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2009年2月

2009年2月28日 (土)

2002 ドイツ・スイスの旅 その10

部屋でしばらく休憩し、お待ちかねの夕食だ。エルマーのご両親もやって来て、今日は賑やかなディナーになりそうだ。もちろん、彼のご両親にもあいさつする。ドイツ語のアンチョコを見ながら・・・、

「Hallo ! Ich bin Jin(Dsching) aus Japan ! (こんにちは!私は日本から来たジンです!)」

「Wie geht's Ihnen ? (ご機嫌いかがですか?)」

「Ich freue mich , Sie kennen zu lernen ! (お会いできて、とても光栄です!) 」

あいさつ程度の会話しかできないが、それでもエルマーのご両親は笑顔で歓迎してくれた。そして、エルマーはこんな俺を・・・、

「ジン、君のドイツ語はなかなか上手だ。ドイツ語はアクセントは気にしなくていい」と、話してくれた。

ほど良く焼けた肉から美味しく頂くことにする。その前に、もちろんビールで「乾杯!」と、日本語でグラスを合わせる。エルマーのご両親は、「カンパイ・・・???」と、言っていたが、彼が「カンパイはプロースト (ドイツ語) だよ」と説明すると、「オォー!」と納得したように「カンパイ!」 と笑顔でグラスを合わせた。

そして、ラム、ポーク、フランクフルト・・・、どれもこれもやはり美味しい。特に、フランクフルトソーセージは、日本のものとは明らかに異なる。濃厚でジューシー。味の決め手はいったい何だろう?ハーブかな?良質の肉?熟練された技?いや、そんなことはどうでもいい。とにかくウマイ!

サラダもいただく。サラダはアンジュラの手作りだ。おいしい!肉と野菜、バランス良く摂っているんだなぁ!そう、あのピンク色の「魚です」といっていたもの、実は、何と以外にも ” 塩辛 ” だった。日本のものとは多少違うが・・・。何の魚かはわからなかったが、ちょっと変わった味で、ドイツの人々が食べる物のイメージからはほど遠いような気がした。

何杯目かのビールの時に、ドイツ語で

「皆の幸せを祈って、乾杯!」と言うと、大受けだ。さらに、

「ドイツと日本の友好を願って!」と続ける。

そして俺は日本から持ってきた焼酎で、ムスタンコーヒー を作り、皆に味わっていただくことにする。エルマーは、焼酎を見せたとたんに

「オォ!ジン、ムスタンコーヒーを作ってくれるのかい?」と嬉しそう。そして一口飲んだ途端に、

「オォ!たしかにムスタンコーヒーだ!」と叫んでいる。

アンジュラやご両親にも

「ウン、なかなかおいしいわヨ!」と好評だ。

あのエヴェレスト・トレッキング以来、エルマーとこうして再びムスタンコーヒーを飲める日が本当に来るなんて、感無量だ。そのために来たようなものだから!

明日の予定だが、アンジュラは ”ライン河下り” を考えていたようだが、エルマーのお父さんから、「一緒にモーゼルの方へドライブ に行こう」と誘っていただいた。そちらの方も景色が良く、素敵なところであるらしい。どのあたりなのか全く知らないのだが、初対面の俺を、このように誘っていただけるので、連れて行っていただくことにする。

食後は、昨日プレゼントした浴衣をアンジュラが持って来て、もう一度、帯の締め方を教える。それを見ていたエルマーのお母さんは、「バタフライ(蝶々)のように結べばいいのネ!」と、一度見ただけで覚えてくれたようだ。さすが、女性はこういったものの覚えは早い。そして一緒に写真を撮ったりして楽しむ。

明日の起床時間は7:30と約束して、皆それぞれ部屋へと戻る。シャワーに洗濯をして眠ることにする。

バーギッシュ・グラートバッハ エルマー・アンジュラの自宅にて

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2009年2月26日 (木)

2002 ドイツ・スイスの旅 その9

昼食を終え、お腹はパンパン!当たり前か!

しばらく歩くと、両替所があったので、現金1万円をユーロに換えておく。1ユーロ、約120円。

そして2時となり、大聖堂で英語によるガイドツアー。約1時間かかるとのこと。大聖堂の中は、色鮮やかなステンドグラス、フレスコ画など、見る者の目を釘づけにする。外観も素晴らしいが、中もきらびやかだ。祭壇、礼拝堂などもたくさんある。まさに、キリスト教の世界!って感じだ。

022_8

 ケルン大聖堂内のステンドグラス

  言葉が…でない

 いにしえの高度な技術に・・・脱帽

023  大聖堂内の「キリスト」画。何か分からないですが、

 それでも、何か感じるものがあります・・・。

一通りのガイドは終わったが、正直言って、説明のほとんどが聞き取れなかった、というより、初めから理解できるほどの英語力はないか!日本語で書かれたパンフレットがあるので、それを見ながら周ったほうが良かったような・・・。

そして、大聖堂の塔を上る。しかし、エレベーターなどあろうはずがなく、展望台まで高さ95m、509段の階段をひたすら上って行くのだ。アルプス・ハイキング前の足慣らし、といったところか!幅は狭く、大人2人がすれ違うのがやっとで、螺旋状の階段になっている。途中に、やや広くなっている ”休憩所 ” があり、そこからは一方通行になっている。

509段上り、展望台へ到着。ケルンの街は大きい。広場の人々が小さく見える。しかし、心ない人々は世界中にいるもので、壁や柱のあちらこちらに落書きされてあり、世界遺産だというのに、とても悲しい。

024  大聖堂の展望台から

 ライン河とケルンの街

そして、一気に下って行く。大聖堂を出て再び街を歩く。この日、ワールドカップ(サッカー)日韓大会で、ドイツチームが勝ったようで、街のオープンカフェでは、ビールで祝杯をあげる人々で大賑わいだ。お店によっては、ビデオで試合の模様を流し、それに魅入ってエキサイトしているお客も大勢いる。この国の一番人気のスポーツがサッカーだというので、この盛り上がりは必然だ。

そして、”Zoo-Express” という遊園地によくあるようなパスで、動物園の方へ。そこで下車し、ロープウェイでライン河を渡る。ロープウェイは、川の真ん中あたりでピークとなり、下って行く。ピークのあたりから、大聖堂が良く見える。渡りきったところには、クアハウスのようなものがあり、プールでは人々が水着でバカンスを楽しんでいる。

027_2  

 ロープウェイから見た大聖堂

そして、広々とした芝生の多い公園を散歩する。ところどころに花壇がある。公園を抜けると、やがて駅だ。時間はもう5時である。イーナとはこれでお別れ。この日1日のお礼を述べ、アンジュラとバーギッシュ・グラートバッハの街へと戻る。

アンジュラがエルマーに電話をし、マルクト広場で待つことにする。その間に、今朝買っておいたバーベキューの材料を取りに、アンジュラのオフィスへ。広場でしばらく待ち、仕事を終えたエルマーが迎えに来てくれた。そして、彼らの自宅へと戻る。

029_4  バーギッシュ・グラートバッハの

 マルクト広場

 

 

 

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2009年2月24日 (火)

2002 ドイツ・スイスの旅 その8

やがて、やや早いが昼食にする。アンジュラとイーナは、

「ジン、アイスバインを食べるといいワ!」と、勧める。

いったい何だろう?アイスバインって?ドイツ語だから、分からない。とりあえず、レストランへ入り、先ずビールで乾杯!そして、ドイツ語と英語、フランス語で書かれたメニューを見てみると・・・、

「Grilled giant knuckle of pork leg 」・・・???って、直訳すると・・・、

「グリルした豚の足の巨大なすね肉」ってこと・・・?エッ?何、それ?

で、運ばれてきたものは・・・、赤ん坊の頭ほどもある肉の塊!   てっぺんには、ナイフが突き刺さっていて、骨が2本突き出ている。笑ってしまった!

021

 アイスバイン、

 シュバイネ・ハクセとも言います。

 右は、ザワークラウト (「るるぶ」より引用) 

アンジュラが「ジン、せっかくだから写真を撮っておくといいワ!」というので、料理を前にして、イーナと一緒に写真を撮ってもらう。

でも、どうやって食べるの?ナイフで切ろうとしたが、硬くて切れない。すると、アンジュラが

「骨をこうして持って、肉を広げるのよ」と教えてくれた。

なるほど、そうすると中の肉をナイフで少しずつ切って、食べることができる。味は、見た目に比べて、意外にもあっさりしている。甘めのマスタードをつけると、よりおいしい。

イーナはポテト料理、アンジュラはザワークラウトを食べていた。これは、ビール にとても良く合う、と聞いたことがある。一口いただくと、ちょっと酸っぱいかな・・・、うん、でもおいしい。

それにしても、このアイスバイン、全部食べきれるのだろうか?とにかく食べられるだけ食べよう。せっかくのご馳走なんだから!でも、やっぱり全部は無理!ギブアップ!

