコレートプディンだ。それほど甘いわけでもなく、本当に美味しい   日本からやって来た私を、家族ぐるみで歓迎されお世話していただいて、この上ない喜びだ

夕食を終え8:00ごろ、ご両親宅から自宅へと戻り、今夜はエルマー・アンジュラの旅の写真をスライド で見せてもらう。まず初めにネパール(’92)。これは、お互いが出会った旅だけに、とても懐かしい 。もちろん、私が写っている写真もある。次に、エルマーが友達と一緒に行ったキリマンジャロ(’99)のスライド。アフリカの大自然と海、キリマンジャロ登頂への様子、そして登頂!私もいつかはチャレンジしてみたいと思う

10:15、部屋へ戻る。明日はエルマーもアンジュラも仕事だ。朝食は9時ごろ、ご両親宅でいただくことになっている。その後は、一人でこの街をぶらついてみよう。

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2009年8月29日 (土)

日帰り4カ国ドライブ 再びドイツへ

15:00ごろ、帰路へと向かう 。地図を見ながら、どの道を行くか検討する。アウトバーン1号線を Köln (ケルン)へ向かうことにする。車窓からは、のどかな風景がどこまでも続いている 。途中、210Km/h で走ったことも 日本ではとても出せないスピードだ。

アウトバーンを降り Köln-Bonn (ケルン・ボン)空港 へ立ち寄る。エルマーはここで手に入れることができる Mallorca (マヨルカ)島(スペイン)の無料の情報誌が欲しかったそうだ。また、ここへはフランクフルト空港からも1時間ほどで飛行機で来られるようで、「日本からフランクフルトで降りても、そこで乗り継いでここまで来ても、料金は同じだろう」、とのことだ 。乗り継ぎの時間さえよければ、一度そうしてみたいものだ。ここからならば、20分ほどで彼らの自宅へ行くことができる

空港を出て Bergisch Gladbach (バーギッシュ・グラートバッハ)の街へ。しかし、自宅方面とは違うような・・・?すると Schloßhotel Lerbach (シュロースホテル・レールバッハ)という古城ホテルへ到着した。私は「なぁんだ 」と納得!

このホテル は、たまたま私が持っていたガイドブックに載っていたのだが、私は全く気づかず、一昨日エルマーが何気にガイドブックを見て、「ジン!このホテルは、この街あるぞ 」と教えてくれたのだ。そのページを見てみると、たしかにアドレスは Bergisch Gladbach になっていた。聞けば、彼らの自宅 から車 で10分ほどのところにあるらしい。「見るだけでいいから、行ってみたい」と、その時話していたのだ。

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レールバッハ城です。今はホテル として利用されています。

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レストラン も併設されているようです。機会あれば行ってみたいけど・・・高そう・・・

しかし、このホテル、料金はシングルで1泊200ユーロ(≒¥28000;当時のレート)で、とても高い 。貧乏症が身についている私には、とても泊まれるものではない 。もちろんこの街には、エルマーたちが住んでいるのだから、ここへ泊まる必要もない。エルマーが言うには、サッカーの試合のために訪れたブラジル代表 チームが、ここへ泊まったとか!

それにしても、なかなか素敵なところだ 。庭も広く池もありアヒルが泳いでいる。近所に住む人だろうか、犬 を連れて散歩している。そして何故か鉄(ブリキ?)で作られたオブジェ・芸術作品(?)が・・・

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ユニークな人型のオブジェです。

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恐竜のオブジェ!というより、恐竜の骨格ですネ!

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これは・・・蟻?それとも・・・?何だろう・・・?

17:00ごろ、この日仕事だったアンジュラを迎えに行き、そして帰宅する。アンジュラが今日のドライブのことをエルマーに訊いているようだ。エルマーは私のナビをずいぶん褒めてくれているようだ。するとアンジュラは、「dsching ,Navigat Arigato (ジン、ナビガート、アリガート;ナビゲーションありがとう)」と、ドイツ語と日本語を掛け合わせて言ってくれた。それどころかエルマーは、「ライセンスは持ってきてないのか?持ってきてたら、運転を任せられるのに!」と言ってくれた。彼は、この日のドライブでの私のナビだけで、「運転させても大丈夫」と思ってくれたようだ。

夕食はご両親宅で、この日は Eintopf (アイントプフ)。肉団子やキャベツ、ニンジンなどが入った、ごった煮のシチューのようだ。日本の ”肉じゃが” のような感じにも思える。ちなみに、ドイツの ”おふくろの味” と言うと、このアイントプフだそうだ ヘェーッ ! 。

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アイントプフです。お肉と野菜・・・、栄養満点の ”ドイツのおふくろの味” です

日本の肉じゃがとは違うものの、優しい”家庭の味” 、温もりが感じられる料理、とても美味しかった   使われている野菜も、お母さんが庭で栽培し育てたものだそうだ。まさに正真正銘の ”おふくろの味”。小鉢には、見た目は ”ほうずき”、でも味は・・・トマトっぽいような・・・?「食べられるほうずきもあるんだ~!」と、口には出さず思っていた。

デザートは、カスタードクリーム入りのパンケーキで、これもまた、とても美味しい 全部、お母さんの手作りなのだから、「スゴイ 」。食事の最後は、いつものように Schnaps (シュナップス)と呼ばれるお酒 だ。お酒と言っても、云わば薬用酒。消化を助けるなど、体に良いお酒だ。サクランボ からできているもの、ハーブ からできているものなど、種類も豊富だ。

21:00過ぎに部屋へと戻る。明日はゆっくりでいいので、洗濯やシャワーは明日の朝にしよう。

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2009年8月27日 (木)

日帰り4カ国ドライブ ベルギー~ルクセンブルグへ

再びアウトバーンを走り 、オランダよりベルギーへと国境を越える。1時間半ほど走っただろうか、Sankt Vith (サンクト・フィート)の街へ到着。13:00過ぎである。天気は先ほどのオランダ・マーストリヒトと違い、陽射しもよく暖かだ 。ここは小さな古い街のようで1時間ほど歩いてみる 。案内所 へ立ち寄ると、鍵がかかって閉まっていたのだが、我々に気がついて開けてくれた。すると、とてもきれいで感じの良い女性 が応対してくれた

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なんか可笑しな人形が出迎えてくれました。

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教会のようです。塔が高すぎて全体は撮れませんでした。

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これは何だろう?パンフレットを頂いたのですが、それでも良く解らなかった・・・

そして、ルクセンブルグ方面へ。途中で車を停めアンジュラが作ってくれていたお弁当 を美味しく頂く 。そういえば一昨年、皆でツェルの街へ行ったときもお弁当を用意していてくれた。こちらでは外食するより「お弁当持参」が主流なのかな

食事を終え、再び走り出す。私は地図に目をやりながら、走っている道を追う 。そして国境に近づくと、Luxembourg (ルクセンブルグ)と書かれた看板が。反対方向にはもちろん、Belgique (ベルギー)と書かれた看板がある。ほんのわずかではあるが、ルクセンブルグの国へ入った。しばらく走ると、ガソリンスタンドがあった。エルマーが「安い!ここで給油しておこう!」と言い、まだ半分ほどガソリンは残っていたのだが、ここでガソリンがドイツに比べずいぶん安いということで、給油していく ことにした 。ヨーロッパはどこでもそうなのだろうか、ほとんどがセルフサービスになっている。

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ルクセンブルグまで1Kmを切りました。のどかな国境付近です。

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給油後、来た道を戻るとベルギーまで500mの案内が出ていました。

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2009年8月26日 (水)

日帰り4カ国ドライブ オランダへ

2月16日(月)晴れ

 この日アンジュラは仕事、エルマーは休み(有休)。本当は、アンジュラも休みを取りたかったそうで申請したらしいのだが、今週木曜日、1日中仕事抜きでカーニバルのお祝いをするそうなので、休みは取れなかったらしい。私としては残念だが、その気持ちだけでも嬉しい。

7:00より朝食とし、7:45、アンジュラを会社へと送る。そして4カ国ドライブ へスタート。車の中で地図を見ながら 、走っている道を追って行くと、同じ道なのに異なる番号が書かれている 。エルマーに訊ねてみると、一つはドイツ国内の国道番号、もう一つはヨーロッパの番号だそうだ ヘェー 。国境を越えて結ばれる幹線道路には、ヨーロッパ全体の番号が付けられているようだ。

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エルマーの愛車、アウディ・クアトロTT。今からこれで4カ国を走ります

アウトバーン4号線で Köln (ケルン)方面へ向かう。ケルン辺りでは渋滞していたが、そこを過ぎるとスイスイと流れる。さらに西進し Aachen (アーヘン)方面へ。走っている車のナンバーを見ると、ドイツをはじめ色々な国のナンバーを見ることができる。国によってプレートの色、文字の色が変えてある。そして省略形だが、国名も入っている。約100Kmほど走っただろうか、国境を越えオランダへ入る。EU加盟国同士なので、国境を通過する際の出入国の手続きは一切ない。いわゆる、フリーパス。そしてオランダ、Maastricht (マーストリヒト)の街へ到着

オランダは、土地が低いせいか、霧が濃く とても寒い。駅の近くに車を置き、街を歩く 。10:00を過ぎているというのに、閉まっている店が多い。そのせいか、街は静かで落ち着いたたたずまい 。インフォメーション も閉まっていて、どこに何があるのかもわからず 、街を歩いた。

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オランダ・マーストリヒトの駅

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街の中心部へ向かう。何の塔だろう・・・?

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誰一人歩いていません・・・。とても静かでした

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マルクトのようです。あの建物は・・・?教会?○○大聖堂?

