ムクチナート ~聖地への道~ その3
11月12日 ”ジャングルでの迷い”
キムロン7:30(徒歩)10:30タダパニ11:00(徒歩)12:00バンタンティ12:15(徒歩)13:15デオラリ13:30(徒歩)15:45ゴラパニ
毎朝のように6:30起床。ポリジ(粥)を食べてみたけど、あまりおいしくなかった 。米を粥にして、何かの薬味と砂糖を入れただけのよう。でも、もったいないから全部食べて、7:30出発。
ミラジェの村までは、きつーい登り 。しかもこの辺りは、山が低いので8時ごろには陽が射す。燦々(さんさん)と照りつける朝日
に、半袖1枚
になって歩いた。やがて、ジャングル(と言うと大げさかもしれないが、どことなく鬱蒼(うっそう)とした感じの森)に入る。時折、鳥
の鳴き声が聞こえる
。
「ジャングルを2時間行けば、タダパニだ」と聞いていたのだが、人の足跡 を追っていたにもかかわらず、落ち葉や幾本もある枝道に、完全に迷ってしまった
。どれを行けばいいのか
?すれ違う人も、道標もない
。「太陽
を背に、方角を判断するしかない
」!とにかく「西だ
」と思う方向へと進む。
2時間歩いたが、まだジャングルは続く。その間、誰一人として会っていない
。不安がつのる
。孤独感と悲壮感が、俺を襲ってくる
。
「全くあらぬ方向へ行っているのでは・・・
もしこのまま行方不明になったら・・・
誰でもいい
、ここを通ってくれ
」
こう叫びたくなるような、祈る思いだった 。歩くしかない、何も考えず、西だと思う方向へ
そして、竹で囲われた畑を発見
ということは、誰かがここへ、必ずやって来ているはずだ
。ふと、広い道に気がついた
。この辺りなら、タダパニからに違いない
これを行くしかない
1時間後、ジャングルを抜けた
タダパニにたどり着いた。3時間かかって、やっと着いた
。今までの疲れ(肉体的にも精神的にも)がドッと出て、パッティ(茶店)にへたり込んだ
。パッティの人の話によると、俺が歩いてきた道は、正規のルートとは全く反対側の、遠回りの道だったらしい
。チベッタン・ブレッド
(チベット風揚げパン)とコーヒー
で食事をとり、11:00出発。
どうしても、この日のうちにゴラパニまで行きたくて 、少々飛ばした
。1時間ほど、アップダウン
の道を行くとバンタンティ。そこでもヌードルスープ
を食べ、非常用にビスケットも買っておく
。川沿いを登って行き
、デオラリまで1時間。ここは、標高3000mで、キムロンよりはるかに高い。
シンガポールに住んでいるという日本人カップルに出会った。彼らもこの日、ゴラパニまで行くそうだ 。それぞれペース
が違うので、「ではまた、ゴラパニで
」と言って別れ、もう少し登った後は、一気に下り
だ。
14:45、予想をはるかに上回るペースでゴラパニ着 。ロッジは、評判の高い「マウンティン・ビュー・ホテル
」。設備も、まぁ、しっかりしていて、暖炉も大きい
。やがて、先ほどの日本人カップルも到着
。彼らはデオラリから1時間40分、俺は同じ道程を1時間15分で歩いた。
夕食まで、火に暖まりながら彼らと話をする 。久々の日本語での会話に、安心感
が漂う
。夕食
は、エッグ・ベジタブル・フライドライス(卵と野菜入りの炒飯)とポテトチップス。これが、またウマイ
値段もまあまあ
だし。ミルクコーヒー
も他に比べて安い。すごく良心的なロッジだった
。
ゴラパニ、マウンティン・ビュー・ロッジにて
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コメント
遠回りとはいえ無事着いてよかったですね。共通の言葉がこんなに安心感を得るものだということは外国に行くと痛感しますね。
「故郷の訛りなつかし」ではないけれど、一昔前までは訛りを懐かしがったんだから。
それで思い出しました。15年以上も昔の話。曙、小錦、武蔵丸が現役だったころ、宇都宮に巡業にきました。彼らと駅で会った我が家にホームステイしていたアメリカの青年「スモウレスラーが3人で英語で話していた。スゴイ!」って興奮してました。きっとかれらも、すごくリラックスしていたんでしょうね。アメリカの青年には彼らは完全な日本人に見えたようです。
本題に戻ってチャーハンとポテトチップス、奇妙な取り合わせだけれど、おいしいかも。
hannaさんへ
イヤぁ、あの時は確か途中、道なき道を行ったような記憶が・・・。もし、そのころ少しでも’山’の知識があったら、「迷った!」と思った瞬間に元の所へ戻ったでしょう。