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2009年2月23日 (月)

2002 ドイツ・スイスの旅 その7

今日、一緒にケルンの街を案内してくれるイーナさんとは、駅で待ち合わせ。切符を買おうにも、アンジュラは何やら迷っているようだ。やがてイーナさんがやって来て、初対面の挨拶をする。イーナは、俺よりはたぶん年下の、金髪美人だ。

イーナに聞いてアンジュラが切符を買う。切符は自動券売機で買う。アルファベット順に書かれた駅名のコードナンバーを、テンキーで入力すると料金が表示される。そしてやって来た列車に3人で乗る。列車は赤い車両で、中はとてもきれいだ。シートは対面式のボックスシートになっている。

ケルンまでは20分弱。ケルン中央駅の一つ手前の駅で降りる。すると、かの有名な、ユネスコ世界遺産にも登録されている、「ケルン・カテドラル(大聖堂)」がライン河を間に挟んで、その華麗で荘厳な姿を見せている。

011  ライン河の向こうに・・・、高くそびえる

 ケルン大聖堂!

絵葉書や雑誌などで、何度かお目にかかったことがある風景が、現実のものとして今、俺の目の前にある。川に架かる鉄橋(鉄道・自動車・歩行者共用)を渡り、大聖堂の前へ。目前まで来ると、その大きさに圧倒される。また、彫刻の繊細さには、目を見張らせるものがある。明治初期、岩倉具視率いる「岩倉使節団」も、この大聖堂を前にして、言葉もなかったという。今の俺も、同じ思いだ。

015_2  ケルン大聖堂

 1248年に建設が始まったが、

 宗教改革、財政難などの理由で建設中断。

 600年以上かかって完成しました。

大聖堂前の広場では、ピエロなどに扮したパントマイムの周りに、人が集まっている。子供たちには大人気で、なかなか賑やかだ。大聖堂の中へ入ってみると、ガイドツアーが午後2時からあるということなので、見学は後にして大聖堂周辺を歩くことにする。

アンジュラが本屋に立ち寄って、何か買い物をしているようだ。買ってきたものは、ライン河沿いの街のガイドブックと、大聖堂を世界中の観光地とコラージュした絵ハガキで、いずれも俺へのプレゼントだった。

そして、川沿いのプロムナードを散歩したり、街の方へ行ってみたり。教会前では、ちょうど結婚式が行われていたようで、正装した人々、馬に乗っている親族の子供らがいた。

016  ケルンの街角で。

 結婚式(?)のセレモニーのようです。

小さな広場には、ユニークなブロンズ像がたくさんある。皆、映画俳優らしい。と、ある1つのブロンズ像を見ると、鼻の部分だけテカテカに光っている。それに異様なほど大きい。

「ジン、その鼻を撫でると ”鼻が高くなる” って言われているのよ」と教えてくれた。ならば俺もと、よーく鼻を撫でておいた。

 

 

 

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2009年2月22日 (日)

2002 ドイツ・スイスの旅 その6

 朝食を終え、身支度を整え、外出する。天気は曇り空で、いつ雨が降り出してもおかしくない。牧草地には、牛、羊、アヒルもいる。のどかだ。彼らの家は、牧草地と住宅街のちょうど境界に建っているようだ。

丘陵地を下り、住宅街へと入る。どの家もドイツの特徴的な作りで、駐車場も広く、庭にはたくさんの草花が咲き、目を楽しませてくれる。

この季節、ラベンダーが満開だ。あちらこちらで花に近づいて見ている俺に、アンジュラは

「ジン、あなた、花が好きなのネ!」と言う。

「えぇ、僕の母が花が好きで、我が家の狭いベランダガーデンでも、花やハーブを育てているんだ」と答える。

街の中心部まではおよそ20分かかる。アンジュラの職場もそちらにあり、彼女は毎日この道程を、歩いて通っているそうだ。

「いい運動になるね」と言うと、

「確かにそうだけど、けっこう疲れるわよ。特に帰りはネ!」と、笑いながら話していた。

行きは下りだからいいが、帰りは上りになるからなぁ。そうこうしているうちに、雨がポツリポツリと降り出した。やがて街へ。広場にはたくさんの市場が出ている。ここは、「マルクト広場」と言って、毎週水曜日と土曜日に午後1時までマーケットが開かれるそうだ。

広場を通り抜け、商店街へ行き、1件のお店(肉屋)へ。今夜のバーベキューの買い出しである。おいしそうなステーキ、ソーセージが並んでいる。「ジン、どれが食べたい?」と訊かれても、どれもこれも美味しそうで、目移りばかりしてとても選べない。「お勧めはどれ?」と訊くのが精いっぱいだ。

そして、ポークとラムのステーキ、フランクフルトソーセージなど、何種類かを選ぶ。ピンク色した、気になる食べ物があった。尋ねてみると「魚」だそうだ。少しだけ買ってみることにする。今夜の食事の材料はこれでOKだが、でも、このまま持ち歩くのかな?

アンジュラは再び広場の方へと歩き出し、広場のすぐそばにある建物の入り口の鍵を開け、中へ入って行く。どうやら彼女の職場らしい。そこにあるプライベートキッチンと書かれた部屋の冷蔵庫に、買い出ししたものを保管しておく。

そして駅へと歩き出すと、雨はいよいよ本降りになってきた。アンジュラが傘をさし、傘を持ってこなかった俺は、一緒に入れてもらう。が、駅へ着くころには、雨はもうやんでいた。

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2009年2月21日 (土)

2002 ドイツ・スイスの旅 その5

6月15日(土)

バーギッシュ・グラートバッハ~ケルン~バーギッシュ・グラートバッハ

 朝、ドアをたたく音で目覚める。8時半だった。

「グッドモーニング、ジン!」と、アンジュラが起こしに来てくれた。

「あぁ!グッドモーニング、グーテンモルゲン!」と英語、ドイツ語で答える。

「日本語では何て言うの?」

「おはよう!」

「昨夜はよく眠れた?」

「えぇ、ありがとう。もうぐっすりと眠りました。」

さすがに昨夜は、長い飛行時間 と24時間以上ろくに寝ていないせいか、本当にぐっすりと寝入っていた。顔を洗い、かるく髪を梳かしてリビングへ行く。玄関でアンジュラが初老のご婦人と話している。ご婦人に挨拶すると、「また今夜、逢いましょうね」と答えた。誰だろう・・・?、と思っていたら、アンジュラが「エルマーのお母さんよ」と言う。シマッタ! 初対面なのに、きちんと自己紹介するべきだった!

「昨夜、すごく激しい雷雨があったのよ!知ってる?」とアンジュラ。

「えっ?!本当に?全然知らないよ。何時ごろ?」

「2時ごろだったかしら。それだけ良く眠っていたのネ。」

リビングにはすでに、朝食が用意されていた・・・ 。何種類かのパンとチーズ、ハム、スクランブルエッグなど。オレンジジュースにコーヒー。ハムは、ポークハム、生ハムなど種類豊富だ。パンに塗るペースト状のハム(リーバーヴルスト)もあり、これを塗って食べるパンが何とも美味しい!ハムもチーズも、どれをとっても絶品!パンは、クルミパンのようなものもあり、ハムとの相性が良く、とても美味しい!昨夜からおいしいものづくしだ!!

アンジュラは、すぐそばにいるオウム にもパンを与えている。我が家のリオちゃんもパン(といっても、トーストから出るパン粉)を食べるから、名前が同じだと、食べるものも似てくるのかな?しかし、大きな違いは、オウムは体が大きいだけに、パンを足で器用に持って、口に運んで食べているところである。これには驚いた。そしてまた、よくしゃべるらしい。

「今、”私の名前はリオです”って言ったわヨ」とアンジュラが教えてくれる。我が家のリオちゃんも「リオちゃん」としゃべるし、ホント、そっくり!そして、あまりにも「ギャー、ギャー」と騒がしい時には、キッチンへ連れて行くそうだ。そこへ連れて行くと「寝る時間」と思って、静かになるらしい。

001  

 我が家のリオちゃん

 2005年1月に亡くなりました・・・。

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2009年2月19日 (木)

2002 ドイツ・スイスの旅 その4

アンジュラに「ジン、お腹すいてない?」と訊かれ、「あぁ、そうだね、少しお腹減ったかな?」と答えると、何か料理を作り始めた。よく考えたら、彼らも夕食はまだ食べていないに違いない。いったいどんな料理をご馳走してくれるのか、すごくいい匂いがリビングに漂ってくる。何とも食欲をそそる。オリーブオイルやハーブをこちらではふんだんに使うだろうから、本当においしそうな匂いだ。

いよいよドイツ家庭料理のご馳走だ。「グーテン・アペティート(ドイツ語で”いただきます”)と言うと、アンジュラが「日本では何て言うの?」と尋ねるので、「いただきます」と答える。アンジュラは先ほどの「乾杯」、「いただきます」と一つ一つメモしている。