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脇道へ入ると、ご覧のとおり、街はまだ眠っているようでした

1時間半ほどぶらついただろうか、寒さのせいか私もエルマーもトイレ へ行きたくなったのだが、トイレが見つからない。ふと見つけたマクドナルド。エルマーは、「dsching (ジン)、マクドナルド へ入ろう」と言って、マクドナルドでコーヒータイム 。2人で1.6ユーロだから1杯110円ぐらいか。私がコーヒーを買っている間、エルマーはトイレへ、そして私。それから落ち着いてコーヒーを飲む。そして次の目的地へ向かうことにする

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2009年8月25日 (火)

Bergischerland ミニ旅行

2月15日(日)くもりのち晴れ

 8:30起床し、まずシャワーを浴びる。洗濯しておいた下着は、もう乾いている。さすが部屋の中は暖かいから 。9:30過ぎより朝食 とする。朝食メニューはいつも定番で、パンにハムやチーズをサンドするのだが、私の一番のお気に入りは、Leberwurst-Thüringen (リーバーヴルスト・チューリンゲン)というペースト状のハム。これをパンに塗って食べると、とても美味しい 。リーバーヴルストは元はレバーなのだが、レバー独特の臭み(?)はなく、とてもレバーとは思えない。とくに旧東ドイツのチューリンゲンのものが最高に美味しいそうだ。飲み物はコーヒーとジュース。フルーツも。それらを時間をかけてゆっくりいただく。

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皆でいただく朝食。おいしそうです。たまりません・・・

11:00ごろより、お父さんの車 (日本車です。三菱コルト)に5人乗り、皆でドライブ・ミニ旅行を楽しむ。まず、1時間ほど走り Wuppertal (ヴッパータル)の街へ。この街には、川の上にモノレールが造られ走っている。100年以上もの歴史があり、現存するモノレールでは世界最古のものらしい スゲェ! 。およそ100年ほど前には、サーカスの宣伝のためモノレールに象を乗せたところ、象が暴れ出し窓から落ちてしまったそうである ナニ! 。幸い、川までそれほど高さがなかったので、助かったそうだが ヨカッタ 。モノレール内には、その話が書かれたプレートが貼られてあった。動物園駅まで往復して、コーヒータイム をとる。

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ヴッパータルのモノレール。現役で活躍する世界最古のモノレールです。

次に、Solingen (ゾーリンゲン)の街へ行き、Schloß Burg (シュロース・ブルク)というお城へ。日曜日とあって、たくさんの人が訪れている。中は博物館になっているが、展示してあるものはどこの国も大差はない 。しかし、日本と西洋の文化の違いは分かるような気がする。ある場所では、古書や古本のバザーのようなコーナーもあり、多くの人々が足を止め、お気に入りの本を探しているようだった。

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ゾーリンゲンのシュロース・ブルク。西洋らしい造りになっています

そして、築100年を誇る Müngstener Brücke (ミュンシュテナー・ブリュッケ)という鉄橋へ。「ミュンシュテンの谷橋」とも呼ばれるこの橋は、川面からの高さ107m、橋を支えるアーチの幅は170m、長さは500mという規模だ。これほどの橋を、よくぞ100年以上も昔(1894-1897)に造ったものだ 。たまたま列車が通ったのだが、下からでは小さくて分からないほどだった。

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谷底の川辺の広場からズームして撮ったものです。

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この橋の建設、規模について書かれていました。

17:00ごろ帰宅し、ティータイム を取り、その後夕食 。この日はご飯(ピラフ)を出してくれた。日本人である私に気を使ってのことだろうか?お米はインドやタイなどでおなじみの細長い米だ。ピラフにするにはうってつけかも・・・。そして肉料理やサラダなど、バランスのとれた食事だ

そしてエルマーと明日のドライブ の打ち合わせ。彼は私のために明日・明後日とわざわざ有給休暇を取ってくれていたのだ 。地図を見ながら、どこへ行くか考える。私がふと思ったのは、ここはドイツ北西部、少し西へ走れば国境を越えることができる。そこで、「国境沿いへ向かいオランダ、ベルギー、そしてできればルクセンブルグへも入ってみたい」と話すと、ご両親からもアドバイスをいただき、エルマーも「なるほど!」ということでコースはほぼ決まった。運転はもちろんエルマー、私は地図を見ながらナビゲーターをすることになった ガンバ 。

21:30、部屋へ戻り洗濯をしてから眠る

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2009年8月24日 (月)

Bergisch Gladbach にて

2月14日(土)くもり

 明け方4:00ごろ一度、目が覚める。しばらく眠れなかったが 5:00ごろ再び眠り、気がつくと9:00だ 。昨夜、シャワーを浴びなかったのでシャワーを浴び、下着の洗濯。そして朝食 。パンにハムやチーズ、フルーツなどもりだくさん   コーヒー (エスプレッソ)とジュース(グレープフルーツ、オレンジ)も。私には、ドンピシャリの朝食だ

10:30過ぎ、エルマーの案内で、街の中心部にあるマルクト方面へ。週2回(水・土曜日)開かれるマルクトは大賑わいだ オォーッ !。

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マルクトの八百屋さん。日本でもおなじみの野菜が並んでいました。

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お花屋さんです。プレゼントや装飾用の花ですね。

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ハム・ソーセージ、チーズが売られています。さすが、ドイツ!

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果物屋さんです。この辺りは甘い香りが漂っていました。

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衣類を扱うお店もありました。何でもあり!のマルクトです。

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ここも花屋さん。でも、お庭や鉢植え用のポット苗で売られていました。

マルクトから商店街へ。銀行で100ユーロ 、カードで現金を引き出す。そして本屋へ立ち寄る。エルマーがある本 を手に取った。それは、このバーギッシュ・グラートバッハ近辺の写真集だった。彼はそれを私に見せ、「ここなんかすごいだろ!行ってみたいかい?」と訊ねてくる。先回に比べれば、時間はたっぷりあるので、彼はそれを参考にして私が実際に見てみたい ところを、案内しようとしているようだ

SATURN という大型家電店へ。CD を3枚(Nena;Definitive Collection  7.99ユーロ、Rosenstolz;MACHT LIEBE 8.99ユーロ、Yvonne Catterfeld;meine Welt 14.99ユーロ)を買う。計32ユーロ(¥4300)、いずれもシングルではなくアルバムなので、決して高くはない。日本よりは安い!

休日とあって人出は多いものの、さすがにこの街で日本人は見かけない。紅茶の専門店にも立ち寄り、アールグレイの紅茶を買う。ふと見ると日本の緑茶 も置いてあった。

そして彼らの自宅 へいったん戻る。軽く食事をし、再びエルマーと2人で外出する。

Altenberg へ。ここは古い教会だ。礼拝が行われていた。そして地元に人々には ”ドリンキング・ウォーター” とも呼ばれる湖、Große Dhünn-talsperre へ。この辺りには多くの湖がある。ここもその一つで、とても広い ヒェー !。それにしても、何故 ”ドリンキング・ウォーター” なのだろう ?とても飲めるような水には見えないが・・・?エルマーが言うには、この湖は人工湖だそうだ。「なるほど !」。それ以上は聞かなくても納得できる。

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Altenberg (アルテンバーク)。立派な教会です。

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アルテンバークには宿泊施設やレストランもあります。

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ドリンキング・ウォーターと呼ばれる人工湖。

再び彼らの自宅へ戻り、ティータイム 。お土産に持ってきた有田焼のティーセットをさっそく使う。午前中に買ってきたアールグレイの紅茶とクッキー。日本製のカップ(湯呑)と器にアールグレイの紅茶、なかなか洒落ている

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ティータイムのひととき。急須は中国のものだそうです。

そしてエルマーと共に、自宅周辺を散歩する。5分も歩くと牧草地や畑が広がっている。夕方、休日とあって、他にも多くの人々が散歩を楽しんでいる ヘェー ! 。さすが、歩くことが好きなドイツ人だ ウンウン !。45分ほど歩いて帰宅する。

しばらくはゲストルームでCDを聴きながら 休憩し、19:00ごろより、エルマーのご両親も一緒に夕食 。ステーキ(ビーフ 、ポーク 、チキン 、ラム )とラクレット、マッシュルームにパプリカなど、みんなで食べる。どれもこれも美味しい

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この日頂いたディナーです。美味しそうでしょ?

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皆揃って、楽しいディナーの始まりです。

エルマーのご両親より2年前の写真を頂いた。ツェルの街へドライブ した時の写真。懐かしい ウルウル!でも今回は、それ以上の想い出ができそうだ

夕食後、アンジュラがカーニバルのダンスミュージックのCD をかける。すると、アンジュラ、お母さん、そして私・・・、音楽 に合わせダンスが始まる。思い切り楽しむ。汗 が出てくるほど・・・。でも、すごく楽しい   宴は延々と23:00ごろ まで続いた。部屋へ戻り、洗濯をして眠ることにする。

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カーニバルの音楽に合わせ、踊ります。お父さんも大笑いしています!

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2009年8月23日 (日)

再び Bergisch Gladbach へ

2月13日(金)晴れ

名古屋10:55(LH737)15:10(LT,-8h)Frankfurt(エルマーの自家用車)17:20ごろBergisch Gladbach

 朝7:15起床し、8:20自宅を出発。兄に名古屋空港まで送ってもらう   。(* 2004年、この時はまだ、中部国際空港はできていませんでした。)9:00前には空港着。1年8ヵ月ぶりにドイツへ旅立つ。前夜のEmail でエルマーがフランクフルトまで迎えに来られると分かって一安心

空港で航空券をバウチャーと引き換えチェックイン。今回はルフトハンザ航空 でフランクフルトへ直行。出国手続きをし、出発ロビーの免税店で焼酎と煙草 を買う。焼酎はお土産だ。10:25より搭乗開始。窓側のシートだ。ほとんどが日本人客。10:55に飛行機は動き始め11:10ごろ離陸した。

飛行機は岐阜県上空へ。日本アルプスの山々、遥かには富士山 も見渡せる。飛行コースは、日本海を北上し、ハバロフスク上空よりシベリアを横断、サンクトペテルブルグ、ヘルシンキ上空よりドイツへ。約12時間だ。

機内では、まずおやつ(アーモンド)とドリンクはビール を頂く。13:00ごろ食事、魚料理 (サーモンとエビ)にする。ドリンクは白ワイン 。味、量ともにやや物足りないかな 。食後、少しでも寝ようとしたのだが、なかなか寝られない

17:00ごろ、軽食でおにぎり またはサンドウィッチが出される。私はサンドウィッチとオレンジジュースを頂く。そして21:00、ドイツ時間で13:00ごろ食事、牛肉 とポテト料理にする。しかしこれも、味・量とも今一つ 。ドリンクはトマトジュースで、後でコーヒー を頂く。飛行機 は予定より30分早く14:40(日本時間22:40)、フランクフルトに到着。

(*ルフトハンザ航空の機内食 ですが、日本(名古屋)出発便はともかく、フランクフルトからの帰国便の食事は、最高でした 。この記事だけを読むと、誤解されそうですので、あえて注釈しました。)

入国審査を済ませ、荷物を受け取りに行くと、タイミングよく自分の荷物が流れて来た。そして到着ロビーに出た途端、「ジン!」とエルマーが声かけてくれた 。お互いにニッコリ と握手しながらあいさつを交わす 。そして昨年買ったというアウディ・クアトロTT で、彼らの自宅へアウトパーンを最高210km/hで走る 。一昨年来た時に撮った黄色いお城は、コブレンツにあることが分かった。フランクフルトを15:30ごろ出て、バーギッシュ・グラートバッハの彼らの自宅へは17:20着。約200km近い道程だが、2時間かかっていない。

