エヴェレスト街道を行く その14
さよなら!カリコーラ!
3月11日(水)晴れ
カリコーラ8:10~12:15ポイヤン13:30~16:00シュルケイ
今朝、ゲストハウスの売店で売っていたツナ缶を買い、チャパティにサンドして食べた。なんだか無性に食べたくなって、高いけど食べずにイライラするよりはいい。
A さんの調子が良くないようで、T 夫妻は1人ポーターを雇うことにした。このときも、ヤンジーを呼んで頼んだようだ。笑顔が素敵で働き者のヤンジー、皆の人気者だった。
印象深いカリコーラを1泊で去るのは淋しい気もするが、そうも言っていられない。まだ先は長いのだ!
この日は、T 夫妻が雇ったポーターを含め 6 人そろってスタートする。カリコーラより、急な登りが続く。1時間も登ると、カリコーラの村がずいぶん下に…。素敵な思い出をくれたカリコーラの村、そしてヤンジー!本当にアリガトウ!サヨウナラ!
カリコーラの村を望む。
ヒマラヤトレッキングは、このような所を行くのです。
左膝は初めは順調だったが、徐々に痛みだしてきた。
ポイヤンにて、6 人皆そろって昼食とする。
我々が食事を待っていると、久しぶりに日本人と出会った。3 人の男、学生だそうだ。彼らはジリからナムチェまで 5 日で行くつもりだと言う。我々が 8 日かけて歩く道程をたった 5 日で!
それを聞いた T 夫妻と I さんは「スゴイ!彼らは鍛えられているのネ!」と言って、感心していたが、しかし彼らはそのとき、とにかく先を急ぎたかったのか、お店の人に自分たちが注文したものを、せかすように、こう言った。
「ご飯、ご飯」「ラーメンはまだ?」
英語でもなければネパール語でもない、日本語でこう言ったのだ。俺は彼らを、あきれた目線で見ていた。いくらなんでも、それはないだろう!ここで日本語が通じると思うのか?頭が痛くなりそうだ!お店の人も、「何?」って困惑顔で彼らを見ていたし。
実際に仲間たちも、「彼らは日本語を話しているのか?」と俺に訊いてきた。「そうなんだヨ」と俺は苦々しく答える。もちろん彼らも、それを知ってあきれていた。
我々がのんびり昼食をとっているのに、彼らは我々より後に来たにもかかわらず、昼食を終えた途端にスタートして行った。そしてガイドのラジンが・・・「クレージーだ!」と、一言。
初めこそ感心していた我々だが、ラジンの一言に皆、「確かに、あれはクレージーだ!」「このペースでいけば、間違いなく高山病にかかるわヨ!」と、彼らの行動を批判していた。俺も当然!彼らと同じ意見だ!急ぎすぎるうえに、通じるわけがない日本語!同じ日本人として「恥ずかしい~!」
ポイヤンからはハードな下り。階段のようになっているが、それでも道はあまり良くない。左膝が激しく痛む!
途中で皆に「俺はゆっくり行くから、先に行っていいヨ!」と言って、先行してもらい俺は遅れてゆっくり歩く。
キャンプをしながらトレッキングしているフランス人夫婦のポーターから声かけられた。
「バト・ラムロー・チャイナ!(道が良くないね)」
俺もうなずきながら、彼にネパール語で応えた。
「フンチャ、バト・ラムロー・チャイナ!(うん、道が悪いネ)」と。
彼とはこれまでにも幾度か会っていて、ネパール語しか話せない彼は、多少ネパール語を話せる俺とコミュニケーションするのを、とても喜んでいた。
皆より遅れることおよそ30分。なんとかシュルケイに到着。
ロッジのダイニングルームに、何枚かの絵葉書が!見たことがある景色だ!
「涸沢(からさわ)だ!」
北アルプスの紅葉の名所、涸沢の絵葉書がなぜかここに飾られていた。俺はラジンや仲間たちに「これは日本の絵葉書だよ」と紹介した。
足の痛みと疲れからか、この日は皆との団らんのひと時を過ごす気力もなく、夕食後は部屋で大人しくしていた。
このロッジは、電気はなかったが、部屋はこれまでの村同様にきれいだった。
シュルケイ、シェルパ・ガイド・ロッジズにて
| 固定リンク
コメント
若い人たちの中には、金銭的に余裕もないのでしょうが無茶な計画で旅行し結果として心配や迷惑をかけたり、同胞の恥ずかしくなるような失敗をしでかしたりするものもいるようです。外国へ出たら一人が一国を代表するくらいの自覚を持つことも必要かもしれませんね。
hannaさんへ
彼ら3人組とはその後、トレッキングを終えカトマンドゥへ戻る前日、偶然見かけました。この時の姿とはうって変わって、杖を突きながらフラフラの状態でした。我々より先に進んでいたにもかかわらず、最終日で会う…、ということは、何らかのアクシデント(たとえば高山病)があったとしか思えませんでした。
それにしても・・・、同じ日本人として恥ずかしかったです。
投稿: hanna | 2009年1月29日 (木) 20時20分