さて、出されたご馳走は、ステーキにサラダ、フランクフルトソーセージなど。これが何とも言えないほど、おいしい!ステーキの味付けは、「一体どんなハーブやスパイスを使えば、こんなにおいしくできるの?」と、聞きたいほどだった。

ソーセージは想像以上においしい!「今まで日本で食べていたものは何だったんだ?」、と言うぐらいにウマイ!さすが、本場だけのことはある。一口食べた瞬間に、笑ってしまうほどの美味しさなのだから、たまらない!肉汁が口の中いっぱいに広がる。こんなソーセージ、今まで食べた事がない。「ベリーグッド!ベリーデリシャス!」と彼らに答える。

ビールもそれほど冷やしていないが(こちらではそれが当たり前;ビールをガンガンに冷やして飲むのは日本だけ)、何しろコクが違い過ぎる。グラスに注いだ後も、泡がずっと立ち続けている。ドイツビール=おいしい、という先入観があるにしても、ホンットにウマイ!1本2本と「カンパイ」する。

食事をしながら明日の打ち合わせをする。エルマーは、明日、明後日共に新しいスイミングプールのオープンセレモニーのため仕事となり、同行できないが、アンジュラがケルンの街を案内してくれるそうだ。”世界遺産・ケルン大聖堂”があるケルンの街だ。しかし、アンジュラはケルンの街にそれほど詳しくないようで、友達のイーナという女性(ケルン在住)も一緒にガイドしてくれるそうだ。はじめてきたヨーロッパの街を、いきなり2人の女性と共に歩けるというのも、光栄である。そして明日の夕食は、隣に住んでいるエルマーのご両親も共にして、「バーベキューをやろう」、とのことだ。ものすごく楽しみである。

リビングではオウムが2羽飼われていて、1羽は「チニ」、もう1羽はなんと「リオ」という、我が家のペットのセキセイインコと同じ名前である。

036_2  左の子は「チニ」、右は「リオ」

 とても良くなついている

まさか、ドイツと日本でペットに同じ名前がついているとは驚きだ。彼らにそう話すと、彼らも驚きながら笑っていた。セキセイインコを英語で何というのか分からないので、彼らは図鑑を持って来て、「どんな鳥だい?」と尋ね、そして教えることができた。

ステキなご馳走をいただいた後、彼らの案内で外へ出てみる。目の前は牧草地。そして5分ほど歩くと、酪農家の家。そこから眼下にケルンの街の灯りが見える。のどかで静かなところだ。

明日の朝、エルマーは仕事で先に出かけるそうだが、俺は「8時半までゆっくり寝ていなさい。起こしに来てあげるから!」というご好意に甘えることにする。何しろ日本時間で、すでに翌日朝7時近い。お腹も十分に満足し、さすがに眠い。

「グーテ・ナハット(ドイツ語で”おやすみなさい”)」と言って、与えられた客室へと戻り、シャワーを浴びて眠ることにする。何とも長ーい1日が終わった。

バーギッシュ・グラートバッハ エルマー・アンジュラの自宅にて

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2009年2月17日 (火)

2002 ドイツ・スイスの旅 その3

いよいよ彼らの街、バーギッシュ・グラートバッハに。ケルンから来る鉄道の終着駅があり、そこから街が広がる。ドイツ特有の可愛らしい建物が立ち並ぶ。彼らの自宅は、街の中心部からやや外れに行った、牧草地の目の前にあった。

丘陵地にあるせいか、彼らの家の造りは、玄関が2階で1階は半地下構造になっており、寝室などは3階にある3階建ての家だ。1階が客室と言うかゲストルームになっており、そこへ案内され、この日から3日間ここで過ごす。

キッチン、トイレ、シャワー、テレビもステレオもと、何もかも整えられたいい部屋だ。時期によっては1人用の賃貸ルームとして貸し出しもしているそうだ。窓からは庭が見える。

荷物を広げお土産を渡す。浴衣と帯、扇子だ。さっそく彼らに着てもらう。なかなか似合っている。とてもうれしそうだ。女性用の帯の締め方に多少苦労した。事前に母から教わっておいたのだが…。そして、藤娘の人形。ガラスケースを組み立てる。汗をかきながら組み立てている俺に、彼らは扇子であおいでくれる。藤娘とは何かを書いたものを、あらかじめ英語で作っておいたので、組み立てている間に読んでもらった。

組み立て終わると、人形をケースに入れて、2階のリビングへと持って上がる。そこで浴衣姿の彼らの写真を撮り、さっそくビールで乾杯。

010_2  浴衣を着たアンジュラとエルマーと

 藤娘人形

「プロースト(ドイツ語で”乾杯”)」と言うと、「日本語では何て言うんだい?」と尋ねるので、「カンパイ」と教える。それからは飲むたびに「カンパイ!」と言いながら、グラスを重ね合った。

 

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2009年2月16日 (月)

2002 ドイツ・スイスの旅 その2

俺の旅仲間の多くは訪れているヨーロッパ。なかでも人気が高いのはドイツとスイスだ。

空港に着いて、まず入国審査。しかしそこは、長蛇の列。荷物を受け取る前に、大韓航空のカウンターへ行きリコンファーム(帰国便の予約の再確認)、そして受託手荷物を受け取ると税関がなく(?)、気がつくと到着ロビーに出ていた。

さっそくエルマーたちを捜すが、誰もかれもが似たように見えてしまう。が、不意に「ジン!」と聞こえた。声のする方を見ると…、間違いなくエルマーとアンジュラがそこにいた。

「エルマー!アンジュラ!(^_^)」と俺も駆け寄る。

10年ぶりでも、すぐに俺と気づいてくれた。お互いに再会の抱擁をし、言葉を交わし、さっそく彼らのマイカーが置いてある地下駐車場へと歩き出した。

彼らの車は日本車(つまり、彼らにとっては”外車”)で、ニッサン100NX、少し前のフェアレディではなかろうか?空港を出てすぐにアウトバーン(速度無制限の高速道路;無料)を走る。エルマーたちが住む街、バーギッシュ・グラートバッハまではおよそ2時間、道が混んでいれば、もう少しかかるだろう、とのこと。アウトバーンを使って2時間というと、距離にして約200kmぐらいあるのではないか?これほどの距離を、わざわざ迎えに来てくれるなんて、本当にありがたいことだ。

車内でアンジュラから、さっそく缶ビールをいただく。あらかじめ用意してくれていたようだ。ドイツビール初体験だ!ドイツでは「乾杯」を「プロースト」と言う。俺は「プロースト」と言って、まず一口。ウ~ン、ウマイ!コクがあり、濃厚な味だ。きめ細かな泡が、喉ごしを爽やかにしてくれる。

話したいことは、いっぱいあるが、お互いに片言の英語なので、なかなかはかどらない。アウトバーンから見るドイツの景色は、まるで北海道のような広大な風景が延々と続いている。そして、何よりも一番の違いは、陽がとても長いことだ。夜9時近くになろうというのに、まだ夕方前のような明るさだ。天気もとても良く、汗ばむほどである。聞けば、昨日までは連日雨で、この日、久しぶりに晴れたのだと言う。我々の再会を、天も祝福してくれたようである。

007_2 アウトバーンを走る

 スピードはいったい・・・?

アウトバーンは、今日はそれほど混んでいないらしい。普通に走っているようだがスピードは・・・、160km/h だの180km/h だの出ている。もっとも、周りの車もそうなので、そんな気はしない。やっぱりこのスピードは、ここでは普通なんだ。これなら2時間ほどで走れてしまうのも、うなずける。 狭く、交通量の多い日本では、絶対に無理!