自宅へ着くと、アンジュラも帰宅しており、快く出迎えてくれ 、再会の抱擁を交わす。日本では握手したりお辞儀をするのが礼儀だが、ヨーロッパではお互い体を寄せ合って健闘を称え合い抱擁をする。ティミとリオ(オウム )も元気だ。一昨年同様、ゲストルームに荷物を下ろし、ダイニングルームへ。お土産に持ってきた有田焼の食器(湯呑、小鉢、箸置き)をプレゼントする。「有田焼は、ドイツでいえばマイセンのようなものだよ」と、説明も付け加える。すると彼らは、とても喜んでくれた

この日の夕食は、隣に住んでいるエルマーのお母さんが手作りのピザを焼いてきてくれるそうだ。なんでも、私が再びやって来ることを聞いた時に「それじゃあ、ピザを焼いてあげなきゃ」と話していたらしい。ものすごく楽しみだ 。そして19:30ごろ、エルマーのご両親がやって来た。お母さんは、手作りのピザを見せながら「Hallo Dsching !Herzlichen Willkommen (こんばんは、ジン!いらっしゃい) 」と、大歓迎してくれた。お父さんもとても素敵な笑顔で、「Wie geht’s ?(元気だったか?) 」と、私の訪問を喜んでくれた。

私はすっかり馴染みになったこのご両親にも、お土産を用意していた。そのデザインを見たお母さんは「Wunderschön! (とても素敵だわ!) 」と喜んでくれた。とても重かったのだが、持ってきて良かった。こんなに喜んでいただけたのだから

そしてビール やワイン で乾杯し、食事。お母さんの手作りのピザは、とても美味しくてボリューム満点 今回は、ドイツ語の辞書を片手に、ドイツ語での会話も進む。私が分からない言葉は、彼らが調べて、その言葉の意味を理解することで、会話が成り立っていく。だから今回、私が有給休暇を含めて3週間の休みを取って来たことも理解してもらうことができた

私が彼らと初めてネパールで会ったとき、ドイツ語なんて何一つ知らなかったのだから、彼らにとって私がドイツ語を話せなくても仕方がないところ。少しでも話そうと努力すれば、彼らも手助けしてくれる 。私にとっても、実践の勉強の場でもある。このようにして、この夜を過ごし、22:30(日本時間、翌6:30)ごろ、さすがに眠くなって、就寝とする

P.S・・・先日、サイドバーのブログペットのメッセージ欄から、匿名でメッセージをされた方へ

どなたか分かりませんが、ご連絡、ありがとうございました。できれば、匿名にはせず、正直に名乗っていただければ、と思います。発信者名がなかったので、ここでお返事させていただきます。

ところで、その話は本当なのでしょうか?寝耳に水のことで驚きました。もちろん私は、あのようなサイトに書き込みをしたことはありませんし、まして誹謗中傷など、ルール違反です。それに、ココログで書きはじめてからずいぶんたちますので、前に書いていたサイトとは、何の関係もないし、サクラ被害情報サイトに私の現在のHNが出ること自体、心外です。迷惑なこと、この上ありませんね。

私は、その男とは何の関係もありませんし、関わったこともありません。なのに、何故私のHNを出し、憶測だけで書き込みをしたと思ったのでしょうか?ましてや恨んでいるとか嫉妬しているとは・・・?呆れて物が言えません。憶測だけで人を誹謗中傷するようなこと、まともな大人、人間のすることと思いません。ましてや私はその男に対して、何もしていないのですから、そのようなことを言われる筋合いもありません。実に卑怯で卑劣極まりない、最低の人間、いやそれ以下でしょうね。

その男については、ある女性から何度も話に聞いたことはありますが、相手にする気にもならない低俗な人間だと思っています。ですから、無視。ただ、再びそのようなことをするのであれば、何らかの法的措置も考えねば、と思います。

それともう一つ、その男が私のHNを正確に知っているところからすると、私の話は当然、あの女性から聞いたことは間違いないでしょう。以前、女性から相談を受けた際に、その男とは縁を切ったほうがいいと、何度もアドバイスしましたから。しかし、結局はそうすることもなく、今では私とは何の関係もありません。だからこそ、その男は私が恨んでいるとか嫉妬しているとでも思ったのでしょう。とんでもない勘違いです。その女性に対しては、完全に見損ないましたし、さじを投げました。本性も解りました。その男同様、もう相手にする気にもなりません。結果的に、私への誹謗・中傷を助長することになったのですから、その男同様、最低の女性だと思っています。

いずれにしても、いい年の大人のすることではない、人間として最低だというのが私の考えです。どなたか分かりませんが、これを読みましたら匿名ではなくメッセージを送ってください。よろしくお願いします。おそらく、以前から私のことを知っている方、そして上記の2人についても、ご存じの方だろうと思うのですが・・・?

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2009年8月22日 (土)

日本武尊 白鳥になる

「そこからさらに進んで、能煩野(のぼの)に着いた。そして故郷を偲んで、歌った。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし

(倭はもっとも良い国 青々とした垣のような山にかこまれ 倭はなんと美しい国)

また、こうも歌った。

命の またけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

(生命にみちみちた人よ 倭の国の 平群の山の りっぱな樫の木の葉を 髪飾りにしなさい お前)

この歌は、国思(しの)び歌。またこうも歌った。

はしけやし 我家(わきへ)の方よ 雲居立ちくも

(おおなつかしい わが家の方から 雲が立ち昇って来る)

この歌は、片歌。この歌を歌いながら、危篤状態に陥った。それでもなお、こう歌った。

嬢子(をとめ)の 床のべに わが置きし 剣の太刀 その太刀はや

(姫の床のあたりに わたしが置いて来た太刀 ああ あの太刀は)

歌い終わると、ついに息をひきとった。」(古事記より引用・要約)

これらの言い伝えを残すところが、三重県鈴鹿市と亀山市にあります。

Img057  長瀬神社(三重県鈴鹿市)

  日本武尊御陵道とあります。

  息も絶え絶えにひたすら故郷である倭・纏向(まきむく)を目指していたのでしょう。

Img058  片歌碑

  長瀬神社内にあります。

Img059  片歌碑はどうやら江戸時代に

  建てられたようです。

Img062  能褒野神社(三重県亀山市)

  古事記の中にもこの地名が出てきます。漢字は変わっていますが・・・。

Img063  宮内庁治定の御墓があります。

  それについて説明されてありました。

Img064  御墓への参道です。

  静かな所にあります。

Img065_2  ここが日本武尊御墓

  お参りすることができました。

「日本武尊の死は、早馬により倭へと伝えられた。后や御子たちは伊勢の能煩野へ下り、御陵を作り、そばの田に身を投げ出し泣きながら歌を歌った。そして、日本武尊は大きな白鳥となり空を翔り、海辺に向かって行った。」(古事記より引用・要約)

Img060  加佐登神社(三重県鈴鹿市)

  これも日本武尊像です。

  伊吹山にあるものを

  参考にしたそうです。

Img066  この地にも

  それらしき古墳があるそうです。

Img067  ここから白鳥となって

  飛び立ったのでしょうか?

いかがでしたか?興味・関心のある方にとっては、楽しんでいただけたでしょう。そうではなかった方には、少しは関心を持っていただけたでしょうか?今回は、日本武尊と二人のお妃について書き綴りました。

このカテゴリー「神話の旅」は、またの機会に違う話を書き綴る予定です。さらに古い時代の話、幼い頃に誰もが聞いたことがある話、それらの伝説の地を書いてみようと思います。

次回の旅日記は、5年前ドイツの友人エルマー&アンジュラ宅に1週間ほど滞在した時の「プチホームスティ」を紹介します。

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2009年8月20日 (木)

日本武尊 杖突坂

「玉倉部を出発して当芸野(たぎの)に着いた。”我が心はいつも空を飛んでいた。それなのに今、わが足は動かない。たぎたぎしくなってしまった。”と嘆いた。そこでその地を当芸(たぎ)という。そこからやや行ったところで、とうとう杖をついて歩かねばならなくなった。そこでその地を杖衝坂(つえつきざか)という。

尾津の埼の一本松に着いた。往路で食事をした時、そこに忘れて行った刀があった。そこで歌った。

尾張に ただに向かへる 尾津の埼なる 一つ松 あせを

一つ松 人にありせば 太刀はけましを きぬ着せましを 一つ松 あせを

(尾張の国に真直ぐに向いた 尾津の岬の一本松よ お前 一本松が人であるなら 太刀をはかせようもの 着物を着せようもの 一本松よ お前) 」(古事記より引用・要約)

日本武尊がこの時たどった道は、現在の岐阜県関ヶ原町から養老町、そして三重県桑名市へ至る国道沿いあたりであろうと推測できます。私にとっては、準地元と言えるほど近いところです。当芸野という地名は残念ながら見つかりませんでした。

Img051  杖突坂伝承地です

  岐阜県南濃町行基寺参道入り口

Img052  太刀の伝説が残る尾津神社

  三重県多度町(現;桑名市)

「三重の村に着いた。そして言った。”わが足は、三重の勾(まがり)の様だ。疲れた。”そこでその地を三重という。」(古事記より引用・要約)

これが三重県の名の由来であることは、誰もが想像するに難しくないでしょう。日本武尊の苦悩、それが現代に至るまで地名として残ることを、その時の尊は想像できたでしょうか?

この辺りでは日本武尊は、本当に杖を衝かなければ歩けなかったのでしょう。三重県四日市市にも「杖衝坂」と呼ばれるところがあります。そして坂を登りきったところには「御血塚」が残っています。尊はここで血を吐いたと云われています。

Img054  四日市市采女に残る

  杖衝坂伝承地

Img053  坂の向こうに

  御血塚が見えます

Img055  御血塚。

  奥に石碑があります。

日本武尊は、この後いよいよ、最期の時を迎えます。そこはどんなところなのでしょうか?そして何が残されているのでしょうか?