若い時分は、同じ日本人と会うと安心しました。でも、ここ数年は、声かけられればもちろん返事はするし、会話もしますが、こちらから声かけることは滅多にありません。声かけたら実は韓国人だったり中国人だったり・・・、そんな気がして。曙、小錦、武蔵丸、懐かしいですネ!海外の人から見れば、彼らは日本人に見えるのでしょうネ!でも、やはり彼らはハワイ出身。3人寄れば母国語で会話するのは、当たり前のことだったのでしょうね。
ポテトチップスは、たぶんご存じかと思いますが、日本のスナック菓子のポテトチップスではなくて、いわゆる’フライドポテト’のことです。ネパールの山間地で思ったのは、卵とジャガイモは日本よりずっと美味しい!ということです。卵は、養鶏場の卵ではなく、’地鶏’の卵ですし、ジャガイモも農薬など一切使っていない、自然なままの味だと思います。
いずれにしても、食べるものに限りがありましたので、あれこれと選べる余地がなかったことは事実です。
投稿: hanna | 2009年6月 5日 (金) 11時17分
こんな危ない?!旅、息子にはさせられません・・ ご両親様には心配かけてませんか~ ^&^ 知らないといいのですが、目の前の冒険は心配でたまりません! でもお若い頃のご経験は 何倍にもなって蓄積となりますしね・・ ジャングル無事抜けてホッとしましたよ~
bellaさんへ
す・すいませーん!トレッキングの「いろは」も知らない若僧が、無謀なことばかりしています。「若気の至り」ということで、許してやって下さい。
でも、親の気持ちとしては、「心配で心配で、しょうがない!」のが本音なのでしょうネ!実は、ネパール入国後、インドでクーデターが起こったと知った時に、両親に手紙を書いたのですが、トレッキング後、カトマンドゥへ戻り中央郵便局で父からの手紙を受け取りました。内容は「すぐに帰ってこい!」でした。親としては、盗難に遭うわ、クーデターが起こってるわで、とても心配だったのでしょう。しかし当時の私は、それに反発するかのような手紙を書きました。「盗難に遭ったから帰ってきました」「クーデターが起こったから」では、まるで「逃げる」ようで私には何も残らない。「可愛い子には旅をさせろ」という言葉もあるように、私は父にトレッキング中の体験も含め、激しく反論する内容の手紙を書きました。帰国後、父が話してくれました。父はその手紙を読んだとき「参ったなぁ!」と思ったそうです。その顔は、どことなく嬉しそうに笑っていました。今思えば、父が私を「子供」ではなく「一人前の大人の男」と認めてくれたのかも?それ以降、海外を旅する時は、電話や手紙をこまめに書くようになりました。
今では、これらのトレッキングルートもずいぶん整備され、道標も立っているようですので、当時の私のようなことはないと思います。そして、「どんな困難にぶち当たっても、自力で何とかするしかない!」といった「強さ」を覚えたのも、この時では?と思います。
投稿: bella | 2009年6月 6日 (土) 14時37分
こんにちは~
と
そして
だったかと
無事到着して良かったです。
初めて歩く道ではやはり不安になりますからね~
ましてや鬱蒼とした道では余計に不安感を煽られますから。
よ~くわかります。
六甲山系で歩いていてもたまに「んんん!?」となりますよ(笑)
この日は大分
ちなみに六甲山系のみならず大体は指導標があるので大丈夫なんですけどね。
青龍○段さんへ
今でこそ、このルートはトレッキング地図にも載っているし、当時とは比べ物にならないほど、人やトレッカーの往来も多いようです。タダパニ村は1994年に1泊したことがありますが、この当時とは全く違っていました。とても開けていました。
私は六甲山系の山はまだ一度も歩いたことがないのですが、鈴鹿山脈の山で、正規ルートを離れ、とんでもない谷の道を下っているグループに大声で叫び、呼び戻して一緒に下山したことがあります。先日も、宇賀渓から登山した人が行方不明になったというニュースを聞きました。今はどうか分かりませんが、私が知っている限りでは、そこからのルート(竜ヶ岳)は道標も不十分だったり、途中”はしご場”もあり、そこで「違う」と勝手に判断し間違った道を行く登山者がいる、ということです。私は宇賀渓からではなく、尾根道からしか登ったことがありません。私の山でのモットーは、「引き下がることも勇気!」です。装備・天候・体調・・・、たとえ少しでも「不安」があれば、その「山行き」はあきらめます。それが「山」に対する「礼儀」だと思います。青龍さんは、この考えどう思いますか?
投稿: 青龍○段 | 2009年6月 6日 (土) 16時45分