008  ドライブ途中・・・

 古いお城が見えました

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2009年2月15日 (日)

2002 ドイツ・スイスの旅 その1

 あれからもう10年が過ぎた。偶然知り合って一緒にエヴェレスト街道をトレッキングした時から。「インターナショナル・エヴェレスト・トレッキング・ファミリー」「ムスタンコーヒー・ブラザーズ」などと呼ばれていた。

それ以来、彼らとは手紙、Eメールで連絡を取り合っていた。いつか彼らの住む国へ行って、一緒においしいビールを飲み交わしたいと願っていた。そして、やっと実現した。

6月14日(金)

名古屋空港9:30(KE752)11:25ソウル・インチョン国際空港  13:40(KE905)18:00(LT・-7h)フランクフルト・マイン国際空港(友達の車で)バーギッシュ・グラートバッハ

 とうとう念願の日がやってきた。はじめてヨーロッパへ旅立つ。10年ぶりにエルマー、アンジュラと再会できる。思えば、あのエヴェレスト・トレッキングから10年たつんだ。いつかドイツへ行って、エルマーとビールを飲み交わしたいと思っていた。それが、やっと実現する。

6:40にタクシーを呼び空港へと向かう。搭乗手続きを済ませ、いよいよ11日間の旅が始まる。

今回、俺が選んだのは、大韓航空。名古屋からソウル経由フランクフルトまで99000円と格安だったからだ(ルフトハンザ航空直行便は158000円)。その分、多少時間はかかるが。

9:30に名古屋空港を離陸した大韓航空752便は、梅雨空の日本を後にし、韓国・ソウルへと向かった。わずか2時間弱でソウル・インチョン国際空港へと到着。

001  ソウル・インチョン国際空港

 大韓航空機

2時間ほどの接続で、ソウルからさらにフランクフルトへと向かう。11時間20分の長いフライト。合わせて13時間15分も飛行機に乗っていなければならない。それほどヨーロッパは遠い。

機内食は私にはお世辞にもおいしいとは言えないが、まぁそこはグッと我慢。音楽を聴いていたが、同じものを繰り返し聴いては、飽きがくる。ドイツとの時差が7時間あるので、少しは眠っておきたいのだが、なかなか寝つけるものでもない。中国大陸からやがてヨーロッパ上空へと飛行機は飛んで行く。

002_2  どこだろう・・・?

 モンゴル上空あたりか・・・?

004  高度がずいぶん下がった

 フランクフルトはもうすぐ・・・

高度が徐々に下がって行く。どうやらこちらは良い天気のようだ。窓から初めてヨーロッパ大陸を眺める。もうドイツ上空のはずだが、意外に自然が多い。

18:00(日本時間翌日午前1:00)、ドイツ・フランクフルト・マイン国際空港に着陸。とうとう俺も、ヨーロッパの地を踏んだ。

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2009年2月14日 (土)

B型ですけど、何か・・・?

半月ほど前だったと思う。

ある人気女優さんのブログを読んで「なるほど・・・!」と思うことがありました。

次のように書かれていました。

血液型を気にするのは、日本人だけ。
とか
医学的には、何の根拠もない。

どういうわけか、B型というと
なぜか肩身が狭い思いをしているのは
腑に落ちません (-_-;)

初対面の人に
「何型に見える?」と質問して
B型でしょ。」と即答されたら
もう、がびーん(ToT)/~~~って
へこみます・・・

逆に、
「何型?」と聞かれたら
すかさず
A型。」と答えます (o)
血液型詐称です(笑)
でも、すぐBってバレますけどね…(-"-)


私は、そんなに自分のことを
B
っぽいとは思っていませんが
今回の「B型オンナが結婚する方法」を
撮影していて

わかる、わかる ・・・・'`ロ`ill)

と、唸ってしまうポイントばかりです

思ったら即行動!
好奇心旺盛
変わってる。は、ホメ言葉
好きになったら、直球勝負!
立ち直りが早い

       etc...

挙げたらキリがないほど
B
型オンナの特徴に当てはまってます

破天荒で、マイペース
周りを振り回してしまうところはありますが(汗)

いつも、一生懸命で
わかりやすくて
不器用で、傷つきやすくて
でも、前向きなパワーに満ちている
そんな憎めない、
天真爛漫なB型オンナを伝えられたら、と
思っています (^Д^)


この作品は、
別に血液型の枠にくくらなくても
30歳の働く女性で
ずっと仕事をバリバリこなしてきたけれど、
キャリアにつまづいたり
結婚して家庭を持っている親友が
羨ましく見えたり
誰にも甘えられないで
強がって
虚しさの風が、すぅ~っと心を刺す、
そんな主人公の生き方に
観てくださる女性にも
共鳴される部分があると思います



やっぱり、血液型診断って
うまく、言い当ててますよね (・。・;

(Shaku Diary 1/28より一部抜粋)

昔からよく「B型は奇人・変人が多い」と聞いたことがあります。血液型なんか、4つしかないのに、なぜB型だけそんな風に言われるのか不思議でした。

若い頃、北海道を旅していて、血液型の話になると、私の場合、周りの人たちは即「Bでしょ?」と、言いました。はっきりと決めつけられていました。

「B型ですけど・・・、何か・・・?」

男性と女性の違いはあっても、このブログの中の5つのポイント「B型オンナの特徴」は、男の私にもずいぶん当てはまっているような気がします。

「いつも、一生懸命で わかりやすくて 不器用で、傷つきやすくて」       

まさに今の私自身がそうです。

そして最後に書いてある

「誰にも甘えられないで 強がって 虚しさの風が、すぅ~っと心を刺す」

には、とても共感しました。

血液型診断って、バカにできない・・・!

それはそうと今日は、もてない男にとっては「厄日」ですなぁ!女性の方、チョコレートあげましたか?男性の方、いただきましたか?私は・・・、「義理」でさえももらっていません。この不景気、会社内でも「義理チョコ廃止令」(?)を出していましたし…(笑) ← もてない男の悪あがき

次回からの「古い旅日記」は・・・、2002年に初めて訪れたヨーロッパ(ドイツ・スイス)について書き綴る予定です。エヴェレスト街道で親しくなった T 夫妻と10年ぶりの再会です。そして、スイスアルプスをハイキングし、再びドイツへ。このような内容になります。

しかし、まだ写真をPCに取り込んでいないので、毎日更新とはいかないと思いますので、ご了承ください。

これからも、引き続き「慕辺未行 古い旅日記」をよろしくお願い致します。




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2009年2月13日 (金)

エヴェレスト街道を行く 最終回

その後、仲間たちは・・・

カラ・パタール登頂後、ゴラクシェプへと戻る。
T 夫妻は明日、エヴェレスト・ベース・キャンプへ行くため、この日はゴラクシェプで泊まる。
俺と I さんは、荷物をロブチェに置いたままなので、ロブチェへと戻る。
したがって、T 夫妻とはここでお別れとなった。

高山病の症状がかなり出ている俺は、エヴェレスト・ベース・キャンプは諦めざるを得なかった。
I さんは翌日、再びゴラクシェプへ、そしてベース・キャンプへと向かった。
しかし俺は、早急に下山するしかなかった。

とうとう仲間たちとバラバラになってしまった。

更に辛かったのは、ジリまで歩くつもりだったのだが、体調面を考えて、ルクラから飛行機でカトマンドゥへ戻らざるを得なくなったことだ。
カリコーラの笑顔が素敵な少女・ヤンジーに、折り鶴を渡したかったのだが・・・。

カラ・パタールに登頂し、エヴェレストを間近で眺めた日から6日後、俺はカトマンドゥに戻って来た。
3月25日、くしくも俺の30才の誕生日である。

ゲストハウスの従業員にそう話すと、バースデーカードやちょっとしたプレゼント、ビールなどをいただいた。
更に、街へ出てみると、ガイドと共に歩いていた一人旅のフランス人男性と再会、そのうえ、なんと T 夫妻とも再会したのだ。彼らもこの日、ルクラから戻って来たという。俺の顔を見るなり A さんは、
「Happy Birthday dsching ! 」
と、言ってくれた。トレッキング中に話していたから、覚えてくれていたようだ。

俺はしばらくの間、トレッキングの疲れを癒し、そしてインド・ダージリンへも足を伸ばし、再びカトマンドゥへ戻って来た。

そして、次なる予定、アンナプルナ周遊トレッキングの準備・情報収集をしていたある日、カトマンドゥの街なかで突然「dsching ! 」と声かけられた。
声のする方を見ると・・・ I さんだ!思いがけぬ再会に俺たちは、とびっきりの笑顔で喜びを分かち合った。いや、それだけではない。その1時間後、もう一度会う約束をした。

ロード・ハウス・カフェという喫茶店で、彼女と待ち合わせ、トレッキング中に撮った写真をプレゼントした。そして彼女はその後のトレッキングのことを話してくれた。
俺と別れた後、エヴェレスト・ベース・キャンプへ行き、ナムチェまで下った後、サブコースであるゴーキョへも行ったそうだ。そして帰路もジリまで歩き通したと言う。ほぼ1ヶ月に及ぶトレッキングだ!かなわないワ!


この旅が終わって帰国した後、カリコーラのヤンジーやドイツの T 夫妻に写真と共に手紙を送った。I さんにも帰国した知らせを書いた。

ヤンジーから返事が届いた。しばらくの間、俺はヤンジーと手紙で連絡を取り合い、2年後に再会した。その時のヤンジーは、初めて会った時以上の笑顔で俺との再会を喜んでくれた。

T 夫妻とも、手紙、やがてEメールでずっと連絡を取り合い、10年後の2002年にドイツにて再会を果たした。彼らの自宅へ泊めていただき、すぐ隣に住んでいる E 氏のご両親、さらに車で10~15分ほどの A さんの実家へも行き、みんなに大いに歓迎していただいた。

2004年にもドイツを訪れ、彼らの自宅で1週間ほどホームスティさせていただいた。さらに翌年、彼らとの約束通り、俺は母を伴って三たびドイツを訪れた。当時73才の母にとって、これが初めての海外旅行!彼らはもちろん、彼らのご両親たちも、高齢ながらドイツまで来てくれた母を、最上の笑顔と共に大歓迎してくれた。
母にとってこの旅は「最初で最後の海外旅行」になるかもしれない。いずれにしても、お互いに「家族ぐるみのお付き合い」ができるようになった。

そして I さんは・・・、その後の消息は全く分かりません。T 夫妻のところへも何の返事もないそうだ。あの後、何かあったのだろうか?今頃、元気に過ごしているのだろうか?