* 杖突坂と杖衝坂、どちらも「つえつきざか」と読みます。石碑に書かれていた文字の通りに表記しました。

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2009年8月18日 (火)

日本武尊 伊服岐の山

「伊服岐(いぶき)の山に着いた日本武尊は、”この山の神は素手で討ち取る”と豪語し、山に登った。山道で白い猪に出会った。”この猪は、山の神の使いだろう。今は殺さずとも帰りに殺してやる。”と言いながら登った。しかしこれが、山の神の怒りを買った。白い猪は、山の神の化身だったのだ。神は怒って氷雨(雹;ひょう)を降らせ、日本武尊はヘトヘトになった。山から降りて、玉倉部の清水で一休みした。ようやく醒めたような気持ちになれた。そこでその清水を、居醒の清水という。」(古事記より引用・要約)

日本武尊は、大きな失敗、取り返しのつかない失敗をしてしまいました。伊勢の斎宮・倭比売から頂いた草薙の剣を手放して行ったことが、慢心だったのでは?と思わざるを得ません。あの剣は日本武尊にとって、東征で何度も窮地を乗り越えた「神刀」だったはず。

伊服岐の山、現在の伊吹山は、東海地方の人々にとっては、とてもなじみ深い山である。ドライブウェイで山頂付近まで気軽に行くことができます。私も友人や、時には両親と何度も行ったことがあります。一度だけ、ドライブウェイではなく登山道を登って行ったことがあります。12月初旬でしたが、山の南側から登る登山道は、冬とはいえ陽射しもきつく、半袖Tシャツ1枚になって登りました。

頂上には「日本武尊」像があります。そのすぐそばで、私は昼食を作り始めました。ドライブウェイが完備されているところですから、レストランなど食事処もあるのですが、やはり山登りの時は自分で作ります。この日はチキンラーメンに中華丼の具をかけて食べてみました。長崎の「皿うどん」のようにならないかなー?と思ったのですが、チキンラーメンの味が強かったです。お湯で温めるだけのチキンハンバーグも。匂いにつられたのか、小さな子供が指をくわえて見ていました。

Img049  岐阜・滋賀県境に位置する伊吹山

  登山道を登っていきました。

Img050  伊吹山頂上にある「日本武尊」像。

  なんとなくイメージが違う・・・

玉倉部の清水は、麓近くにあります。とても美味しい水で、地元の方々はよく汲みに来るそうです。ただ、もう1か所、その伝説を残すところがあります。滋賀県側の米原市醒ヶ井です。醒ヶ井へも訪れたことがあります。ここは鈴鹿山脈・霊仙山(りょうぜんさん)の登山口でもあり、実際に登ったことがあります。そのとき私は日本武尊のように、頂上では数メートル先が見えないほどの霧に覆われ、ゴールデンウィークなのに霙(みぞれ)が降ってきました。もし他の登山者がいなかったら、下山道を見失っていたかもしれません。下山すると、嘘のように良い天気でした。

ここ醒ヶ井は、養鱒場としても有名です。小川を覗くと清流の中にたくさんの鱒が泳いでいます。そして鱒料理のフルコースを頂くこともできます。お刺身、フライ、塩焼き・・・あと何があったかなー?とても美味しかったです。

ただ、日本武尊が辿ったその後のルートを調べると、滋賀県側へ行ったというのは、どうにも信じ難いです。古事記によると、日本武尊は岐阜・三重県境を通っているはずですから。

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2009年8月16日 (日)

我がじいちゃん、ばあちゃん

昨日は終戦記念日、そして今日でお盆休みも終わり・・・

1週間前、このブログにも書きましたが、我がじいちゃん・ばあちゃん、我が家 へ帰って来てくれていたかな~?仏壇や写真の前にお花 ・お供え物 (果物 )・お酒 とビール をお供えしてお迎えした(つもり)なのですが・・・

 Photo  

我がじいちゃんの、凛々しい軍服姿です。オォーッ ! カッコイイ- !

Photo_6若かりし頃のばあちゃん。孫の私から見ても「きれい !」です。

ところで、我がじいちゃんは、生前 ”近衛歩兵第4連隊”に所属し、戦争へと赴き亡くなりました 。南方の海で、負傷兵や病気などの兵士を輸送する赤十字船 に乗っていたのですが、理不尽にも攻撃されてしまい ナンデダ ? 、沈没してしまったそうです 。船ごと海に沈んでしまったので、亡骸はありません

先日、たまたま Wikipedia で「近衛兵」について調べてみました。すると、次のような記述がありました。

『 第二次世界大戦 [編集]
上述の近衛師団は、太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、昭和16年(1941年)12月8日から昭和17年(1942年)1月31日のマレー作戦には第25軍に属し、近衛歩兵第3連隊、同第4連隊、同第5連隊及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。』
ここには、我がじいちゃんが所属していた「近衛歩兵第4連隊」が、南方戦線で活躍したことが書かれていました 。じいちゃんが何故赤十字船に乗っていたかは不明ですが、いずれにしても、南方戦線に赴いたことは確かであり、何らかの怪我を負って赤十字船 に乗っていたのでは?そして・・・
「近衛兵」、決して誰もがなれるわけではなかったようです。天皇陛下直属の兵士ですから!近衛兵となるには、当時としては家柄や身分などがかなり影響したと思われます。我がじいちゃんのご先祖様をさらに遡れば、江戸時代、桑名藩の武士であったそうです ス・スゲェ ! 。
じいちゃんは、「我らの思ひ出 近衛歩兵第4連隊」と書かれた重厚な革表紙のアルバム3冊を残してくれました 。その中には、歴史的に貴重な写真が何枚も残されていました。
001  
じいちゃんが残してくれたアルバム。下のアルバムが連隊入隊後に残されたものです。
天皇・皇后両陛下をはじめ、各皇族(宮様)方。皇居(宮城)と内部。連隊の各隊長と戦友たち。さらには、日清・日露戦争で活躍された東郷元帥や乃木大将も スゴスギ ! 。これらだけでも十分に「スゴイ 」のに、もっと驚く ( ナ・ナニー !) べき写真もありました。
Photo_5
「西大尉ノ馬術」と書かれています。この写真の人物こそ、1932年ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルを獲得し、その紳士的な態度・振舞いから「バロン(男爵)西」と呼ばれた西竹一氏なのです 。ほんの数年前、映画 「硫黄島からの手紙」の公開で一躍、多くの人々に知られることとなりました。昨夜TVでこの映画が放映されていました。映画を見て、改めて当時の人々が様々な思いでこの戦争に臨んだことを知りました。この写真が撮られた頃は、大尉だったようですが、最終的には陸軍大佐で生涯を終えたそうです。
私は、「バロン西」という名前を知る前は、この写真をただ何気に見ていただけでしたが、今では本当に「貴重な写真」だと思っています。このような写真を残してくれたじいちゃん、あなたもやっぱり「スゴイ!」です アリガト 。そして・・・
Photo_4
中国・清朝最後の皇帝であり、日本の傀儡国家・満州国の皇帝陛下「愛新覚羅溥儀」。満州国皇帝陛下として招かれ、パレードした時の写真のようです ヘェー 。キャビネサイズで残されていました。
「愛新覚羅溥儀」...映画 「ラストエンペラー」のモデルと言われる人物です。私はその映画は見たことがないので、内容は知らないのですが、それでも波乱万丈な生涯を送っただろうことは、想像できます。
このような歴史的人物の生の写真を残してくれたじいちゃん。じいちゃん、どんな気持ちで戦争に立ち向かったのだろう ?一兵士として「お国のため」、近衛兵として「天皇陛下」のために戦ったのだろうか
母から聞いた話によると、じいちゃんはとても短気な性格で、間違ったことは大嫌いな人だったようです。南方戦線へ向かったじいちゃん、「お国のため」とはいえ「何故マレー半島を・・・ 」という気持ちもあったのでは?、と思うようになりました。戦いの中で「優しさ」は禁物。だからこそ、じいちゃんは負傷し赤十字船で帰ることになったのでは・・・?そして・・・命を落としました
じいちゃん、亡くなる直前、どんなことを考えていたのでしょう?安全なはずの赤十字船に乗っていて、命を落とすことになるなんて、考えてもいなかったでしょうし、それこそ、悔いを残してしまったのでは・・・? 私には、判りませんが、近衛兵として誇りを持って戦争に向かっただろうことだけは、解かるような気がします。
今、私がじいちゃんに何か話すとすれば、「じいちゃん、お疲れ様でした。盆や正月には必ずここへ帰ってきてね。お会いしたことはないけど、とても尊敬している からネ!いつでも喜んでお迎えします。」かな?もちろん、ばあちゃんだって喜んでお迎えしますよー

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2009年8月15日 (土)

日本武尊 再び尾張の国へ

日本武尊は甲斐の国、科野(しなの)の国を越え、尾張の国まで来たところ、信じられない知らせを聞いた。副将軍として同行し、帰路は古東海道を帰っていた建稲種命(たけいなだねのみこと)が、駿河の海で水死したという。日本武尊は「ああ うつつかな (ああ、本当かな)」と嘆いたそうだ。そこでその地を内津、現在の愛知県春日井市内津(うっつ、又は、うつつ)という。

建稲種命は古事記の中ではまったく記述がありません。それでも調べて行くうちに、このようなことが分かりました。もしかしたら「日本書紀」には出ているのかな?

Img026  内津神社

  愛知・岐阜県境近くにあります。

Img025  建稲種命の死を知った日本武尊の様子が

  書かれていました。

「そして日本武尊は、かねてから婚約していた宮簀媛の許へ寄った。饗宴が開かれ、宮簀媛は大酒盞(おおさかずき)を捧げた。二人は結婚した。日本武尊は草薙の剣を宮簀媛の許に置いて、伊服岐(いぶき)の山の神を退治しに出かけた。」(古事記より引用・要約)

現在、この地で日本武尊と宮簀媛といえば、もちろん「熱田神宮」。草薙の剣も、ここ熱田神宮に納められています。しかし、その頃から既に存在していたのではありません。この後に遷(うつ)されたと云われています。では、その前身となるところは・・・、前に書きました「氷上姉子神社」です。

氷上姉子神社では毎年3月最終日曜日に「太々神楽」が奉納されます。とても厳かな儀式でした。

Img036  二人の巫女さんが

  出て参りました。

Img037  本殿に向かい

  深々と一礼します。

Img038  シャンシャンと鳴らしながら

  舞を舞います。

Img039  静かに舞い続けます。

  緊張感が伝わってきます。

Img048  舞が終わります。

  3回ほど、舞いました。

カワイイ巫女さんの舞の次は、神楽師の奉納です。面をかぶった滑稽な動きの舞もありました。これには宮簀媛もきっと大満足で、お笑いになられていることでしょう。

Img040  神楽師が登場。

  まず、本殿に一礼します。

Img041  蹲踞の姿勢から、

  どんな舞を披露するのでしょうか?

Img042  力の入った

  男性らしい舞です。

Img043  追儺の舞

  何やら滑稽な動きもありました。

Img044_3  お囃子にのせて

  舞い続けます。

Img047  違う面をつけて、

  高笑い・・・?でしょうか?

Img045  神楽師と共に巫女さんが

  どんな舞を奉納するのでしょう?

Img046  静かでで厳かに

  舞は続けられました。

氷上姉子神社では、このような神楽がご祭神・宮簀媛命に御奉納されます。滅多に見られないものだけに、とても良い機会でした。これも、日本の伝統芸能、いつまでも残していってほしいものです。

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2009年8月14日 (金)

健康診断の結果

が、郵送 で届きました。さっそく見てみました 。総合判定に、「心電図経過観察」「胸部放置可」とありました オォーッ ! 指示・指導には、「心電図検査に関して、経過を観察して下さい」「胸部レントゲン検査において、多少の異常は認められますが、日常生活に差し支えありません」との記述が・・・???なんのこっちゃ・・・???

心電図検査、つまり循環器(心臓)で「洞性徐脈」とある。これは前回も指摘されている。そういえば、ずいぶん前「脈が遅い」と言われたことがありました エェッ? 入院経験があったので「落ち着いて受診できたのでしょう」とその時に言われた ナァンダ !!まぁこれは、放っておいても良さそうだ

胸部レントゲン(呼吸器)検査では、「左下肺野陳旧性所見」とありました。しかしこれも「放置可」とありますから、放っておいて良いということです

他の検査項目の結果を見てみましょう。

肝機能検査は、GOT(標準値は40以下)は16、GPT(標準値35以下)は14、γ-GPT(標準値60以下)は34、ALP(標準値80~280)は136、どれもこれも言うことない結果でした 。腎機能や尿酸値も標準値以内です オォーッ!スゲェ!

脂質は・・・、総コレステロールは標準値以内ですが、HDLコレステロールは・・・、標準値35~70をはるかに超える86 ナ・ナンジャトォ   前回(昨年)は92でした。しかし、このHDLコレステロールは「善玉のコレステロール 」と呼ばれ、血管壁の垢落としをすると言われており、動脈硬化の予防には必要なコレステロールです アリガタヤー!

動脈硬化予防に必要なコレステロールが、標準値の最高値よりもまだ2~3割多かった のです   我ながら、「スゴイ 」と思いました

血液検査の結果も、すべて標準値内 でした。そして、判定一覧は・・・、初めに書いたこと以外すべて「異常なし」という結果

どうやら私の身体、まだまだ元気なようです 。若い者に負けるもんか ガンバ

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2009年8月13日 (木)

日本武尊と弟橘姫 入海神社

日本武尊のお妃として東国遠征に同行した弟橘姫。走水の海で夫である日本武尊の武運を案じ、自らの身を尊(みこと)に代わり海神に捧げました。その後、関東一円にこれにまつわる地名などが多く残っていることから、当時の日本武尊の悲しみの深さを窺い知ることができます。

では、弟橘姫の故郷、尾張の国緒川はどうだったのでしょうか?実はこの地にも、信じ難い不思議な話(現実的には、決してあり得ないだろう出来事)が伝説として残っています。それは・・・、この地にも「姫の櫛が流れ着いた」そうです。姫の故郷への想いが愛用の櫛に伝わって、この地へ流れたどり着いたのでしょう。

事実かどうかは別にして、私はこの話、信じたいです。いにしえの時代のロマン・・・、ファンタスティック!です。だからこそ、古事記は面白いし、古の人々の豊かな想像力に脱帽!です。現在、この地には「入海神社」があります。この名の由来は、もう言うまでもないでしょう!まさに、そのまま!です。

愛知県知多郡東浦町緒川に入海神社があります。ご祭神は弟橘姫一神だけです。日本武尊は、残念ながら祀られていません。日本全国、数多く神社はありますが、弟橘姫一神だけを祀る神社は唯一ここだけです。また、弟橘姫の父、忍山宿禰は姫の死を彼の死後も嘆き悲しみ、墳墓から「泣き声がした」と言い伝えられています。参道には「夜泣き石」が今も残っています。

Img001  入海神社の鳥居

  石段を登り境内へ行きます。

Img004  入海神社本殿。

  弟橘姫の木彫り像が祀られています。

Img003  弟橘姫の辞世歌碑。

  この地にも当然ありました。

  姫を偲ぶ人々の心が

  伝わってきます。

ここ入海神社では、毎年10月に「駆馬(おまんと)神事」が行われます。悲運の死を遂げた姫を慰めるには、うってつけの勇壮なお祭りです。

Img006  入海神社の神事の前、

  出番を待つお馬さんたち。

Img007  祭りは、勢いよく走る馬と共に

  若者が一緒に走ります。

Img010  簡単そうで難しいようです。

  馬のスピードについて行けない若者も…でも、みんな頑張っています。

  昔から伝わる伝統のお祭り・・・

  誰もが真剣でした。

Img011  とにかく必死です。

  何とか一緒に走るゾ!と。

Img013  本殿では、可愛い子供が

  舞いを披露していました。

弟橘姫、ご存じの方はもちろん、そうでなかった方は今後、ぜひ心に留めていただきたい古代史のヒロインです。私の部屋には、走水神社のレリーフの写真(昨日ブログ記事に掲載)を引き伸ばし飾って、毎朝その辞世歌を唱え「今日も1日無事過ごすことができますように」と、お祈りしています。そしていつも、弟橘姫のご加護を得て、日々を過ごしています。

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2009年8月12日 (水)

日本武尊と弟橘姫 東国遠征

「相模の国に着いた。その国造に欺かれた。”この野の中に沼があります。その沼に住む神は、大変凶暴な神です”。その神を見ようと日本武尊は野の中に入ると、国造は野に火を放った。たちまち火に囲まれた一行。日本武尊は叔母の倭比売からもらった袋を開けると、火打石が入っていた。まず剣で草を薙ぎ払い火打石で草に火をつけた。風が向かい火となり、火勢は向こうへと押し寄せた。その間に脱出し、そして国造を斬り殺し、その場で死体に火をつけて焼いた。そこで、その地を焼津という。」(古事記より引用・要約)

現在の静岡県焼津の地名の由来です。しかし、その頃は静岡近辺も相模の国だったのでしょうか?また、日本武尊が持っていた剣、倭比売からいただいた天叢雲剣ですが、この時以来、「草薙(くさなぎ)の剣」と呼ぶようになりました。静岡には実際に「草薙」という地名も残っています。

「さらに東へ行き、走水(はしりみず)の海を渡ろうとした。わだつみの神が波を立て一行の船は波に翻弄され進むことができない。そこで同行しているお妃の弟橘姫が、”これは海神(わだつみ)の仕業でしょう。私が海に入ってなだめて参ります。どうか御子はお役目を立派にお果たしなさいませ”と言って、菅畳八枚、皮畳八枚、絹畳八枚を波の上に敷き、その上に降りた。そのときに弟橘姫が詠った歌、

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

(相模の野原に 燃え立つ火の中で 私を心配して下さいました あなたを今も 忘れられないのです)

弟橘姫が海に沈むと、やがて荒波は鎮まり、船は進んで、無事上総の国に着いた。七日後、弟橘姫の櫛が海岸に漂着した。その櫛を取り、陵(みささぎ)を作り、中におさめた。」(古事記より引用・要約)

弟橘姫はどのような気持ちで、海に身を投じたのでしょうか?御子のお妃として、妻として、夫である日本武尊が、「立派に役目を果たして都へ帰ってほしい」、という気持ちだったのでしょうか?今の時代に弟橘姫のような女性はいるのでしょうか?この弟橘姫の献身的な愛情に心を打たれ、私はずいぶん前ですが、一度だけ走水(現;神奈川県横須賀市走水)を訪れました。

当時はカーナビなどあるはずもなく、大雑把な道路地図しか持ってなくて、走水神社の場所は全く分かりません。それでも、とにかく横須賀市へと向かい、海沿いの国道を走り、走水へ着きました。しかし、国道沿いを走っても神社は見つからず、やがて走水から外れてしまい、Uターンして、走って来た道を戻りました。そしてふと左折できる道を見つけ、左へハンドルを切ると・・・、正面に見えたのは、神社の鳥居!

「エッ?ま・まさか・・・?!もしかしたら、導かれたのかな・・・?」

この地へ来て見つけられずに居る私を見て、きっと「助けてくれた」のだと思います、思いたいです。この時、私の古くからの旅仲間(当時、横浜在住)が一緒だったのですが、彼も「きっと、そうだよ。導かれたんだよ」と話していました。私はここで「お守り」と「辞世歌の色紙」を買い求め、それらは今でも私の部屋で、私を日々見守ってくれています。

Img014_2  走水神社。ご祭神はもちろん、

  日本武尊と弟橘姫です。

Img015_2  走水神社の由緒が書かれています。

  近代になってからの意外な事実も・・・。

Img017  弟橘姫、入水時のレリーフ。

  もちろん想像図でしょうが・・・。

  こんな感じで海に入ったのでしょうか?

  姫の気持ちが偲ばれます。

Img020  入水時の辞世歌の碑。

  「さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」

  明治末期、東郷元帥、乃木大将らによって建立されたそうです。日清、日露と海での戦いを制した男たち、解かる気がします。

Img019  神社から見た走水の海。

  古の時代、この海に弟橘姫は・・・(泣)。

私はさらに、たまたま仕事で行く機会を得て、千葉県内を訪れました。あいにくの天気でしたが、その際にもゆかりの地を訪ねてみました。

Img021_2  茂原市本納にある橘神社。

  名前からして、想像できますよネ。

Img022_2  弟橘姫御陵墓と伝えられています。

  傷心の思いで、日本武尊はここに

  姫の陵を作ったのでしょう。

  訪れることができ、感激です。

日本武尊はその後も、荒ぶる蝦夷(えみし)を服従させ、山河の荒ぶる神々を平定していった。しかし、夜になると自分のために海神に身を捧げた弟橘姫を、哀れみ懐かしみ、「あづまはや」と何度も嘆き悲しんだそうです。それ故、東国つまり「東」を「あずま」とも読むようになったそうです。「橘」とか「吾妻」という地名があれば、その由来はここから来ているものだと考えられます。また、これらの名がつく神社も、そのご祭神は「日本武尊」と「弟橘姫」だと考えてよいと思います。

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2009年8月11日 (火)

日本武尊と弟橘姫 尾張の国

「日本武尊は西国遠征(熊襲平定)を終え都へ帰ると、父・景行天皇はすぐさま東国遠征を命じた。日本武尊は叔母である伊勢の斎宮・倭比売のところへ立ち寄り、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と「もし万一のことがあったら、この袋の口をあけるように」と小さな袋を手渡した。そして、尾張の国へ着き尾張の国造のところへ逗留した。」(古事記より引用・要約)