30回にわたり「エヴェレスト街道を行く」を、書き綴りました。
俺にとっては、貴重な経験であり、財産でもあります。
とくに、ドイツの T 夫妻とは今でもコンタクトを取っていますし、いつでも出迎えてくれる海外の友達ができたことは、この上ない喜びです。

今回のこのトレッキングで、俺は多くのことを学びました。

言葉(英語)ができなくても、積極的に話しかけること。
人を思いやる心を持つこと。
苦しい時はお互いに助け合い、励まし合って頑張り、生きていくこと。

などなど、この時の経験が今の俺の人格を作ったと言っても過言ではないでしょう。

本当に仲間に恵まれた素晴らしい旅、トレッキングでした。

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2009年2月12日 (木)

エヴェレスト街道を行く その28

カラ・パタール登頂!間近に聳えるエヴェレスト!

ゴラクシェプでティータイムを終え、いよいよゴールのカラ・パタールを目指す。
ここからは、かなりきつい登りだ。空気の薄さもあり、完全にへばり気味である。
少し登っては休み、また少し登る。

923191

 カラ・パタールを目指す

だが、もうダウン寸前だ。ついに、しゃがみ込んでしまった。
中腹までは登ってきている。そして、ここからでもわずかながら、エヴェレストの頂が、その姿を現している。
ガイドのラジンは、俺の体調を気遣ってか、
「ここからでもエヴェレストは見える。もう下山した方がいい。」と勧める。
しかし、俺の答えは、「No!」。
当りまえだ!ここまで来て、どうして諦めることができようか・・・?

そしてその時、俺に数多くの友情が・・・!

「Hallo ! dsching ! Are you O.K ? Don't give up ! Never give up !
 If you will go to Kalapatar , you can see very nice view !
 You go slowly ! Slowly , slowly you go ! Never give up !
(ハロー、ジン!大丈夫か?あきらめるな!絶対にあきらめるな!
 カラ・パタールまで行けば絶景が眺められるぞ!
 ゆっくり行けよ!ゆっくり、ゆっくりでいいから!絶対にあきらめるな!)」
と声かけ、励ましてくれた、名も知らぬトレッカー。

「Hey dsching ! How are you ? (ヘイ、ジン!大丈夫か?)」
と、ドイツ人の E 氏。

連日、同じ村でキャンプをしながらトレッキングしていたシンガポール在住のフランス人夫婦も、へとへとの俺を見て、彼らのガイドに栄養補給食品を持たせ、俺に分け与えてくれた。
「今、一つ食べて、30分後にもう一つ食べなさい。」と。

俺は彼らに、
「Thank you very much ! Merci ! Merci beaucoup ! (ありがとう!本当にアリガトウ!)」
と、英語、フランス語両方で感謝した。

カナダ人の I さんも、
「dsching , Please drink the water ! (ジン、お水飲んで!)」
と、貴重な水を分けてくれた。
高所では水分補給は不可欠なのだが、彼女は、
「ゴラクシェプで補給しておいたから・・・」
と、惜しげもなく分け与えてくれた。

ほとんどダウン状態で、「登頂はあきらめろ!」と言うラジンの声を無視し、同じ目標を目指す仲間たちの暖かい応援、援助を得て、また、彼らのその気持ち、好意に応えるためにも、俺は一歩一歩ピークへと近づいて行った。
もうあとわずかだ。E 氏も I さんもほとんどピークに近づいてきている。

そして、ちょうど正午ごろ、とうとうヤッタ!

カラ・パタール登頂!

 923192  

カラ・パタールにて ここまで苦楽を共にした E 氏と。後方の山はプモリ

標高は5545mだ。俺に続き E 氏、そして I さんも!
A さんが体調不良でゴラクシェプに残り、ここにいないのが残念だったが、
「シェルパシチュー・ファミリー」とか「インターナショナル・エヴェレスト・トレッキング・ファミリー」と、お互いに認め合っていた仲間の一員として、この目標を達成することができた。
 
ジリ村からスタートして14日目。日本を出てちょうど1ヵ月。
今、俺は・・・多くの国際的友情に囲まれ、助けられ、8年越しの夢を実現させたのだ。

眼前には、エヴェレストがその偉容を誇っている。エヴェレストだけではない。プモリ、ヌプツェ…、7~8000m級の山々、白き神々の座が、要塞のごとく、立ちはだかっている。

923193 左後方がエヴェレスト(8848m)、

  右ヌプツェ

俺はついにこらえきれず、涙を流した。
「夢を実現した」だけでなく、ここまでの道のり、多くの友情・・・。
もし俺がたった一人、またはガイドとずっと二人だけで、他のトレッカーとコミュニケーションしていなかったら・・・、たぶん登頂できなかっただろう。

仲間たちはもちろん、名前を知らない多くの人たちに、俺は支えられ、助けられ、ここまで登ることができた。
このご恩は、一生忘れまい。忘れてはならない。
本当にありがとうございました。

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2009年2月11日 (水)

エヴェレスト街道を行く その27

ゴラクシェプへ

3月19日(木)晴れ
ロブチェ7:15~9:10ゴラクシェプ9:50~12:00カラ・パタール(5545m)

 6時30分ごろ起床。絶好の青空が広がっている。
パンケーキとチーズオムレツで朝食とする。

出発準備をしていると、昨夜は隣のロッジに泊まった I さんがやって来た。
さすが、「インターナショナル・エヴェレスト・トレッキング・ファミリー」だ。
ロッジが別々になっても心は一つ!

いよいよ、最終目的地であるカラ・パタール目指して出発する。
もちろん、5人一緒だ。

初めのうちは、平坦な道だが、やがてゴロゴロとした岩山のアップダウンとなる。
高山病のせいか、昨夜はよく眠れず、風邪もひいたみたいで、体調は今一つ。
なるべくゆっくり歩く。というか、そうならざるを得ない。
すでに標高は、5000m付近なのだから。

すると、少し先に小さなテントが見えた。
俺達5人は皆、気づいている。
「あれは、ディンボチェで会ったマウンテンバイクで来ている日本人だろう!」と。

テントの前に数人のトレッカーがいる。やがて彼らは大きな声で俺を呼んだ。
「dsching , come on , come here ! (ジン、来てくれ、こっちへ来てくれ!)」
「何事か?」と思った俺たちは、急いでテントがあるところへと向かった。

「Hallo ! What's happen ? (ヤァ!何かあったのか?)」と尋ねると、彼らは
「こんな時間になっても、寝ているなんておかしいだろ?だから声かけたんだ。だけど返事がないんだ。もしかしたら高山病で倒れているかもしれないし…。君なら同じ日本人だから、君が声かければ返事があるかもしれない。」
と話した。

「なるほど!」と思い、俺はテントの中に向って日本語で声かけてみた。
すると、男から返事が!
その声を聞いて、俺たちを含めそこにいた10人ほどのトレッカー皆、
「オォーッ!」と、少し安心!