*天叢雲剣・・・伊耶那岐神(いざなぎのみこと)・伊耶那美神(いざなみのみこと)の子である須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時、その大蛇の体から珍しくも鋭利な太刀が現われた。その太刀こそが、この天叢雲剣だと伝えられています。

尾張の国造の邸宅があったであろうと言われるところが、現在の名古屋市緑区大高町である。建稲種命(タケイナダネノミコト)がお迎えし、建稲種命の妹、宮簀媛(ミヤズヒメ)をお妃にしようとした。しかし東征に同行するには危険と判断し、婚約だけ交わし宮簀媛はこの地に残り、建稲種命は副将軍として同行した。これに関しては古事記には記述はありません。

宮簀媛は、古事記からの言い伝えでは、当時すでに尾張の国造だったのか、その後国造になったのか、はっきり分かりませんが、いずれにしてもこの地を治めていたそうです。

現在、この地に「氷上姉子神社」があります。ご祭神は宮簀媛命となっています。

Img031  氷上姉子神社

  一見、どこにでもありそうな神社ですが…

Img032  とても由緒正しき神社です。

  熱田神宮の前身とも言うべき

  歴史のある神社です。

Img033  宮簀媛宅址です。この広さなら

  立派なお屋敷があったと思われます。

日本武尊が、いよいよ東国遠征へと出立する際、「陸を行くより海を行く方が早い」との助言を受け、やや南に下った緒川の地(愛知県知多郡東浦町)へ行き、その地を治めていた穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)に協力を依頼。その際、娘の弟橘姫(おとたちばなひめ)をお妃に迎え、たくさんの従者と共に姫も東征に同行することになった。

この地にも、弟橘姫をお祀りする神社があります。しかし、ここを紹介するためには、先に東国遠征のことを書き進めなければなりません。日本武尊一行は、ここ緒川の地から船で東へ向かったと伝えられています。

古事記には宮簀媛と結婚の約束をした後、相模の国に着くまでの記述がありません。私なりに文献などを読み調べた結果、知り得たことです。次は、古事記に基づいて私が訪れた関東地方のゆかりの地を書き綴ります。

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2009年8月10日 (月)

日本武尊と弟橘姫 はじめに

私の隠れた趣味のひとつ、それは神話や古代史の話。特に古事記に出てくる神話が大好き。小さい頃誰もが聞いたことがある「因幡(いなば)の白うさぎ」「ヤマタノオロチ」「ウミヒコ・ヤマヒコ」の話も古事記の中の話です。そして、実在したのかどうかは別にして、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」の話が大好きです。

20代後半の頃、プライベートはもちろん、仕事ついでに「ゆかりの地」を訪れたことがあります。今回はまず「日本武尊と弟橘姫(おとたちばなひめ)」について、自分なりに調べ、訪れたところを書き綴ってみようと思います。

が、その前に「日本武尊」とは?、「弟橘姫」とは?、ということで、ウィキペディアより引用し、紹介します。

日本武尊(やまとたけるのみこと、『古事記』では倭建命と表記)こと小碓命(おうすのみこと)、またの名を日本童男(やまとおぐな)は、景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。日本神話では英雄として登場する。記紀の記述によれば、2世紀頃に存在したとされる。

日本武尊は『日本書紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。

  • 妃:両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
  • 妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)
    • 武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王) - 讃岐綾君宮道君の祖。
    • 十城別王(とおきわけのみこ) - 伊予別君の祖。
  • 妃:弟橘媛(おとたちばなひめ。穂積氏忍山宿禰の娘)
    • 稚武彦王(わかたけひこのみこ)
  • 妃:山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
    • 足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦噉竈見別王) - 鎌倉別の祖。
  • 妃:布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
    • (稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。
  • 一妻(名は不詳)
    • 息長田別王(おきながたわけのみこ。『古事記』のみ)

兄に大碓命。『日本書紀』によると、ヤマトタケルとこの大碓皇子は双子であるとされる。

『古事記』と『日本書紀』では日本武尊の兄弟や、妃と子の関係にかなりの異同がある。また『古事記』は倭建命の曾孫(ひひこ)である迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるという不可解な系譜を載せている。このことから景行天皇と日本武尊の親子関係について否定的な見解が示されている(吉井巌、菅野雅雄など)。

西征 [編集]

父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのことで小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭姫命斎王を勤めていた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった(『日本書紀』では、兄殺しの話はなく、父天皇が一旦平定した九州地方で、再び叛乱が起きたため、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている)。

九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた(『日本書紀』では熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされている点と、台詞が『古事記』より、天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じである。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記される)。

その後、日本武尊(倭建命)は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み殺してしまう(『日本書紀』では崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、全く同型の話が見えるが、日本武尊(倭建命)の話としては出雲の話は全く語られていない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける)。

東征 [編集]

西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は日本武尊(倭建命)に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う(『日本書紀』では当初、大碓命が東征の将軍に選ばれたが、彼は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が名乗りを挙げる。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢に寄って、倭姫命より天叢雲剣を賜る。…ここの部分が最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命も存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく展開となっている。天皇の期待を一身に受けて、出発する日本武尊像は栄光に満ちており、『古事記』の涙にくれながら旅立つ倭建命像とは、イメージに大きな開きがある)。

倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く(『日本書紀』にはない)。

相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という(『日本書紀』では駿河のこととなっているが大筋はほぼ同じで、焼津の地名起源になっている。ただし、火打石は叔母に貰った物ではない)。

相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

  • さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも
相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……
「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母」

弟橘姫は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた(『日本書紀』では「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったことが明記されており、同様に妾の弟橘媛の犠牲によって難を免れたことが記されているが、和歌の挿入はない)。

その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ…)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマと呼ぶようになったと言う。また甲斐(山梨県)の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」との下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る(『日本書紀』ではルートが大きく違う。書紀では上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)まで至っている。陸奥平定後は『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って鳥居峠(群馬・長野県境〉で、「あづまはや…」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を蒜で殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る)。

尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討ち取ろうと、出立する(『日本書紀』では経血について詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行く経緯に差はない)。

素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ヶ原町あるいは米原市の両説あり)で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となっていた。

弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部~三重北部)と進んで行く。ここでは地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情を映し出す描写が続く。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命はついに「倭は国のまほろば…」以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである(『日本書紀』では日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったことから、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わして報告させ、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父親である景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌となっており、倭建命の辞世としている古事記とほぼ同じ文章ながら印象が異なっている)。

倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは尚3首の歌を詠いながら、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌[2])となった(『日本書紀』では父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[3]となって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されていたという)。

白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう(『日本書紀』では白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)となっていて、その3箇所に陵墓を作ったとしている。こうして白鳥は天に昇っていってしまう。その後天皇は、日本武尊の御名代として武部(健部建部)をさだめた。『古事記』と異なり、大和に飛来している点が注目される)。

続いて「弟橘姫」についてです。

弟橘媛/乙橘媛(おとたちばなひめ)は、日本神話に登場するヤマトタケルの后。弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)、大橘比売命(おおたちばなひめのみこと)、橘皇后(たちばなのおおきさき)『古事記』では弟橘姬とも言う。彼女の事跡は日本書紀景行紀、および古事記の中巻、常陸国風土記に記されている。

穂積氏忍山宿禰(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘だという。尊との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)を設ける。

尊の東征に同行。走水(はしりみず)の海(現在の浦賀水道)に至った時、尊の軽はずみな言動が海神の怒りを招く。海は荒れ狂い、先に進むことが不可能になった。海神の怒りを解くため、弟橘媛は「私は夫である皇子の身に替わって海に入水します。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」と念じ、浪の上に管畳八枚、皮畳八枚、絹畳八枚を敷いて、その上に座って入水した。すると波が穏やかになり、船を進めることが可能になった。彼女が持っていたは、七日後、海岸に流れ着いた。現在の東京湾沿岸には、こゆるぎという地名や、袖ヶ浦、袖ヶ浜などという地名が多くあるが、これは弟橘媛の帯や袖が流れ着いたという伝説に基づいて名付けられた地名である。

媛を忘れられない尊は、『日本書紀』によれば碓日嶺(うすひのみね。現在の碓氷峠)、『古事記』によれば神奈川県の足柄の坂本(足柄山)において、「吾妻はや」(我が妻よ)と嘆いた。日本の東部を「あずま」と呼ぶのは、この故事にちなむという。いわゆる地名起源説話である。

『古事記』では弟橘姫は海に身を投じる際、

さねさし 相武(さがむ)の小野(おぬ)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母

と詠んだ。「相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味である。相模国造にだまされ、火攻めにあった時のことを言っている。古事記にのみ存在する歌である。尊に対する感謝の気持ちがよく表れている。尊の「吾妻はや」という言葉とあわせると、ふたりは固い絆で結ばれていたことがわかる。

お二人についておおよそのことがお解かりいただけたでしょうか。私自身も、「古事記と日本書紀で、ずいぶん違うんだー!」と思いました。私は「古事記」派ですので。だったら「日本武尊」ではなく「倭建命」と書くべきなのですが、やはり「日本武尊」と書くほうがピンと来ます。

とりあえず今日は「はじめに」ということで、事前に少しでも知っておいていただきたいと思い、次回からは私が実際に訪れた「ゆかりの地」を写真と共に書き綴っていきたいと思います。

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2009年8月 9日 (日)

盆近し

すでにお盆休みの人々も多いのでしょうが・・・。

毎年この頃思うこと、それはやはり戦争で亡くなった祖父をはじめとした、あの世にいる家族のこと。ご先祖様たちは、盆になると帰って来る、と言われますが、ある方の話によると、”本当”だそうです。人は生前からそう聞かされているので、お盆になると帰らなければと思い、帰ってくるそうです マジ 。(ですよネ!ウ○○○ーネさん !)