やがて男がテントから出てきた。
俺は彼に、皆が心配していることを話すと、彼は
「すいません。声は聞こえていたんですが、体がだるいし、英語で話すのも面倒だったので・・・」
と苦笑いしながら答えた。

周りのトレッカーたちは、皆「大丈夫か?」「今日、カラ・パタールまで行けるのか?」と尋ねている。
俺は、一つ一つ通訳していた。
彼は、「大丈夫です。ありがとうございます。今日は無理かもしれませんが、明日なら行けると思います。」と日本語で答えた。
俺はそのことを皆に話すと、皆も
「そうか。頑張れヨ!成功を祈るヨ!」と、彼を励ましていた。
俺も彼に「ここまで来たんだから、絶対にあきらめるなヨ!」と、同じ日本人としてエールを贈った。
彼は日本語で、そこにいる人々に何度も頭を下げながら、
「すみません。ありがとうございました。」と繰り返した。
多くのトレッカーに励まされ、元気づけられ、彼もカラ・パタールを目指すだろう。

ロブチェから2時間ほどでゴラクシェプ到着。
標高は5000mを超えている。
ゴールのカラ・パタールへは、ここからまだ500m近く登らなければならない。

目の前の丘の頂上がカラ・パタールなのだが、近いようで遠い。
ドイツ人夫妻の A さんは、「もう私には、これ以上は無理!」と、
自らの体力の限界を感じたのか、ゴラクシェプに残ることにした。

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2009年2月10日 (火)

エヴェレスト街道を行く その26

クンブー氷河を行く

3月18日(水)くもり
ディンボチェ8:20~10:15トゥクラ10:45~12:25ロブチェ

 6時30分起床。さすがに寒い。どうやら風邪をこじらせたようだ。喉が痛い。これも高山病の症状のひとつか。膝の方も、相変わらず温めねばダメなようだ。

頭痛は治まり、よく眠れた。が、この2~3日が今回のトレッキングのヤマだ。体に注意しつつ、頑張ろう。

朝食はポリジ(粥)にパンケーキ、チーズオムレツにホットレモン2杯。100ルピーもの出費だが、エネルギーを蓄えないと、4930mのロブチェはきついから。

ディンボチェをスタートすると、まず丘を登り、左下方にペリチェの村を眺めながらトゥクラへ。雲の上にタボチェが頭だけ覗かせている。その雲と同じ高さのところを歩いているから、不思議なものだ。

トゥクラで皆で休憩していると、タンボチェやディンボチェのロッジで顔見知りになった他のトレッカーたちから、
「ハロー!インターナショナルファミリー!」
と、声かけられたり、なかには
「ハロー!dsching !元気?」
と、名前を呼んでくれる人もいた。俺は彼らの顔は知ってても、名前は知らないのだが…。

俺達5人は、こういうグループが珍しいのか、すっかり有名になっていたようだ。悪い気はしない。声をかけられること自体、とても嬉しいことだから!

トゥクラからは、急登が待っており、1時間かけて登り切る。この時にも、たくさんのトレッカーから声かけられ、励まされた。彼らの声が、俺にとってどれほど力になったことだろう。

登りきったところ、モレーンの丘には石を積み上げたケルンがいくつも建っていた。ヒマラヤ登山で命を落とした人たちを慰めるためのものだろうか?

923181

 モレーンの丘

923182

 

 クンブー氷河

モレーンの丘からは下りとなって、クンブー氷河がまっすぐロブチェへと続いている。
高山病と闘いながら、一歩一歩前へ進む。仲間たちの足取りも重そうだ。

やがて、ロブチェのロッジが見えてきた。ガイドのラジンは先行してベッドを確保し、よろよろ歩いている俺を迎えに戻って来て、俺のザックを背負ってくれた。荷物がないだけでも、かなりの違いがある。彼のこの好意はありがたかった。

ロブチェにはロッジが2軒しかなく、このロッジも早々と満員となり、俺とドイツ人の T 夫妻は泊まることができたのだが、やや遅れて到着した I さんは、隣のロッジで泊まらざるを得なかった。

昼食は、今日もララ・ヌードルスープ(インスタントラーメン:スープはチキン風味)。特注でニンニクと卵も入れて、栄養をとる。

食後、やや頭痛を感じた。ベッドで体を休めることにする。
しかし、ここでもラジンは、チャン(ネパール風ビール:見た目は濁り酒に近い)を飲んでいる。彼は俺にも勧め、少しだけいただく。

夕食は、お腹が要求するままに、たらふく食べた。
長いトレッキングだ。金に糸目はつけられない。栄養が第一だ。


ロブチェ・ロブチェゲストハウスにて

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2009年2月 9日 (月)

エヴェレスト街道を行く その25

高山病

3月17日(火)晴れ
ディンボチェ7:30~11:00チュクン12:00~14:00ディンボチェ

6:30起床。さすが、4000mを越える高地、冷え込んでいる。
室温は5℃位。

今日はチュクンまでラウンドトリップに出かける。高度順応のためである。

ディンボチェより1時間ほど歩き、小ピークへと登る。
さすがに空気の薄さを感じる。少し登っては休み、呼吸を整え、また登る。
周りは360°の展望がひらけている。

「母の首飾り」という意味のアマダブラム(6856m)、手を伸ばせば届きそうなほど間近に迫っている。

92317  アマダブラム こんな間近でヒマラヤを実感できます

標高5000m位のところまで登っただろうか。少々頭痛を感じる。
小ピークからチュクンへと下る。
ここで昼食にしたが、頭痛の度合いは徐々にはっきりと現われだした。

「高山病の初期症状か?!」

昼食後、ディンボチェへと下って行く。

ラジンが頭痛に効くからと、ニンニクを2片。ニンニクを生で食べるなんて初めてだ。

ディンボチェのロッジに戻り、再び、軽めの食事をとることにする。
ヌードルスープ(と言っても、普通のインスタントラーメン)にニンニクを入れて食べ、体を横にする。

夕食は、ダルバートにする。食欲だけは失っていない。
しかし、タルカリ(野菜)がほとんどなくて、ものすごく粗食となる。
栄養補給食品を持って来ていて良かった。

夕食後、頭痛は治まっていた。が、明日はいよいよロブチェ(4930m)である。
体だけは休めておこう。


ディンボチェ、ソナム・フレンドシップ・ロッジにて

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2009年2月 8日 (日)

エヴェレスト街道を行く その24

ディンボチェでのひととき

ロッジで、ペリチェから高度順応のため、ここまでちょっと遊びに来たという日本人の学生2人と会い、話をする。
さらに、ロッジの庭のテントサイトにも1人の日本人。なんと彼は、たった一人でテントを持参し、マウンテンバイクでここまでやって来たのである。歩くことさえ大変な山道を、マウンテンバイクで・・・!

彼は、そこにいたすべてのトレッカーの注目を一身に浴びていた。が、悲しいかな、彼はほとんど英語ができないと言って、俺が通訳していた。

ドイツ人の T 夫妻やカナダ人の I さんをはじめ、誰もが彼のユニークな発想、冒険心に好意的だった。皆、にこやかに「日本人って、すごいこと思いつくんだなぁ!」とか、「カラ・パタールまで行くのかい?だったら、頑張れよ!」等など。

俺も彼に質問してみた。
「急な上り坂は、自転車担いで登ったのかい?」
「正直言って、担いで登ってる時間の方が長いです・・・」と、苦笑いで答えていた。

ここまでの道程を考えれば、確かにそうだろう。俺たちはザックを背負ってるだけだが、彼はさらにマウンテンバイクがあるのだから、その分、疲労も溜まるだろう。

彼は「実は高山病の症状が出始めて、チュクン(4730m)から下って来たんですよ」と、話していた。確かに、「へばってる」って感じだが、ここまで来ているんだ、ガンバレヨ!同じ日本人として、このバイタリティに拍手を贈りたい。

夕方、ラジンがこのロッジにはないチャン(ネパールの地ビール:濁り酒)を飲みに行こうと誘う。チャンなら、アルコール度数が低いから、高所でも大丈夫らしい。

チャンを飲みながら話をしていると、俺が間もなく30才という年齢にも関わらず、なぜ独身なのかと質問が集中。

「ビューティフルレディが来ないんだよ!」

冗談交じりに言うと、皆笑っている。さらに

「ラムロータルニ(ネパール語:美人、特に若い女性をいう)が欲しい!」

と、ネパール語で言うと、皆、大爆笑だ!
あ~ぁ、本当にネパールのラムロータルニと一緒になって、ネパールに住もうか?

夜、ロッジのオーナーと話をしているとき、俺はふと彼に、こう質問した。

「植村直己さんを知っていますか?」と。

彼の表情が一変し、しんみりと寂しげに、こう語ってくれた。

「直己は素晴らしい人だった。すごかった!でも彼は8年前(1984年)、カナダのマッキンリーで亡くなった。そしてその後、直己の映画を作るために、たくさんの日本人がこの街道沿いの村々にやって来たよ!」

俺は彼の言葉を聞いて、植村直己さんが、いかにネパールの人々に愛されていたかを実感することができた。
同じ日本人として、誇りに思う。


ディンボチェ、ソナム・フレンドシップ・ロッジにて

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2009年2月 7日 (土)

エヴェレスト街道を行く その23

初めての4000m越え

3月16日(月)晴れ
タンボチェ8:05~9:35パンボチェ10:05~13:00ディンボチェ

空いているベッドがほとんどないほど混んでいるロッジ。仲間たちとの朝食も、用意されるのに時間差があって、結局この日は、各々バラバラにスタート。

雪解け直後の道は、かなりぬかるんでいる。パンボチェまでは楽な道らしい。
途中、ヤクの隊商に道を阻まれ、超ゆっくリズムで歩く。

92316  ヤクの隊商。ヤクは「ヒマラヤのトラック」と言われています。
牛の仲間ですが、高地に棲むため毛が長いのが特徴です。

パンボチェでティータイムを取り、そして1時間ほど歩き昼食にする。
遅れて歩いていた T 夫妻と I さんは、ここで俺たちに追いつき、追い越していく。

昼食を終え、ディンボチェへと向かう。そしてディンボチェの村が見えてきた。
すると、村の入り口に3人の人影・・・。そう、T 夫妻と I さんだ!