気がかりなのは、帰る家がなくなってしまっている場合のこと。実は、私の母の実家 は住む人がいなくなり、取り壊してしまったのです。で、そういう人はどこへ帰るのか?と訊ねてみたところ、心の中でもいいから「こちらへ帰ってきてください 」と願えば、その思いが届いて、ここへ帰って来てくれるそうです 。(ですよネ!ウ○○○ーネさん !)←度々すみません。

私の父は13年前、肺癌で亡くなりました。まだ65才でした。祖母は11年前の年末、老衰で亡くなりました。祖父は戦争中、南方の海で亡くなりました。そしてもう一人。幼い頃の私をとても可愛がってくれた伯父、同じ末っ子という立場から、より可愛がってくれた伯父、祖母が亡くなるよりも早く、まだ50代の若さで亡くなりました。

父はともかく、祖父母と伯父には帰る家がないので、ぜひ我が家 に!と思っています 。我が家では、母が仏壇だけではなく、若かりし頃の祖父母の写真、伯父の写真を置き、その前にご飯などをお供えしています。もちろん父と、父方の祖母へもお供えしています。みんな無事に、我が家へ帰って来てくれるでしょうか

それから、もう一つ別の大事な家族たち。かつて飼っていたペットたちです。犬のケンタ 、インコのリオちゃん 。この子たちの写真も飾って、お供えしています。あの世でひもじい思いをしないように!ケンタはご飯、でも時々手羽先(時にはフライドチキン)を食べた後の骨をお供えしたりもします。リオちゃんは、私が朝トーストを食べているときに落ちるパン粉を、良くつついて食べていました。他にゆで卵の黄身やフルーツが好きな子でしたので、それらを少しずつお供えしています。

みんな今頃、あの世で準備しているのかなー?「そろそろ、お盆だから、帰るとするか!」とでも言いながら

私は喜んで、お迎えします !オヤジ、じいちゃん・ばあちゃん、おじちゃん。それからケンタにリオちゃん。そうそう、リオちゃん、他の先輩インコたち(ヒメちゃん、キコちゃん...)も一緒に連れてくるんだよ!

さて、次回からの旅日記は、今までとは少し趣向を変えて書き綴る予定です。どんな話になるかは、読んでみてのお楽しみ!興味ある方には面白いでしょうが、そうでない方には、全然つまらないものになりそう・・・。

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2009年8月 8日 (土)

素顔のバンコク見聞録 最終回

気がかり

それぞれ自由行動するとき、俺はカトマンドゥまでのチケット の情報を仕入れるため、あちこちの旅行代理店を回った。我々が泊まっているプライバシー・ホテル 近辺は、安宿が多いせいか、バックパッカーも多く、格安チケットを扱う店も多数ある。そんな中で、カトマンドゥまで片道$160(≒25000円)という店を見つけた

しかし、予約はしなかった。日本を出る前の父の体のことが気になっていたからだ 。ここバンコクからなら、電話連絡も取りやすいが、ネパールへ入るとなると、通信事情は悪くなるし、すぐには帰ることができないからだ。

バンコク2日目(3/2)の午後、自宅へ電話 してみたが、留守だった 。夕方再度してみたが、同じ。その翌日(3/3)も、旅行代理店を回り、街の中をぶらぶらしながら、電話局へ行き、自宅へ電話する。午後4時と言えば、日本なら午後6時。「いくらなんでもいるだろう」と思ったのだが、またしても留守 。いやな予感がする

帰国を決意

4日目(3/4)は、高田さんらと共に貸し切りボート で運河巡り。その後、今度こそは ?と思いながら、自宅へ電話 する。日本時間なら午後6~7時。夕食時の頃だ。しかし・・・、またしても・・・ 「何かあったに違いない 。父が入院したのでは・・・?3日も続けて連絡 取れないなんて、あまりにもおかしい 」。父が入院しているような時に、好き勝手に海外を放浪しているとなると、姉や兄はもちろん、親戚に何を言われるか、想像するに難しくない 。俺は帰国を決意した

5日目(3/5)、パキスタン航空 のオフィスへ行く。日本へは週2便だけ。次の便は3月7日午前1:55、つまり明日の深夜過ぎである。予約を取ろうとするが、キャンセル待ちである 。この時期の日本は、学生の休みと重なることもあり、チケットが安いパキスタン航空は、アジアはもちろん南回りでヨーロッパ方面へ行く学生たちにも、よく利用される。

6日目(3/6)、再度パキスタン航空へ。「父が入院したから、どうしても帰らなければならない」と嘘(?本当かも?) を言って、緊急事態であることを伝えると、RQ(キャンセル待ち)のサインを頂き、「空港でトライしてみなさい」とのことだ ガンバ 。

帰国へ

到着時に知り合った高池君と瀬戸口君は、すでに次の目的地へ旅立っていた。高田さんに「乗れるかどうか分からないけど、とにかく行きます。もし乗れなかったら、明日の朝ここへ戻ってきます」と、一応別れを告げた

少しだけ買い物をし夕方、トクトクに乗ってフォアランポン(バンコク中央)駅へ。17:15の列車 に乗る。迎えに座った小さな子供連れの女性がふいに「日本人ですか?」と、たどたどしい日本語で話しかけてきた オォーッ 。驚いて話をすると、その方のおばあさんが日本人だそうで、今も大阪に住んでいるそうだ。日本へも行ったことがあるそうだが、もうずいぶん前のことらしい。それでも少しは日本語を覚えているのが、素晴らしい

その女性が「日本にマンゴーはありますか?」と訊ねるので、「いえ、日本にはほとんどないです。(*今でこそ沖縄どころか九州でも栽培していますが、その頃はマンゴーが市場に出回ることはなかった。)」と答えると、買い物袋からマンゴーを取り出し「どうぞ 」とプレゼントしてくれた 。しかし、「どうやって食べようか?」と考えていると、「そのまま食べればいいですよ」と言う。「エッ?」と思いつつも、マンゴーをそのまま丸かじりした。ジューシーで甘く、とてもおいしいマンゴーだった

43  トクトクの中から

  道は車でいっぱいです

44

 バンコク中央駅

50_6  列車から見た風景

  お寺かな・・・?

ドンムアン駅(空港駅)で降り、空港内へ。チェックインまで、まだかなりの時間がある。コーヒー を飲みながら休んでいると、2人の日本人男性(山崎さん、高岡さん)と出会った。彼らはバンコクからシンガポールまで、マレー半島を自転車 で旅したそうだ。彼らに事情を話しキャンセル待ちだということを説明すると、「3人で一緒にチェックインしてみれば?自分たちは予約取れてるから、まさか一人だけキャンセル待ちとは思わないだろうし 」と、提案してくれた 。そして、俺のチケットを下にして3人まとめてチェックイン。彼らの言う通り、搭乗券が発行され、大成功 彼らに感謝 しながら、最後に一緒にビール で乾杯した。

52  バンコクよ、サヨナラー

  ありがとう!楽しかったヨー

最後に

3月7日昼ごろ、1週間ぶりの日本。誰がこんなに早く帰ってくることを予想しただろうか?ネパール、チベットは当分お預けになってしまった。

ほんのわずかの滞在だったバンコク。でも本当に面白かった 。屋台のおっちゃん、おばちゃん、英語が全く通じないトクトクの兄ちゃん。汽車の中でマンゴーをくれた子連れのお母さん。そして’天使’。皆それぞれ一人の異邦人の旅の演出をしてくれた。そしてバンコクの街で、力強く生きてゆくのでしょう!再びバンコクの街を訪れることができるのなら、あの界隈をもう一度歩いてみたいものだ。

3月7日帰国。日本は雪国 であった。

*後日談ですが、連絡 がとれなかったのは、「病院 の帰りに映画 を見てきた」ことと、私の旅に合わせ、「親戚と一緒に旅行していた」ためで、父の体調に関しては、何の問題もありませんでした

カテゴリー 「1987 バンコク」 完

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2009年8月 6日 (木)

素顔のバンコク見聞録 その4

夜の天使

バンコクと言えば、今や東南アジア随一の夜 の歓楽街 。夜、外で飲んでいると、必ずや若き娼婦 たちが出没する。が、あえて彼女たちを娼婦だとか売春婦と呼びたくない 。素顔は、心優しく、かつ、たくましい女性なのである

バンコク初日の夜 、空港で知り合った旅人同士4人で、ホテル近くのパブで飲んでいた 。そこに現れたのが、ポルという名の女の子 。彼女は我々にビールをついでくれたり、つかの間ホステスのようになっていた。

05  バンコク初日の夜。右がポルさんです。

  つい浮かれて、こんな写真・・・!

我々、時には一人で飲みに行ったこともあったが、彼女 とは、飲みに出るたびに、店を変えてもなぜか顔を合わせていた 。どうやら彼女は、この辺りの店へは、自由に出入りすることができ ナァーンダ!、そして夜の相手を探しているようだ。

我々も彼女とはすっかり話がしやすくなって、ある夜、かなり突っ込んだ話をしてみた 。そして我々は、アッ と驚く彼女らの意外な一面を知った ナニーッ 。

A:君、毎晩(男と)寝てるの

P:うん、だいたい… 。でも最近はちょっと… 。エイズの影響かな

B:君、エイズなの?

P:まさか!違うわヨ

A:一晩、いくら稼ぐの

P:4時間で500バーツ。

A:500パーツか。3000円ぐらい。

C:でも、ここの物価だと、かなりの大金 だよ。

D:日本の2~3万円に値するなー。で、お金貯めてどうするの?

P:家族に仕送りするの。

皆:エーッ

D:仕送りって?故郷はどこ?バンコクじゃないの?

P:ラオスに近い所。お母さんや妹たちに仕送りしないとね

C:今いくつなの?

P:25才。

D:俺と同じだ。もっと若く見えたけどなー!

B:稼いだお金は、ほとんど送っちゃうの?

P:ううん、私の生活費と、いつかスイスに行きたいから、少しずつ貯金してる。

A:日本は

P:日本は寒いわ 。それに物価も高いし・・・ 。そろそろ帰るワ!それじゃ、お休み!

と、こんな会話をしながら、彼女は再び夜 の街へ出て、別の店へ男を探し求めに行ったのだろう。それにしても、故郷に残る家族のために、都会へ一人で出て来て、まさに体を張って夜の街をさまよう彼女たち。悲しいことなのだが、彼女らのポリシーは、こちらの国の現状を考えると、当然のことなのかもしれない

決してすべてがそうだとは思わないが、彼女たちの生き様を知って、こちらの方の国々に生まれ住む人々の現実を知る 。そして、優しさ、たくましさを知った。彼女たちは「夜の天使 」だ

38  相変わらず・・・です。

  どうにも困った「呑んべい」です。

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2009年8月 5日 (水)

素顔のバンコク見聞録 その3

水上の生活

高田さんとバス に乗って王宮方面へと出かける。黄金に輝く寺院。天気 が良ければ、キラキラ 輝いて、さぞかし綺麗だろう。

06_2  黄金の屋根の寺院

  バンコクの象徴

高田さんが昨日知り合ったというデビッドとマイケルに会う。バンコクには多くの運河が流れている。そこで4人で運河をボート を貸し切りで周って見た。

大きなチャオプラヤ(メナム)川より、小さな運河へ入って行く。すると、タイの普通の人々の生活が、目に飛び込んできた 。運河の上に家 が建ち並び、運河へは階段で降りられる。ここに住む人々の生活の足は、ボート なのだ。そして運河自体、ここでは道路なのである。

運河の脇では、洗濯をする婦人、食器を洗うおばあさん。水浴びする子供たち、見守っているお父さん、のんびり談笑する男たち。ボートに日用品や野菜、フルーツ、おやつを乗せて行商するおじさん。手をふると皆、屈託のない笑顔で答えてくれる 。子供たちは、なんて可愛いのだろう

今や400万人都市となったバンコクの庶民の素顔を見た。そんな気がした

11_01  ボート乗り場を出発 

  たくさんのボートが観光客を待っている。

12_02  チャオプラヤ川、広いです。

  日本ではメナム川と呼んでいます。

17_07  庶民の生活が垣間見えます。

  いつも歩いているところとは違う…

18_08  洗濯しているのでしょうか?