彼らはこの日も、俺たちともちろん一緒に過ごすために、待っていてくれたのだ。
3日前、俺たちがナムチェの村の入り口で皆を待っていたように、今度は彼らが俺たちを待っていてくれた!

そして、この日の目的地、ディンボチェに到着。標高4343mである。

こんな高所で泊まるのは、初めてだ。
かつて、マチャプチャレベースキャンプで泊まったが、3600mぐらい。
さらにその先の目的地、アンナプルナベースキャンプでも、3962mだった。

高山病にかからないかが、気にかかる。

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2009年2月 6日 (金)

エヴェレスト街道を行く その22

We are "International Everest Trekking family " !

仲間たちと共に、ここタンボチェの博物館を訪れる。
曼荼羅や、この地方に住む民族の絵が飾ってある。俺は、係員である僧侶にネパール語で尋ねてみた。

「(絵を指さしながら)フォト キチ パニ フンツァ ? (写真撮ってもいいですか?)」
僧侶は笑顔で「フンツァ(いいですよ)」と答えてくれた。

そして俺は写真を撮り始めた。すると仲間の I さんと E 氏が、
「dsching 、写真撮ってもいいのかい?」と驚きながら尋ねた。
俺は彼らに、僧侶の了解を得たことを話した。彼らも当然のように、写真を撮り始めた。

923152  博物館で撮った写真。

 民族衣装を着たシェルパ族の人々の絵です。

見学後、ロッジへ戻り自由に過ごす。ベッドルームにいても仕方がないので、皆ダイニングルームへと集まってくる。そこには初日のデウラリ以来、他の日本人宿泊客がいた。そして世界中から、多くのトレッカー。やはりルクラまで空路で来るトレッカーが多いということだろう。ルクラより下の村では、宿泊客が10人を越えたことはなかったのだから。

俺は一人の日本人女性に話しかけられた。その人は、ツアーで来ていたのだが高山病の症状が出て、ツアーを離れ一人のネパール人ポーターとともに、ここまで下って来たそうだ。その時、その人は日本から持参してきた「きつねどん兵衛」を食べていた。

「ワッ!食べたくなるような、いいにおい!」

しばらくの間、その人と話をし、彼女はベッドルームへと戻った。残されたポーターは全くと言っていいほど英語ができないらしい。そこで俺は、できる限りのネパール語で彼の話し相手になっていた。

やがて彼が「サーティ チャイナ ? (連れはいないの?)」と尋ねる。
「ツァ!メロ サーティ・・・、(いるよ!俺の友達は・・・)」
俺は、やや離れたところにいる仲間たち一人一人を彼に紹介し、最後にこう叫んだ。

「We are International Everest Trekking family ! (俺たちは、インターナショナル・エヴェレスト・トレッキング・ファミリーだ!)」と。

すると、仲間たちも全員、「イエース!」と答えてくれたのだ。

その途端、ダイニングルームは多くの感嘆の声と拍手に包まれた。

「オォー!ワンダフル!」
「ブラボー!」

中には、スタンディングオベーションで「素晴らしい!」と拍手してくれた方もいた。
日本、ネパール、カナダ、ドイツの4カ国5人のグループ、たくさんの人たちに称賛された。

別のテーブルでトランプをしようとしている女性から、俺も誘われた。
「dsching、あなたも一緒にやらない?」と。
その女性とは、この日が初対面なのに!もう俺の名前を覚え、トランプに誘ってくれたのだ。こんな嬉しいことはない!

他にも若い日本人男性の2人組がいたのだが、彼らは他の国の人とは全くコミュニケーションしようとしていなかった。俺とは、あいさつだけはしたのだが・・・。もっと勇気を出して他の国の人々とコミュニケーションすれば、また違った旅の想い出が作れるのに・・・。もったいない。

夕食は、仲間たち共に集まってワイワイしながら食べていた。そして E 氏と共にムスタンコーヒーを飲む。

「E、これが最後のムスタンコーヒーだよ。明日からは4000m超えるし、アルコールはとても危険だから!」

「イエス dsching 、俺もそう思っていたんだ!今日が最後だと!」

お互い、お酒が好きだからこそ、重々承知していることだ。高所での飲酒が平地と違い、どれほど酔いがまわるか、と同時に命の危険にもさらされるも。

俺と E 氏は、名残惜しむようにムスタンコーヒーを味わっていた。


タンボチェ・タシデレクロッジにて

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2009年2月 5日 (木)

エヴェレスト街道を行く その21

タンボチェへ

3月15日(日)曇り
ナムチェ10:35~14:50タンボチェ

腕時計のアラームが鳴らず、7:40起床。おかげでぐっすり眠れた。
仲間たちも、そろって寝坊。とはいっても、どうしても早く出発、という理由はないので、誰も気にしてない。

朝食にパンケーキを食べ、その後、丘の上にある博物館へラジンと I さんと3人で行く。
ヒマラヤのパネル写真や生活用品、ヒラリー氏と共に世界で初めてエヴェレストに登頂したシェルパのテンジンの登山姿の人形もある。なかなか興味深く、面白い。
ラジンは「いつか、エヴェレストへ登ってみたい」と言っていた。

10時ごろ、害虫に喰われてできた足の傷を診てもらうために、小さな診療所へ行った。
塗り薬を処方していただき、計70ルピー。高いのか安いのか、自分でもよく分からないが、日本へ帰って保険請求するほどの額(約210円)ではないことだけは確かだ。

ロッジへ戻りチェックアウト。
他の仲間たちも絵葉書を出すため、郵便局が開くまで待っていたようで、結局、皆一緒にスタートする。

ナムチェを出る最初の登りがきつい。が、やがて平坦な道に。

923151_2  ナムチェ~タンボチェにて。

  このような道を歩いて行きます。

そして一気に川の方へと下っていく。下りきると、一軒のバッティ(茶店)があり、しばらく皆で休憩する。そして、橋を渡ると何やら小屋がある。中を覗いて見ると・・・、水力・マニ車だった。

*マニ車とは・・・、チベット仏教の経文が円柱の筒の中に入っていて、それを1回まわすと、お経を読んだのと同じ功徳が得られる、と言われています。

水力によって常に回っているこの大きなマニ車。この地域に住む人々と旅人の安全を祈願してくれているのでしょう。とてもありがたいものです。

そこから先は、再びきつい登り道。下った分、登らなければならないのだ。仲間同士、声かけ合いながら、一歩一歩着実に登って行く。

そして・・・とうとうタンボチェへ!標高3867m。富士山よりも高所に位置する村だ。

タシデレク・ロッジにチェックインする。

荷物をおろし、ラジンの案内で仲間たちとともに、この村にあるチベット仏教寺院と博物館を訪れた。

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2009年2月 4日 (水)

エヴェレスト街道を行く その20

折り鶴をプレゼント

バザールを見終えた後、11時ごろ、ガイドのラジンと I さんと3人で丘の上へ。博物館があるのだが、この日はお休み(ネパールでは、土曜日が休日で、日曜日が週の始まり)。天気も曇天で、エヴェレストは見えないが、眼前にそびえる峰々はその雄姿を見せてくれた。

昼食後は5人そろって散歩。お土産屋を見てまわる。A さんと I さんは手紙を出すらしく、絵葉書を数枚買っている。俺は、使い捨てカイロを見つけた。痛めた膝を温めるのに、ちょうどいい。

夜、やっと鶴の折り方を思い出した。カリコーラの村で、ヤンジーにプレゼントしたかったのだが、思い出せなかったのだ。

日記帳として使っているノートを、1ページずつ正方形に切り取って、仲間たちに鶴を折って見せる。そしてみんなに一羽ずつプレゼントすると、

「Oh,wonderful ! Japanese Origami ! (オォ、ワンダフル!日本の ” 折り紙 ”)」と I さん。

” 折り紙 ” という言葉を知っていたんだ!