  「何見てんだよ」とでも言いたげ…

21_11  何をしているのかな?

  でも、なんか微笑ましい!

22_12  お姉ちゃんと幼い子供

  手を振ったら、応えてくれました。カワイイ!

28_18  彼らにとって、運河は道路、

  ボートは車、なのでしょう。

31_21  ボートで行商するおじさん。

  おやつを売っていました。

32_22  古タイヤが浮き袋。

  川が庭の、元気な子供たちです

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2009年8月 4日 (火)

健康診断

を受けてきました 。年に一回必ず受診しています 。この結果を基に、日頃の生活 の見直しなど図ろうとするのですが 、このところ、全くその必要がありませんでした

受診項目は、身体計測に始まり、視力・聴力、血圧、肝機能・腎機能、脂質やコレステロール、血液検査など、多岐にわたります マジ? 。

すべての結果は1週間~10日ほどかかりますが、とりあえず、すぐに分かることもあります

身長は169,2cm。あれ、去年より数ミリ縮んでる・・・   体重は56,0kg。おーっ   相変わらずだ ちなみに、この身長での標準体重は63,0kg。なんと マイナス7kg って、痩せすぎ?いえいえ、日ごろの努力(ジョギング など)の賜物です

視力 (矯正 )は・・・、うーん、やっぱり気になっていたんですよネ~ 右1.0、左0.8。どおりで運転時、時々違和感を感じたはずだ 。仕事中以外は見やすい度付きのサングラスを愛用しているので、特に気にしていなかったのだが、そろそろ普通の眼鏡 も変え時か・・・

聴力 も問題なし。血圧は122/70と、これも問題なし。

他は・・・、とりあえず結果待ち 。これならたぶん、今年も何の問題もなさそう・・・ 。診断の後、内科医の診察があります。ほぼ毎年言われること、それは「特に注意することはありません。ただ、もう少し体重を増やしたほうがいいかな。せめて60kgぐらいに!」と。私は、「またか 」と思いながら「日頃の運動 をやめて、不節制 すれば増えると思いますけど!」と話すと、「そこまでして太らなくてもいい 」と、笑いながら話されました。

同年代ぐらいの人たちのお腹を見ると 、決して皆ではないですが、ほとんどの人がどっぷりとしてます 。が、私は・・・、ハイ (^_^)/   まったくたるんでいませーン   ウエストサイズは70~73cmをキープしています 。でも週末、飲み 歩いた後はさすがに・・・?です。まあ一時的なもの・・・ですが

同僚、特に年配者たちは「結果は見たくない 」とおっしゃっていましたが、私は楽しみ です。だけど、もし何か見つかったら・・・ 、途端に焦るかも・・・   です。 

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2009年8月 3日 (月)

素顔のバンコク見聞録 その2

拠点はプライバシー・ホテル

3月1日の朝を迎える。昨夜 遅かったので、のんびりと起きる。俺は現在地の確認のため、地図を持ってホテル の近くを歩いてみた。そして、通りの名前が分かり、現在地を特定 。皆で相談し 、ガイドブックに載っている他の安宿へと向かうことにする。

02  朝、ホテルから外を眺める

  その後、現在地を確認

4人で歩く こと、約30分、プライバシー・ホテル に到着。2組に分かれツインをシェアすることにし、1人210バーツ。昨夜のホテルに比べ、4割安い 。安宿と言っても、エアコンもあるしバス・トイレ付の部屋だ 。これなら文句はない 。皆も納得していた

この日は、皆からの提案 もあり、一応2度目の海外、バンコクも先回立ち寄っている俺がリーダーとなり、皆と共にバンコクの街を歩いた 。ラマ4世通りを歩き、駅周辺や、チャオプラヤ川あたり、道端のフルーツ屋などにも目を向けたりしていた

夕食は、ホテル近くの店へ行く。子豚 の丸焼きがある。4人でなら食べられそうなので、食べてみると、何とも美味しい 。上質のハムという感じだ。そして、その後は飲み屋 へ。水割りなどで乾杯する。明日からは、プライバシー・ホテル を拠点に、それぞれが自由に楽しむことにする。

街の様子

バンコクの街、一言で言うと、メチャクチャ !道路はバス 、自動車 、トラック、バイク、トクトクというオート三輪タクシーが、ところ狭しと騒音けたたましく走っている 。バスもタクシーも、クラクションをぶーぶー鳴らし、ぶっ飛ばしている。急ブレーキ踏まれて怒っていたら、キリがない

42  街を走るトクトク。

  料金交渉制のタクシーです。

40  大判焼き(王将焼き、今川焼とも言う)屋

  まさかバンコクにこんなものがあるとは・・・

歩道もまた、露店や屋台であふれている。フルーツや揚げ物、串焼き、大判焼きの屋台まである 。昼になると、そこら中の店は、昼食の人々でごった返す。タイ料理はたいていのものは辛い。バーミーナム(ラーメンに似ている)とかミーパット(焼き飯)は、我々にもなじめる味で、10~15バーツ。1パーツが約6円程度なので、1食当たり100円ぐらいですむ。これは大変大きな魅力だ

10  美味しそうなフルーツがいっぱい

  もう、たまりません

それにしても、これだけ屋台が氾濫していると、どちらかと言えば間食の方が多くなってしまう。特に串焼き(豚だと思う)は、お気に入り だ。でも、今の日本では、お祭り以外ではなかなか味わえない楽しみだ。

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2009年8月 2日 (日)

素顔のバンコク見聞録 その1

はじめに

1987年3月、2年半ぶりに海外へ旅立った 。目標はネパール・エヴェレストトレッキングとチベットだったのだが、事情によりわずか1週間でバンコクより緊急帰国 。でも、それなりに面白かったバンコクの街 、ほんの少し垣間見たバンコクの素顔を紹介してみたい。

バンコク到着まで

俺がネパール・チベットへの旅を決断してから、父の体調がおかしくなった 。キャンセル料も覚悟の上で、延期するか中止しようかとも考えたが 、父の「心配せんでもいい」の言葉で、気がかりではあるものの、出発することにした。

2月27日、横浜の旅仲間宅にて1泊お世話になる。彼は2年前にインドからネパール、チベットを経て中国を旅している。そこで彼に話を聞いたり、何かアドバイスをしてもらいたかったからだ。

2月28日、横浜から成田へと向かう。成田へは午後1時に到着。チェックインまでは、まだ1時間ほどあった。今回も前回同様、パキスタン航空 利用だ。ただし、チケットはバンコクまでしか買っていない。そこから先は、バンコクで手配するつもりだ。その方が日本で買うより安くすむし、前回あまり周れなかったバンコクの街を、のんびり歩いてみたかった。

チェックインを済ませ、待合ロビーで同じ便に乗る人と話をする。彼(高田さん)は、初めての海外で 、同じ飛行機でバンコクまで。そしてホテル は決めていないと言う。俺もホテルは決めていなかったので、彼に「バンコクへ着いたら街までタクシー を相乗りしましょう」と提案すると、彼も賛成してくれた。

パキスタン航空763便は定刻の16:00、成田を飛び立った。途中マニラ経由だが、バンコクへは2時間遅れの現地時間の夜中の12:00 に到着した。

01_2  飛行機から見る雲海

 一度は撮りたくなるものです

入国手続きを済ませ、成田で会った高田さんと合流。彼はもう一人瀬戸口君という男性を連れて来た。彼も泊まるところは決めていないらしい。すると、瀬戸口君は、「もう一人、同じような人がいましたよ」と言って、その男、高池君を探し連れて来た。

泊まるところを決めていない4人でタクシーを相乗りして街まで行くことにする。1人で行くよりは安心だし、タクシー代も割り勘すれば安くなる 。訊いてみると、俺以外は皆、初めての海外旅行らしい。

タクシーの運転手は、空港での交渉時「300バーツ」と言っていたのだが、途中で「高速道路に乗るから、もう100パーツ出せ」と言ってきた。俺はすかさず「サムロイ(300)パーツって言っただろ 」と、タイ語を交えて猛抗議!すると、運転手は料金の釣り上げをあきらめた。ただひとつ心配だったのは、「安いホテルへ」と運転手任せにしていたので、「どこへ連れて行かれるのか?妙な所へは連れて行かないだろうな?」ということだ。しかし、こちらも4人いる。”いざ”となれば「4人いるから、何とかなるだろう」と、皆で話していた。

到着したホテルは、マイアミホテルというところだった。夜中なので、バンコクのどのあたりなのかもわからないが、料金を訊くと1人350バーツ。俺は「やや高い」と思ったのだが、もうすでに2時近い。日本時間で午前4時だ。皆で「一人でタクシーに乗ったと思えば、その分安く済んだわけだし、今日はここで我慢しよう」ということにした。

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2009年8月 1日 (土)

暑中お見舞い申し上げます

日本特有のむし暑い夏 、このブログを読んで下さっている皆さん、いかがお過ごしですか ?夏バテ など、しておられないでしょうか

私が暮らしている名古屋は、今だに梅雨 が明けません。一体どうなっているのでしょうか ?連日ぐずついた天気 が続いています。せっかくの休みも、これではテンション上がりません 。愚痴っても何ともできないですから・・・

いつも読んで下さっている方々へ、日頃の感謝もこめて、慕辺未行(ボヘミアン、またはdsching、ジン)より、暑中見舞いを送らせていただきます。まずは、夏らしい光景をご覧ください

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大輪のひまわり、ひまわり畑、そして花火!いいでしょう

でも、もっと涼しげな写真を・・・ 、と言う方には・・・

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氷の彫刻です。スイスへ行った時に撮ったものです。

いかがでしょうか

夏の風物詩と、涼しげな写真、皆様にお届けします

慕辺未行(ボヘミアン) または dsching 、ジン より

*次回の旅日記は・・・

  22年前、1週間だけ行ったバンコクの街、その素顔を書き綴ります。

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