ラジンも T 夫妻も、ニコニコしながら、とても喜んでくれた。日本の折り紙を目の前で見るのは、皆、初めてだったようだ。驚きと感心、そんな表情をしていた。

その様子を見ていた他のトレッカーたちに、「私にも!」「僕にも!」と頼まれ、一体いくつ折ったことやら・・・?しかし、断ることなく、頼まれるままに何羽も鶴を折り、皆にプレゼントした。

そうそう、カリコーラの可愛い働き者のヤンジーにも、帰りにプレゼントしよう。

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2009年2月 3日 (火)

エヴェレスト街道を行く その19

ナムチェ・バザールにて

3月14日(土)曇り
ナムチェ・バザール1日滞在

今日は1日、ナムチェ滞在日。トレッキングに出て初めての休息日だ。

いつもよりのんびり起床し、朝食をとる。もちろん仲間たちも皆一緒だ。

朝食後、毎週土曜日に開かれるバザールへ。食料品、日用品、衣類・・・、何でもそろっている。

92314  

 ナムチェ・バザールの「肉屋」さん

俺はここで、この先必要となるであろう、防寒用のアンダーズボンを買った。あちらこちら見ていたら、「味の素(タイ製)」が売られているのには、驚いた。

それにしても、賑やかなバザールだ。ナムチェに住む人々はもちろん、周辺の村からも多くの人々が、週に一度、このバザールへ買い出しに来るという。そして我々のようなトレッカー。数百・数千人の人々で、ごった返しになっている。

バザールを望む大きな岩に登ってみた。改めて、バザールの規模の大きさが分かる。曇っていたのが、にわかに陽が射してきた。

「Oh, here comes the sun ! (陽が射してきたワ!)」と I さん。

「Yes, here comes the sun ! 」と答える俺。

すると I さんが、ビートルズのあの名曲、"Here comes the sun " を歌い始め、俺もそれに合わせ歌った。I さんは、俺がこの歌を知っていて一緒に口ずさんだことを、とても喜んでいた。

俺は I さんに「Who do you like in Beatles ? (ビートルズの中で、誰が好き?)」と尋ねると、

「George Harrison. (ジョージ・ハリスンよ)」と彼女は答えた。

「Oh, me too ! Especially I like "Something" and "While my guitar gently weeps" (オォ、俺もだヨ!特にサムスィングと、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスが好きなんだ)」と、俺も答え、それらの歌も少しだけ、一緒に口ずさんでいた。I さんも俺も、これにはお互い、ご満悦!

しばらくして、例の日本人グループツアーと思しき3人の男女が、その大岩へと登って来た。

俺は仲間たちに「If they will say to us "Good morning!", we will answer to them "Ohayou". (もし彼らが "グツドモーニング!"と言ったら、俺たちは "おはよう"と答えよう )」と言うと、皆も

「Oh, yes O.K. (オォ、そうしよう)」と、笑いながら答えた。

実は、この頃すでに我々の間では、朝の挨拶は「グッドモーニング!」ではなく、なぜか日本語で「おはよう!」を使っていたのだ。

そして、グループツアーで来ている日本人は大岩を登りきって、案の定、俺たちに英語で「グッドモーニング!」とあいさつした。すると仲間たちは皆、こう答えた。

「Ohayou ! (おはよう!)」
「Ohayou ! 」
「Ohayou ! 」

まさか、日本語で「おはよう!」と返ってくるとは、想像だにしていなかったのか、彼らが呆気にとられているのが、良くわかった。

俺も、もちろん「おはようございます」とあいさつした。

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2009年2月 2日 (月)

エヴェレスト街道を行く その18 

ムスタンコーヒーブラザーズ

我々5人は、そろって昼食にする。メニューを見ると、ステーキがあるではないか!

「ヨシ!昼食はこれに決めた!」

ヤク(牛の一種。3000m以上の高地に棲み、毛が長く寒さに強い。)のステーキである。久しぶりの肉。量は少ないものの、おいしい!肉に飢えてたからなぁ!普通のビーフステーキとなんら変わりない。ホントにおいしかった。

昼食後、3日ぶりにシャワーを浴び、トレッキングに出て以来、初めて衣類を着替えた。そして洗濯。ここナムチェでは2泊の予定だから、ここで今のうちに洗濯しておかないと。俺がシャワーを浴びている間、村の散策に出かけていた T 夫妻と I さんが戻って来た。

「ヘイ、ジン。何をやってるんだ?」
「洗濯だよ。ここで2泊するだろ?だからさ。」

すると彼らも「なるほど」と思ったのか、同じように洗濯を始めた。もちろん、手洗いだ。洗濯機なんてあるわけがなく、バケツに水と洗剤を入れ、手でゴシゴシ。天気は今一つだが、明後日のスタート前までに乾けばいいのだから、大丈夫だろう。その後は、のんびりと体を休め、やがて夕食。

俺は昼食同様、またしてもヤクステーキにした。ホントにおいしかったし、量が少なかったので、また食べたくなったのだ!食事を終え、ちょっと寒かったのでストーブのそばで暖をとっていたら、E 氏が俺を呼ぶ。毎晩のように交わされる会話だ。

「Hey Dsching ! Do you want to Mustang Coffee ? (ヘイ、ジン!ムスタンコーヒー飲むかい?)」

これだけで俺を始め、ラジンや A さん、I さんも「また?」とばかりに大爆笑!

「E , do you want ? (E、君は?)」
「If you want , I want. (お前が飲むのだったら、俺も飲むよ)」
「I also , if you want , I want . By the way , is that the menu ? (俺もだよ。君が飲みたいなら俺も飲むよ。ところで、メニューにあるかい?)」
「No menu ! (メニューにはない!)」
「Yes , O.K. I will ask the boy . (わかった。じゃあ俺がボーイにできるかどうか聞いてみるよ)」

俺はそう言って、ロッジの厨房へ入って行き、キッチンボーイに尋ねてみた。メニューにロキシーもブラックコーヒーもあるのだから、この二つをミックスすればムスタンコーヒーになるので、当然できるはずだ。

しかし、メニューにないものの値段をどうするかだ。ボーイたちは相談して決めた。1カップ30ルピー。今までのところに比べると、やや高いな!

俺は E 氏に、
「They can Mustang Coffee available . But... a little bit expensive , 1 cup 30 Rs . (ムスタンコーヒーできるのだけど、ちょっと高いんだ。1杯30ルピーもする。)」
と、説明し、飲むかどうか相談する。

二人とも、さっきと同じ会話だ。お互い「飲みたいなら飲もうゼ(つきあうゼ)」ということだ。同じ考えで、二人してニヤリと笑い、当然のようにこの夜もムスタンコーヒーを飲むこととなった。

毎晩二人で飲む俺と E 氏を、奥さんの A さんは
「Dsching, you and E are "Mustang Coffee Brothers ". (ジン、あなたとE は ”ムスタンコーヒーブラザーズ”よ)」
と、命名してしまった。もちろん、I さんも
「Yes , I think so . (そう、私もそう思うワ)」
と、笑っていた。


ナムチェ・シェルパトレッカーズロッジにて

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2009年2月 1日 (日)

エヴェレスト街道を行く その17

シェルパの故郷、ナムチェ・バザールへ

3月13日(金)晴れのち曇り
パクディン7:45~9:45ジョルサレ10:10~12:15ナムチェ

今朝は6時起床。16人の日本人ツアーグループより早くスタートした方がベター、という昨日の打ち合わせ通り、皆の用意も早い。

朝食の用意に時間がかかった。ずいぶん待たされて、朝食をとる。すると、昨夜は別だったフランス人の男とガイドが、ロッジの前を通りかかり、我々に気がついた。

彼らも我々と同じ考えで、日本人グループより早くスタートしようと決めていたらしい。俺が彼らに「まだ大丈夫だよ。彼らはまだ起きていないから、早くても8時過ぎ、いや9時ごろかも」と言うと、彼らはまだ朝食を取っていなかったようで、安心したように我々と一緒にそこで朝食にした。

朝食を終え、8時前にはスタート。陽は山に陰って冷んやりとしている。ジョルサレまでは楽な道だ。そしてジョルサレから ”サガルマータ(エヴェレスト)国立公園 ” に入域。ここで入域料650ルピーも支払わねばならない。これもヒマラヤの大自然を保護するためなら止むを得ないだろう。

 *エヴェレストは英語での呼び名。ネパール語では ”サガルマータ ”と言います。

92313  ジョルサレにて 仲間たちとともにティータイム
 左から、俺・ I さん・ラジン。右側は T 夫妻(Aさん・E氏)・ポーター。

ジョルサレからナムチェまでは700m差の登りで、かなりきつい。陽が照りつけ、パッティ(茶店)もなく、皆、適度に道端に腰をおろし口に水を含む。ここで相談した結果、「それぞれのペースで行こう!そしてナムチェの村の入り口でおち会おう!」ということになった。

皆、それぞれのペースで歩き、少しは離ればなれになったものの、最終的には合流する約束だ。そして俺とラジンは、ナムチェ村の入り口のカンニ(仏塔門)にたどり着いた。そこで仲間たちを待つ。T 夫妻、そして I さんもきつい登り道を歩ききって全員がそろった。

ナムチェは、この地方最大の村。ヒマラヤ登山ガイドとして世界に名を馳せているシェルパ族の故郷である。

村が大きいだけに、ゲストハウスやロッジもたくさんある。我々もラジンの案内で、皆一緒に泊まる。しかし、あいにくシングルもツインも空いていなくて、5人部屋ならあると言う。我々もちょうど5人(T 夫妻が雇ったポーターはここでお役御免)だったので、同じ部屋で過ごすことにする。

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